75 癒やしの雨と滅びの炎
一瞬で空間を移動し、レンフィは静かに戦場に着地した。
咄嗟に両手で鼻と口を覆う。
「……っ」
息をするのも躊躇われるような腐臭、男たちの悲鳴と泣き声、死体が散逸するどす黒く汚れた大地。
なんて惨い。
自らの心臓を貫かれたような痛みを覚え、思わず座り込んでしまいそうになる。
「リオル……どこ?」
彼の正確な居場所が分からず、大体の方角と距離だけで転移した。リッシュア側の陣に間違いはなさそうだが、ここから一人の人間を捜すのは骨が折れそうだった。
リオルがいるとしたら、おそらく最前線だろう。理屈も何もなく、そう直感した。前方に行くにつれ、燻る灰色の瘴気が濃くなっている。苦しい、死にたくない、そんな声が聞こえてくるような気がした。
「…………」
今まさにリオルが苦しんでいるかもしれない。名前も顔も知らない誰かが死にそうになっているかもしれない。
そう思うと居ても立っても居られず、レンフィは決意を胸に足を踏み出した。
プルメリスに渡されたショールをベールのように頭から被り、一歩ずつ前線へ近づく。
誰もが絶望と混乱の中にあり、場違いなレンフィを気にも留めなかった。
「浄化と癒しを」
近くに補給場と思しき場所を見つけた。並ぶ水樽に意識を傾ける。自分の霊力で生成したものがいくつかあった。
大量の水を晴れた空に向けて打ち上げ、癒しの光を纏わせる。
「どうか、命を繋いでください」
一帯に輝く雨が降り注いだ。虹色の光が、殺伐とした戦場の風景を一変させていく。
味方も敵も関係なく、無差別に精霊術を施す。もうこれ以上誰にも血を流してほしくない。大地が汚れていくのを見たくなかった。
「なんだ、この雨は」
「ああ、痛みが消えていく」
「治癒術、なのか? なぜ精霊術士が……」
倒れ伏していた男たちは呆然と空を見上げた。雨雲はなく、人為的な雨だと理解して首を傾げる。
黒く染まっていた大地が徐々に土の色を取り戻していった。
レンフィは一歩ずつゆっくりと進み、雨の範囲を広げていく。
目を閉じれば、戦場に点在する補給線の位置が手に取るように分かる。自らの霊力で生成した水が置いてあるおかげもあるだろう。それらは離れていても、いとも容易く操ることができた。
「あの子……誰だ?」
前線に近づくにつれ、ようやくレンフィの存在に気づく者が出てきた。
霊力を操る場違いな少女に対して、何人かが剣を向ける。しかしレンフィは構わず真っ直ぐ前に進んだ。
恐ろしくないわけではない。しかし、レンフィは彼らの戦意が弱いことを察知していた。
そのうち一人の若い軍人が立ち塞がって声を上げた。
「と、止まれ! そこの女! 聖人だな!?」
「よせ」
「しかし、隊長――」
当然の反応だった。
彼らはレンフィが何者なのかは知らない。高確率で教国の聖人なのだろうが、なぜリッシュアの陣から歩いてくるのか。敵ならば斬らねばならないものの、そうとは思えない佇まいをして、戦場全体に浄化と癒しの雨を降らせている。
ミスルトが懸念した通り、周辺に新たな混乱を招いた。
レンフィは歩みを止め、揉めている二人の瞳を見て告げた。
「勝手なことをしてごめんなさい。信じてもらえないかもしれませんが、私はもう教国の聖人ではありません。必ずこの大地を浄化し、皆さんの命が尽きないよう猶予を作ります。どうか、動けない人に手を貸してあげてください」
若い軍人は、目の前の少女の神々しさに言葉を失くした。
聞きたいことは山ほどあるし、このまま見過ごすわけにはいかない。にもかかわらず、気づいた時には道を譲っていた。
崇敬と畏怖の念が込み上げ、これ以上声をかけることすら躊躇われる。人間とは一線を画すような存在感があった。
「ありがとうございます」
レンフィは小さく礼をして、また前線に向かって歩き出す。
様子を見ていた傭兵たちも剣を下げ、その細い背を見送る。幻影を見ているような心地だった。
「彼女は白の神の使いか?」
「女神、いや、聖女……」
優しい雨に打たれ、体の痛みが徐々に和らいでいく。少女がもたらした奇跡は、戦線が崩れて絶望しかけていた心すら癒した。
無限に湧き出てくるかと思われた巨人の、最後の一体。
その胸の魔石を砕き、リオルはようやく足を止めた。血と肉片で服を汚し、酷い様相を呈している。父の剣も折れなかったのが不思議なくらい刃がガタガタになってしまった。
「っ」
全身が燃えているみたいに熱い。
荒い呼吸を繰り返し、何とか魔力を鎮めようとするが、一向に落ち着かなかった。
まだ足りない。衝動が消えない。
もっと、もっと戦って、敵を滅ぼさなくては。
全てを破壊する。燃やし尽くす。
あれだけ戦ってもなお満足できなかった。巨人は確かに脅威であったが、所詮は魔法構築通りにしか動けない肉の人形だ。
彼女とは、聖女レンフィとは、比べ物にならない。
物足りなかった。高揚感は皆無で、ちっとも楽しくない。それどころか苛立ちばかりが募る。
リオルの真っ赤な視界に、腰を抜かした教国兵が入り込んだ。
「ひぃっ」
目が合うと、必死にもがいて逃げ出そうとする。まるで化け物に遭遇したかのような反応に、舌打ちが出た。
「おい、お前たちの上官はどこにいるんだ」
教国兵はあわあわと口を動かすだけで、言葉を発しない。
面倒だ。もう殺してしまおう。
リオルが衝動的に剣を構えた時、頬に水滴が落ちた。じゅわり、と一瞬で蒸発して消える。
「…………」
リオルは晴れた空を仰ぎ、不思議な雨を浴びた。
白と虹色の輝き。懐かしくて、愛おしい。
雨はリオルの全身の熱を奪い、白い霧となって周囲を漂う。
全てが真っ白になった。怒りも憎悪も殺意も何もかもがどうでも良くなる。
体ががくり、と揺れて、リオルは地面に膝をついた。意識が急激に遠のく。限界を超えて動き続けた反動だった。
「リオルっ」
倒れ伏す瞬間、自分を抱き止める腕があった。
幻を見ているのかと思った。会いたくて会いたくて堪らなかった恋人がそこにいた。
淡いブルーの瞳から雨が降ると、途方もない罪悪感に見舞われた。
最前線に辿り着いたレンフィは、リオルの体を抱きしめる。重さに耐えきれずにそのまま座り込んだ。
ぼんやりとした金色の瞳がレンフィを捉えた。リオルはもう息も絶え絶えだ。命を極限まで削って戦っていたのだと分かる。
「レン、フィ……?」
「嘘つき。大丈夫だって、言ってたのに」
溢れた涙がリオルの頬に落ち、こびりついていた血が溶けた。こんなにボロボロになるまで戦うなんて聞いてない。
レンフィは必死になってリオルの体に霊力を注ぎこんだ。怪我だけではない。全身に灰色の瘴気が巡っていて、いつ死んでもおかしくないような状態だった。
戦死した者たちの無念が毒になり、生者の体を蝕んでいる。リオル一人でどれだけの数の巨人を相手にしたのだろう。普通の治癒術では間に合わないほど、おびただしい毒を受けていた。
レンフィはリオルの濡れた頭を抱え込み、唇に口づけを落とした。体の内部に、心に、直接触れて自分の命を分け与える。
同時に、離れていた間に積もりに積もった想いも注ぎ込んだ。
寂しかった。怖かった。やっぱり離れたくない。あなたを愛している。
息継ぎを挟んで何度も何度も気持ちを伝えた。
「ごめんな、心配、かけて……ありがとう。生き返った」
リオルの指がそっとレンフィの頬に触れた。ようやく瞳の焦点が合った。
「すごく綺麗だ……なのに、汚してごめん」
レンフィの肌も服も血で悲惨なことになっていた。プルメリスには申し訳ないが、純白のショールも赤黒く染まってしまっている。
「大丈夫。雨が洗い流してくれるから」
頬に触れている手を包み込み、レンフィは微笑んだ。
間に合って良かった。守ることができた。後先を考えずに塔を飛び出して正解だった。
だから、今回はリオルに謝らない。
レンフィは口癖を封印して、ぎゅうっとリオルを抱きしめる。
「本当、最高だな、レンフィは……愛してる」
抱き返してくれる腕の力を感じながら、最愛の人を喪わずに済んだ喜びを噛みしめた。
申し訳ありません。
また書き溜め期間に入ります。




