80 運命の分かれ目
「レンフィ……? どういうことだ。まさかリッシュアにいるのか?」
シンジュラの動揺を見て取って、リオルは確信した。
やはりこの少年はレンフィと深い関わりがあったのだ。記憶を奪う儀式を執り仕切っていた教主の息子なら、おかしくはない。こうして単身プルメリスを攫いに来たことや、リオルとレドウに対する堂々とした物言いを見ても、とても父親の言いなりになっているとは思えなかった。
「え……ああ、わたし……」
恋人が瀕死になっている上、敵のいるところでレンフィのことを口走ってしまったということもあり、プルメリスの顔は真っ青になっていた。もう何も言うまいと、スグリの血で汚れた両手で口を覆う。
「言え。レンフィとは、白虹の聖女のことか?」
「っ!」
大地が大きく揺れ、電撃が空を焼く。
シンジュラはあっという間にプルメリスとの距離を詰め、その胸倉を掴んで持ち上げた。リオルもレドウも全く動けなかった。
「姫様! ああああっ!」
近くにいた医療官を、シンジュラは剣で斬りつけた。また新しい血が流れる。
「答えろ。さもなくば、この場にいる全員皆殺しだ。僕に嘘が通用すると思うなよ。拷問のやり方はよく知っている」
「っ!」
剣先がスグリとアンズ、医療官の男を順番に指す。
リオルは咄嗟に声をかけた。
「待てよ。“レンフィ”は、教国が死亡を発表した聖女の名前だろ? なんで生きてると思うんだよ」
「黙っていろ。貴様には関係ない」
「どうかな? 俺は名乗ってないはずだけど。そのレンフィのこと、知ってるかもしれねぇじゃん」
意味深な言葉に苛立ったのか、シンジュラは眉間にしわを寄せた。そして、馬鹿馬鹿しいと言わんばかりにため息を吐く。
「白虹の聖女は確かに死んだ……しかし、遺体をこの目で見ていないからな。実感がなくて、未だに信じられないのかもしれない……」
構えていた剣を下げ、シンジュラは嘲るように言った。
「生きていれば、僕の妻になるはずだった女だ。レンフィさえ生きて手元にあれば、こうやってリッシュアゼルの姫を攫いに来る必要もなかったのに」
リオルは息を呑み、そして、鎮まったはずの怒りがまた湧き出てくるのを感じた。
かつて二人は婚約関係にあったということだろうか。確かに、レンフィならばシンジュラと力の釣り合いが取れる。
しかし散々自分を痛めつけていた教主リンデンの息子に嫁ぐなど、正気の沙汰ではない。そこにレンフィの意思や希望があったとは思えなかった。
いや、そもそもレンフィは記憶を全て奪われている。もしも空理の聖人オークィに逃がされなければ、何もかも忘れた状態で教国に取り残されていた。
リオルは、ムドーラの城で目覚めたばかりの頃のレンフィの姿を思い出す。
いつも不安げにしていた。自分のことを空っぽだと称し、敵意を向けられる度にめそめそと泣いていた。シダールの妃になるかどうかですら、自分の意見を持てない有様だったのだ。教国に残っていれば、間違いなく流されてシンジュラと結婚していただろう。
妹たちを殺した教主の息子だと知らないまま、シンジュラに懐いていたかもしれない。
今はリオルに向けられている彼女の幸せそうな微笑みが、本来シンジュラのものだったのだとしたら。
そんな想像をしてしまって、心が真っ黒になった。全身が熱い。ひどく喉が渇く。
リオルは少しでも救いを求めて、問いかけた。
「聖女レンフィを愛していたのか?」
「まさか。力の釣り合いが取れれば、相手は誰でも良かった。美しくて大人しいところは気に入っていたが、それ以上の感情はない」
「…………」
まだレンフィが教国から逃げて三か月半ほどしか経っていない。にもかかわらず、シンジュラはもう次の伴侶を求め、戦場で大きな被害を出すのを厭わず、プルメリスを攫いに来た。レンフィに対して特別な感情などあるはずがなかった。それどころか、自分以外の全ての人間に対して無関心なのではないかと思えてならない。
「そう、感情など要らない。妻なんて名ばかりの虚ろな人形でいい。その点レンフィはお誂え向けの女だったな。理想的な奴隷だった。生きているのなら、もう一度――」
リオルは思わず声を出して笑ってしまった。
「良かった……陛下が、こんなクズと同じじゃなくて」
シダールがレンフィに手を出さないでいてくれて本当に良かった。いや、マグノリアという存在がいたことに感謝すべきかもしれない。シダールは愛を知っているからこそ、神の如き力を持っていながら人間の側に立ってくれる。だからリオルは忠義を捧げられるのだ。
「俺ってすげー運が良いな」
空理の聖人オークィには本当に感謝せねばならない。レンフィを逃がしてくれて助かった。
今のレンフィに出会えたからこそ、リオルもまた愛を知ることができた。ほんの少しの運命のズレが、本来殺し合うだけだった二人の関係を大きく変えてくれた。
奇跡のような巡り合わせだ。自分は本当に幸運だった。
レンフィはもう自分のものだ。
たとえ過去のレンフィがシンジュラとの婚姻を受け入れていようが、神の前で誓いを立てていようが、関係ない。
愛しい恋人も、幸福な未来も、絶対に誰にも渡さない。
心が決まり、リオルは強く強く剣の柄を握りしめた。
「さっきから何をぶつぶつと……」
「お前、一生結婚しないほうがいいぜ。相手の女が可哀想だ」
「何を」
「レンフィもプルメリス様も、お前みたいな思い上がった最低な男には勿体ないってことだ!」
不思議だった。尽きかけていた魔力が戻ってくる。正確に言えば、心の底でくすぶっていたものが熱に変わっていく。
怒りが、激情が、具現化する。
鈍色の剣に鮮やかな炎が灯った。初めて見る現象だったが、リオルには違和感がなかった。まるで昔からこの炎を知っているような気さえする。
剣に宿る炎を見て、シンジュラの顔色が変わった。
「原初の、滅びの炎っ……なぜ貴様が!」
知るか、と心の中で吐き捨てて、リオルは地を蹴った。万全な状態の時と同じか、それ以上の速度でシンジュラに斬りかかる。プルメリスを盾にする時間は与えない。
「ちょっと、きゃっ」
「悪い! 受け取ってくれ!」
「な!? 貴様!」
プルメリスを奪い返し、レドウのいる方向に投げ渡す。そのまま振り返らずに炎ごと剣を振り下ろす。
驚愕の表情を引っ込め、シンジュラが応戦した。剣戟の音が荒野に響く。
リオルは最適で最速の剣筋を繰り返した。シンジュラに魔法を構築する間を与えず、負傷者から引き離し、魔力のみを消費させる。
炎の軌跡が宙を翻り、敵から冷静さを奪っていく。
少しでも炎が肌に触れたら取り返しがつかないとでも言わんばかりに、シンジュラは防ぐことと避けることにのみ心血を注いでいるようだった。
そうなれば、自ずと勝負は決まる。
シンジュラの剣の腕はそこまで優れてはいない。圧倒的な魔力と巧みな魔法で押し切る戦法なのだ。純粋な剣の技術ならばリオルに軍配が上がる。
高速で繰り出される重い攻撃にバランスを崩され、シンジュラの体が大きく傾く。その一瞬をリオルは逃さない。
「く……っ!」
シンジュラの剣は後方の大地に突き刺さった。炎がかすめた右手は爛れて煙を上げている。痛みに苦しみ、ルークベルの末裔は無様に膝をついた。
「言い残すことはあるか?」
リオルが殺気を鈍らせることなく尋ねると、シンジュラは悔しげに俯き、直後、肩を揺らした。
「ふ、ふはははっ! まさか、まだ“火の粉”が消えずに残っていたとはな! 新世界とは名ばかり……所詮、焼き直しの世界だ!」
「は? 焦りすぎておかしくなったか?」
顔を上げた時、シンジュラの瞳に妖しい赤い光が揺れていた。そして、その体からは灰色の靄が漂い始める。
明らかにシンジュラの纏う空気が変わった。未知の怪物に遭遇したかのような心地になり、リオルの全身に悪寒が走る。
本能的に理解した。これは魔力ではない。もっと危険で忌まわしいものだ。あの巨人の瘴気よりもはるかに有毒だ。
荒野がシンジュラを中心にみるみるうちに灰色に染まり、そこからも不気味な靄が広がっていった。
「いいだろう。今日は退いてやる。確かめたいことができた……」
仄暗い憤りを滲ませ、シンジュラは低い声で言う。
「ああっ!?」
突如、プルメリスが首元を押さえ、苦しげに呻いた。白い肌に赤黒い文様が浮かぶ。
「その呪いは僕以外の魔法士には解呪できない。一月後には死ぬだろう。姫を殺したくないのなら、素直に僕に差し出せ。あるいは、生きた状態のレンフィでもいいが」
「ふざけるな!」
灰色の気配をかき消すように、リオルは炎の剣を振りぬいた。赤い熱風が届く前に、シンジュラは閃光の魔法を放つ。
「僕をここまで煩わせたんだ。従わなければ、リッシュアゼルの名は今年で絶える」
数秒視界を奪われ、気づいた時にはシンジュラの姿はどこにもなかった。
リオルは、発散しきれなかった怒りをぶつけるように、大地を強く踏みしめた。
暗くて寒い闇の中にゆっくりと沈んでいく。
その途中、遠くで声が聞こえた。プルメリスが自分の名を呼んで泣いている。
スグリは、もう間もなく自分が死ぬことを悟り、穏やかな気持ちになった。これでやっと楽になれる。全てを終わらせることができる。
しかし、彼女の声がいつまでも自分を引き留める。心に刺さった棘が痛んで、意識を手放せない。
自分と出会いさえしなければ、プルメリスが悲しむことも苦しむこともなかった。不幸を感じることもなかったはずだ。
最後に一言謝りたいと思ったが、もう声が出ない。それだけが心残りだった。
『ダメだよ、スグリ。もう私はいないんだから、ちゃんと自分の口で伝えないと』
すぐ近くで声が聞こえて、スグリは息を呑んだ。
死に別れてからまだ一年も経っていないのに、随分と懐かしく感じる。
『私やお父さんのために、いろいろありがとう。もう十分だよ。大丈夫だから』
優しい声が光となって、血に宿って全身を巡る。とても温かい。
『私はもう大人にはなれないから、スグリのお嫁さんにはなれない。でも、妹のままでもいいの。スグリが幸せになってくれるならなんでもいい。私はずっと、それだけを願っている』
心臓が、胸が甘く痺れるように痛んだ。
これは死に際の幻聴だろうか。ひどく自分に都合の良い、優しい言葉ばかりだった。
しかし“彼女”は明るくて優しい、利発な娘だったので、似たようなことを言ってくれる気もした。
『大好きな人を泣かせちゃダメだよ。ちゃんと謝って、本当の気持ちを伝えてあげて。しっかり生きて、たまにでいいから笑ってほしい。約束だよ!』
背中を優しく叩かれたような気がした。
白い光が眼前で弾け、視界が虹色に滲む。手離してしまいそうだったモノを咄嗟にかき集め、スグリは光に向かって浮上した。
まだ、死ねない。自分を愛してくれた二人がそう望むのなら、応えないわけにはいかなかった。
『さよなら。私の大切な人』
最後に聞こえた妹の声に、スグリは絞り出すように同じ言葉を返した。




