42 覚醒
誰も彼も自分の身を守るので手一杯。中でも、川に背を向けていたレンフィは反応が遅れた。
鋭い氷柱の群れに対し、レンフィはどうすることもできず、ただただ強く目をつぶった。
「っ!」
体に衝撃が走る。しかし覚悟していた激しい痛みはやってこなかった。
代わりに感じたのは熱だ。
「あ……」
生温かい血の感触。
レンフィにぶつかったロッタの小さな体から、大量の赤が漏れ出していく。
「お姉ちゃ……ごめんなさい……ごめ……っ」
氷柱に背中を切り裂かれたロッタは、気管から異音を漏らしながらレンフィに詫び続けていた。
彼の体は一秒ごとに急速に熱を失い、聞こえる鼓動も小さくなっていく。
「あ、ああ……ロッタ君……!」
レンフィは頭が真っ白になりながらも、反射的に治癒術を発動する。傷は瞬く間に治ったが、失った血までは取り戻せない。
彼の頭を膝に乗せて抱きかかえながら、必死に呼びかける。
ロッタの青白い顔は、涙と血に塗れていた。
我に返ったレンフィは、サフランに以前教わった通り、造血作用を促進させるイメージで、治癒術を施し直す。
ゆっくり、慎重に、血を温めながら。やがて霊力が滑らかにロッタの体に浸透していった。
少し顔色が良くなった。
「あの、レンフィ様……ロッタ君は……?」
「もう大丈夫、です。でも……」
駆けつけてくれたオレットにロッタを託し、レンフィは静かに立ち上がった。
「レンフィ様……!?」
「ごめんなさい、今は近づかないでください」
振り返らずに、そう告げる。
氷柱の衝撃を受け、崖全体から不吉な音が聞こえ始めていた。崩れる、と誰もが焦り、レンフィの動きに気を回す余裕がない。
墨竜王が誰を見つめているかも、本人以外は気づいていなかった。
「…………」
レンフィは真っ直ぐ川に向かって歩みを進めた。標的は自分になった。オレットとロッタの側にいたら、巻き込んでしまうかもしれない。
一対の赤い瞳に相対する。
血に濡れた霊力の強い若い娘。食欲をそそられたのかもしれない。墨竜王が赤い舌をちろりと見せた。
崖が少しずつ削れ、ぐらぐらと揺れる。
血の匂いで神経がざわついて仕方がない。二か月近く医務室の手伝いをしていたが、ここまで大量の血を浴びるのも、致命傷を目の当たりにするのも初めてのことだった。
頭の奥が熱い。自分が許せない。
後悔で吐き気がする。
自分が油断をしたから、墨竜王に背を向けて隙を見せたから、ロッタが傷つくことになった。
ロッタは、姉の命を救うために殺人に加担した。その罪を償おうとして、レンフィの命を救い、本来ならば死に至るほどの痛みを受けた。
ならば、もう許されていいだろう。絶対に死んではいけない。死なせるわけにはいかない。
ロッタの命懸けの献身に報いるには、どうすればいい?
唇を噛みしめると、鉄の味がした。ロッタの血なのか、自分の血なのかは分からない。
分かっている。最初から、それを選べば良かった。自分が臆したからこのような結果になったのだ。
「何を……」
アザミはようやくその異様な気配に気づいた。
レンフィが墨竜王に向かって歩いていく。もしや自らを犠牲として差し出し、皆を救うつもりだろうか。
そんな考えが頭をよぎるが、すぐに違うと気づかされた。
少女の瞳に宿る、強い意志の光。
怒りでも憎しみでもない。ただ、何も譲らないことを決意した者の瞳だ。
アザミは気圧され、声を出すこともできなかった。
「…………」
レンフィは静かに悟った。今なら、皆が戦う理由に強く共感できる。
ふわふわとした夢を見ているような感覚だった。だいぶ消耗したと思っていた霊力が、次から次へと溢れて止まらない。
「退いてくれませんか」
その膨大な霊力に怯んだのか、「来るな」と言わんばかりに墨竜王が再び咆哮を上げる。
ついに崖が崩壊した。
「なら……私は――」
大量の土砂とともに、全員が川に落下する。
身を切り裂くような冷たい水の中、誰もが死を覚悟した。黒い水流に嬲られ、上も下も分からず、息を止める余裕もない。いつ墨竜王に飲み込まれるか、そんな恐怖で身が竦む。
その上、水の中にはさらなる恐怖が待っていた。
『許さない……』
『よくも騙したな!』
『私が、私たちが、どれだけ苦しんで死んだか、教えてやるっ!』
村人も軍人も関係なく、男は四方から無数の腕に掴まれた。女の細い腕とは思えぬほど、凄まじい力で水底へと引っ張り込まれる。
生贄になった女たちは、死してなおこの場に留まっていた。
「連れて行かないで」
突如、白い光が水中を照らした。冷えていた体にじんわりと熱が灯る。
世界を塗り替えていくように、この場に満ちる怨念をも侵食していく。
アザミは見た。
七色に輝く水に佇む、聖女の姿を。
変装のため染めていた髪が、血で汚れていたコートが、見る見るうちに浄化されて元に戻る。
透き通るようなプラチナブロンドの髪が水中に広がり、淡いブルーの瞳から溢れる青い粒が水に溶けていく。
涙は青いベールとなってレンフィを守るように波打った。
なんて美しく、尊く、神秘的な姿だろう。このような奇跡を体現されたら、もう聖女を否定できなくなる。
アザミは自身の敗北を認めた。
『戦う覚悟はできて? わたくしの愛しい子』
レンフィは、水の精霊に対して頷きを返した。
「守るためなら」
もう迷わない。
傷ついても、傷つけても、この場にいる人間の命だけは損なわせない。
そのためならば戦える。
『優しさゆえに戦いの渦に身を投じる高潔な乙女よ。あなたの心が変わらないというのなら、わたくしの寵愛も変わらない。どうか、この地の悲しみと憎しみを洗い流し、白き慈愛で満たして』
意識を集中すれば、水流を意のままに操れた。呼吸も苦しくない。いくらでも潜っていられる。
レンフィは点在する人々を一人ずつ光で包み、水上に運び、岸辺に打ち上げた。
「――――!」
水中を震わす咆哮。赤い瞳をギラギラと光らせ、墨竜王が大口を開けてレンフィに突進してきた。
それを舞うように避けて、竜の頭上を取る。
「ごめんなさい」
相手は魔物ではなく、生物。それも黒脈の王に作り替えられ、異形と化した哀しい命だ。
人間の都合で作られ、人間の都合で討伐される。その一生に憐憫の念を覚えながらも、レンフィは逃げなかった。
竜と人間、どちらの味方をするのかと言われたら、レンフィは迷わず後者を取る。
両手を竜にかざした。
尊い命に優先順位をつける。守るために力を振るう。残酷にも命を奪う。
その罪を背負う覚悟を決めて、水に霊力を浸透させる。
「――――っ!?」
墨竜王は水圧によって、一瞬でひしゃげた。痛みを感じる間もなく、息絶える。
赤黒い血を流しながら、竜の体がゆっくりと川底に横たわった。見る見るうちに体が灰になり、水に溶けて流れていく。
レンフィは両指を絡めて短く黙祷を捧げた。
もう時間がない。皆の呼吸が続かないだろう。レンフィは再び人々を岸辺に運ぶ作業に戻る。
しかし今度は女たちの怨念が抵抗を強めた。
『お前だけは許さない……!』
もがきながらウィロモ村の村長が水底に引き込まれていく。その女たちの幻影の手を、アザミは短剣で払った。
『……よくもっ!』
村長を解放した代わり、今度は女たちの手がアザミに群がる。レンフィは水を蹴って追いつき、彼の腕を間一髪のところで掴む。
アザミは目を見開き、苦しげに顔を歪めた。自分にだけは助けられたくないのかもしれない。そう思ったが、レンフィはその腕を離さなかった。彼を連れて行かせるわけにはいかない。
水中で引っ張り合いを続ける間に、村長を含めた他の全員を地上に返した。レンフィは最後の霊力を込めて、怨念に対抗する。
『なぜ邪魔をするの!? わたしたちは、こんなにひどい目に遭ったのに!』
レンフィとアザミの脳裏に、女たちの怨嗟の声が響く。何十年も前から続く、不幸な光景が閃光のように目の前で弾けた。
『私は自分の夫と子どもに沈められた! 愛していたのに! 愛されていると思っていたのに!』
『嫁いできたわたしは閉じ込められ、子を産むことしか許されず、産めなくなったら川に捨てられた!』
『いきなり攫われて、どうせ死ぬからと散々辱められた! 竜に体を食いちぎられるよりも、よほど辛かった!』
女たちが口を揃えて言う。
『どうして!? こんな思いをするために生まれてきたわけじゃないのに!』
例えようもないほど悲痛な叫び。
この憎しみを癒せるような、都合の良い言葉をレンフィは知らなかった。きっとこの世のどこにも存在しない。
レンフィが彼女たちに手向けられる言葉は一つだけ。
「忘れません」
アザミもまた、説得の言葉を持たない。
しかし心の中で強く誓った。
もう二度と、このような目に遭う民は生み出さない。シダールが玉座にある限り、必ず自分がこの国にはびこる悪しき因習を断つ。
レンフィは心の底から祈った。
彼女たちがこんな冷たく苦しい水底から解放され、温かい場所で息をつけるように。
その魂が安らかに眠り、次に生まれ変わるときには幸福に満たされるように。
癒しの光が溢れる。
『…………』
女たちはアザミから手を離し、導かれるように光に手を伸ばした。
その瞬間、川全体が輝き、虹色の光が天に昇る。禍々しい怨念は跡形もなく浄化され、透き通る青の世界が広がった。
レンフィはアザミの腕を引いて水上に向かう。
「はぁ……っ」
水面に顔を出すと、至近距離でアザミと目が合う。彼は呼吸を整えながら、バツが悪そうに口を開いたが、結局何も言わなかった。レンフィもまた、何と言えば良いのか分からない。
「アザミ君、レンフィさん!」
近くの岸辺に、マチスたちの姿が見えた。オレットとロッタも、軍人も村人も全員無事のようだ。
ほっと安堵の息を吐いた瞬間、体が急に重くなった。この感覚には覚えがある。霊力が底を尽きたのだ。
意識が急激に遠ざかり、視界が白む。
本来、川には流れがある。この瞬間まではレンフィの精霊術でその場に留まっていられたが、唐突に流れに抗えなくなった。
「おいっ!」
アザミが沈みそうになったレンフィの体を支える。
その瞬間、またしても崖が崩れ、大量の土砂と岩が二人を襲った。
「ああ……っ!」
オレットが悲鳴を上げる。
あっという間に二人は飲み込まれ、濁流の中に姿を消した。




