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覚えてなくて、ごめんなさい〜囚われ聖女の第二の人生〜  作者: 緑名紺
第二章 聖女と魔王、そして魔女

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20 血塗られた婚姻

 


 八年前。

 第三王子だったシダールは、当時の宰相の娘であり、城仕えの魔法士として働いていたマグノリアを熱心に口説いていた。

 政略の類は一切関係なく、その美貌と気の強さに惚れ込んだのだ。

 シダールが十八歳、マグノリアが十九歳の時である。


「え……」


 冒頭から信じられず、レンフィは目を瞬かせた。

 シダールが積極的に女性を口説く姿が想像できなかった。


「手に入りにくいものほど、執着してしまう。それが人間の性だ。神の血を引こうが魔王と呼ばれようが、我も人間であったということだ」


 恐ろしいことに、マグノリアはシダールの求愛をことごとく袖にしたのだという。本人は魔法士としての仕事が楽しくて仕方がない時期で、恋愛にも結婚にも興味を持っていなかったらしい。

 美しい王子の気を惹こうとする女たちが溢れる中、マグノリアだけは徹底してシダールを避けた。

 その態度がまた、シダールの狩猟本能を煽っていた。諦める気など微塵もなく鬼ごっこは続く。マグノリアは呆れつつも、時折笑顔を見せるようになった。


「あと一息で手に入るところだったというのに……あのクズが横から奪っていったのだ」

「奪って……?」


 十歳上の兄、第一王子のアークス。

 彼は公務をシダールに押し付け国境の砦に向かわせた隙に、マグノリアに手を出した。生意気なシダールへの意趣返しだったらしい。既成事実を盾にあっという間に婚礼まで済ませてしまった。

 アークスは父王ヒノラダのお気に入りで、望めば大抵のものが与えられた。権力を振りかざしてやりたい放題だったのだ。


「そんな……マグノリア様が可哀想です」


 何もかもがひどい話だった。

 例えばアークスがマグノリアを愛しているのなら、まだ少しは救いがあった。しかし弟への当てつけが目的で結婚を強要するなど、信じられない。マグノリアの心がシダールに傾いていたのだとしたら、本当に最悪だ。


「当然黙ってなどいられぬから、事態を知ってすぐにアークスを殺しに行った」

「え」

「しかしマグノリア本人に止められたのだ。『これで自分は未来の王妃。邪魔をするな』と」

「えぇ!?」


 レンフィの同情の天秤は、一気にシダール側に傾いた。


「どうしてそんなことを……話を聞く限り、マグノリア様は王妃の地位に興味なさそうですが」

「さぁ、なぜだろうな?」


 含みのある笑みを浮かべ、シダールは話を続けた。


 マグノリアの頑なな態度を見て、シダールは退いた。

 ここでアークスを殺すのは簡単だ。しかし、マグノリアの言動に裏があると確信していたのだ。宰相の地位にいる父、あるいは実家の弟妹の将来を守るためか。


「もしくは、自分が国の荒れる原因になりたくなかったのかもしれんな」

「なるほど……マグノリア様の気持ちだけの問題ではないのですね……」


 誰かを守るためにその身を犠牲にする。

 その尊さと悲しい覚悟に、レンフィは胸を痛めた。


「そう、マグノリアだけの問題ではない。以前から思っていた。父も二人の兄もあまりにも無能過ぎて、臣下と民が哀れでならなかった。黒の神の血にそぐわぬ粗悪品……この地から処分すべき不要物だったのだ」


 マグノリアを奪われたことが全てではないが、一つのきっかけではあった。

 それからシダールは水面下で支持者を増やし、王位簒奪の時を待った。


 そして四年前、“黒脈の共食い”。

 父王ヒノラダの影響でムドラグナの一族は腐りきっており、実の母は病没していた。遠慮をする必要はどこにもない。止める者もいなかった。

 その日、城は大量の血で染まった。


 シダールはまず、玉座でふんぞり返っていた父の首を刎ねた。すぐそばで腰を抜かした第二王子も心臓を一突きにし、あらかじめ呼びつけておいた傍系の一族も逃げ場を塞いで順番に始末した。

 アークスだけはいち早く逃げ出していたが、軍人たちが出入り口を封鎖していたため、城に閉じ込められていた。それからは恐怖の鬼ごっこである。その辺りのお膳立ては、シダールの今の臣下たちが完璧に用意していた。

 そのとき、王や王子のために立ち塞がる者はほとんどいなかった。数か月前に起きていたオンガ村の虐殺の対応で、臣下の心は完全にヒノラダ王から離れていたのだ。


「しかし、軍も騎士団も従者たちも大人しく従ったが、一人だけ道を譲らなかった男がいた」


 マグノリアの父はシダールにひれ伏し、乞うた。


『新たなる王よ、どうか私の死と引き換えに、私の家族の命をお助けください。そして、ムドーラ王国に勝利と安寧を』


 宰相は、アークス夫妻の居室へ続く扉の前で自ら命を絶った。あれは惜しい人材だった、とシダールは嘆息する。


「部屋に入ってみて驚いた。アークスは、マグノリアを盾にして命乞いをしてきたのだ。『返すから許せ』と、泣きながらぶるぶる震えていてな。声を出して笑ったのは久しぶりだった」


 シダールは躊躇いもなく、アークスを圧倒的な魔力の炎で塵にした。

 その後貴族の粛清と内乱を鎮めると、シダールは周囲の反対を押し切ってマグノリアを王妃として迎えた。最初は喪に服したいと断っていた彼女も、最終的には妃になることを受け入れた。


 しかし。


「新婚初夜に、マグノリアが我が背に爪を立てて呪った。以上だ」


 レンフィは治療を続けながら、小さく唸った。

 聞いたのを後悔するくらい壮絶で、レンフィには理解が難しい部分もあったが、大筋は分かった。


「会ったことのない私が言うのも申し訳ないですし、亡くなった方を悪く言いたくはないのですが……アークス様はとてもひどい方だと思います」

「そうだな。父と並んで、下劣の極みであった」

「それでも……マグノリア様は、アークス様を愛していたということでしょうか……?」


 王妃になるのが目的ならば、素直にシダールの妻になればいい。しかし彼女はそれを拒み、城を出た。

 たとえ強引な婚姻であったとしても時を重ねるにつれ、愛が育まれていたのだろうか。だからこそ、目の前で夫を殺されたことを許せず、シダールを呪ったのか。あるいは父が死んだことも原因なのかもしれない。


「こんなに痛ましい傷を……」


 レンフィは、無意識のうちにシダールの背に指を伸ばしていた。この傷をつけたとき、彼女はどんな気持ちだったのだろう。

 今は、どんな想いを抱えている?


「……っ」


 指が肌に触れるかどうかというとき。

 おぞましい気配が脳を揺らした。

 熱く、黒い、まとわりつくような激しい感情の波。レンフィに向けられた刃を突き刺すような強い敵意。


「え?」


 レンフィが腰を抜かして距離を取ると、気配は跡形もなく消えた。

 心臓が嫌な音を立て始める。今触れた激情をレンフィは知らない。


「断言しよう。マグノリアはアークスを愛してなどいない。あれの心は、今も昔も我のものだ」

「シダール様……」

「でなければ、お前にここまで嫉妬せぬだろう」


 嫉妬。

 その言葉を口の中で何度も反芻し、飲み込む。


「いつまでも素直になれぬ可愛い女だ。どうにか取り戻したいのだがな……どうだ、レンフィ。男女の愛は難解だろう」

「……そうですね。私にはよく分かりません」


 愛しているのならなぜシダールを苦しめ、遠ざけるような呪いをかけるのか。

 もしかしたら、何か勘違いやすれ違いがあるのかもしれない。そうであれば、二人に必要なのは話し合いだ。


「私、頑張ります。この呪いが解ければ、シダール様はマグノリア様とお話してくださるのですよね。このままでは悲しすぎます。できれば、お二人には仲直りしてほしいです」


 俄然やる気を出し、レンフィは霊力を集中させる。


「良いのか? マグノリアが妃として城に復帰すれば、お前は用済みだ。もしもあれの気に障るようなら、お前には消えてもらうことになる」


 シダールが頬杖をついて振り返り、試すような視線を寄越した。

 しばし考え、レンフィは頷く。


「ここで何もお役に立てなければ、同じことだと思います。なら、このまま呪いを解くお手伝いをさせてください」

「潔いな。もしや解呪できれば殺されないと、たかをくくっているのか? カルナやリオルがどれだけ庇おうが、殺すと言ったら殺すぞ」

「はい、分かっています」


 シダールは白けたように言う。


「本当に良いのだな? これは教国への裏切りにもなりうるぞ。どうせ死ぬのなら、敵国の王のことなど放っておけばよいものを」

「そんなわけにはいきません。私は、シダール様にはとても感謝しています。すぐに私を殺さずにいてくださったことも、大切なことを話してくださったことも。少しでも、私を信じてくださったのなら嬉しい。お礼をさせてください」


 自分の命に関わることにも拘わらず、不思議とレンフィは落ち着いて受け答えができた。


 一か月半前、囚われてすぐ殺されてもおかしくなかった。自由に出歩けず、ひどい環境の中で閉じ込められるはずだった。

 呪いを解く可能性があり、それを試すために生かされていただけだとしても、もっと手荒な方法で強要することもできた。こうして事情を話もしなかったはずだ。


 空っぽだった自分をこの国の王が少しだけ認めてくれた。

 それが分かり、救われた気分になった。


「教国のことは、正直よく分からないのです。かつての私にとっては大切な故郷だったのだとしても、今の私にとっては知らない国……でも、この王国の方たちには随分優しくしていただきました。たとえどんな思惑があったとしても、敵だとは、もう思えません」


 この国にはリオルがいる。バニラとジンジャー、医務室や第三軍の面々、カルナ姫とオレットにもたくさんお世話になった。

 たとえそれ以外の全ての人々が自分を憎み、死を望んでいるのだとしても、今の自分は決してこの王国と敵対しようとは思わない。


「この国の方々は、みんなシダール様が大好きです。だからこうしてお役に立てれば、お礼とお詫びができますよね。頑張る機会をいただけて、良かったです」

「……本気で言っているのか?」

「え? はい」


 シダールが呆れたようにため息を吐いた。


「あまりにも無欲すぎると鼻につくのだが。望みはないのか」

「それは……できれば生きたいです。でも、それが簡単に許される立場にないので……何もしないより、私にできることがあるなら……」


 これが償いの機会の一つならば、たとえ自分の死に近づく行為であったとしても、手を抜くことは許されない。

 そもそも、ここまで来たらレンフィには選択肢はなかった。ならば、脅されて仕方なく働くより、心からの感謝を込めて解呪したい。

 レンフィは少しだけ物事を前向きに考えられるようになっていた。


「まぁ、良い。……マグノリアとどうなろうが、春まではお前の命を保証する約束だ。せいぜい我が役に立て」

「はい」


 レンフィは改めて気合を入れ、光で呪いの傷を照らす。


「それにしても……背中にこんなくっきり爪の痕がつくなんて、すごいですね。どういう状況だったのですか?」


 顔や手などの最初から露出している肌ではなく、マグノリアがわざわざ背中に爪を立てた理由がレンフィには分からなかった。また、途中でシダールがマグノリアを突き飛ばすなどして、距離を取らなかったのが不思議でならない。きっと痛かっただろうに。

 シダールはかつてないほど楽しげな声で言った。


「背中に女の爪痕がつく状況か。リオルにでも聞いて見ろ。きっと面白い反応が見られるぞ」

「え、リオルに? は、はい……」


 リオルのことを考えると、心に光が満ちて、少しだけ治癒術の効果が上がった。

 それからレンフィは、何度か休憩を挟みつつも、傷口に霊力を注ぎ続けたのだった。




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