30 幕間 白亜教の”黒”
レンフィが森の館の前で毒薬を煽った夜。
マイス白亜教国の中枢にある大聖堂の一室で、水晶玉が音を立てて割れた。
「死んだか。少し、惜しかったかな」
そう呟いた少年の名はシンジュラ・ブラッド・ルークベル。
父はマイス白亜教の現教主、母はかつて教国が滅ぼしたルークベル王家の姫。すなわち、聖人と黒脈の姫から生まれた特別な存在である。
白の神と黒の神双方の申し子として、いずれはこの世界でたった一人の黒脈となり、マイス白亜教国のシンボルとなる宿命を背負っている。
シンジュラ以外の黒脈を滅ぼすべく、教国は今、三つの国と戦争している。
リッシュアゼル王家、フレーレ王家、ムドラグナ王家――主だった黒脈の一族の生き残りはこれだけだ。あとの王家はいずれ滅ぼされるとも知らず、白亜教国に恭順を示した負け犬の血統である。魔力も著しく低い。
マイス白亜教国の悲願――白と黒の神の融合まであとわずか。
三つの黒脈の王家の内、一つでも滅ぼせば分散していた軍の力を束ねられる。勝利までは時間の問題だと教国上層部は考えていた。
おめでたいことだ、とシンジュラは常々馬鹿にしていた。
いや、哀れな老人たちに同情すらしている。人間の愚かしさは底知らずだ。
シンジュラは砕けた水晶に魔力で圧をかけ、粉々の砂にした。それを風の魔力で窓の外に吹き飛ばす。
美麗に整った顔を僅かも歪めず、それを見送る。
「さよなら、レンフィ」
美しく、気高く、誰よりも哀れな少女だった。
彼女は自分の野望に少しだけ役に立ってくれた。最後の最後に裏切られたが、些末なこと。他の無能どもに比べれば、許してやれる範囲だ。
彼女の犠牲のおかげで最低限の目的は果たせたのだから。
翌日、シンジュラは会議の場でレンフィの死亡を報告した。
彼女の心臓と連動する魔法の水晶が砕け散った。すなわちそれは聖女レンフィの死を意味している。
レンフィが突如行方不明になってから約二か月。
密かに国中を探し尽くし、ついには国外にも捜索の手を広げ始めた矢先のことだ。
事情を知る者は複雑な表情を見せつつも沈黙した。
探して連れ戻せなかったことは非常に残念だが、死んだのならまた良し。“白亜教の禁忌”が闇に葬られたのだから。
一方、事情を全く知らない老いた聖人たちは大いに嘆いた。
「ああ、なんということだ。二指の寵愛を受ける聖人はめったにいないというのに……簡単に死んでもらっては我が国の沽券にかかわる」
「ムドーラ王国との国境はどうなるのだ。あそこの軍は年々強くなっている。聖女の力がない状態で戦線を維持できるのか?」
「それよりも、あの治癒術だ。私の病は再発する危険があるのだぞ。一刻も早く後継の使い手を育てねば」
シンジュラは呆れ果て、ますますレンフィを哀れに思った。
誰一人として、彼女の死を悼んでいない。教国の権威や、戦力、自分の命のことしか考えていないのだ。
彼女がこの国のためにどれだけ自分を削って尽くしてきたか。これでは全く報われない。
冷ややかな視線を向けるシンジュラに気づき、枢機卿の一人が沈痛な表情を顔に張り付けた。
「シンジュラ様も、心が痛いでしょう……随分と目をかけていらっしゃったので」
精神修行のつもりでシンジュラも長いまつ毛を伏せ、沈んだ表情を作った。
「ああ、そうだね。彼女は僕の妻になるはずだったヒト。至高の王にふさわしい、清廉で高潔な少女だったよ。しばし祈らせてほしい。かの聖女の魂が神々の御許で安らげるように」
シンジュラが目を閉じて祈る姿に、その場にいる全員が呼吸を忘れて魅入った。なんと美しく神々しい姿か。他の野蛮で残酷な黒脈とは違い、教国で精霊を身近に感じて育ったシンジュラの心は慈愛に満ちている。
……誰も彼も、信じ切っていた。シンジュラが純粋で敬虔な白亜教徒であり、自分たちの傀儡であることを。
「では、後のことは任せるよ。聖女の名にふさわしい最期を飾ってあげて欲しい。僕は初陣の準備をする」
「おお、春が待ち遠しいですな。あなたの存在に世界が驚くでしょう。どの戦場に赴くのでしたかな?」
シンジュラはしばし考え、答えた。
教主の息子が去った後、老人たちは一斉に思考を切り替えた。
「聖女の死についての発表は?」
「行方をくらました原因が分からぬのでは、なんとも……オークィと相打ちとなったことにするのはどうだ」
「致し方ない。心を病んだオークィの暴虐を止めようとして、斃れた悲劇の聖女……」
「それでいい。いかなる理由があろうとも、教国内での聖人同士の争いはご法度。その禁に対する咎として葬儀は行わず、献花のみとしよう」
「おお、良き考えだ。これで遺骸がないことも誤魔化せる。悲劇性も増すだろう」
隠蔽と捏造が何よりも得意な老人たちは、聖女の死を速やかに脚色していった。
会議場を後にし、薄暗い廊下を進む。
二人の手駒がシンジュラを待っていた。
「お疲れ様です! シンジュラ様」
抱きついてきた少女の腕を振り払い、シンジュラは構わず前に進む。
「もう、ひどいですぅ。いつまでたっても冷たいんだから」
「はは、もういい加減諦めるんだな。高貴なシンジュラ様が、お前みたいな薄汚れた女を相手にするわけがないだろう」
「はぁ? あんた、何言ってくれてるわけ? この美少女のどこが薄汚いって?」
「事実だろうが。数えてみろ。何人の男と寝たんだ? オレが知ってるだけでも――」
指折り数える男を、少女が憤慨して止めようとしている。しかし身長差もあって、上手くいかなかった。
少女の名前はマリー、もう一人の大柄の男の名前はオトギリという。
シンジュラに忠誠を誓い、野望成就のために動く便利な手下であった。
「嘘ですからね! そんなにはいません!」
「……どうでもいい。うるさい」
シンジュラが侮蔑の視線を向けると、マリーは嬉しそうに頬を赤く染めた。思わず舌打ちが漏れる。無反応を貫くには目障りだし、どれだけ痛めつけても喜ぶのだから始末に負えない。
「それにしても、レンフィのことは本当に惜しかったな。どうせ死んじまうなら、手を出しておけば良かった。シンジュラ様の妻になるから我慢していたというのに……あの澄ました顔、泣かせてやりたかったな」
「うわ、最っ低。レンフィ先輩のこと、そういう目で見てたんだ……」
「そりゃ見るだろう。あんだけの美少女、めったにいない」
マリーが吐き捨てるように言った。
「そう? 無表情で気持ち悪くなかった? 本当に動く人形って感じだった」
「お前も相当最低だぞ。あの子はお前のことも、妹の一人として守ろうと頑張っていたのに」
「は? 知ったことじゃないわ。まぁ、可愛そうだとは思うけどね。男を知らずに死んじゃうなんて」
シンジュラがレンフィに指一本触れていないことを、マリーもオトギリも知っていた。優しく声をかけたこともない。恋人とも婚約者とも呼べないような冷たい関係――さながら主人と奴隷のようだった。
だから二人ともレンフィには遠慮がない。死んだと分かっても、「あーあ」という感想しか抱かなかった。
同じ教会で育った家族であり、ともに戦場を駆けた友であっても、聖女レンフィは便利な道具であり、価値の高い生贄としか見ていなかった。
「それは分からないだろう。二か月近く生きていたんだ。何があってもおかしくない。オレの予想だと、山賊に捕らえられて慰み者になって、ボロボロになって打ち捨てられて死んだんじゃないか? それなら見つからなかったことにも説明がつくぞ」
「何それ、悲惨ー!」
マリーがけらけらと下品な声をあげて笑う。
さすがに許容できなくなって、シンジュラは口を開いた。
「仮にも神に仕える者が、聖堂内で下卑た話をするな」
「わたしがお仕えしているのはシンジュラ様だけです!」
「ならば、なおさら慎め。馬鹿なのか?」
今度はオトギリが大きな声を上げて笑った。
叱る時間が惜しく思えて、シンジュラは歩みを速める。
「しかし、実際どうするんだ。妻となる娘が必要なんじゃないか? 野望のためには子どもが必要なのだろう?」
「……ああ。しかし、レンフィの代わりならどうとでもなる」
マリーが喜色満面に手を挙げたが、男二人はそれを無視する。
「この国の娘は猊下の手前、手を出しづらい。だから他国から攫う。黒脈の姫なら僕の魔力にも見合うだろう。ただ、負け犬どもの姫では魔力が弱すぎるから、敵対三国の姫になってしまうが」
「それはいい。黒脈の一族なら美人は約束されてるし、どうせ戦って潰すつもりだったしな。どこの国にする? ああ、と言っても、ムドーラは除外だな。確か姫は一人しかいない。しかもまだ子どもだ」
シンジュラは薄く笑った。
「年齢などどうでもいい。どうせただの人形……しかし、やはりムドーラは避けよう。あの国の今の王は、なかなか手強そうだから」
「シダール王か……シンジュラ様の敵ではないと思うが」
「当然だ。単に効率の問題さ。初戦で手間取りたくない」
「そうか。まぁ、よその国の方がお姫様もより取り見取りだ。さっそく準備に取り掛かろう!」
春に向けて、マイス白亜教国も動き出す。
聖女レンフィが生きていることを知らぬまま。
あの夜を境に、白と黒の運命が大きく狂い出していた。
第二章・完
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