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覚えてなくて、ごめんなさい〜囚われ聖女の第二の人生〜  作者: 緑名紺
第五章 聖女と戦場の試練

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77 愛のために

 

 スグリは狭い世界で生きてきた。

 森の奥にある小さな集落。五十人にも満たないアディニ族の仲間。リッシュア王国の町に出向くのは月に一度あるかないかで、生活のほとんどは狩りと採集に費やされていた。


 血の繋がった家族はいない。両親を早くに亡くしたため、族長の家に引き取られた。実の子どもとほとんど分け隔てなく育ててもらい、森で生きていくのに不自由しないほど狩人の技術を授けてくれた。族長には大きな恩がある。

 その娘のナズとは六つの年の差があり、兄妹のような関係だった。


『スグリは今、すごく喜んでるよ。良かったね!』


 人と喋るのが苦手な自分について回り、気持ちを勝手に代弁する娘だった。しかし不思議と煩わしさはない。間違ったことや都合の悪いことは言わないのだ。

 ナズは明るくて優しい、利発な娘だった。


『スグリには私がいないとダメでしょ? すぐ大きくなるから、誰とも結婚せずに待っててね。絶対だよ』


 それが幼い頃からのナズの口癖だった。

 どうやら懸想されているらしい。スグリは子どもの戯言だと本気にしてはいなかった。年頃になれば忘れるだろう、と黙って放っておいた。


 スグリは女に言い寄られること自体は多かったが、成人したら自然に持ち込まれるはずの結婚話はなかった。家を持たないためにアディニの中では地位が低く、恋人や遊び相手ならともかく夫には不向きということだろう。そう思っていた。

 しかし、ナズのために族長が周囲を牽制しているという話を小耳に挟み、珍しく苦笑した。困りはするが、不快ではない。そのことに自分が一番驚いていた。


 誰かに恋愛感情を抱いたことはなかった。よく分からないものの一つだ。

 しかし、日に日に美しくなっていくナズを見ていたら、自然に想い合えるようになるかもしれないと思えた。彼女を悲しませたくない。今は妹のように感じていても大切な存在には違いないのだ。

 歳の差はあるが、自分には勿体ないほどの器量の良い娘だ。族長もそれを望んでくれて、ナズの気持ちが変わらないのなら、いつか――。


 そう思っていた矢先の出来事だった。


『ついて来なくていいよ。もう毛皮の売買くらい一人でできるんだから!』


 そう言って町へ出かけていったナズは、物言わぬ骸となって集落に帰ってきた。

 惨い亡骸だった。どれだけ痛みに苦しみ、どれだけの屈辱を受けたのか、はっきりと分かる。

 女たちは目を覆ってすすり泣き、男たちは怒りに震えて叫んだ。スグリだけが「やはり一緒に行けば良かった」という後悔のあまり、感情が抜け落ちて動けなかった。


 ナズは、王弟への不敬な態度により手打ちにされたと聞いたが、そんなはずがなかった。多少の無礼があったとしても、十四の娘がこのような残酷な目に遭う道理はない。


 報復に反対する者はいなかった。ナズは、皆に愛されていたのだ。

 手練れの男たちが集まり、人気の少ない街道で王弟の一行を襲った。


 黒脈に名を連ねる者だけあって、王弟はとてつもなく強かった。何人もの仲間が犠牲になったが、当初の作戦通り、スグリはたった一矢に全てを賭けて、そして勝利をもぎ取った。


 結末は、予想されていたものよりも優しかった。

 リッシュアゼルの王が求めたのは族長とスグリの身柄だけ。他のアディニ族の命は保証された。

 王弟を殺すと決めた時から死を覚悟していたので、スグリは怯えも慌てもせず、大人しく城へ連行された。

 どうせ処刑は免れないのなら、と族長は謁見の間で国王に罵詈雑言を吐いた。スグリの言いたいことも全て言ってくれたので、ただ黙って待っているだけで良かった。


 ふと、国王の娘と目が合った。

 黒髪黒目の女だった。今まで見たどの女よりも美しく、艶めいて見えた。

 しかし、自分の父親が罵られても平然としている可愛げのなさにイラつき、スグリは睨みを返した。

 その時、女の瞳が妖しげな赤い光を宿して揺れた。


 それがプルメリス・ブラッド・リッシュアゼルだった。

 何を思ったのか、彼女は地下牢に潜り込み、度々スグリに会いに来た。


『悪いことをしたとは思ってないんでしょう? わたしもそう思う』

『お母様が味方をしてくれるかも。城内の流れが変わればきっと』

『ねぇ、スグリ。待っていて。わたしがあなた達を守ってみせるから』


 馬鹿な女だな、と思った。

 頼んでもいないのに、プルメリスはスグリと族長を助けようと奔走を始めたのだ。

 最初のうちは好奇心と興味だけだったようだが、徐々に彼女の瞳に媚びるような熱が宿り始めていった。

 スグリがプルメリスの好意を自覚するのに時間はかからなかった。


 優しくしたつもりはない。むしろリッシュアゼルの者の一人だと侮蔑していたくらいなのに、どうして好かれるのか分からない。王女からすれば、辺境の少数民族の男は物珍しく仕方がないのだろうか。それとも彼女の趣味が特殊なのか。

 本当に、同情してしまうほど愚かな女だった。


 しかしプルメリスを蔑ろにはできなかった。自分の命はともかく族長の命が助かる可能性が僅かでもあるのなら、彼女に気を持たせることも辞さない。相手はナズの仇の姪であり、自分たちを処刑する王の娘。傷つけても心は痛まないと思っていた。


 そうしてスグリはプルメリスと会話をするようになった。

 本当に他愛のない日常のこと。狩りのコツや森での生活を問われるまま話す。プルメリス自身の話も聞いた。贅沢で退屈な姫の日常は、スグリには別世界の話だった。


 本来ならば出会うことも、言葉を交わすこともなかったというのに、スグリはプルメリスという女性のことを深く知ることになった。


 賢くて生意気で臆病で見栄っ張り。好奇心旺盛で知らない世界に触れたがる。普段は澄ました顔をしているくせに、少し意見を否定しただけで唇を尖らせてすねてしまう子どもっぽいところもある。

 スグリが返事をするだけで幸せそうに笑う。その表情は神の血を継ぐというだけあって、筆舌に尽くしがたい美しさだった。


 知れば知るほどに憎めなくなる。

 そして、罪悪感が募るのだ。


 日々感じる彼女からの好意を物のように扱い、優しさを踏みにじっている。プルメリス自身には何も罪がないのに、どうして傷つけても平気だと思えたのだろう。


 もう突き放してしまいたい。本当のことを打ち明けて軽蔑されよう。何度もそう思った。しかしその度に族長の助命のことを考えて踏みとどまる。


 微笑むプルメリスを前にすると、いつの間にか言葉が上手く出てこなくなった。

 その髪や頬に触れてみたい。一体彼女はどんな反応をするのだろう。無性に知りたくて、胸が痛んだ。

 鉄格子の隙間から手を伸ばせば、彼女は受け入れてくれるだろうか。


『わたしは、きみのことが好きだよ。こんな気持ち初めてなんだ。スグリはどう思う?』


 しかしプルメリスにそう言われて、まるでこちらの気持ちを見透かされたような気がして、寒気がした。

 この女を愛すことは許されない。ナズが悲しむ。咄嗟にそう考えてしまい、ひどく動揺した。


『……馬鹿じゃないか』

『そんな言い方しなくてもいいじゃない。きみは告白され慣れているのかもしれないけど、わたしにとっては初めてなんだよ。もっとよく考えて、丁寧な返事をしてよね』

『…………』


 プルメリスはそれから何度も愛を囁くようになった。それは一方的なもので、決してスグリに愛を強要する事は言わない。

 ただ、彼女の主張は一貫していたように思う。


『このわたしが愛したのだから、きみにはそれだけの価値がある』

『好きな男を助けたいと思うのは当然だよ。気に病まないで』

『生きたいと思ってほしい。そしたらわたしが絶対に幸せにしてみせるから!』


 彼女の言葉は深い愛情に満ちていた。

 心が揺れて、もう黙っていてほしくて、スグリはなし崩しに呟いていた。

 生き残ったら、と。


 その時のプルメリスの満面の笑顔を見て、スグリは後悔した。自分が処刑を免れたその先のことなど考えたくなかったのに。

 プルメリスとは一緒にいられない。考えずとも分かる。彼女はこの国の王女だ。身分が違いすぎる。幸せになどできるはずがない。何も返せないのだ。


 ああ、しかし、今この時だけは――。

 そうやってスグリは答えを先延ばしにしていた。


 そんな時、族長が自ら命を絶ったと看守から聞かされた。

 リッシュアゼルへの憎しみを忘れぬために、生き残りへの未練を断つ。


 族長から試されているような心地だった。

 スグリとプルメリスが親しくなっていたことを知っていたのだろうか。ナズのことを忘れて、仇の一族の娘との未来を考えた。その罪を問われているのではないか。


 族長の死によって王の怒りは鎮まり、スグリは釈放されることとなった。牢から出る条件は、この国から出ていくこと。要するに追放だ。

 スグリは放心したまま、それを受け入れた。


『待って。わたしも一緒に行く。お願いだから』 


 最後の最後、密かに会いに来たプルメリスに懇願され、スグリは本当に心苦しかった。

 振り切れば良かった。お前のことは愛さないとはっきりと口に出せば良かった。

 それができないくらいに心が弱っていて、彼女に縋りつきたかった。


 もう集落には戻れない。族長もナズもいない。王弟との戦いで多くの犠牲者を出したのに、とどめを刺した自分が生き延びるのは申し訳なかった。

 何より、国を出ればもう二度とプルメリスに会えなくなる。大切なものを全て失って、自分の行く末を思った時には絶望しかなかった。


『一緒に来てほしい』


 様々な感情が入り混じり、かすれた声で呟くと、プルメリスは悲しそうに笑った。


『ありがとう。お礼に、きみの好きにさせてあげる』


 彼女は賢い。スグリの決意を全て察して、受け入れたのだと思う。


 スグリは、プルメリスを道連れにして死ぬつもりだった。

 国境の向こう側までプルメリスを連れ出し、リッシュア王から最愛の娘を奪う。ナズを亡くした族長と同じ気持ちを味わわせてやるのだ。

 そこまでやって、ようやく族長の無念は晴れるだろう。そう信じるしかない。


 プルメリスに対しては申し訳ないとしか言えなかった。

 スグリにはもう生きる気力がなく、自分の死は避けられない。

 そして、プルメリスを一人残していくのも考えられなくなっていた。彼女の命も恋心も全て自分のものにしたい。そんな浅ましい願望に逆らえなかった。


 城を発つ寸前、最後の機会に問いかけた。


『本当にいいのか。俺は、お前を幸せにできない』

『それはわたしが決める。いいの。スグリがわたしを連れて行ってくれるだけで嬉しい。それにね、諦めたわけじゃないんだ』


 プルメリスはなんの憂いもなく笑った。

 きみが心変わりをする可能性だってあるよ、と。


 それはない、とは言えなかったが、心が動く気配はなかった。アディニ族の人間として、リッシュアゼルの姫と幸せになることなどできない。


 ただ、微笑むプルメリスを心底愛しいと思った。

 息絶えるその瞬間まで、全身全霊で彼女を愛そうと決めた。それで彼女の気持ちに報いることができるとは思わない。ただの欺瞞だ。


 国境までの数日の間は、自分でも驚くほど穏やかな時間を過ごせた。プルメリスの本当の恋人のように振る舞ったが、そこには何も違和感がない。彼女も幸せそうにはにかんでいる。


 もっと早くに出会いたかった。もっと別の形で出会いたかった。

 この時間が永遠に続けばいいのに。そう思いながらも、続かないからこそ素直に愛しさを感じられる。


 最後の一日、スグリは人生最大の苦悩を味わった。

 幸せに溺れてしまいたい。罪悪感を持って生きていくくらいなら死んだほうがマシだ。プルメリスと離れたくない。彼女を手にかけることはできない。

 そんな矛盾がせめぎ合う。


 そんなことだから、城からの追手に簡単に捕まってしまったのだろう。

 王女を唆して連れ出したとして、自分は処刑される。そのことにスグリはひどく安堵した。


『違う! わたしが誘惑したんだ! スグリは何も悪くないよ!』


 そのプルメリスの主張によって、おかしな事態になってしまった。


 国王は、プルメリスを戦争の褒賞にした。愛のない結婚を強いられるのだ。その最大の有力候補は憎き王弟の息子だという。悪夢みたいな話だった。

 スグリに逃げ出すという選択肢は最初からなかった。戦って第一の戦功を挙げるか、王甥の妨害をする。いや、他の誰かが彼女を組み伏せることを考えただけで激しく苛立つ。

 やはり敵将を討つしかない。頭では不可能だと分かっていたが、やるしかなかった。


 腕がちぎれてもいい、もう二度と歩けなくなっても構わない。命を落としてでも、この戦争で一番の功を。

 でなければ、プルメリスが不幸になる。


 予期せぬ助っ人(リオル)のおかげで、戦場でまともに動けるようになった。彼の援護があれば聖人が相手でも勝負ができる。後は射程圏内にさえ入ってくれれば。


 そんな緩みかけた意識を嘲笑合うように、おぞましい巨人が現れ、戦場は荒れた。


 リオルは言った。これは陽動で、教国がプルメリスを狙っているかもしれない、と。

 迷った末、塔に向かってくれという彼の言葉に従った。


 これがきっとさらなる運命の分かれ目だったのだろう。






「他愛もない」


 黒髪の少年が鼻で笑う。

 スグリは血塗れで地面に伏していた。


 このシンジュラという少年は、魔法を神のごとく使いこなしている。強い魔力を持たない自分では太刀打ちできない。弓は壊され、短剣も折られてしまった。そして、スグリ自身も嬲られ続け、もう立ち上がることさえできそうにない。血とともに全身の熱が失われ、徐々に凍えていく。


 もうやめて、と土の魔法に囚われたプルメリスは泣き続けていた。


「この程度でよく大口を叩けたものだ。黒脈の姫には相応しくない」


 そんなことは、言われずとも分かっている。彼女を復讐の材料にしようとした自分が、どの面下げて恋人を名乗れるだろう。


「死にたくなければ、今すぐ許しを請え。そうすれば見逃してやってもいい」


 それは情けではなかった。

 シンジュラは、傷つけても痛めつけても食らいついてくるスグリに苛立っていた。愛した者のために命をかける行為が、忌々しくて仕方がないのだ。

 盛大に裏切ってほしい。恋人の身柄よりも自分の命を優先させて、愛の存在を否定したかった。


「渡さない……お前には、絶対に……」


 しかしスグリは、朦朧とした意識の中でそう答えを返した。

 プルメリスが不幸になると分かっていて、連れて行かせられるものか。折れた短剣をシンジュラに投げつける。難なく避けられたが、シンジュラは不快そうに顔を歪める。


「どれだけ強く想っていようが、何も救えなければ力はないに等しい。お前の死は、無意味で無価値だ。灰になって消えろ」


 シンジュラの剣に黒い炎が宿る。


「やめて! お願いだから! スグリを殺すなら、わたしも今ここで死ぬ!」


 プルメリスの叫びすら、シンジュラは一笑に付した。


「できるものなら、やって見せてくれ」


 剣が振り下ろされ、炎の攻撃魔法が迫る。

 スグリは奥歯を噛みしめた。

 自分ではプルメリスを守れない。それが悔しくてたまらなかった。


「間に合ったぁ! 危なかったな!」


 でも、構わない。守って死ねるのなら本望だ。

 自分の命は、稼いだ時間は、決して無駄ではなかった。希望は繋がったのだとスグリは息を吐く。

 どす黒い炎を鮮やかな赤い魔力の残滓がかき消した。


「貴様、何者だ」

「名乗るほどの者じゃねぇけど……お前の敵だっていうのは確かだな」


 突如割って入ったリオルが、シンジュラに向けて剣を構えていた。


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[一言] リオル! これです、コレ このヒーロー感はやっぱりうれしい
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