55 悩めない男
リオルにとって、戦場で会う聖女レンフィは嫌な女だった。
腹が立つほど強くて、容赦なく兵を屠っていき、どれだけ煽っても距離を取って戦おうとする厄介な敵。
たまに口を開いても冷たい一言を投げつけてくるだけ。黒の王国の実情を知りもせず、白亜教の教えに従ってムドーラ王国とシダールを非難する。
精霊に愛されているというだけであれほど強いなんてずるい。年下の少女に立ち塞がられ、いつも倒しきれない。
その悔しさから、リオルは聖女を己の宿敵に定めた。
今度こそ勝つ。仲間の仇をとる。自分の方が強いと証明する。
そう思ってリオルは努力を重ねてきた。
しかしレンフィは記憶を失い、ムドーラ王国に囚われた。もう再戦の機会はない。
空っぽのレンフィを見ていたら、すぐに勝負の決着はどうでも良くなった。
記憶喪失のレンフィは同一人物とは思えないほど、か弱くて心優しい少女だ。どうして憎まれているのかも分からないのに、償おうと一生懸命働く。泣いて、傷ついて、死にそうになっているのを目の当たりにしていたら、いつの間にか守ってやらなきゃいけない存在にすり替わっていた。
戦場の聖女とは別人だ。今のレンフィとなら仲良くなれる。禍根の全てを忘れることはできないが、今の彼女が過去の負債を肩代わりするのはおかしいと思う。自分だけは味方をする。絶対に死なせてはならない。この王国で一緒に暮らす仲間になってほしい。
やがて、リオルの中のレンフィに対する感情は大きくなっていった。
自分に心を開いてくれているのを知って、他の誰かに奪われたくないと思うようになり、一番に頼ってほしいと感じるようになった。彼女を幸せにしたいし、彼女の笑顔を見れば自分も幸せな気分になる。保護対象として可愛がっていたつもりだが、いつの間にか見惚れるようになっていた。
最初は見目麗しい彼女に懐かれたからだと思っていたが、何度か離れ離れになってようやく理解した。彼女の一番であり続けたい。
端的に言えば、リオルはレンフィを好きになってしまっていた。
そしてそれは一方通行の感情ではないという確信もある。
シダールの妃になるという話は立ち消え、レンフィがリオルの仕事を気にしないというのなら、もう何も障害はない。
早く想いを告げてしまいたかった。正直に言って、他の男にちょっかいを出されるのはもうこりごりだった。「無事に魔物討伐が終わったら」と心に決めていたのに、案の定無事には終わらなかった。レンフィの人生は波乱に満ち過ぎている。
オンガ村のことを皮切りに、時の聖人ウツロギから話を聞いて、リオルは単純に腹を立てた。
白亜教国の所業は惨すぎる。“レンフィ”が可哀想だ。
だけど、ちょうどいい。
彼女の故郷ということで少しは罪悪感があったが、これで心置きなく教国と戦える。滅ぼして、彼女の辛い過去ごとこの手で消してしまおう。“レンフィ”が味わった苦痛を返し、無念を晴らしてやらなければ――。
「リオルがやる気になっているのは助かるが、おそらく彼女は喜ばない」
やたらと張り切って軍議に臨んでいたリオルに対し、アザミが休憩時間に苦言を呈した。
「過去の自分の敵討ちなど、望まないはずだ。だから、『彼女のために』という考えは捨てろ。今まで通り、国と仲間のために戦った方が良い」
「…………」
アザミの言う通りだと、すんなりと受け入れられた。
今のレンフィは、戦争の規模が大きくなることを望まない。皆の危険が増すのに、喜んで送り出してくれるはずがない。むしろ悲しむのではないだろうか。
アザミは自分よりもよほど今のレンフィを理解している。あれだけ憎んでいたくせに、と思う反面、素直に反省した。
「そうっすね。その通りだ。でも俺は……今のレンフィのためにも頑張ります。早く戦争を終わらせれば、安心してくれるだろうから」
リオルは心の動揺を瞬時に鎮めて、からりと笑った。アザミもまた笑みを漏らした。
「それは彼女のためというよりも、お前が心置きなく一緒にいたいだけだろう?」
「はは、バレてましたか」
「あれだけ遺跡で見せついておいて、何を言っている。陛下の御前だというのに……」
アザミはため息を吐いた後、神妙な表情で躊躇いがちに言った。
「その……私が言うのはおこがましいというか、おかしな話なんだが……」
「はい?」
「彼女を、幸せにしてやってくれ」
リオルは面食らって言葉を失くした。アザミが低い声で命じる。
「今心の中で思っていることを正直に言え」
「レンフィって、やっぱりすごいな……人の心まで浄化できるんだ……」
「…………」
「そんな睨まないでくれよ、アザミさん。分かりました。レンフィのことは任せてください」
まだ付き合ってねぇけど、と付け加えたら、今度はアザミが驚いて固まった。
しかし、困ったことに気づいてしまった。
自分は今のレンフィを好きになった。かつて戦場で戦った聖女ではない。別人だと割り切っていたはずだ。にもかかわらず、今はもう切り離して考えられていないのだ。
リオルはすっかり混乱し、自分の言動を思い返して頭を抱えた。
かつてのレンフィは、物語の聖女のように自己犠牲の塊だった。
白亜教の教えなど関係なかった。家族を人質に取られ、酷い環境で育てられ、人殺しを強要されていたのだ。全然嫌な女ではなかった。
自分の目が節穴でなければ、レンフィは悲劇の聖女になることはなかったかもしれない。
冬山で遭難した時、ゆっくり話す機会があった。あの時の彼女の様子を思い出すと、たちまち悔恨の念に支配された。
気づいてやれたら良かった。もっと優しくしてやれば良かった。
『本当、教国って一体どうなってるんだよ。兵の命を使い潰すような作戦ばっかり。お前、そんな国のために戦って、楽しいのかよ』
酷い暴言を投げつけてしまった。
『何も知らないくせに勝手なこと言わないで!』
怒鳴られるのも無理もない。
例えばあの場でレンフィの事情を吐かせ、協力できていたら、既に白亜教国は地図から消えていたかもしれない。
しかしそれが実現していれば、素直で健気な真っ新なレンフィには会えなかった。今のレンフィは残酷な犠牲の末に生まれた存在なのだ。
もしものことを考えても仕方がないのは分かっているが、酷いジレンマである。
記憶を失っていなくても、一緒に過ごせば彼女のことを好きになっていただろうか。見た目と魂は同じなのだ。好きになっていたかもしれない。
……いや、無理だ。お互い様であり、仕方のないことはいえ、彼女は仲間を殺している。記憶喪失という免罪符がなければ、受け入れることはできなかっただろう。
考えれば考えるほど、モヤモヤは大きくなる。
ウツロギは言った。リオルと一騎打ちになることが増え、レンフィは安堵していた、と。
もしかして、手加減されていたのではないか。リオルを生かしておけば、殺す兵の数が減るからだ。
思い返せば、彼女は光の精霊術を攻撃には使わなかった。制御が難しくて封印していたのではなく、あっけなく勝負がつくことを避けたのではないか。
互角の争いができていると思っていたのは、自分だけだったのかもしれない。
だとしたら、ものすごく恥ずかしい。もう宿敵とは呼べない。
悔しい。舐めやがって。
ふつふつとした怒りを覚えながらも、相手がレンフィだということを思い出すと、途端に冷や汗が出た。
最終的にリオルは落ち込んだ。
分かっている。記憶を失う前のレンフィとは、どうあっても分かり合えなかった。違う国に所属し、敵対関係にあったのだから。個人がどんな事情を抱えていようが、戦争には関係ない。
「どうすっかな……マジで」
レンフィのことを好きな気持ちは変わらない。むしろより愛しくなった。残酷な事実ばかりを突き付けられ、頼りなげな表情をしている彼女を見ていると、何とかしてやりたいと強く思う。
同時に、過去の聖女と重ねて見てしまい、とても悪いことをしている気分になるのだ。
愛情と憤りと憐れみ。
後悔と苛立ちと自己嫌悪。
そんな感情が忙しなく自分の中で蠢いて、リオルはすっかり疲れてしまった。
一晩寝て目覚めてもレンフィのことで頭がいっぱいで、集中力を欠く始末。
三国同盟が成るかはまだ分からないため、ひとまず例年通り国境戦を行うように、とシダールからは既に指示が出ている。開戦が近いというのに、女のことばかり考えているのは良くない。それは分かっているのだが、別れが近づいている分、余計に今のうちに答えを出さなければと焦るのだ。
見かねたブライダが言った。
「一日休暇を作ってやるから、息抜きがてら心配事を片付けてこい」
「え、いいよ。今の時期に俺が抜けるわけには――」
「問題ない。後は元帥とアザミ殿と相談して行軍予定を決めるだけだ」
問題ないのか、と少し落ち込むリオルにブライダは宣言した。
「お前が休まないと、下の者も休暇を取れない。私は先日妻と出かけてきたぞ」
「…………」
それを言われると弱い。
開戦が近づいている今、順番に休暇を取って最後の日常を楽しむのが軍の慣習だった。里帰りする者、家族や恋人と過ごす者、友と酒を浴びるように飲む者、それぞれだ。
もう二度と帰って来られない可能性もある。後悔を残さないように、と日頃は自分が部下たちに休みを取らせている。
「分かった。ありがとうな」
リオルはブライダに感謝しつつ、決意した。
悩むのは一日で十分だ。
レンフィに会って今の気持ちを確認し、それをそのまま伝えよう。
思考の切り替えはお手の物であった。
リオルはレンフィと予定を合わせるべく、城の中を探した。
そして、訓練場で水の繭に籠るレンフィを見つけた。
戦場で幾度となく見た彼女の水の精霊術。多少精度は落ちているが、同じ気配を感じて心がざわついた。無意識に剣を手に取ろうとして、我に返る。
「…………」
彼女が水の寵愛を得たことは知っていたが、まだ見せてもらえていなかった。自分よりも先に部下たちが挑戦しているのを見て、また少し腹が立った。しかも勝者にはご褒美付きと聞けば、黙ってはいられない。
異様な熱気の中、リオルはレンフィの救出に向かった。
繭を破ると、それはそれは嬉しそうにレンフィが自分を見上げてきた。
その瞬間、背筋がぞくりとした。
居てもたってもいられず、勢いのままデートに誘うと、彼女は顔を真っ赤にして頷いた。
どこに行こう。まずはシダールの許可を取らなければ。今まで通り変装すれば許してくれるだろう。
思い返せば、レンフィと最初から二人きりで出かけるのは初めてだ。
今ばかりは戦争のことを忘れてのびのびと過ごしたい。きっとレンフィもいろいろと考えて疲れているだろう。
少しでも良い思い出を作ってやりたい。しばらく離れ離れになってしまうのだから。
自分でも呆れるほど浮かれながらデートのプランを練る。こういうのは面倒だと思っていたのに、彼女の笑顔を見るためなら苦ではない。むしろ楽しい。
そうしてリオルは大切なことに気づかぬまま、デート当日を迎えた。




