37 初めての遠征
ムドーラの王城からそりで半日進むと、アヌビア川に行き当たる。
王国の中でも比較的大きな川であり、生活・農業用水として、あるいは輸送路として、流域に住む人々の暮らしを支えている。
一方で、アヌビア川には毎年のように魔物が出現し、近づく人々を襲っていた。橋を壊されたこともあり、国家としても重要度の高い問題である。
魔物は生物ではなく、魔力が具現化した現象。
出現しやすい条件が分かれば対処もできるが、流域全てを調査することができず、未だ解決には至っていない。しかも魔物は日に日に強くなっていくため、観察する猶予もない。
よって目撃情報が出る度、軍から討伐部隊を出すことになっている。普段は該当地区の治安維持軍が対処に当たるが、この数か月魔物の討伐が確認できておらず、被害が増えていくばかり。手に負えない強さになったと判断され、国王直属軍に援軍の要請があり、第二軍が対応することとなった。
水棲の魔物は特に討伐が難しい。川の一部が結氷する今の時期を逃すと、さらに難易度が上がる。
リオルよりも魔法が得意なアザミの軍が対応するのは当然の流れであった。
雪景色の中、青みを帯びた黒い河が緩やかな曲線を描いている。
遠巻きに川面を見て、レンフィは首を横に振った。
「ごめんなさい、ここでは特に何も感じません」
まずは討伐対象を探すところから。早速レンフィの出番であった。
霊力が強い者は勘が鋭い。特に魔力や呪いに敏感であり、魔物探しにも有効だろうということで、レンフィが索敵をすることになった。
「そうか。最後の目撃情報があった場所は、もう少し下流らしい。日が暮れるまで川沿いに進む。何か気づいたら言え」
「は、はい」
アザミはちらりとレンフィを見て、すぐに出発の用意に取り掛かった。頼られている、期待されている、という感じは全くない。二人の間にはひりひりと凍てつく冬の空気が漂っていた。
近くに点在する村々を巡り、魔物の目撃情報を集めながら、徐々に魔物の位置を絞っていく。
レンフィは川から目を逸らさず、そりの上から注視した。結果は芳しくない。
「魔物探しって、こんなに大変なのですね……」
「そうですねー。ああ、でも、川ならまだ範囲が絞られていますから。広い山の中だと探すのはもっと大変です。今の時期は雪崩も怖いですしね」
山岳地帯に向かったリオルのことを思い出し、レンフィはため息を吐いた。
「兄上」
「あ……リオル君なら大丈夫ですよ。彼、稀に見る強運の持ち主ですから。そして、僕の見立てではレンフィさんもかなりの運に恵まれた方です」
「それは私も同意します!」
自分の運の強さは分からないが、ギリギリのところで何度も生き残っており、敵国に囚われても良い人たちに巡り合えて助けてもらっている。決して運が悪いとは思わなかった。
「頑張ります……!」
騎士兄妹に励まされつつ、レンフィはアヌビア川を見つめ続けた。
一日目と二日目は、そのまま情報収集に費やされた。
村々では魔物の有益な出現情報こそ得られなかったが、村人たちの陳情を聞く機会があった。
徐々に食えるようになってきたが、まだ足りない。
もう少し魔石を供給してほしい。
医療官の派遣を増やしてほしい。
ひときわ貧しい村を訪れた際、村長の凍傷を繰り返して紫色になった手を見て、レンフィは思わずアザミに尋ねた。
「あ、あの……私に治療をさせていただけないでしょうか」
「なぜ私に許可を取る? 勝手にやればいい」
試されていると感じ、レンフィはサフランの教えをおっかなびっくり伝えた。
治癒術は気軽に使って良いものではない。相応の対価を受け取らないと、同業者に迷惑をかけ、医療官全体の信頼を損なう。
軍に随行して村々を慰問する際は、必ず指揮官の許可を得てから治療する。対価を無償にするのならば、なおさらである。国による施しであると強く印象を与える必要があった。
レンフィの説明を白けたような顔で聞き、アザミは頷いた。
「……村長。今日は城の医療官が随行している。五名までならば治療が可能だ」
アザミの言葉に、村長が小躍りして村人たちに伝えに行った。
「分かっているだろうが、お前が使うのは治癒“魔法”だ」
「はい、ありがとうございます」
顔の下半分を隠し、精霊術特有の白い光を出さないように気をつけ、レンフィは慎重に患者たちを治療していった。事前にサフランと約束したように、じっくり時間をかけ、指定された部位だけを治療する。
全ての治療が終わった後は疲労したフリをした。実際、緊張でくたくたになったので演技の必要はなかった。
「ありがとうございます……! すごい! こんなに体が楽なのは久しぶりです!」
「良かったです。お大事になさってください」
レンフィの霊力にはまだまだ余裕があり、一瞬で全ての患者を治すことも可能だが、それをやれば必ず噂になる。
少し詳しい者が見れば、レンフィの治療が精霊術を用いたものだと看破されるかもしれない。それが教国の耳に入るのはまずい。
治癒術を使う十代半ばの凄腕医療官、という特徴から聖女レンフィの生存が露見してしまったら、王国全体に迷惑をかけることになる。
「本当にありがとうございました……!」
働き盛りの男性や若い女子どもたちを蝕んでいた疾患が完治し、村は明るい空気に包まれた。
本当ならば、弱った老人たちも治療したかった。しもやけやあかぎれも全て治したかった。その気持ちをこらえて治療を終え、ほんの少しの達成感と、大きな罪悪感を得る。それでも喜ぶ村人たちを見て、きっと無意味な行いではなかったとレンフィは信じた。
村人たちに見送られた後、レンフィはアザミに改めて頭を下げた。
「あ、あの、お時間を取らせてしまって、申し訳ありませんでした。許可を下さり、ありがとうございます」
改めてお礼を告げても、アザミは何も反応しなかった。
代わりに部下の軍人たちから失笑が漏れる。
「アザミ様に気に入られたくて必死なのかねぇ」
「偽善は楽しかったかい?」
「さすがお人形。命令を守れて偉いね」
背筋が寒くなるほどの嘲りに、レンフィはもう何も言えなくなった。ふらふらと出発の支度に戻る。
「うーん、ものすごく感じ悪いね。困った人たちだ」
「レンフィ様の行いは立派でした! 何も間違ったことはしていません!」
マチスとオレットに励まされ、レンフィは頭を切り替えた。
アザミは医療行為を許してくれたし、行軍予定が遅れたことも責められなかった。頭ごなしに否定されなかったのだから、大丈夫。
少しずつでも役立ち、頑張っていれば、いつか認めてもらえるかもしれない。
そんな希望を抱き、次の村へ向かう。
それから時に治療を行いながら、日暮れに立ち寄った村に宿泊させてもらった。
記憶を失くしてから初めての遠出に、体中が悲鳴を上げていた。霊力の消耗はほとんどないが、気力体力はそうではない。
軍人と騎士二人がきびきびと動いている中、レンフィはよろよろと後に続き、夜には夢も見ずに眠った。塔の部屋以外で眠れるか心配だったが、全くの杞憂であった。
正直、帰りたくて仕方がなかった。マグノリアやバニラの顔が見たい。犬猫を抱きしめたい。
それでも弱音を吐かず、レンフィはリオルとお揃いのハンカチを支えになんとかついて行った。
そして、三日目。
川の色が濃い地点に差し掛かった途端、全身に悪寒が走った。
「あ……この辺りは……とても嫌な感じがします」
レンフィが何かを感知したと、マチスが第二軍に伝えた。
先の村でも目撃情報があったらしく、この近辺に魔物がいる可能性が高いと結論付けられた。
「村はあるか?」
「一番近いのは……ウィロモ村です」
「そこに拠点を置いて、腰を据えて探す」
「はっ」
ウィロモ村は沿岸部の鬱蒼とした森の中にあった。
ここでもレンフィは薄っすらと嫌な気配を感じた。
一見して普通の村なのだが、どことなくよそ者を疎んじる空気が漂っているのだ。しかしこれは他の村でも感じたこと。前王時代の軍人の横暴を未だに覚えて怯えているのだろう、と聞いた。
家々からも無数の視線を感じるが、軍の出迎えにきたのは数人の男だけだった。
「アヌビア川の魔物討伐にご協力いただきたい」
アザミが村長たちに、しばらく滞在する旨を伝えている。男たちの顔色が変わった。
「そんな、困ります……ご勘弁を」
「冬ごもりの食糧も薪もぎりぎりで」
「女子どもが怯えちまう……」
歯切れの悪い村人たちに、アザミは有無を言わせぬ鋭さで返答した。
「我々の食事に気を回す必要ない。むしろ何か不足があるなら物資を融通しよう。魔物討伐が叶ったら、魔石の換金額の一部を村に寄与することも約束する。我々の要求は、空き家があれば借り受けたいのと、飲み水に余裕があれば提供を。あと、最近魔物と遭遇した者がいれば話を聞かせてほしい。それだけだ」
それでも渋る村人たちに、アザミはレンフィに一瞥をくれた。意図を察して、頷きを何度も返す。
「我々が負傷しない限り、一日につき五名ずつ医療官の治療を受けさせよう。これでどうだ」
村人たちは医療官らしきレンフィをじろじろ見て、ようやっと頷いた。
ボロボロの空き家を二軒教えてもらう。これで野宿は避けられそうだ。
「そちらは三人で使っていい」
「え、いいのかい? ありがとうー」
レンフィたちに貸し与えられたのは、村の端にある一間しかない小さな家だった。数年以上、誰も住んでいなかったらしく、中は荒れていた。屋根と壁があるだけだ。
レンフィたちは三人で簡単に掃除をし、寝台を作った。薪はないが、持ってきた魔石を数個使えば、暖炉の火の心配は要らない。
少し休憩した後、村の様子を見に行った。
軍人たちは、川への偵察班と村での聞き込み班に別れているようだった。村の開けた場所に村人が集まって、軍人と話している。
「え、アザミって……あのアザミ将軍!? すっげー!」
木々に積もった雪が落ちるほど、興奮した声が響いた。
六歳くらいの幼い少年が、アザミにキラキラとした憧れの視線を向けていた。
「いつから強かった? 魔法見せて欲しい! どうやったら将軍になれるの!?」
アザミの周りで跳ねて、次から次へと質問を投げかけている。村人たちはアザミの顔色を窺って口を挟むのを躊躇い、部下たちは悪い気はしないのか止めていない。
レンフィはハラハラしつつ、その様子を見守る。
「なんだ、軍人になりたいのか?」
アザミがはしゃぐ子どもを見て、ふっと口元を緩めた。
その柔らかい笑顔に、レンフィは目を瞬かせた。信じられない光景を見ている気がする。
「うん! なりたい! 強くなって魔物を倒す! あと姉ちゃんに美味いもん食わせてやりたい!」
「そうか……名前は?」
「ロッタ!」
「では、ロッタ。毎日剣の素振りをして、力仕事を誰よりもたくさんこなせ。後は肉だな……村に猟師がいるなら弟子入りするといい。獣を狩って、肉を食え」
ロッタは真剣に頷いている。
「魔法の特訓は? オレ、魔力測定したことないんだけど」
「魔力は、国王陛下に認められれば与えてもらえる。魔法はそれから覚えればいい。まずは体作りだ。今から頑張れば、国王直属軍に入ることも夢ではない」
「本当!?」
「ああ」
ロッタが無邪気に喜ぶ様子を、アザミも他の軍人も村人も微笑ましく見守っていた。
レンフィたちも、自然と頬が緩む。
アザミの意外な一面を見て、心が温かくなった。子どもが好きなのだろうか。演技をしているようには見えない。
「…………」
アザミはレンフィがこの場にいることに気づくと、笑顔を消してしまった。しかしロッタはそれに気づかず、早速特訓すると走り去っていった。
「なぁ、お嬢さんが医療官であっているかね」
村長が近寄ってきた。
「は、はい。……えっと、私は、スイレンと申します」
ぎこちなく偽名を名乗るが、村長は特に気にせず、レンフィの全身を興味深そうに眺める。
「まだこんな若いのに国に仕えられるなんて、よほど優秀なんでしょうな」
「いえ、そんな……未熟者です。あ、でも、治療は責任をもって行いますので大丈夫です!」
患者を不安にさせることを言ってはいけない。これもまた、サフランの教えの一つであった。
村長は次にオレットに視線を移した。
「そちらのあなたも、医療官?」
「いえ! 私は文官のオレットです。趣味で少しだけ剣ができるだけで、レン……じゃなくて、スイレン殿の付き添いに任命されました! 決して騎士でも貴族でもありません!」
オレットの下手な挨拶にマチスが頭を抱えたが、村長は無反応だった。幸か不幸か、全く貴族令嬢らしくない口調だったため、疑われなかったようだ。
「そうですか……じゃあ、スイレンさん。怪我人と病人を集めるので、治療を頼みます」
「は、はい」
マチスのことには全く触れず、村長は背を向けた。
「む……僕は無視? 気をつけてくださいね、レンフィさん。こういう田舎だと、強引に若い女性をさらって嫁取りする習慣があったらしいですから。医療官ならどこも欲しがります。まぁ、軍のそばでめったなことはしないと思いますが、絶対に一人にならないでください」
「そ、そうなのですか。分かりました」
オレットがぽつりと呟いた。
「……そう言えば、女性を見かけませんね。家の中に気配はあるのに」
この村に来てから女性の姿を一人も見ていないことに気づき、三人は顔を見合わせる。
不穏なものを感じ、レンフィは小さく震えた。




