29 芽生える利己
カルナたちとともに、レンフィは大広間に戻った。
ちょうどリオルもマグノリアへの挨拶と歓談を終えて、一階に降りてくるところだった。視線が交錯する。
「ふふん、わたくしとオレットは、お兄様たちに挨拶に行ってきますね。ではまた!」
「はい。ありがとうございました」
カルナが軽やかな足取りで二階へ向かい、すれ違いざまリオルににっこり微笑んでいた。
「姫様と一緒だったのか?」
「うん。少しお話ししていたの」
リオルがちらりと周囲を見渡した。何人かがレンフィを見て、ひそひそと噂話をしている。
「そろそろ酔っ払いが増えてきたし、帰るか。塔の部屋まで送ってやるよ」
「え、いいの?」
「ああ。この格好疲れるし」
手近にいた第三軍の部下にバニラとジンジャーへの言付けを頼むと、リオルはレンフィを先導するように大広間を出た。
人気のない廊下を進む。宴の喧騒がどんどん遠ざかっていく。
「マグノリア様は良い方だな」
「! うん、とても素敵な方だと思う」
リオルの不意の言葉に頷き、レンフィは嬉しくなった。と同時に少しだけ胸が痛む。マグノリアは華やかな美貌と抜群のプロポーションを兼ね備えていながら、中身は大層可愛らしい。男性から見ても魅力的だろう。
しかしリオルの目にもそう映るのかと想像すると、なぜか落ち着かない気分になった。
「陛下と、すごくお似合いだ」
「……うん」
「本当、陛下の機嫌がいつになく良くて、俺も嬉しかった」
あっさりとしたリオルの様子に、瞬く間に心が軽くなった。
一瞬よぎったモヤっとした感情の意味を考える。答えが喉元まで来たところで、リオルが次の話題に移った。
「詳しい事情は教えてもらえなかったけど、お前、相当頑張ったみたいだな。マグノリア様はもちろん、陛下も認めてた。それだって珍しいことだぜ」
「えっと、頑張ったって言っていいのか分からないけど……」
確かに大変だった。
連日にわたる解呪も、マグノリアの説得も。
困惑気味に唸るレンフィを見てリオルは声を上げて笑った。
「苦労したんだなぁ。でもとりあえず一段落したんだろ? じゃあご褒美やるよ。何かあるか?」
その言葉に、レンフィの脳裏には一つの映像が浮かんだ。
しかしすぐ首を横に振って映像を霧散させる。
「ううん、いいよ。そんなの……」
「遠慮するなって。なんでもは無理かもしれねぇけど、俺にできる範囲のことなら。例えば……変装すればまた町に行くのを許してもらえるかな。それともトナカイのそりに乗せてやろうか? 馬でもいいぜ」
その提案も楽しそうだが、一度した想像が何度も蘇ってきてしまい、頷けなかった。
リオルにしてほしいこと。
やはり一番の願いを口に出すことはできず、レンフィは次点の願いを躊躇いがちに言う。
「じゃあ……手を、繋いで歩いてほしい」
「……手?」
「う、うん。お部屋までの間でいいから」
思わずといった様子で立ち止まり、リオルがまじまじと見下ろしてきた。レンフィは理由を聞かれたらどう説明しよう、と胸を高鳴らせて待つ。
「……ほら」
結局リオルは何も言わずに手を差し出してくれた。ゆっくりと手を重ねると、ぎゅっと握りしめられる。
温かくて力強い。自分のものとはまるで大きさが違う。
「なんか照れる……手なら前にも繋いだことあるよな?」
「うん。何度か引っ張ってもらった」
「これ、ご褒美になってるのか?」
「なってる。すごく」
リオルは苦笑しつつ、歩き出した。
もうレンフィは彼の顔を見ることができなかった。心臓が生き急ぐように鳴り響き、頭の中で考えがまとまらなくなる。
「そういや、今日の服、町で買ってたやつだよな。よく似合ってる。すごく女の子って感じで可愛い」
「え! ……ありがとう。これ、バニラさんが選んでくれたの。リオルも今日……すごく格好良くてびっくりした。あ、でも、リオルはいつも格好良い」
混乱のあまり、自分が何を口走っているのか自覚することができていなかった。
「そ、そうかよ」
リオルもまた、もうレンフィの方を見なかった。
お互いにふわふわぎくしゃくしながら歩くうちに、塔の部屋に到着した。扉の前でどちらともなく手を離す。
途端に寂しくなってしまい、レンフィは繋いでいた手をもう一つの手で包み込んだ
「送ってくれてありがとう」
「ああ。……あのさ、ちょっと部屋の中に入ってもいいか? 話があるんだ」
「え、うん。どうぞ」
レンフィはどぎまぎしつつ、リオルを部屋の中へ通した。
夜の部屋に男性と二人きり。いけないことのような気がする。どのような話だろうと考えるだけでドキドキした。
リオルはからかうような笑みを浮かべた。
「白状しろ。本当は、別のこと考えてただろ」
「えっ?」
「俺にしてほしいこと。本当に手を繋ぐので良かったのか?」
「……う、うん」
「嘘つくのが下手過ぎだな……いいのか? 嘘つきは精霊様に嫌われちまうんだぜ」
「う……」
レンフィはたっぷり時間をかけて葛藤した後、顔が溶けるような羞恥を感じながら白状した。
「本当は」
「うん」
「リオルに、抱きしめてほしかった……」
面食らったように目を見開くリオルに、レンフィはやはり言わなければ良かったと思い、俯く。
ご褒美と言われて思い浮かんだのが、シダールとマグノリアの抱き合う姿だった。
あの二人がたまらなく羨ましい。
誰かを愛し、愛されること。抱きしめられたらどんな心地なのだろう。どれだけ幸せだろう。
空っぽだった自分の中に、そんな憧れが生まれていた。
「あ、あの、ごめんなさい……ものすごく変なこと言って……もういいから」
また図々しいことを口にしてしまった。
リオルを困らせてしまったことへの後悔に苛まれていると、ふいに体が引き寄せられた。
「これでいいか?」
とても優しく抱きしめられて、レンフィは息を呑んだ。
「っ……え、えっと、あ、ありがとう」
リオルの腕の中で頷く。
自分の体が熱い。心臓が脈打つ度にじんじんと痛む。息をするのもつらいほどなのに、心の中はどんどん満たされていく。
不思議だった。彼と密着するのは初めてではないのに、前とは全然気持ちが違う。
「一つ確認したいんだけど、俺にしてほしかったんだよな? 誰でも良かったわけじゃない?」
「うん……」
「そっかぁ」
そのままリオルは大きなため息を吐いた。やっぱり迷惑なことを頼んでしまったのだと離れようとしたが、彼の腕はピクリとも動かない。
「どうすっかな、これ……」
「リオル?」
「もう少し」
レンフィとしては何も不満はなかった。少し心に余裕が出てきたので、ぴたりと頬を彼の胸板に付ける。
「気に入ったのか?」
「うん。ご、ごめんね。本当はこういうこと、あんまりしちゃダメなのに」
「そういう意識はあるんだ」
「だ、だって……普通は……あ、愛し合ってないと」
再び余裕を失い、声が消えていく。
これが愛情表現の一つだということくらいは知っている。触れたい、触れられたい、そんなことを思う相手はごくわずかで、特別な人だけだ。
レンフィはたった今、自分の真の望みを知った。
「なんだ、分かってるのか。そうだな。好きじゃなきゃ、こんなことしない」
抱きしめる腕の力がやや強くなった。珍しく拗ねたようにリオルは言う。
「俺は……お前のこと、可愛いって思ってる。こういうことしてたら好きになっちまうだろ。どうするんだよ」
悲鳴を上げなかった自分を褒めてあげたい。今度こそ心臓が止まるかと思った。
「ご、ごめんなさい」
「……俺はフラれたのか?」
「ち、違う。そうじゃなくて」
涙目になりながら、レンフィは正直に告げた。
「私、リオルのことが、一番好きなの……」
「それ、絶妙にずるい言い方だな。せめて、どういう種類の好きか言ってくれ」
「え、無理。まだ分からない。無意識に考えないようにしてたみたい……だって、もっと好きになったら、迷惑に」
「迷惑かどうかは俺が決める。でも、踏みとどまるなら今かもな」
リオルの声が不穏な気配を帯びる。
欲に流されかけていたレンフィは、目の覚めるような思いがした。
「このままいけば、春以降もお前は生きられる。少なくとも陛下はお前を殺すつもりはないみたいだ」
「…………」
「でも、陛下が守ってくれることもない。もしかしたら、今までよりも危ない立場になるかもしれない。それは分かるか?」
少し考えてから頷くと、リオルがレンフィの背を撫でた。
「前に言った通り、俺が守ってやる。俺が留守の間も大丈夫なようにする。でも、嫌なら言ってくれ。俺に守られるなら、心の準備っつーか……覚悟がいる」
「覚悟」
恐る恐る顔を上げると、怖いくらい澄んだ金色の目に囚われてしまった。
彼のこんな暗い表情は初めて見る。目を逸らせない。
「春になったら、俺はまた国境の砦に行って、白亜教国と戦う。それが俺の仕事だ。後で分かって嫌な思いをするよりも、お前に今から覚悟をしておいてほしいんだ」
もう瞬きもできないレンフィに、リオルは淡々と告げる。
「俺はお前の家族や、仲間や友達を殺しにいくんだ。もしかしたら、好きだった男もいるかもしれねぇな。お前が覚えてなくても、向こうはお前のことを覚えていて、今も心配して探しているかもしれない。そいつらから話を聞けば、昔の自分を取り戻せるのに、俺はその可能性を潰すんだ。……それでもお前は、俺の前で笑っていられるか?」
腕の力が緩み、体が離れると、ようやく呼吸ができるようになった。深く息を吸って吐く。
「ごめんな、レンフィ。めちゃくちゃ残酷なこと言ってるよな。でもこの件に関しては、お前の気持ちは一切考慮できない。どれだけ頼まれても、泣かれても、お前を好きになっても、俺は戦うことをやめない。戦場で目の前に立ちはだかった奴は全員殺す」
リオルの瞳が強い意志の光を宿して揺れている。甘い色は微塵もない。
レンフィは今更のように思う。
自分とリオルは敵同士だった。命懸けで戦い、殺し合ってきた。しかし自分が戦えなくなっても、リオルの戦いは相手を変えて続いていく。
知っていたはずなのに、ようやく理解した。
なんて悲しい。
かつての自分が大切にしていた人を、今の自分が最も心を寄せる男が殺しに行く。
過去の自分が生きた証が壊されてしまう。
レンフィは自分の心がおかしくなってしまったように感じた。
悲しいことのはずなのに、なぜか嬉しいのだ。
リオルがここまで自分のことを考え、心配してくれる。
覚えていない誰かのことよりも、今目の前にいる男の方がよほど大切で愛しい。
戦争しないに越したことはないけれど、どうしても戦いが避けられないのであれば、勝ってほしいのはリオルだ。
違う。絶対に死んでほしくない。彼を喪うくらいなら……。
その残酷な思考に震えた。
やはり自分は聖女とは程遠い存在だ。なんて自分勝手で、汚い心だろう。
かつての自分は、誰かの大切な人を奪い続けていたのに。
「……大丈夫」
レンフィは芽生えた気持ちと裏腹に微笑んだ。
「私……今の私は、リオルが一番大切だから。昔の私に大切な人がいるかは分からないし、もしいたとしたら申し訳ないけど……私が失ったモノは二度と戻らない。記憶も、気持ちも」
心を整理する余裕のないまま、言葉を紡ぐ。
「私のことは気にしないで。昔のことは、もう、いい。何があっても傷つかない」
「レンフィ……無理しなくていいんだぞ」
「あ、あの、上手く言えなくて……違うの。目を逸らしたいわけじゃなくて」
レンフィを落ち着かせるように、リオルがそっと肩を叩いた。
「いいよ。今すぐ答えを出さなくても。お前の心が落ち着くまで、待ってるから」
「…………」
どれだけ残酷なことを言われても、やっぱりリオルは優しいと感じてしまう。気づいてしまったら、踏みとどまることなんてできそうにない。
レンフィはゆっくりと息を吸い込んで、心に残った言葉を吐き出す。
「ありがとう。守るって言ってくれて、嬉しかった。でも、ただリオルに守られてるだけじゃダメ。負担になりたくない。もっともっと頑張って……鍛える。私は、リオルにふさわしい人間になりたい。それでね――」
春まであと一か月と少し。
レンフィの命の保証期間と、リオルが戦いに赴くまで、あと僅か。
まだできることがある。いくらでも頑張れるはずだ。何かをせねばという使命感に突き動かされていた。
叶えたい願いを持ってしまったから。
「あなたとこの国で、笑って生きていきたい。……もっと好きになっても、いい?」
リオルはこれ以上ないほど嬉しそうに笑った。
「ああ、もちろん」
再びぎゅっと抱きしめられて、今度はレンフィも彼の背中に腕を回した。
冷静に考えると、とても恐ろしい選択をあっさりしてしまった気がする。じくじくとした罪悪感で、一度目ほど幸せに浸ることはできなかった。
それでも、もう彼から離れることは考えられなかった。未来の自分がこの時のことを後悔するかもしれない。だけど、他にどのような選択肢もなかったのだと納得するだろうと確信していた。
いるかどうかも分からない誰かに、レンフィは心から謝罪し、目を閉じた。
ごめんなさい。私はあなたを裏切る。どうかあなたも、私を忘れて――。




