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覚えてなくて、ごめんなさい〜囚われ聖女の第二の人生〜  作者: 緑名紺
第四章 聖女と愛しの宿敵

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52 呪われた祈り


※鬱な内容です。苦手な方はご注意ください。

 

 大聖堂の閉ざされた通路の奥に、その部屋はあった。

 窓には板が張られ、陽の光が遮断されている。換気も行われていないため、空気は淀み、独特の匂いが充満していた。

 呼吸するのも嫌気が差す。そんな部屋に踏み入りながら、シンジュラは優雅に微笑んだ。


「父上、お加減はいかがですか?」

「あ、ああ……シンジュラ。来てくれたのか」


 中央のベッドで横たわり、干からびた声を上げる男性。

 マイス白亜教国の現教主であり、土と金の精霊の寵愛を受ける聖人リンデンである。


 リンデンはにこやかに息子に微笑みかけた。

 その目に光は宿っておらず、栗色の髪からは色素が抜けて半分以上が白髪になっていた。痩せた手足は女性のように細く、肌はところどころひび割れてボロボロ。歯もいくつか抜け落ちており、体からは死臭が漂い始めていた。


 とても四十半ばの男性とは思えない有様であった。大陸一の国の君主の成れの果てを、シンジュラは冷めた目で見下ろす。


「調子はいい。今日は随分と体が軽い気がしている……お前が調合してくれた薬のおかげだ」

「それは良かった。父上の役に立てて、僕も嬉しく思います」

「もう少し休んだら、執務に戻らねば」

「無理をなさいませんよう。枢機卿たちが懸命に代理を務めておりますので、たまにはゆっくりお休みください」

「おお、そうだな……奴らに経験を積ませてやるのも務めか。しかし好き勝手をさせぬよう、お前がしっかり目を光らせてくれ」

「はい」


 かれこれ二年以上、同じやりとりを繰り返していた。

 もはやリンデンは今日がいつなのかも分かっていない。最後にこの部屋から出たのは三か月も前だ。


「しかし、レンフィはまだ戦場から戻らぬか。あの娘がいれば、このような病も瞬く間に癒えただろうに……他の医療官も使えぬが、あの娘の愚鈍さにも腹が立つ」


 リンデンの手が震え出した。それが怒りによるものなのか、薬が切れたせいなのかは分からない。

 しかし、あれだけ張り切って儀式を仕切っていたというのに、それすら忘れてしまうとはだいぶ脳に障害が出ているようだ。

 もう長くはないな、と冷静に考えながら、シンジュラは話を合わせた。


「苦戦しているようですね。ムドーラは最近強くなりましたから」

「……また、鍛え直してやらねばな」

「ほどほどにしてあげてください」


 リンデンは目を細める。


「お前は優しい子だな。生贄の娘を案じて」

「彼女はあまりにも可哀想でしたから」

「可哀想? いずれは辛い記憶を全て失くし、お前の妻となり、次代の統一王を産むのだ。これ以上の幸せがあるか? 後で救われるのだから、今が不憫でも関係なかろう」


 シンジュラは内心で自嘲した。

 散々自分を痛めつけ、全てを奪った男の息子の妻になる。それに喜びを感じられるほど、レンフィは壊れ切っていなかった。シンジュラ自身もレンフィに一切の情けをかけず、物のように扱ってきたので当然だろう。

 例の儀式の前、シンジュラは記憶を失くした後にどうなるかレンフィに教えてやった。


『今度は、優しく可愛がってやろうか。お前が僕を愛するように』


 あれほど拒絶が色濃く表れた表情は初めて見た。失礼な態度ではあったが、許してやることにした。レンフィをさらに絶望させるために告げたのだ。実際、死ぬほど嫌だろうということは理解できる。

 結果的に彼女は教国から逃げて死に、妻になることはなかった。


 記憶を喪失したレンフィに優しく接したらどうなるか、少し試してみたかった。

 無垢な子どものように自分に懐くだろうか。散々嫌な思いをさせられた相手だと知らずに、恋愛感情を抱かれたら、とても愉快なことになっただろう。

 彼女は文句なく美しかった。一時でも無聊を慰められたかもしれない。

 だからレンフィが死んだと分かった時は、少しだけ惜しかった。


「くっ……げほ!」


 それからリンデンは乾いた咳をし始め、胸を押さえて苦しみ出した。シンジュラは汚らわしいものに触れるのを我慢し、薬の世話をしてやった。

 すぐに症状は落ち着き、リンデンは恍惚とした表情で宙に手を伸ばした。現実と幻覚の狭間にある何かを掴もうとしている。


「楽しみだ……完成した美しい世界を、我が最愛の子が治める。この私が栄光の血筋の祖となるのだ……ああ、なんと誇らしい。誰も達成できなかった。私だけが、成し遂げられた……ふはははっ!」


 相変わらず、よく効く薬だ。

 ムドーラ王国の前王が生み出したという、悪魔の薬草・ベラペヨーテ。

 四年前、オトギリがこれを手に入れてきた時、比較的まともで勘の良かった幹部たち――シンジュラにとって邪魔だった聖人たちに、薬草をプレゼントして愛用してもらった。彼らの大半はもうこの世にいない。

 とても良い実験ができて、シンジュラは満足だった。


 その結果を改悪して父に投与した結果、いとも容易く壊すことができた。もう随分前から、リンデンはシンジュラの意のままに動いている。

 教主がこの有様だ。もう教国は自分の手に落ちたも同然。他の幹部は保身しか考えていない無能な屑ばかりだ。相手にならない。


「父上、もしかしたらこれが最期かもしれません。どうか、誰よりも惨めに死んでください。あなたの野望は僕が叶えて、踏みにじっておきますから」


 リンデンは虚空に向かって微笑みかけた。


「そうか、そうか……任せたぞ。お前は自慢の息子だ!」


 一体誰と会話しているのか。思わず舌打ちが出た。今すぐ首をへし折ってやろうかと思ったが、なんとか堪える。一息で楽にしてやるのは勿体ない。


「戻ります。さよなら、父上」


 シンジュラは薄暗い笑みを浮かべて、退室を告げた。

 ただ苦しませて殺すのではなく、最後に良い夢を見せてやるのだから、やはり自分は優しいのかもしれない。これは最初で最後の親孝行となるだろう。


 リンデンは天井に向かって笑い続けている。背筋が凍るような光景だった。シンジュラは背を向けて、扉を閉める。父の呟きが漏れ聞こえてきた。


「ああ……待っていておくれ……世界の完成を目にした後、必ず私もお前の元へ行く……愛しいダリア、私の最愛の……」


 それは、シンジュラの母の名前ではなかった。







 シンジュラの母――ルークベルの黒脈の姫・エンジュは言った。


『可愛いシンジュラ……どうか全てを壊して。この世界は汚らわしい』 


 二十年前、エンジュは教国に囚われ、ルークベルに対する脅迫に使われた。

 送られてくる愛娘の指にルークベルの王はひどく動揺し、まともに応戦することができなかったと聞いた。


 そのままエンジュは親兄弟を皆殺しにされ、故郷を教国に奪われた。その略奪者たるリンデンの子を産まされたのだ。その絶望は想像に難くない。


 表向きは教国に従順でリンデンの野望に理解のある女を演じながら、裏では幼い我が子に世界への憎悪を吹き込んでいった。それだけではない。復讐させるために、魔法大国の知識と技術をシンジュラに熱心に継承した。凄まじい執念だ。

 美しい人だったことは覚えている。しかし、エンジュに対して良い記憶は一つもない。指が半分しかない手で頭を撫でられ、殺せ殺せと囁かれ、どうして母を慕えるだろう。

 結局、エンジュは精神を病み、手首を切り落として死んだ。


 シンジュラはずっと考えてきた。

 自分は何のために生きているのだろう。

 父にとっては世界を支配するための、母にとっては世界に復讐するための、都合の良い道具でしかなかった。

 自慢だ、可愛い、などの言葉をそのまま受け取って満足するほど、シンジュラは愚かではなかった。両親からは一片の愛情も感じられなかった。


 この身には、比類なき魔力が宿っている。

 なんだってできる。人々を良き未来へ導くことも、世界を壊すことだって可能だ。


 きっと、愛されて育っていれば、前者を選んだだろう。

 しかし実際はどうだ。

 シンジュラは愛を知らない。自分がちっとも幸せではないのに、誰かを幸せにすることなど考えられない。

 それはあの〝空理の聖人”オークィにも指摘されたことだ。





 約三か月前。

 レンフィの記憶は黒の神に捧げられた。これは教国上層部の中でも、ごくごく一部の者しか知らない禁忌。百年に一度行われてきた、黒の神へ毒餌を捧げる儀式だった。


 儀式の後、まさかオークィが魔法を込めた装飾の腕輪を壊し、レンフィを逃がすとは思わなかった。

 あれは忌々しかった。事情を知らない聖人たちに気取られ、満足に隠蔽ができず、随分と処理に苦労した。


 しかし、さすが空の精霊の寵愛を受けるだけはある、とシンジュラはあの激闘を思い出す。

 レンフィを空間転移させて逃がした後も、オークィは血を吐きながら精霊術で応戦してきた。もしも万全の状態であったのなら、腕の一本くらいは捩じ切られていたかもしれない。


『なぜここまでして、レンフィを逃がした? 記憶はもう奪った。儀式の妨害をしたかったのだとしたら、無駄死にだな』


 シンジュラは魔法と剣でオークィの体を引き裂いた後、息絶える前に尋ねた。


『愛を知らない坊やには、分からんだろうな……』


 あの時の、オークィの瞳。

 他の老人たちと同じく腐敗した愚者だと見下していたのに、その瞳は冴え冴えとした光を宿していた。


『あの子は、器量がいいし、才能もある。おまけに若い。いくらだってやり直して幸せになれる……辛い記憶なんて、くれてやる。あの子の人生は、これからなんだ……貴様のような男には勿体ない。もっと良い男に愛されて、幸せになるべきだ……そうだ、何度でも、愛を知る機会はある。幸せになれ、レンフィ……絶対に捕まるな……』


 その瞳から光が失われていく。

 シンジュラはオークィに勝った。しかしとても勝ち誇れない。納得ができず、再度問う。


『なぜ』

『……孫娘の幸せを祈らないジジイが、どこにいる。馬鹿が』


 それきりオークィは物言わぬ骸になった。

 シンジュラはかつてない屈辱を受けた。誰かにここまでコケにされたのは初めてだった。


 何が愛だ。オークィのしたことは、ただの自己満足で何の意味もない。

 レンフィはもう間もなく全ての記憶を失くす。どこに逃がしたのかは知らないが、あれほど目立つ少女が不自然に現れれば、すぐに噂になって教国の捜索網に引っかかる。万が一敵国の手に落ちて隠されたとしても、まともな扱いは受けないだろう。


 記憶喪失の少女が、教国の手を逃れていつまでも生き延びられるものか。また誰かに利用されて、苦しめられるのがオチだ。

 実際はどうだったかは分からないが、事実レンフィは死んだ。やはりオークィの行いは無意味だったのだ。


 後で調べたところ、本当にレンフィはオークィの孫だった。

 何十年も昔、オークィがまだまともな聖人だった頃、町娘と恋仲になり、結婚の約束までしていたそうだ。しかし女は親を首都に呼び寄せるために一度離れ、それきりオークィの元には戻ってこなかった。

 オークィが堕落し始めたのはそれからだ。色恋で身を持ち崩す典型だった。


 晩年になり、オークィは大聖堂で見かけたレンフィに、かつての恋人の面影を見つけたのだろう。彼女の親も祖母も既に他界していたが、関係者から話を聞けたらしく、昔の恋人が密かに自分の子を出産していたことを突き止めた。


 しかし全てが判明した頃にはもう、レンフィは儀式の生贄になる直前だった。彼女がリンデンから受けていた虐待について知り、オークィはどれほど憤ったのだろう。

 オークィは最後の最後、孫娘のために命を尽くして戦ったのだ。


 そのことを知って、シンジュラは動揺した。


 レンフィは、自分から見ても可哀想だった。死んだ方が遥かに幸せだろう日々を送っていたのだ。

 この女よりはマシだ、と見下せる存在はシンジュラにとって大層ありがたかった。彼女の絶望に染まった瞳は、自分の心を癒してくれた。


 実際は、そうではなかった。彼女は家族に愛されていた。死を厭わないほどの無償の愛を与えられた。


 裏切られた気分だった。

 レンフィだけは、自分よりも不幸であってほしかった。愛とは無縁であってほしかった。彼女に羨望や嫉妬の心を抱いてしまい、惨めな気分を味わったものだ。


 しかし、死んでしまったのなら、もういい。彼女が可哀想で不幸なことには違いない。自分にはやるべきことがある。いつまでも死者に拘っていられない。


 そう思い、シンジュラは忘れようとしていた。

 ところが運命はそれを許さなかった。


「ムドーラの城下町に立ち寄った商人から、興味深い話を聞いたぞ」


 ある日、オトギリがシンジュラの執務室に報告に来た。


「王城に聖女がいるんだと。シダール王の妃になるかもしれないとかで、城の侍女が恋人に愚痴を漏らしている場面を見たらしい」

「……それはいつの話だ」

「そんな怖い顔するなよ。二か月近く前の話だ。もしそれがレンフィだったとしても、結局シダール王の不興を買って殺されたってところだろう」


 どこに逃がしたのかと思いきや、よりにもよってムドーラ王国。

 レンフィが最も憎しみを買っている国だ。死は避けられないだろう。妃云々の話は気になるが、魔法はレンフィの死を示した。何の心配もない。


「そうだな……」


 ふと、何かが引っかかった。

 あの魔法は対象者の生命エネルギーを糧として、心拍を観測していた。レンフィの心臓が止まり、こちらに死が伝わった瞬間、魔法構築は壊れて二度と起動しない。


「……念のため、確認すべきだな。レンフィが本当に死んだかどうか調べろ」


 たとえ心臓が止まったとしても、その後の処置が適切ならば蘇生する可能性はある。城ならば国一番の医療官が務めているだろう。

 万が一、ということはあり得る。


「は? 本気か?」

「ああ。記憶を失っているとしても、レンフィがムドーラの手にあるのは不安だ。水の精霊はともかく、光の精霊の寵愛は確約されている。丸め込んで戦争に利用されたらどうする。シダール王ならやりかねない」


 オトギリはレンフィの精霊術の威力を思い出し、渋々頷いた。


「分かったよ。ただ、オレはリッシュア戦の準備もしなきゃならん。どちらを優先する?」

「無論、リッシュアだが……では、マリーをムドーラに向かわせろ。たまには役に立ってもらわねば。レンフィの死を確認するか、本人を連れ帰るまで戻るなと伝えろ」


 マリーは勘が良く強かな少女だった。諜報は得意な部類だろう。

 レンフィの妹の一人として自分が処分対象になっていると知るや否や、あの手この手を使って儀式を知る老人たちに媚びを売った。その甲斐あって生き延び、シンジュラの直属の部下にまでなった。


「いいのか? かなり危険だぞ。殺されるかもしれない」

「別に構わない。僕は品のない女は嫌いだ。遠ざける口実になる」


 色香で老人を手玉にとれたことで調子に乗っているのか、マリーはシンジュラにまで色目を使ってくる。鬱陶しくて仕方がなかった。

 あの甘ったるい声を聞くだけで、頭が痛くなる。


 オトギリは下卑た笑いを浮かべた。


「可哀想に。まぁ、本人には『シンジュラ様に期待されている』と伝えておく。良い結果を持って帰ってきたら、少しは可愛がってやれよ」

「断る。お前が相手をしておけ」

「はは、気が向いたらな」


 手駒の中では使える部類だが、シンジュラはオトギリのことも嫌っていた。軽薄な態度にも、女子どもを好んで嬲り殺す残虐性にも反吐が出る。理解不能だ。


 オトギリが去ると、シンジュラはゆっくりと息を吐いた。


 レンフィが生きている可能性を、どうして今まで考えなかったのか。彼女の不幸を願うあまり、無意識に「死んだ」で終わらせようとしていたのかもしれない。判断が鈍った。


「まぁ、良い。……たとえ生きていたとしても、同じことだ」


 悲劇の聖女は救われないし、何も救えない。


「神よ……早く一つに戻り、世界を灰色に染めてくれ」


 白も黒もうんざりだ。どちらの神も信仰できない。

 シンジュラは宙を見て、薄く微笑む。そこにいるはずもないものに向かって、両手の指を絡めて祈った。




ストックしていた分を書き直すことにしたため、更新が不定期になります。

ご容赦ください。

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