68 リッシュアの陣
「怒ってるかなぁ、レンフィ……」
リオルは恋人の膨れ面を思い出し、小さくため息を吐いた。
現状、最も安全なのは塔の中だ。許可なく男は近づけないし、プルメリスもレンフィに危害を加えることはないだろう。だから有無を言わさず置いてきてしまった。
何もさせてもらえないのが不服なようなので手紙を任せてきたが、役割分担に納得してもらえたか心配だった。さすがに塔を抜け出して追いかけてくるようなことはしないと思うが。
罪悪感と言い様のない恐怖を覚えた。
交際開始二日目にして、恋人の機嫌を損ねてしまった。嫌われたかもしれない。
落ち込みつつも、リオルは自分を叱咤する。
たとえ嫌われても、レンフィを守ることを優先する。最悪、空の寵愛は得られなくても構わない。十日で戦功を挙げてリッシュアの馬をもらえるなら、一か月以内にムドーラに帰れる可能性はある。
彼女を戦場に立たせたくないし、素性のバレるような危険も冒してほしくない。救護の手伝いをミスルトが断ってくれて本当に良かった。
周囲を見渡し、自分は間違っていないと確信した。
人相の悪い男たちが落ち着かない様子でたむろしている。女もいないことはないが、気合の入った逞しい女戦士か、商売目的の娼婦らしき女性しか見かけない。
今日教国側に動きがなければ、明日にはこちらから先手を打って出陣すると伝えられているせいか、皆が目をぎらつかせていた。
こんな雰囲気の場所にレンフィのような儚げな乙女を連れ出しても何も良いことはない。厄介事を呼び込むだけだ。
リオルは魔力を極力抑え、周りを観察しながら自然体を装って歩く。
リッシュア製の地味な服に、ムドーラの冬靴。よく見れば違和感のある組み合わせだが、すれ違う男たちが怪しむ素振りはいなかった。
顔見知りの傭兵がいないとも限らないので、念のためバンダナを頭に巻き、襟巻で口元を隠している。周囲にはそういう者も多かった。この辺りは乾燥しきっていて、少しの風で砂埃が舞うからだろう。
「…………」
背後に二人ほど、傭兵に扮した軍人の監視係がついてきているようだ。視線を強く感じるし、リオルの歩く速度に合わせて動くので分かりやすかった。
一人はミスルトの部下だろうが、もう一人はレドウの部下かもしれない。別に見られて困ることはないので、気づいていない振りをして歩く。
この戦場には正式な砦がない。
昨年の戦争でリッシュア側が国境線を食い破ってわずかに国土を広げ、荒野に土壁を作って冬の間も死守していたという。左は谷で、右は険しい山だ。回り込まれる心配はほとんどないが、一応見張りは配置していると聞いた。
無数にある天幕の間を縫って進み、目的の場所に辿り着く。
話に聞いていた通り、陣営の後方にいくつか露店が出ていた。王家の認可を示す旗を誇らしげに掲げている。
リオルは素直に感心した。ムドーラの商人はここまで戦線に近づかない。
薬品や携帯食の他、酒や葉巻などの嗜好品なども売られていた。正規の軍人とは別口で取引しているだろうから、この露店は傭兵向けのものだろう。
お目当ての武器商の露店は一つしかなかった。
「剣を手に取ってみてもいいか?」
「なんだい、兄ちゃん。武器も持たずに来たのかい」
「いや、ちょっとタイミング悪く使い物にならなくなって……」
「はっ、好きに見ていけ」
店主には三流の剣士だと思われたらしい。剣を落とした手前、反論できないリオルだった。
樽の中に無造作に突っ込まれた剣を漁る。
一振りずつ鞘から抜いてみるが、あまり質の良い剣ではなかった。元より自分の魔力が馴染んでいない刃は弱い。リオルが全力で振り抜けば折れてしまう可能性が高かった。
「うーん……」
ミスルトからは「軍の支給品で良ければ融通する」と提案されたが、傭兵の格好で軍の剣を使うのに抵抗があった。盗んだと思われても面倒だ。
なので、ミスルトにはムドーラの貨幣の両替だけお願いした。デートのために普段より多めに持ち歩いていて良かった。
もっとも、ムドーラの貨幣はこの辺りでは使えず、ほとんど価値がない。相場もよく分からないまま交換してもらったため、ミスルトにはさらに借りを作る形になった。
結局商品を全部見て、最も頑丈そうなものを選んだ。やや大振りだが、普段戦場で使っている剣と重さと形が似ている。予備として切れ味の良さそうな短剣も一つ選んだ。
それと、魔石を嵌められる籠手も購入することにした。防御力は期待できないが、魔石の効果で一回なら強力な斬撃も受け止められるだろう。
「全部でいくら? ちょっとでも安くしてくれると助かるんだけど」
「おいおい。そんなでかい剣、振り抜けるのか?」
「大丈夫。こう見えても、腕力には自信があるんだ」
「…………」
なおも訝し気な視線を受け、リオルは片手で剣の素振りをした。鋭く風を切る音に店主が目を見開く。周囲の人間にも注目されたようだが、リオルはあえて振り向かなかった。顔を覚えられたくない。
「驚いた。兄ちゃん、実は結構な手練れか? 名の売れてる傭兵だったりして?」
「いや、全然。まだまだ修行中だ」
どうやらこの国でもそこそこ名は売れているようだが、傭兵ではない。そう心の中で言い訳をして、さらりと嘘を吐いた。
「死ぬなよ、未来の英雄」
「おう、ありがとう」
少しだけ値引いてもらえた。支払いを終え、武器商の露店を離れる。
入用な品はないだろうかと他の店も見て回った。レンフィの機嫌を直せそうなプレゼントがあれば良かったのだが、あいにく女性向けの商品は売り出されていなかった。
応急処置用の血止めの薬と包帯を購入してポケットに入れる。次はプルメリスの恋人であるスグリに接触しよう、とリオルは踵を返した。
「おっ、ああ、すまん……」
「こちらこそ。大丈夫か?」
すれ違った男がふらつき、肩がぶつかった。咄嗟に服を引っ張って支えてやる。
「ん?」
「あ!?」
男が目を丸くする。
見覚えのある顔だった。おそらく以前戦場で顔を合わせた傭兵だろう。気づかれただろうか、と固唾を呑んで男の反応を待つ。
リオルと中年の男はしばし唖然とした表情で見つめ合った。
「はは、あいつがこんなところにいるわけないか……いや、悪い。知り合いに似ていたもんで」
「そうか。他人の空似ってやつだな」
「ああ……」
男はぎこちなく笑い、とぼとぼと歩き出した。その背に強烈な既視感を覚え、リオルは思わず手で口を覆った。
声を掛けたい衝動に駆られたが、今の自分の立場を思い出してぐっと堪える。
「……親父」
姿が見えなくなってから、呆然と呟く。
最後に別れてから七年以上が経っている。お互いに一目で分からなくても無理はない。リオルは子どもで、今よりずっと背が低かった。声変わりだってしていなかった頃だ。
生きていた。ようやく会えた。記憶にある父の姿よりだいぶ老けて、痩せていた。暮らしに苦労をしているのだろうか。病気や怪我を抱えているのかもしれない。あんな状態で戦えるのか。
どうして今ここで出会ってしまったのだろう。他の状況だったら、迷うことなく名乗り出ることができた。「今まで何してたんだよ」と軽い調子で話しかけて、昔の親子喧嘩を水に流してしまえたのに。
「…………っ」
今は忘れろ。優先すべきことは山ほどあり、監視の目だってあるのだ。父の存在がリッシュア軍に知られれば、弱みを握られることになりかねなかった。決して動揺してはいけない。
哀切の念を振り切るように、リオルは早足でその場を去った。
傭兵たちの噂話に耳を立て、リオルはようやく目的の人物を見つけ出した。
天幕から離れた岩陰にだらりと座り込んでいた。緩慢とした動きで弓の弦を弾いて調整している。
「あんたがスグリか?」
リオルが近づいていたのは気づいていたのだろう。青年はゆっくりと立ち上がる。背の矢筒が小さく音を立てた。
「なんだ、お前。どうして俺の名を知っている」
「…………」
日に焼けた肌、くすんだ金色の長い髪、鋭く細い釣り目、長身で筋肉質な体。
いかにも狩人と言った雰囲気を持つ、野性味溢れる青年だった。顔立ちも端正ではっとするほど目を惹く。
「なるほどなぁ」
リオルは物知り顔で頷いた。
プルメリスのような賢しくおてんばな姫が惚れ込んでしまうのも無理はない。一見して正反対の二人だが、並べて立たせたら似合いそうだ。
同時に、国王が二人の仲を認めないことも理解できた。愛娘を嫁がせるにはやや不安を覚える風貌だ。粗暴で冷たい目をしている。
「おい、一体何なんだ」
「あ、悪い。俺は……リィオって呼んでくれ。本名じゃねぇけど」
「は?」
「気を悪くせずに聞いてほしい。姫様に頼まれたんだ。あんたの加勢をしてくれって」
その言葉に、スグリの表情が変わる。
屈辱を受けたような怒りと、信じていいのかという困惑。その二つを見て取って、リオルは理解した。
まともに話せる相手だ。
「これ、姫様から」
「プルメリス……」
受け取ったメモには、プルメリスの直筆でこう書かれている。
――彼は最強の助っ人だ。信じて一緒に戦ってほしい。きみの武運を心から祈っている。
疑う気持ちを隠しもせず、スグリはリオルをじろりと眺めた。
見た目があまり強そうに見えないらしい。それはリオルも自覚していた。軍服を着ていないと威厳がなく、町の若者に交じっても違和感がないとよく言われる。
「じゃあ、一つ自慢しとこうかな。俺は今まで教国の聖人を三人殺している」
「なっ! 嘘を吐くな!」
「嘘じゃないぜ」
仲間と連携して倒した人数を合わせれば、もっと多い。ムドーラ戦線で衝突した聖人たちを、何度も何度も葬っている。
リオルは聖女レンフィ以外には勝ち続けてきたのだ。
「あんまり詳しくは話せないこともあるけど、順を追って説明するよ。それでも信じられなければ、力試しをしてもいいぜ」




