45 時の聖人
初対面の人間に名前を呼ばれ、レンフィは呆然とした。
「時の、聖人……?」
「そう。ボクは時の精霊の寵愛を受ける、この世界でただ一人の人間だよ。人間って名乗るのはおこがましいかもしれないけれど」
どこか浮世離れした雰囲気を持つ男に対し、アザミはレンフィを下がらせ、短剣を抜いて構えた。
時の聖人ウツロギ。
存在自体はどの国も把握しているが、詳しい情報は出回っていない謎の聖人。その名自体、もう何百年も前から語り継がれており、実在するかあやふやな人物であった。
分かっているのは、マイス白亜王国に所属していない数少ない聖人であること。気まぐれに奇跡を起こし、人を助けること。“白”にも“黒”にも肩入れせず、中立を貫きながら世界を放浪していること。
冬の初め、ムドーラ王国で不思議な出来事が起こった。
車輪の点検中、馬車が強風で傾き、御者の子どもが潰されそうになった。しかしあわやというところで馬車が宙で静止し、下敷きにならずに済んだ。
その間、約三秒。
錯覚と言えばそれまでだが、目撃者は大勢おり、子ども自身も確かに馬車が止まったと証言した。
その嘘くさい話を地方官が目に留め、律儀に王城へ報告した。
魔法でも精霊術でもこのような真似ができる人間は限られる。シダールは時の聖人の存在を嗅ぎ取り、全軍に密かに人探しの指示を出した。
その結果は芳しくなかったが、彼はまだ王国内にいたようだ。
このような場所で巡り合うことに疑念を抱き、アザミは視線で探る。
「本物、か?」
一応疑ってはみたものの、半ば確信していた。
雲のように掴みどころのない、独特な存在感。隙だらけなのに、どこに斬り込んでも無駄な気がする。絶対に一般人ではない。
ウツロギは気分を害した様子もなく、無邪気に笑う。
「証拠を見せてあげてもいいよ? アザミ・フーリエ」
「なぜ私の名を」
「嫌だな、ムドーラの若い将軍二人を知らないはずがないじゃない。武のリオルと、知のアザミ。どちらと戦いたくないか、各国の軍でよく話題に上がっているよ」
殺気を向けるのも馬鹿らしくなるほど、ウツロギは朗らかに笑う。アザミは短剣を降ろし、冷静に懸念事項を尋ねた。
「私のことは、まぁいい。先ほどこの娘のことを、レンフィと呼んだか?」
「うん。白虹の聖女ちゃんだよね」
「面識があるのか?」
「彼女が小さい頃に一度会ったよ。可愛かったな。あ、もちろん今も可愛いけれど」
レンフィは何も答えられなかった。彼の言葉が本当かどうか分からない。
頭の中が疑問符でいっぱいになっている。過去の自分を知る人物だ。聞きたいことは山ほどある。
しかし最も気になるのは、ウツロギの態度だ。教国の聖女がムドーラ王国にいることに驚きもせず、どうして自然体でいられるのか。
ウツロギは残念そうに言う。
「ああ、大丈夫。気にしないで。もう覚えていないことは分かっている。きみは幼かったし」
「…………」
「なんてね。知っているよ。レンフィが記憶を失っていること」
レンフィは目を見開き、アザミは警戒をさらに強めた。
「ボクね、大体の事情は知っているんだ。きみがなぜ記憶を失い、どうしてムドーラにいるのか」
「……なぜあなたが知っているのですか?」
ウツロギは淡く微笑んだ。
「時は途切れることなく流れている。その全てを世界に刻んでいる。精霊に贔屓されたボクは、その一片を垣間見ることができる」
「時の聖人だから、ということですか? そんなことができるなんて……」
「……全てを話してあげてもいいけれど、信じてもらえないと悲しい。だからまず、ボクが時の聖人であるという証拠を見てほしい」
ウツロギはまず、アザミに告げた。
「今この場所には、“再生”のための条件が整っているんだ。要するに、かつてここにあった村の最後の日の光景を、僕の精霊術できみたちにも視せてあげることができる」
「なっ!?」
青白い指が、順番に指を差す。
「場所はここ、人はレンフィ、物はその短剣……そして、真実を追い求める強い心を持つきみ。最後にボクという施術者。全ての条件が揃うことはめったにない。運命的なものを感じるよね」
「……本当に?」
アザミの問いに、ウツロギは真剣な表情で頷く。
「ボクは嘘が嫌いだ。詐欺はもっと嫌い」
「な、ならば……」
「でも、覚悟はしてね。村の最後の光景ということは、きみは、きみの家族が死ぬ瞬間を目撃することになる。時間は巻き戻らない、死者は生き返らない、事実は覆らない。望んだ答えはどこにもなくて、ただ残酷な光景を視るだけの可能性が高い。それでも構わない?」
アザミは苦々しい表情で押し黙った。
次にウツロギはレンフィを労るように見つめた。
「レンフィ。きみは、もう二度と記憶を取り戻せない。今から過去の映像を視ても、受け入れられないかもしれない。自分が人を殺す瞬間を視ることになっても、そのときのことを思い出すわけではないんだ。耐えられるかな? 記憶を失くしてせっかく新しい人生を歩み始めたのに……覚えていない過去の罪に囚われてその心が壊れてしまったら……ボクは悲しい」
いきなり突き付けられた提案に、レンフィは頭が真っ白になった。
しかし答えはもう出ている。
昨夜答えたばかりだ。真実を知る機会があれば逃げない、と。
このような形で現実になるとは思わなかった。
「…………っ」
血の気が引いていくのが分かる。
怖い。知りたくない。本当は逃げ出してしまいたい。
でも。
レンフィとアザミは、どちらともなく視線を交錯させた。
「知りたい。どうしても。父たちの最期を……ずっと、それを願ってきたんだ……たとえ残酷な真実しかないとしても、構わない」
気遣うように揺れる瞳に、レンフィは頷きを返す。
「はい……私も構いません」
「……すまない」
「謝らないでください。何も、悪いことなんてありません」
この機会を逃せば、もうアザミの願いは叶わないかもしれない。
たった一晩でも、アザミはレンフィの心を軽くしてくれた。ならば報いなければならない。まさかこんなにも早く恩を返す機会が来るとは思わなかったけれど。
これは受け入れなければならないことだ。逃げ出せば二度とアザミに顔向けできず、一生後悔することになる。
レンフィは小さく震えながら、ウツロギに願った。
「あの日ここで起こった出来事を、私たちに見せてください。お願いします」
アザミも同じように頼むと、ウツロギはふわりと笑った。
「その強き心に敬意を。……時よ、この地に眠る記憶を我らの前に」
柔らかい霊力が満ちていき、レンフィとアザミを包む。白い光が断続的に弾けた。
気づけば、淡い色合いの風景が広がっていた。
簡素な建物が並ぶ小さな村の中だ。家は建てられたばかりの新しいものが多く、数は三十戸にも満たない。道端に無造作に農具や木箱が置かれ、雑然とした雰囲気がある。
まさしく開拓村そのものだった。
試しに足を踏み出してみたが、どれだけ歩いてもその場で足踏みするだけだった。村人に近寄ることも、家の中を覗くこともできない。ウツロギの姿もなく、二人揃って不安げに視線を巡らせる。
『逃げろ! 教国兵だ!』
その声が、平和な日常の風景を一変させた。
絶叫する村人たちが、こちらに気づくことなく通り過ぎていく。
『囲まれてる!』
『これ、精霊術!?』
『嫌だ! 死にたくない!』
悲鳴と喧騒、煙の匂い、時折揺れる地面。
あらゆるものが本物のように感じられ、レンフィは口を手で押さえる。
隣に立つアザミもまた、顔色が悪かった。心臓を落ち着かせようとしているのか、深く息を吸っている。
やがて、灰白色の制服を着こんだ一団が目の前に現れる。
『なんで教国の人間がここに!?』
『なんでも何も、この村のせいで迷惑してるんだ。変な薬をバラまいてくれて……ジジイどもが欲しがってうるさいんだ』
大柄な男はにやりと笑い、怯える村人を大剣で切り捨てた。風の精霊術を纏う剣は全く重さを感じさせず、触れるだけで肉を裂く。
『さて、薬草と、栽培に関する資料は全部押収しろよ。村人は皆殺し。包囲網からは逃げられないだろうが、あまり時間をかけるな。ムドーラの軍に気づかれる前に撤収したい。それと何人殺したか、あとで偽りなく報告するように。以上、散開!』
その号令で、十人足らずの兵士が四方に駆けていく。
『オトギリさん……私は、ここに』
『うん? ああ、まだこの辺りに隠れてる奴もいそうだな。残らず始末しろ』
『はい』
レンフィは思わず蹲った。
たった一人その場に残った少女が、自分だったからだ。
聖女と呼ばれ出す前の“レンフィ”。
まだ十二、三歳。顔立ちには幼さが残っているが、その瞳は疲れ切っていた。隊長と思われるオトギリという名の男が殺した村人を、じっと眺めている。
感情を宿さない人形のような姿だった。
広がる血だまりが自分のブーツを濡らしそうになって、初めて緩慢に動き出す。
同時に、近くの家の扉がゆっくりと開いた。老人と子どもを連れた若い夫婦が、“レンフィ”の姿を見て顔を引きつらせる。
「姉さん……母さんも……」
アザミが呆然と呟き、レンフィは悲鳴を上げたくなった。よりもよって、過去の自分はアザミの家族と対峙していた。この後何が起きるのか、想像するだけで寒気が走る。
『教国兵……こんな子どもが……?』
アザミの家族は、道を塞いでいる“レンフィ”に対して困惑していた。一見して武器を持ってはいないが、相手は教国の兵。精霊術で攻撃されたらひとたまりもない。通り抜けることも、背を向けることもできず、にらみ合いが続く。
“レンフィ”は虚ろな表情のまま、その一家を見つめていた。特に、アザミの姉の後ろに隠れて怯える男の子と女の子に釘付けだった。
遠くから聞こえてくる、殺戮の音と村人たちの悲鳴。
しかしこの場だけは、異様なほど静かだった。
時の記憶を視るレンフィとアザミも、食い入るようにその光景を眺めていた。見たくないのに、目を逸らせないのだ。
『まだこんなところにいたのか!? 全員無事か!』
『父さん!』
『街道の周りはもう駄目だ! 川に逃げて飛び込むんだ!』
『でも……』
『教国兵か!』
次に現れたのは、しっかりした体つきの男性だった。動きだけで普通の村人ではないと分かる。
アザミの父、ネモ・フーリエ。
将軍の地位に就いていた元軍人である。彼はアザミが手にしている短剣と同じものを構え、“レンフィ”に向き合った。
『家族に手は出させん! 子どもが相手でも容赦はしない!』
ネモは額に汗をかきながら、レンフィを睨みつける。空いた手が無意識に脇腹を押さえていた。かつて魔物に内臓を食われた彼は、もはや戦える体ではなかった。
“レンフィ”は左右の手の平を空に向けて広げた。
水が踊るように発生し、手の平に触れた瞬間に白い霧になって広がった。ネモが警戒を強める。
周囲の家が見えなくなるほどの深い霧。しかし一方向だけが晴れ、道のようになっていた。先ほどネモが家族を逃がそうとした川の方角だ。
『……行って』
“レンフィ”はか細い声で述べ、道を譲った。




