74 空の試練
空の樽に水を満たしながら、レンフィは大きなため息を吐いた。同時に、プルメリスも矢を作りながら気の抜けた声を漏らす。
二人とも待つ時間に焦れて、寝不足が続いていた。
もう五日もリオルに会えていない。
毎日短い言付けは届くが、膨らみ続ける不安が減ることはなかった。
自分に構っている時間がないのだろう。我が儘を言ってはいけない。リオルはもっと大変なのだから、寂しさくらい我慢しなければ。
そう言い聞かせて耐えていた。
そんな時、戦場の異変を感じ取った。
反射的に窓の外に視線を向ける。
「これは……」
地平線に浮かぶ灰色の霧。
あの中で悲しみと苦しみが渦巻いている。兵士たちの絶叫が耳の奥でこだましたような気がした。
「レンフィさんも感じる? なんだか、戦場の様子がおかしいよね。魔力、なのかな。怖い……」
プルメリスもまた、不安そうに窓辺に寄って鉄格子に触れる。
「攻撃魔法なのでしょうか?」
「分からない。でも、リッシュア側の攻撃ではないと思う。少なくてもわたしは知らないよ。何も聞いてない」
これだけ遠くにいても、首元に刃を添えられているかのような恐怖を感じる。マグノリアの呪いを見た時やアヌビア川の底で女たちの怨念に晒された時と、似て非なる感覚だった。
もっと空虚でもっとおぞましい何かに、一つ、また一つと生命が食いちぎられていく。
そんな抽象的なイメージが脳裏をよぎり、レンフィはぶるりと震えた。
「……リオル」
無事だろうか。背中に冷や汗が伝い、不安が眩暈に変わって全身を襲う。
どうしてこんなに必死に戦っているのだろう。
自分はいくつか判断を間違えた。ここはムドーラの国境ではないのだ。命を懸ける義理はない。それでも敵が向かってくれば戦わずにはいられなかった。
自嘲気味に笑いながら、リオルはまた一体巨人の魔石を破壊した。
悪臭に咳き込み、口から血を吐き出す。気づいた時にはもう遅かった。巨人を倒す度に灰色の瘴気が濃くなり、体を蝕んでいく。
そして、巨人を倒した人間に別の巨人が群がってくる。強者を戦場に足止めし、瘴気の毒で殺す。そのような仕掛けが施されていたようだ。
「リィオ! 大丈夫か!?」
「……近づくなっ! 気が散る!」
顔見知りになった傭兵や軍人たちはリオルを援護しようとするが、戦場の中央から流れてくる巨人三体を見て二の足を踏む。
彼らも満身創痍。まともに戦える状態ではなくなっていた。
「すごい……なんて奴だ」
「ああ。だが、これ以上は無茶だ。あいつ、死んじまうぞ」
その場にいる男たちは、リオルの戦いを目の当たりにして、焦燥に駆られていた。
普通なら、とっくに心が折れている。それなのにまた一体巨人を倒し、立ち向かっていく。
折れた剣を投げつけた隙に、また新しい武器を拾う。血反吐を吐き、傷を増やし、体をふらつかせる。リオルはそんなギリギリの戦いを繰り広げていた。
傭兵の一人が拳を地面に叩きつけた。
何も思わないわけではない。自分よりずっと若い男が命懸けで戦っている。リオルがいなければ、この場に生き残っている人間はいなかったかもしれない。
悔しさと無力感でいっぱいだった。それでも我が身可愛さと、足手まといにしかならないことを理解して、動けない。
傭兵と軍人、そして教国兵たちまでもが、自らの武器を握り締め、震えながらリオルの背を見つめていた。
「くそ!」
もう何分もリオルはたった一人で巨人を相手取っていた。
攻撃が何度かかすり、腕も足も痛む。魔力も体力もまだ残っているが、瘴気が毒のように全身を巡り、思うように体が動かせなくなっていた。
このままではまずい。ジリ貧だ。
それは分かっているのに、具体的な対策は浮かばない。
逃げようとしたところで、巨人たちは完全にリオルを標的にしている。背を向けるのは危険だった。
巨人の攻撃を反射神経だけで躱し続け、ぼんやりとした頭でリオルは考える。
スグリは無事に塔へ辿り着けただろうか。リッシュア側の陣の方がはるかに塔に近いから間に合うと賭けたが、だんだん不安になってきた。黒脈の王子と鉢合わせていないことを心から祈る。
一応あの後、ミスルト王子に拙い連絡魔法を送って陽動の可能性を報せたが、返事は来ていない。もしかしたら王子も戦場に出て、巨人に足止めされているのかもしれない。
だとしたら、何もかもが相手の思う壺だ。
「レンフィ……」
心配で胃が捻じ切れそうだった。
こんなことになるならスグリに任せず、自分で塔へ向かえば良かった。
誰よりも大切なのはレンフィだ。たった数日の付き合いのスグリや兵士たちよりも優先すべきだった。
彼女に会いたくてたまらない。
ないとは思うが、スグリが逃げ出している可能性だってある。
何故なら彼は、本当はプルメリスのことを――。
「危ない!」
その声にはっとなる。
少し離れた場所にいた巨人の腕が異様に長く伸びていた。完全に間合いの外側で意識が向いていなかった。
巨人の腕が鞭のようにしなり、振り下ろされる。
避けられない。剣を持つ腕も上がらない。
「っ!」
リオルは死を覚悟した。
「馬鹿野郎!」
突き飛ばされた衝撃でその場に尻もちをつく。
リオルが受けるはずだった攻撃を、傭兵の男が肩代わりをしていた。右足が完全に潰れた状態で、うつぶせに倒れ込んでいる。
その苦しげな顔を見て、リオルは息を呑んだ。
「親父……」
父親に助けられた驚きで固まるリオルの周りに、他の傭兵たちが大盾を手に駆け寄った。
「ちくしょう! もう見てられねぇよ!」
「リィオ! 早く立て!」
「負傷者を運べ! まだ息があるぞ!」
巨人たちの攻勢を一時傭兵たちが受け持つ間、リオルはただただ呆然とした。
背負われて運ばれていく父と目が合う。
父は死への恐怖に顔を引き攣らせながらも、口元を満足げに綻ばせていた。震える手で腰の剣を抜き、地面に落としていく。
「…………」
何も声をかけられなかった。リオルは立ち上がり、父の剣を手に取る。不思議とよく手に馴染んだ。
ふつふつと腹の底から様々な感情が沸き上がってくる。
助けられる悔しさ、父と二度と会えなくなるかもしれない恐怖、自分への不甲斐なさ。
そして、この状況に対する不満。
「ぐっ!?」
大盾で巨人の攻撃を防いでいた男たちが吹き飛ばされる。
リオルは地を蹴り、無防備な彼らに振り下ろされる巨人の腕を切断した。
「ああああああああ!」
そのまま咆哮を上げる。
リオルは怒っていた。
そもそもだ。教国がこんな非人道的な魔法生物兵器を持ち出してくるのが悪い。屍を材料にして死者を冒涜し、敵味方構わず攻撃する残虐性。その上、最後は毒を撒き散らすという徹底ぶりだ。
大地はどす黒く汚れ、もう目も当てられない有様になっている。
頭がおかしいとしか思えない。腹が立つ。許せない。
こんなに敵を憎んだのは初めてだ。
全身を巡る血が燃えるように熱い。蝕まれて動かなくなっていた体が、随分と軽くなった。
魔力が次から次へと溢れてくる。
リオルは怒りと憎悪を込めて剣を振るう。もう後先のことを考える余裕はなく、巨人たちの胸の魔石を次々と破壊していった。
「俺は勝つ。あいつ以外には、死んでも負けねぇ!」
もう巨人が来るのを待つことすらしない。
リオルは戦場を駆けた。地表に立ち込める灰色の瘴気が揺らぎ、赤黒い魔力の残滓で塗り潰していく。
正真正銘の全力、命を削る戦いに飛び込んでいった。
異変を感じ取ってからしばらく。
レンフィは不穏な地平線から目を離せずにいた。不安はどんどん大きくなる。
分からない。
どうして何もしようとしないのか。
愛しい男が危機に陥っているかもしれない。今まさに命の危険に晒されているかもしれない。
それなのに、どうして呆然と戦場を遠目に眺めているのか。
「わ、私は――」
教国に生存していることがバレたら困るから。聖人が現れたらリッシュアの兵士が混乱するから。
そんな理由で塔に取り残された。リオルにもミスルト王子にも大人しく待っていて欲しいと願われた。
人間相手に戦えない。“黒”の中には混じれない。
レンフィは、迷惑をかけてはいけないと思ったから従った。ムドーラ王国も、リッシュア王国も、リオルも、自分のせいで害を被ることがないように。
ウツロギから自分の過去を聞いた後も今と同じように悩み、そしてシダールたちから何も指示がないのをいいことに、「何をすべきか」という問いの答えを先送りにしていた。
何もせずにいることに、どこかで安心していたのだ。
第二の人生は、穏やかに慎ましく生きていきたい。愛しい人と笑い合って幸せに暮らしていきたい。
それが今の自分の願いだ。血生臭い戦場とは無縁でいたかった。
どうせ自分が何かをしてもしなくても、どこかで命は失われていく。
水の寵愛を授かったのは、目の前の誰かを守るためだ。そのためならば戦えたが、遠くにいる顔も名前も知らない誰かの命までは抱えきれない。
しかし、愛する人は戦場を住処とする男だ。常に隣にはいられない。共に戦わないのなら、遠くで帰りを待っていなければならなかった。
それがずっと苦しかった。
自分の代わりにリオルが「二人分戦う」と言った時から、心が悲鳴を上げていた。
痛みと苦しみを、リオルに押し付けてしまったような気がしていた。役割分担などという言葉では納得できない。代わりに差し出せるものがあまりにも小さすぎて不公平だ。
記憶を失くした状態で目覚めてすぐは、そんな風には思わなかった。不安を感じながらも大人しく命令に従い、周囲に全てを任せていただろう。
その時はまだ自分の願いを持っていなかったから。大切なモノを持っていなかったから。
囚われの身では自由がないと諦めていたから。
でも今は違う。本当は、どこにでも行ける。
願いを自分で叶える力がある。できるのに、勇気が足りなくてやらなかった。
戦場の方角で赤い光が瞬いたような気がした。また一つ、誰かの命が燃え尽きようとしているのかもしれない。
奥歯をぐっと噛みしめ、レンフィは悪寒を脱ぎ捨てるように首を横に振った。
そして、霊力で水を発生させて刃を作り、窓に設けられた鉄格子を切断した。
「え、レンフィさん?」
「ごめんなさい、私、行きます」
目を見開いて固まるプルメリスに頭を下げ、窓の向こうの地平線に視線を戻す。
人を殺したくない。迷惑をかけたくない。自分で未来を選ぶのが怖い。
しかし、それよりももっと強い気持ちがある。
大切な人を喪いたくない。
彼が死んでしまったら、自分の心も死んでしまう。心を奪われるとはきっとそういうことだ。
この選択で愛も幸せも平穏も失ってしまうかもしれないけれど、彼の命と自分の心さえあればいい。
大丈夫、取り戻す機会はきっとあるから。
罪悪感や使命感だけでは失敗した時に後悔する。しかし、愛する人のための行動ならば、どのような結果を招いても、未来の自分は今の自分を許してくれるだろう。
心を縛っていた戒めが解ける。
「空の精霊様、ごめんなさい……私は世界のためには生きられません。欲張りで罪深い人間です」
よく晴れた青空と、目が合ったような気がした。
「でも、リオルが生きている限り、力を尽くしてこの世界を守ると約束します。だから――」
それでも良ければ、愛してください。
レンフィが両指を絡めて祈りを捧げると、空が一瞬白く光った。
『汝は、愛する者がいる座標を選んだ。点と点は繋がり、線となる。その軌跡は色鮮やかに世界を形作るだろう。しかし我が寵愛は人の子には扱いが難しく、危険である。汝の力を示せ』
空の寵愛の欠片ともいえる力がレンフィの体に満ちた。
上手く使いこなせなければ、寵愛を取り上げられるのかもしれない。それでもいい。今この瞬間、愛しい人の元へ飛べるのなら。
「レンフィさん、気をつけて……」
振り返れば、プルメリスが泣きそうな顔をしていた。自らが羽織っていた純白のショールをそっとレンフィに纏わせる。
「ありがとうございます」
微笑んで、レンフィは窓からその身を躍らせる。
重力に従って落下する中、恐れず意識を研ぎ澄ませた。体がふわりと軽くなる。
プルメリスの悲鳴が聞こえたが、すぐに途切れた。




