60 恋人
あふれる想いと連動するように、涙がぽろぽろと零れていく。
「またハンカチの出番だな」
「う、ごめんなさい……嬉しくて、止まらない……」
リオルが優しい手つきで、目元を拭ってくれた。そして、申し訳なさそうに言う。
「嬉し泣きならいい。でも、俺はこれからもお前に心配させたり、寂しい想いをさせたりするから……泣かずに待っていてくれるか?」
「う、うん……極力頑張る」
「不安が残る答えだなぁ。でも、仕方ねぇか」
大きなため息を吐いて、リオルはレンフィをぎゅっと抱きよせた。
「嫌だな。こんな可愛い彼女を置いて戦争に行くのか、俺……」
「か、カノジョ……」
「そうだろ? 両想いなんだから、もう恋人だ」
レンフィはリオルの胸に額を当てて、ふわふわとした小さな悲鳴を上げた。今は顔を上げられない。絶対に見られたら困る表情になっている。
「親父のこと話した後だから、余計に嫌だ。離れたくねぇ。でも、どう考えても城の方が安全だしなぁ……ああ、くそ、確かにこれは不安になる」
リオルはげんなりと呟いた後、真剣な表情で言った。
「絶対に俺以外の男の前で泣くなよ。バニラかマグノリア様のところで泣け。つーか、男と二人きりになってほしくない」
妙に細かい注文にレンフィが首を傾げると、リオルは面白くなさそうに言った。
「嫉妬しちまうから。お前だって、離れている間に俺が他の女と二人きりになったら、嫌だよな?」
「…………!」
想像しただけで、胸にもやもやが広がった。
相手にもよるだろうが、もし自分よりも明るくて可愛くて楽しい子だったら、とても悲しい気持ちになる。気が気ではないだろう。
「う、うん。分かった。気をつける」
今更ながら嫉妬という感情がどういうものか理解した。
自分がされて嫌なことはしないようにしよう。レンフィは肝に銘じた。リオルが安堵したように体の力を抜く。
「本当にごめんな。そばにいてやれなくて……でも、教国ぶっ潰して国が落ち着いたら、仕事よりお前を優先するから」
「え、いいよ。そんなのダメだよ」
もちろん嬉しいけど、もう十分だ。恋人になれただけで幸せ。向こう十年はこの気持ちだけで生きていける。
レンフィがたどたどしくそう伝えると、リオルは痛みをこらえるような顔をした。
「俺も幸せだ。なんだろう……すごく癒された」
「本当? なんか辛そうだけど」
「いろいろと葛藤があるんだよ」
レンフィは分かったような気分で頷いた。
心がぽかぽかする一方で、全身に熱が過剰に巡り、頭がくらくらする。医務室に行ったら体調不良だと診断されるに違いない。
「なんだか、信じられない。現実感がなくて……恋人って何?」
熱にうかされながら間抜けなことを呟くと、リオルが悪戯っぽく笑った。
「そうか? じゃあ――」
視界に影が落ち、気づいた時には終わっていた。
「甘い……はちみつ?」
「い、今」
レンフィは唇を両手で隠して、涙目でリオルを見上げる。
「恋人ってこういうことする関係だろ。なんだっけ……ものすごく仲良し?」
ただでさえ高かった体温が限界を超えた。そろそろ心臓が壊れるかもしれない。ふらふらと後退すると、リオルが慌ててそれを止める。すぐ後ろはもう湖だった。
「危ないって」
「う、うん」
「嫌だったか?」
「……ううん。でも、一瞬過ぎてよく分からなかった」
正直に告げると、リオルは苦笑した。
「それは、もう一口ってことか?」
「え? え? そういうことになるの?」
「そういうことにしてくれ」
リオルの手が頬に触れ、指先が濡れた目元をなぞる。レンフィは覚悟をして瞼を閉じた。そして、今度は先ほどよりも深く長く唇が重なった。
意識ごと溶けてしまいそうになったところを、そのまま抱きしめられる。
「……我慢できなくて、ごめんな。大丈夫か?」
「あ、謝らなくていいよ。私、今、すごく幸せ」
二人はしばし無言で抱き合った。
リオルは自分の腕に収まる小さなレンフィを見て、自分の感情に動揺していた。
彼女が好きだ。愛している。想いが通じ合った今、人生で一番幸福な時間だ。それは間違いない。純粋に嬉しい。
その一方で、ぞくぞくするような優越感を覚えていた。
あんなに冷たい態度を取っていた聖女レンフィが、口づけを受け入れ、従順に抱きしめられている。彼女が自分にベタ惚れという事実に、かつてないほど良い気分になった。
勝った。そして、戦利品を得た。
そんな風に感じてしまう自分に対して「最低だな」と嫌悪をする。今のレンフィにも昔のレンフィにも失礼だ。
そう思いつつも、心の充足感には抗えない。
分かっている。今のレンフィは昔のレンフィとは違うし、勝負など成立していない。ただただ、一方的にこじつけているだけだ。戦場の聖女はもういないのだ。
それでもやはり、彼女が宿敵であったという事実をリオルは忘れられなかった。
知らなかった。自分の中にこんなに浅ましい感情があるなんて。男の馬鹿げた欲望が存在していたなんて。
多分、他のどのような異性に好意を向けられても、こんな満たされた気持ちを味わうことはできない。
もはや記憶があろうがなかろうが関係なかった。
レンフィは、あらゆる意味でリオルにとって特別な女だった。
絶対に手放さない。誰にも渡さない。
リオルの中にレンフィへの激しい執着心が芽生え、それをはっきりと自覚した瞬間だった。
これまでの人生で大切なモノをあっさりと失い続けてきたリオルは、誰かに執着することに大きな抵抗があった。
母が死んだ時、父と喧嘩別れをした時、雪に埋もれた故郷を見た時。
あの瞬間の寂しさを、荒んだ心を、深い悲しみを、二度と思い出したくない。
仲間たちのことは大切だが、境界線を引いて一定の距離を保っている。心を預けすぎないように意識してきた。ともに戦場に立つ以上、いつ失くしてしまうか分からない。失って心が乱されるのを恐れていたのだ。
しかし、レンフィに対してはいつの間にか境界線を越えてしまっていた。彼女を失うのは耐えられない。ましてや嫌われでもしたら、生きていく意味そのものを失くしてしまいそうだ。
「……?」
そこでリオルは気づく。
ここまで心を占有されてしまったのなら、負けたのは自分ではないか、と。
おそらくこれから一生、自分はレンフィに愛を乞い続けるだろう。一番の座を誰かに奪われないために、必死に気を惹き続けるに違いなかった。
ベタ惚れしているのは自分も同じ。いや、余計な感情がある分、想いの比重はこちらの方が大きい。
ストロベリーブロンドに染まっている美しい髪を撫で、リオルは密かにため息を吐く。
こちらの卑しい感情や苦々しい想いなど知りもせず、彼女はリオルに体を預け、幸せそうに目を閉じている。なんて愛らしい。
見れば見るほど勝てる気がしなかった。邪な感情などたちまち浄化されてしまいそうだ。
いい気になっていた自分が恥ずかしい。
己の宿敵は、どこまでいっても手強い女であった。忌々しくて、誇らしい。思わず笑みが漏れた。
「…………」
リオルの指が髪に触れている。レンフィはくすぐったさに口元を綻ばせた。恋人の不穏な感情に気づくこともなく、幸せを一心に噛みしめる。
愛した人に愛される以上に幸運なことはない。
自分がこんな素晴らしい思いをしていいのだろうか。はっきり「恋人」だと宣言してもらい、口づけを交わしても、未だに信じられない。リオルに自分のどこが好きなのか教えてもらいたいけれど、恐ろしくてしばらく聞けそうになかった。
今日一日で、改めて確信した。
リオルはとても素敵な人だ。自分には勿体ない。釣り合うようにもっともっと頑張らないといけない。
自分がもらった以上の幸せを、いつか彼に返せるようになりたい。
初めての恋が実った喜びに浸る。端的に言えば、レンフィは酩酊状態だった。
“この時間が永遠に続きますように――“
カルナ姫に借りた恋物語に、度々出てきた言葉の意味がようやく分かった。
リオルと離れたくない。どうすればもっと一緒にいられるだろう。せめて、別れている時間を短くすることはできないだろうか。
すぐに会いに行ければいいのに。
例えば、そう、隔てた距離を一瞬でゼロにすることができれば――。
「え?」
ふと異質な気配を感じ、レンフィは顔を上げる。リオルもまた、身構えた。
いつの間にか湖の上の虹は消え、白い闇が渦巻いていた。浮かれていた気分が一瞬で消えて、腹の底が冷えた。
『我が寵愛を望むのならば、試練を』
空虚な声が響く。
その瞬間、湖畔の景色は一変した。
強い力で空に引っ張られ、あっという間に二人は白い闇に呑まれた。訳が分からぬまま、レンフィはリオルの体に縋りつく。少しでも気を抜けば、引き剥がされてしまいそうだった。
「痛っ!」
レンフィは気づいた。
謎の力に引きずり込まれているのは自分だけで、リオルはそうではない。むしろこの空間に拒絶されるように、彼の体に圧力がかかっているのだ。
自分が無理矢理にくっついているせいで、リオルが苦しんでいる。このままでは体がちぎれてしまうかもしれない。そんな恐怖で腕の力が緩む。
「レンフィ! 絶対に離すな!」
「あ……」
結局レンフィは、リオルから離れることができなかった。一人で虚空に呑まれるのが怖い。離れ離れになりたくない。
冷たい風と温い風に交互に嬲られ、そのまま苦痛の塗れた一秒が連続したが、唐突に途切れた。
「…………?」
白い闇から放り出された先は、薄暗かった。
冷たい石の床に座り込み、レンフィは乱れた呼吸を必死に整える。強張っていた体が激しく震えて使い物にならない。染めていた髪がいつの間にかプラチナブロンドに戻っている。
「誰っ?」
知らない声がした。
椅子に腰かけた少女が、驚愕の表情でレンフィを見下ろしていた。机の上のランプがその表情を浮き彫りにする。
たった今まで、机に突っ伏して泣いていたかのような赤い瞳。
否、その目に宿る光は、元々赤かった。
艶やかな黒髪に同色の瞳。黒の中に宿る赤い光。浮世離れした美貌。
レンフィは愕然と、見知らぬ黒脈の姫と見つめ合った。
「く……げほっ」
リオルの呻き声で我に返る。彼はレンフィの傍らで体を曲げて、血を吐いて横たわっていた。
「リオルっ!」
レンフィは慌てて治癒の光を灯す。
リオルの体は、全身の骨にひびが入り、臓器が破れ、筋肉と血管が断裂した酷い有様だった。どこから手を付けていいのか分からない。恐慌状態になりながら、必死に霊力を注ぎ続けた。
白い光が時折虹色に揺れる。ありったけの霊力で片っ端から処置を施していく。
「これは、精霊術? きみは……聖人なの?」
戸惑う姫に返事をする余裕などなかった。
あまりにも急激に霊力を消費し続けているせいか、額から大量の汗が落ちる。どれだけ姫に話かけられても、レンフィは集中を切らさず、リオルに治癒術を使い続けた。
「レンフィ……もう、大丈夫だ」
リオルが力なく呟く。とりあえず、命に関わるような状態は脱した。レンフィもそう判断して、治癒術を止める。今度はレンフィが消耗して倒れた。リオルに抱き止められ、二人揃って見知らぬ部屋の床に寝込む。
「きみたちは、本当に何者なんだ? いい加減、説明してくれないか」
黒脈の姫が呆れたように二人を見下ろした。
「説明って言われてもな」
「えっと、ごめんなさい……あの、私たちにも状況がよく分かってなくて……」
苛立たしげに姫がため息を吐き、カーテンを乱暴に開けた。窓には鉄格子がつけられていた。
「わたしの名前はプルメリス・ブラッド・リッシュアゼル……リッシュア王国の第二王女だ」
レンフィとリオルは顔を見合わせる。
リッシュア王国。それは、三国同盟を持ちかけようとしている黒の王国のひとつ。ムドーラ王国から遠く離れた王国だった。
「このわたしに名乗らせたんだ。そちらも自己紹介をしてもらおうか」
第四章・完
幕間の投稿は未定です。
申し訳ありませんが、また書き溜めの時間をいただきます。




