46 執念の炎
全員が息を呑んだ。
『な……我々を見逃すというのか……?』
顔の筋肉を一つも動かさず、“レンフィ”はただ俯いた。
『自分より小さな子を殺したくない……早く』
ネモは戸惑ったが、霧の外で聞こえる村人たちの悲鳴に急かされて決断したようだった。“レンフィ”が動かないことを見て取ると、両親と妻、娘夫婦と孫二人を川の方角へ向かわせた。しかし自分はその場に残り、なおも“レンフィ”に短剣を向ける。
『……あなたは?』
『この村の責任者として、逃げるわけにはいかん。家族を見逃してくれたことは感謝するが……無抵抗で殺されるわけにもいかない。戦ってもらおうか』
“レンフィ”は首を傾げた。
『どうして? 生きたくはないの? あなたでは私に勝てない』
『言ってくれる。事実だがな。どうせ長くは生きられん。ここで逃げて、生き恥を晒すわけには……』
『なぜ? 軍人の誇りのため?』
そんなものよりも家族を守ればいいのに。純粋な“レンフィ”の問いに、ネモは力なく笑った。
『息子が王都で軍人をしているんだ。私が教国兵の侵略から逃げ出せば、きっと責任が及ぶ。間違いなく将来に影響するだろう。あいつの足を引っ張りたくない。たとえここで死んでも……アザミの未来は守る』
自慢の息子なんだ、恥ずかしい姿は見せられない。そう呟く声は震えていた。
「父さん……そんなことのために……っ」
隣に立つアザミもふらつき、レンフィの側に蹲った。
レンフィもアザミも、過去の情景を前に何もできない無力感をこれでもかと味わう。
『そう、なの……私も、同じ……』
無表情の“レンフィ”の瞳から、一粒の涙がこぼれた。
『私が戦わないと、妹たちが……処分されちゃう』
彼女の涙とその言葉は、容易にとある想像を加速させた。
この教国兵の少女は、人質を盾に虐殺に加担させられている。ネモは憤慨した。
『子ども相手に惨いことを……教国は何を考えている!』
『仕方がないの……私は、選ばれてしまった……ここで死ねない……』
“レンフィ”は涙を拭って、水の刃を形成した。
戦う構えを見せながらも、二人とも動かなかった。殺したくない。お互いの心が透けて見えて、自分から先に攻撃することができない。
『どうした、戦う気がないのか?』
『どうすればいいのか分からない。教えて……どうしてあなたは、危ない薬草を育てているの? 悪いことなのに……これも息子さんのため? 国王に命令されたから?』
“レンフィ”の問いに、ネモはそっと目を伏せて呟いた。
『あの薬草は……ベラペヨーテは、確かに危険だ。幻覚による多幸感に依存してしまえば、普通の生活には戻れない。あれなしでは生きられなくなる。貴族に蔓延して、国を蝕んでいるのはもちろん知っているが……』
ネモはそっと脇腹をさする。
『この国は、豊かな白亜教国とは違うんだ。金のない貧民相手に治癒魔法を施す魔法士はいない。怪我と病に苦しみ続けるしかないのだ。しかしベラペヨーテを適量使えば、痛みから解放される。治療の助けになる。私は自分の体で研究を続けてきた……黒脈の王がもたらしたものを悪用させ続けないために。それが私に許された、王家に対する最後の奉仕なのだ』
そう語るネモの瞳に濁りはない。
馬鹿な使い方をする貴族など滅びてしまえばいいと言わんばかりだった。
実際、ベラペヨーテの存在は、後にシダールが貴族を粛清する際の試験紙になった。中毒に陥っていた者は容赦なく王国から切り捨てられたのだ。
「…………」
思いもよらぬ返答だったのか、“レンフィ”は戸惑っていた。
オンガ村は、麻薬をバラまく悪しき村。しかし少なくともネモは、医療に活用するためにベラペヨーテを栽培している。
完全な悪に対してなら残酷になれても、灰色の存在を一方的に虐殺するのは躊躇われる。どちらが悪か分からない。
迷いを滲ませ、ただただ“レンフィ”は立ち尽くしていた。
しかし。
『はは、そんなことだろうと思った。霧に隠れて、獲物と仲良くお喋りか? レンフィ』
白い霧を風で吹き飛ばしながら、オトギリが歩いてきた。その手に持っていた物を無造作に地面に投げる。
赤い筋をつけながら三つのそれが、ごろりと音を立てて転がった。
『イチかバチか、川に飛び込もうって発想は嫌いじゃない。褒美に遊んでやった。お前の家族か?』
『あ、ああ……っ! ミモア、レダ、ラギク!?』
先ほどとは全く人相の異なるそれを見て、ネモが絶叫する。アザミの口からも悲痛な声が零れた。
『貴様っ! 貴様が……!』
『ああ、オレが殺した。全員向こうで死んでる。戦場じゃなかなか遊ぶ暇がなくてな。この機会に風の精霊術をいろいろ試させてもらった。切り刻んだり、窒息させたり、捩じ切ったり……みんな苦しそうだった。ずっと泣き叫んでたよ。大切な家族の声が、聞こえなかったのかい?』
オトギリは快活な声を上げて笑った。
レンフィもアザミも、“レンフィ”も愕然としていた。
狂っている。理解できない。なんの罪もない村人たちを惨殺し、どうしてそんな風に笑えるのか。
『殺してやる……!』
ネモが短剣に炎の魔法を付与し、斬りかかった。それをオトギリが一閃で退ける。血飛沫が派手に飛び散った。
「がっ……」
地面に這いつくばりながら、ネモはなおオトギリに殺意を向ける。
『こ……殺す……必ず、お前だけは……ごほっ!』
傷は肺にまで達し、太い動脈も切断されており、失血死は時間の問題であった。
“レンフィ”は震えながら、死にゆくネモを見つめている。
『お前が悪いんだぞ、レンフィ。すぐに殺してやれば、この男もその家族も苦しまずに死ぬことができた。オレに手を出させるからこうなる』
『…………わ、私のせい……』
『そうだ。今も、何をぼうっとしている。早くとどめを刺してやれよ。はは、こんなみっともない姿でのたうち回って……可哀想だろう?』
ネモの動きがだんだん小さくなっていく。それでも短剣には火が灯り続けていた。
家族の仇を決して許さないという、強い意志。
『わ、私……』
深い後悔を顔に滲ませ“レンフィ”はネモの側にしゃがみ、その傷に癒しの光を灯した。痛みを取り除きながら、そっと首に水を纏わせた手を添える。
『ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……っ』
一息で殺さないと、苦しめることになる。“レンフィ”はなかなか思い切れないようだった。
『早く済ませろ。簡単なことだろう。あの御方を失望させるような真似は許さないぞ』
後ろでオトギリが急かす。
『……もう、いい。きみが、手を汚す必要はない。その男にも……殺されてやるものか!』
泣き続ける少女を見上げ、ネモはその体を突き飛ばして立ち上がる。
そして、あ、と息を呑む間に短剣を自らの胸に刺した。それを抜き去り、大量の血が噴き出すと同時に、魔法で体に着火した。
苦しげにふらつき、四肢を炭に変えながらも、ネモの眼光はずっとオトギリを睨みつけていた。
『覚えて、おけ……息子が、ムドラグナの王が、必ずお前に、教国に報いを……与えるだろう……滅びて、詫びろっ!』
命尽きる瞬間、一際大きな炎が上がる。
ネモの血と魔力が浸透し、土が黒く黒くどこまでも変色し、燃え上がる。
『は、怖い怖い。これだから“黒”の奴らは……』
オトギリは炎を風でいなしながら、座り込む“レンフィ”の背を蹴飛ばした。
『一人も殺せなかったな。邪教徒狩りの時は使えると思ったのに』
『だって……この人たちは……悪くない……』
『関係ない。これは命令違反だ。帰ったら罰を与える』
『……はい』
『行くぞ。浄化作業では役立ってもらう』
『……分かりました』
オトギリと“レンフィ”は水のベールで身を守り、足早に去っていった。
アザミとレンフィは呆然と座り込み、猛々しい炎を見つめる。
黒い炎が村を飲み込んでいく。もうこれ以上誰にも傷つけさせない、誰にも奪わせないという強い執念が教国兵を追い払う。
しばらくして、晴れた空から雨が降り注いだ。
雨粒に宿った白い光が時折七色に輝く。“レンフィ”の水の精霊術による浄化だろう。
炎は消えた。怨念の気配もない。
焼け落ちた家の残骸、もう性別も年齢も分からない炭の塊、そして、銀色の刃。
それ以外には何も残っていなかった。
青と緑の美しい湿原が周囲に形成される。清々しい透明な世界の中、ただ一つ溶け込まない黒い焦土に、寂寥感が漂っていた。
「悲しいね……」
ウツロギの言葉とともに、蝋燭の火が吹き消されるように、過去の幻がかき消えた。
昼を少し過ぎた頃、救難を求める魔法の鳥が捜索隊の元に舞い降りた。
送り主と方角を確認すると同時にリオルは駆け出す。
魔力で身体強化を行えば、雪の上だろうとそりよりも早く走れる。気が気ではなかった。後先のことをまるで考えず、仲間たちを置き去りにして、全力で二人の元に向かう。
魔力の残量の関係か、アザミからのメッセージは短かった。
旧オンガ、という一言だけ。
よりにもよって、なんて数奇な巡り合わせだろう。アザミには悪いが、不吉と言い替えてもいい。
アザミの無事は分かった。しかしレンフィの所在についての情報がない。
二人一緒なのか、はぐれているのか。それとももしかして。
アザミのことを信頼しているとはいえ、非常時の精神状態では魔が差すこともあろう。リオルは不安をかき消したくて必死で、雪原を走り抜けた。
「……アザミさん!」
やがて、凍てついた湿原に辿り着く。
島のように浮かぶ黒土の上で、その姿を見つけた。
アザミは座り込み、レンフィは横たわっている。心臓が凍りつくような光景に、転がるように駆けつけた。
「リオルか? ……こちらに来てくれていたのか。助かった」
アザミの目は泣き腫らしたように赤く充血し、土色の顔色をしていた。たった数日で人はこんなにやつれるものだろうか。
何かが起こったのは明らかだった。
「レンフィ、迎えが来たぞ」
アザミが寝込むレンフィの肩を揺すった。その労わるような手つきをみて、リオルは虚を衝かれる。よく見ればアザミはコートを着ておらず、レンフィに被せていた。
「リオル……っ」
レンフィは目が合うと同時に静かに泣き出した。今にも消えてしまいそうな儚さを覚え、リオルは求められるまま抱きかかえる。
冷え切った体が、震える手が、精一杯の力でリオルにしがみついていた。堪らない気持ちになり、熱を分けてやるつもりで思いきり抱き締めた。
不安でいっぱいだったのだろう。リオルは務めて明るい声を出し、安心させるように小さな背を叩く。
「もう大丈夫だ、レンフィ。よく頑張ったな。みんなも全員無事だ。一緒に城に帰ろう」
嗚咽を漏らすばかりで、レンフィは何一つ言葉を口にせず、やがて気を失うように眠った。濡れた顔を、リオルはハンカチで拭ってやった。
「……何があったんですか」
黙ってその様子を見ていたアザミに、恐る恐る問いかける。
雰囲気で分かるが、アザミにはもうレンフィに対する憎悪がない。それどころか気遣う様子さえ見受けられる。二人が遭難してから一日と少し。一体どのような奇跡が起これば、こうも劇的に関係が変わるのか。
「求めていた答えが分かった。思った以上に残酷で下劣極まりなく……しかし一方で、私にとっては救いのあるものだった……」
しかし、とアザミはレンフィに視線を送る。
「彼女にとっては全てが酷なものだった……悪いことをした。私の都合で、忘れていた方が幸せだった事実を知る羽目になった。ウィロモ村と同じだ。いや、それ以上に酷いかもしれない」
「アザミさん、それって――」
詳しく尋ねようとしたリオルの視界に、銀の髪がちらついた。
「やぁ、きみはリオル・グラントだね。こんにちは」
「誰だっ?」
これほど近づくまで気配がなかった。レンフィを庇いつつ、咄嗟に腰の剣に手を伸ばす。
敵意も悪意も感じない柔らかな笑顔が返って来た。
声を聞かなければ女と見間違うような整った容貌。魔力とは性質の異なる透き通った力の胎動。
どこの誰かは知らないが、彼が聖人であることをリオルは確信した。それも、かなりの力を持つ者だ。
「ボクはウツロギ」
「……………っ時の聖人!?」
「そう。きみ、すごいね。本来無色の人間なのに、あまりにも恵まれすぎている。これも時の巡り合わせ、現王の力が成せる御業かな。こうも逸材揃いとは……やはりムドーラの力は必要だね」
どこを見ているのか分からない視線に晒され、リオルは落ち着かない気分になった。
「迎えに来てくれて良かった。ボクも一緒に連れて行ってくれるかな。シダール王に会いたい」
「はぁ? なんで……」
ウツロギは事も無げに言う。
「お願いをするんだ。教国を滅ぼしてくださいって」
訳が分からずアザミに説明を求める。彼の瞳は静かに燃えていた。
大陸の地図を塗り替える大戦を予期し、リオルは身震いした。
ひとまず第三章・完となります。
幕間の投稿は未定です。
ブクマ評価、感想、誤字報告など本当にありがとうございます。
とても励みになりました。
またご意見をいただけると嬉しいです。
書き溜めのため、しばしお時間を下さい。
今後ともよろしくお願いします。




