35 聖女の価値
臣下たちの目の色が変わった。
かつて、二か月前にもシダールは同じような言葉を投げかけた。しかしその時とはまるで心向きが違うようだった。
そもそも円卓に加わっている時点で、シダールのレンフィの評価が変わっているということに他ならない。王の真意を思い、臣下たちは思案する。
「シダール……!」
マグノリアは国王に非難の視線を向けた。
宴の席では「生かしても構わない」と言っておきながら、臣下に採決を委ねた。しかも本人を目の前に生死を決めるなど残酷極まりない。レンフィはすっかり青ざめてしまっている。
「…………」
しかし多数決を止めようとして、マグノリアは考え直した。今ここで臣下たちの意見の統一を図るのは悪くない。
この場で発言したことには責任が生じる。どちら付かずの者はしばし様子を窺い、大勢に従うだろう。シダールの手前、マグノリアがレンフィの生存を望めば、ほとんどの者は意見を合わせるに違いなかった。
ましてや普通の神経をしていれば、医療官として贖罪を望む少女に向かって「死んで償え」とは言いづらいものだ。
「…………」
レンフィは全身が痺れたように動かなくなった。
この国の幹部たちの視線に晒され、命の値踏みをされている。改めて、誰かに死を望まれることの恐ろしさを感じた。
「俺はレンフィに生きていてほしい」
真っ先にリオルが意見を口にした。
「もう記憶は戻らないし、教国にも戻らないって言ってるんだ。じゃあ、ムドーラの人間になってもらおう。今のレンフィは素直で優しい子だ。死ぬ必要なんてない……と俺は思う」
一番に言葉を発するのは勇気がいる事なのに、躊躇いなく声を上げてくれた。それだけで、レンフィは救われた気分になった。
間隙なく、次の者が意志を表明していく。
「わたしに一票を投じる資格があるかは分からないけれど……レンフィには生きていてもらわないと困る。わたしたち、お互いに必要な存在なの」
マグノリアが毅然と言い放った。
「ふふふ……シダール陛下の妃になっていただけないのは非常に残念ですが、レンフィ様の希少価値が消えてなくなるわけもない。私の意見は一貫して『殺すなんて勿体ない』です……死体ではほとんど何も実験できませんし」
ヘイズの発言で会議室の温度が少し下がった。レンフィは冷えた指先を握り締める。
続いて、宰相が困ったように述べた。
「私は、まだ判断できませんねぇ。彼女の価値は理解できますし、心証も悪くないのですよ。勉強も手を抜かずにやってくださいましたし。ただ、やはり教国に生存が露見した際のことが気にかかります。我が王国にとって不利な状況を引き起こさないとも限らないので」
厄介なことになる前に存在を消す。宰相はレンフィに申し訳なさそうに笑いかけ、次にマグノリアを見た。
「ただ……マグノリア様が御気を悪くされるのを覚悟で申し上げますが、陛下の御子が産まれるまではレンフィ殿は生かしておくべきかと。申し訳ありません」
「いえ、当然の心配です。その点で考えても、レンフィがいてくれると助かると思わない? 彼女の治癒術はきっと出産の助けになります。いてもらえると、心強い」
マグノリアのさっぱりとした物言いに、宰相は強く頷いた。
その他の臣下たちも、概ねレンフィを生かすことに賛成した。この数か月でレンフィの霊力と治癒術のすさまじさを伝え聞き、人格や生活態度にも問題はない。
詳しい経緯は定かではないが、レンフィの存在が契機となり、マグノリアが城に帰還したのは明らかだった。つまりシダールの役に立ったということ。
殺す必要はないのではないか、と意見がまとまった。
レンフィにとっては、予想外の流れだった。
強く処刑を求める者がたくさんいるのだと思っていたのだ。
多数決で言えば、もう結論は出ている。しかし安心はできなかった。死を望む者が一人でもいるのなら、議論が起こる可能性がある。
残りの主だった幹部は、元帥ガルガドとアザミだけになった。
「儂は……そうだな。正直この娘のことは憎い。どれだけ仲間を殺されたか。死んでいった者たちは帰ってこられなかったというのに、この娘が城の中を歩いているのが気に食わなかった。だからこの二か月、一切関わらなかった」
ガルガドの鋭い眼光を受け止め、レンフィは血の気が引く思いがした。じりじりと寿命が削られていく。
「しかし……我らとて教国兵を無数に葬ってきた。当然聖女も我々を憎んでいたはず。それをこの娘が覚えておらんというのに、こちらだけ恨みを一方的にぶつけるのは、儂の道義に反する。よって現時点では、この娘が生きようが死のうがどちらでも構わぬ。ただし、これから陛下の不利益となったり、ムドーラの無辜の民を傷つけるようなことがあれば、その時は問答無用で叩き斬る。以上だ」
年季の入った殺気に怯えながらも、レンフィは何度も頷いた。
そして全員が固唾を呑む中、残る最後の一人、アザミがため息を吐いた。
「……分かりました。聖女を生かすに足る理由はある。強硬に処刑を望むことはいたしません」
アザミの発言は、会議場をにわかにざわつかせた。
ここまで誰一人としてレンフィの処刑を望まなかったが、それでもアザミだけは己の意志を貫くと思われていたのだ。周囲の意見を聞いて日和る性格ではない。
一方で、普段の冷静なアザミならば、当然このように回答するとも思えた。聖女レンフィに対してのみ感情的になるだけで、いつもは慎重かつ的確に判断を下す男だ。ゆえに皆の信頼も厚かった。
「良いのか? 憎き仇を生かしても」
シダールの問いに対し、アザミは頷いた。
「しかし、個人的なわがままを許していただけるのなら、私の手で確認する機会をいただきたい。聖女の安全性と有用性を」
アザミと目が合い、レンフィは悟った。
物を見るかのような冷たい視線に宿る、隠しきれていない嫌悪と侮蔑。自分は全く許されていない。
「ほう……どのように確かめる」
「アヌビア川の魔物討伐に、聖女を医療官として同行させたく」
思いもよらぬ提案に皆が再びざわめく。
アザミは眉一つ動かさず宣言した。
「その討伐で役立ってくれるのなら……かつての聖女とは別人とみなし、今後は丁重に扱うと約束いたします。二度と私怨を晴らそうとは考えません」
シダールはほんのわずか思考するように宙を見て、レンフィに問う。
「なるほど。確かに、レンフィがいれば討伐が楽であろうな。教国に見つからぬように最大限配慮できるのなら、討伐に連れていくことは構わぬが……レンフィ、どうする?」
迷ったのはほんの一瞬で、答えはすぐに出た。
「行きます」
「なっ、やめておきなさい。危険すぎる」
マグノリアが制止したが、レンフィは首を横に振る。
「それでも……私がお役に立てるなら」
「危険なのは魔物だけじゃない」
アザミに聞こえぬよう、耳元で囁かれた。
マグノリアの心配は理解できる。城の中にレンフィの味方が増えた以上、それらの目がない外で始末するのが手っ取り早い。魔物退治にかこつけて、レンフィを亡き者にする計画だとしたら。
それが分かっていても、レンフィはこの申し出を断ることはできなかった。
大切な家族の命を奪ったことで憎まれているのに、自分の命を優先することなんてできない。レンフィの償うという気持ちが、随分軽いものだと思われてしまう。
見かねたのか、シダールが口を開いた。
「アザミ、王命はまだ有効だ。春までレンフィの命を奪うことは許さぬ。きちんと連れ帰る自信はあるのだな?」
「もちろんでございます。心配ならば、護衛をつけてもらって構いません」
その言葉にリオルが勢いよく手を挙げる。
「あ、じゃあ俺が一緒に!」
「第三軍には山岳地帯の魔物討伐に行ってもらう予定だ」
「えー!? 聞いてねぇぞ!」
「今言った。こちらの方が緊急性が高い。開戦準備もあるのだ。さっさと片付けてこい」
元帥の言葉にリオルは納得できない様子だったが、任務に文句はつけられず、渋々頷いた。
「だったら、わたしが行く」
「ダメだ。許すはずがなかろう」
「シダール、でもっ」
マグノリアに懇願の瞳で見つめられ、シダールは薄く笑う。ものすごく嬉しそうだが、誰も彼もが気づかぬふりをした。
「ならば、マチス。お前が妹とともに、レンフィの護衛につけ」
壁際でぼんやりしていた騎士が、急に名を呼ばれてびくついた。
「え、僕ですか? いや、あの、一応僕は陛下の護衛の責任者なので、御身を離れるわけには」
「必要ない。犬の散歩以外で役に立ったことなどなかった」
「陛下! その断言はひどくないですか?」
マチスは甘い顔立ちを困惑気味に歪め、頭を掻いた。
「でも、そうか……女性のレンフィさんの護衛ならオレットがついていくのは確定なわけですよね……それはすごーく心配だし……うん、分かりました。陛下の御命令、謹んで拝領いたします。この身を賭してレンフィさんをお守りすると誓いましょう」
騎士の優雅な礼を完璧な所作で行い、マチスが微笑んだ。
レンフィは席から立ち上がり、慌てて礼を返す。
「あ、あの、ごめんなさい。ありがとうございます。できるだけご迷惑をかけないように気をつけます」
「いえいえ。僕と妹の方がご迷惑をかけるかもしれないんで、お気になさらず」
この場の空気にそぐわぬ緩い発言に、失笑が漏れた。
「では、決まりですねぇ。多数決の結果、満場一致。とりあえず聖女殿は春以降も生きたままムドーラに所属する、と。おめでとうございます」
あっさりと生存が決まったことにレンフィは拍子抜けしつつも、円卓を囲む人々に礼を言った。
「それで……アザミ将軍と和睦を図るべく、魔物討伐に出かけるわけですか。良い戦果をお祈りしています」
宰相がのんびりと締めくくった。そしてなし崩しに会議は終了となった。
「出立は三日後だ。最低限、旅装は整えておけ」
そう言って、アザミがレンフィの返事を待たずに去っていった。マチスが苦笑する。
「魔物討伐についての詳しい情報は、僕とオレットで確認しておきますね。レンフィさんは軍に同行する際の医療官の心得を、サフラン先生から学んでおいてください。あと防寒具と靴。これは大事です。良いものを揃えてもらってくださいねー」
「わ、分かりました」
「はい。じゃあ、また。頑張りましょうねー」
ひらひらと手を振るマチスに、レンフィはぎこちなく手を振り返して礼をした。緊張感がどこかに消えてしまいそうだ。
続いて、マグノリアがレンフィの肩を叩いた。
「この上なく心配だけど……いい? 少しでも危ないと思ったら、三人で城に帰ってきなさい。アザミ将軍に認められなくても、あなたは生きていていいんだから」
レンフィは小さく微笑みを返した。身を案じてくれるマグノリアには本当に感謝しかない。
「後で、魔法士団の研究室に来て。体の解析を終わらせて、遠征の準備をしないと」
「はい。お願いします」
マグノリアが出て行くと、最後にリオルが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「レンフィ……ついて行ってやれなくて、ごめんな」
「謝ることないよ。リオルも気をつけてね。雪山の方が危険かも」
「ああ。でも速攻で片付けて、そっちに合流してやる」
「大丈夫なの? そんなことして」
「大丈夫なようにするから大丈夫。俺が行くまで、マチスさんとオレットさんから離れるなよ。ああ、でも、めちゃくちゃ心配だなぁ。まさか野宿はしねぇと思うけど……俺も遠征計画見せてもらおう」
いつの間にかリオルはすっかり過保護になっていた。
それに仄かな幸せを感じつつも、レンフィは気になっていたことを尋ねた。
「あの……リオルから見て、アザミさんはどんな人?」
リオルはやや言いづらそうにしつつも、正直に述べた。
「それは……すごい人だよ。冷静で、頭が良くて、自分に厳しくて、いつも努力を怠らない。俺なんか、何回助けてもらったか分からない」
その答えは、レンフィにも納得できるものだった。
会議の間中、臣下の誰もがアザミの顔色を窺っていた。彼の心中を思って、申し訳なさそうにレンフィの生存に一票を投じていたのだ。
周りにこれだけ尊重されているのは、アザミが優秀だからという理由だけではない。シダールともリオルとも違う形で人望を集める人物なのだと、よく分かった。
少なくともリオルはアザミのことを心の底から尊敬している。
ならば、二人の関係に亀裂を入れるようなことはしたくない。レンフィは強くそう思った。
自分の言葉で目が覚めたのか、リオルは大きく頷いた。
「そうだよな。アザミさんは、約束を破るような男じゃない。陛下の命令は死んでも守る。だから、大丈夫だ。でも外は危険でいっぱいだからな。十分気をつけろよ!」
「うん」
レンフィには分かっていた。
アザミが自分を許すことはない。
何をどう頑張っても、アザミの心を動かすことはできないだろう。許しを請うような真似は逆効果だ。ならば、彼の気が済むようにしてもらうしかない。
ただ、今回の魔物討伐については、どういう目論見なのか分からない。
本当にレンフィの価値を見定めたいだけなのか、皆が危惧するようにレンフィを亡き者にするためなのか。
彼が悪い人物ではないことは分かっている。だが、そんな彼を憎しみに走らせてもおかしくない行いをかつての自分はしたのだ。
どちらでも大丈夫なように、覚悟だけはしておこうと思う。
たとえ魔物の前に置き去りにされても、真冬の川に突き落とされても、それが償いになるのなら甘んじて受け入れる。アザミを恨みはしない。
だけど、絶対に死なない。
今のレンフィは、生きたいと前よりも強く願っていた。リオルやマグノリア、バニラたちが悲しんでくれると分かるから、簡単に命を捨てることはしない。
それに、自分が死ねばアザミが責任を問われる。これ以上自分のせいで彼を不幸にはできない。それだけは避けねばならない。
レンフィは恐怖と不安を押し殺して、出立の準備を始めた。




