78 凶風
逃げ惑う村人の後は、勇敢な騎馬兵を馬ごと転ばせ、炎の渦に放り込んだ。周囲にはすっかり異臭が立ち込めている。
オトギリは久しぶりに風の精霊術を思い切り使いながら、殺しを大いに楽しんでいた。険しい峠を越えての密入国は面倒極まりなかったが、存外この状況も悪くない。
「おいおい、どうした? 早くしないと、大切な畑が全て燃えてしまうぞ。はは、燃料になってどうするんだ」
目の前の畑に風を送り込んで、燃え盛る炎をさらに煽った。決死の覚悟で消火しようと水桶を抱えて炎に近づいてきた村人をまた一人惨殺し、オトギリはちらりと青空を見た。
まだシンジュラから連絡がない。
今頃伴侶となる黒脈の姫を誘拐しに行っているはずだ。それが無事に終わったら、連絡魔法、もしくは光の魔法でオトギリに撤退の合図を送ってくれる手はずだった。
想定よりも時間がかかっている。
今まで他国に存在を気取られないよう、細心の注意を払ってきたこともあり、シンジュラが実際に戦場に出るのは今回が初めてだ。慣れない実戦に少しばかり手こずっているのかもしれない。
やれやれと肩をすくめつつ、オトギリは笑う。
多少時間がかかろうが、望むところだった。国境の戦場から駆けつけてきたと思しき騎馬は、半分まで数を減らしている。屍の巨人が暴れている以上、しばらく増援は来ないだろう。一人でも対応できる状況なら、殺せるだけ殺したい。
世界に十指しかいない精霊から寵愛を授かってから、オトギリは強さを誇示する快感に取りつかれていた。圧倒的高みから人々を蹂躙する。せっかくその資格を与えられたのだ。使わなければ勿体ない。
風の精霊術は目に見えにくく範囲が広いため、防御が難しい。オトギリの霊力に衰えがないのを見ると、騎馬兵たちは二の足を踏むようになっていた。最初に医療官と魔法士を殺したことで、戦意が萎えているようだった。
「はっ、リッシュア軍の強さはこんなものか。腰抜けだな」
真っ向から戦うのも楽しいが、泣き叫びながら逃げる背を粉々にするのも楽しい。まだ避難せずにこちらを窺う村人がいる。そちらと遊ぼうか、と意識を傾けたその時。
「な……」
大雨が畑へ降り注いだ。炎が鎮まり、煙すらも水と共に地面に叩きつけられる。
オトギリは肌で直感する。自然の雨ではなく、水魔法でもない。これは精霊術だ。
いつの間に現れたのか瞬きの最中、一人の女を畑の向こう側に見つけた。フードを被って顔を隠し、兵とは違う雰囲気を纏っている。彼女が水の精霊術を操っている者だろう。
「野良の精霊術士……じゃないな。このレベルとなると聖人か?」
時の聖人ウツロギの他にも、白亜教国に所属していない聖人は存在する。しかし彼らの多くは世俗との関わりを断ち、滅多に表に現れない。
面白い遭遇だ、とオトギリは口元を緩めた。
黒脈に美形が多いように、精霊に愛される者もまた美麗な者が多い。若い女なら持ち帰って楽しませてもらおう。
「どこの誰だか知らないが、聖人のくせに白亜教国に敵対するのか? 良い度胸だな!」
挨拶代わりに強風を飛ばす。
思った通り、水の防御壁が出現して、風は弾かれてしまった。かなりの速度があったはずだが、女は少しも動揺した様子がなかった。
ふと、水を操るその立ち姿に既視感を覚えた。
脳が答えを出す前に、強烈な寒気が背筋に走る。
「くっ!」
間一髪でオトギリは剣を避けて、風で体を押して間合いを取った。こんな至近距離で気配に気づかないとは不覚だった。
仕留めそこなったことで、黒髪黒目の優男も険しい表情をしている。瞬時に相手が誰かを悟り、オトギリは腹の底から歓喜した。
「まさか、総大将のミスルト王子か? ははは、これは面白い! 戦場よりも畑を取るとは……そんなにリッシュア人は腹を空かせているのか? 可哀想に」
不機嫌極まりない様子でミスルトが答える。
「我が王国を侮辱するな」
「そりゃ侮辱したくもなるさ。王子ともあろう方が、不意打ちとはがっかりだ。情けないと思わないか?」
「戦う意思のない民を殺し、大地の豊穣を焼き払う貴様のような聖人を一刻も早く葬れるなら、どんな誹りを受けても構わない。下劣な侵略者め」
オトギリはさりげなく空を確認した。まだ合図は来ない。
黒脈の男とは、一度本気で殺し合ってみたいと思っていた。直系の王太子というだけあって、ミスルトの魔力はなかなかのものだ。まともに戦ったら敵わない。この王子を殺せたら、かつてない快感を得ることができるだろう。
しかしさすがに状況が悪い。正面にミスルト、後ろには騎馬隊。そして少し離れた場所に、聖人の女が控えている。
思う存分殺し合うことは難しそうだった。
撤退だ。命さえあれば何度でも戦う機会はある。オトギリは冷静にそう判断した。
まさか王太子自らが足を運ぶとは思わなかったが、もちろん黒脈の男が出向く可能性も考慮していた。逃げる算段はつけてある。
「残念だ。また会えたら、必ずその命をもらう!」
オトギリは遥か上空に滞留させておいた煙を、思い切り地上に叩きつけた。地表の気温が下がり、風が吹き荒れる。
もちろんただの空気ではない。
「くっ、これは……!?」
ミスルトが頭を押さえて膝を地面に就く。周囲の兵も馬も次々と苦しみ始めた。
オトギリは畑を燃やす際、炎の中にシンジュラが改悪したベラペヨーテの束を大量に投げ込んでいた。その煙を吸い込むと、眩暈や動悸を引き起こし、酩酊状態に陥る。一度に大量に摂取すれば脳が収縮し、ショック死の可能性すらある危険な代物だった。
効果はてきめんだ。今なら簡単に王太子の首を取れる。その誘惑をなんとか振り切り、オトギリはこの地を去ろうとした。そう長く有毒な煙を留めておけない。
「……待ってください」
緊張の滲む女の声に、オトギリはつい足を止めた。
また空から雨が降る。今度は白と虹の光が乱反射する、治癒の雨だ。呻き声が止む。
声にも雨にも覚えがある。とても無視できなかった。
「まさか、レンフィか」
「…………」
聖人の女は顔を見せない。しかし否定しないことが答えも同然だった。
なぜ生きている。生きていたのはまだいいが、なぜリッシュア王国にいる。ムドーラ王国にいるという情報はガセで、実はリッシュアゼルに保護されていたということだろうか。
オトギリは全く予期していなかった再会に面食らい、すぐに動けなかった。
今のレンフィは記憶を失っている。白亜教国で惨い目に遭ったことも、オトギリがその行為に加担していたことも覚えていない。
ならば、口先で丸め込める可能性はある。元々は“白”の人間だ。黒の王国に馴染んでいるはずがない。
「生きていたんだな! 心配したぞ!」
「……あなたは」
「オレのことが分からないのか? オトギリだ。お前とともに戦場を駆けた! リッシュアに何を吹き込まれたのかは知らないが、お前は元々白亜教国の尊き聖女――オレの仲間だ!」
女は、ゆっくりとフードを取った。
清らかな輝きを宿すプラチナブロンドの髪に、神秘的な淡いブルーの瞳。彼女の美しさは健在だった。いや、以前よりもいっそう美しくなっている。オトギリは思わず生唾を飲み込んだ。
その表情に敵意がないことを見て取ると、オトギリは相好を崩す。
「この国で辛い目に遭っていたんだろう。もう何も心配要らない。一緒に帰ろう。皆が心配している」
レンフィは、静かな瞳で周囲を見渡した。
焼き焦げた無残な畑、理不尽な死に晒された骸の群れ、憎悪に満ちたリッシュアの兵士たちの表情。
そして、最後にオトギリを見つめる。
「こんなにも、嫌な気持ちになったのは初めてです」
オトギリは金縛りにあったように動けなかった。その霊力に圧倒される。
以前は人形のように思えてならなかった綺麗な顔に、薄っすらと怒りと嫌悪が滲んでいた。
「私は教国には帰りません。そして、あなたも……もう教国には帰れません」




