義弟と一夜の過ちを犯したら過ちじゃなくなった
ラベンダーの花が咲き始めた夏の初め。
十歳の私ミレイアは、亡き母が愛した庭にしゃがみ込み、柔らかな陽のあたたかさを含んだ土に触れていた。
庭の空気は穏やかで、私をどこか懐かしい気持ちにさせた。
母の死以来、屋敷の中はどこか冷たくなっていたけれど、この庭だけは違う。
だから私は毎日自分で花壇の手入れをする。
泥にまみれた指先を見つめる時間が好きだった。
ある日のこと、父が一人の美しい女性と、その傍らに立つ少年を連れて帰ってきた。
淡い金色の髪と、深い翡翠のような目をした子。
まだ幼さの残る顔立ちに、薄く青痣があるのが見えた。
「今日から一緒に住むことになった。よくしてやってくれ」
それが、私とラルフの出会いだった。
彼は父の再婚相手の連れ子。
つまり、私とは義理の姉弟ということになる。
あとで知ったことだけれど、彼は実の父親に暴力を振るわれてきた挙げ句、いらないと言われて義母共々置き去りにされたらしい。
父と義母の出逢いは何だったのか、父が語ることはなかったので、ついぞ私が知る由はなかったけれど、母が存命の頃からの付き合いでないことを祈った。
とはいえ、それは彼には些末な問題。
急に家に連れられて戸惑っているのが目に見えてわかった。
誰にも期待せず、誰も頼らず、存在を小さくして生きてきた彼は、まるで風のない部屋にいる鳥のようで、私は手を差し伸べることを迷わなかった。
「はじめまして。ミレイアです。よろしくね」
たとえ形だけでも、彼の手の中に温もりを与えたかったのだ。
それから、ラルフは屋敷での生活を始めた。
彼は控えめで、誰かと深く関わろうとしなかった。
食事の場でもほとんど喋らず、人と目を合わせるのも苦手な様子だった。
使用人たちもそんなラルフとどう接したらいいかわからず、無意識に彼を遠巻きにしていた。
でも私は見ていた。
部屋の隅で本を読みふける姿。
夜中に一人で庭を見つめていたときの寂しそうな横顔を。
だから私は、ある日彼を庭へ連れていった。
鮮やかな紫に染まった噴水の傍の一角へ。
「ラルフ、お花は好き?」
「……わからない」
「母がね、心が寂しくなったときは、好きな花を見なさいって言ってたの。私ラベンダーが好きよ。キレイで、それにほら、とってもいい香りでしょう」
彼は黙って小さく頷いた。
「そうだわラルフ。ここに一緒に苗を植えましょう」
「苗……?」
「ラベンダーの花言葉はね、『幸せが来る』っていうの。ね、ピッタリでしょ? ラルフがこの家に来てくれて、弟が出来て、私とっても幸せだもの」
一瞬面食らって、それからラルフは笑った。
初めて見る笑顔は天使のように可愛らしくて、つい抱きしめたくなったのを覚えている。
あのときのラベンダーの香りは、今でも記憶に新しい。
ラルフは静かに成長していった。
学問に秀で、貴族としての礼節を学び、やがて父の会議にも同席するようになった。
けれど彼は変わらず、私の前では穏やかで控えめだった。
私に対してだけ、優しい特別な笑みを見せることを除いて。
ある年、私が風邪で寝込んだことがあった。
庭のラベンダーが荒れていると知ったラルフは、自分の手で土を掘り返し、苗を植え直してくれていた。
その姿を窓越しに見つけたとき、私は胸の奥が痛んだ。
「ミレイア姉さんが……好きだったから、枯らしたくなかった」
顔を土で汚してそう言った彼の声が、やけに心に残った。
姉さまと呼ばれても、彼のその優しさは、どこかそれ以上の想いに聞こえたけれど、私はそれを口に出せなかった。
姉としての立場が、貴族の娘としての義務が、私の口を塞いでいたから。
私が成人を迎えた年の冬、父の部屋に呼ばれた。
暖炉の火が赤く揺れていた部屋で、父は振り返らずに告げた。
「お前の婚約が決まった。相手はノルヴィレ侯爵家の嫡男だ」
淡々と。
そこに私への祝福はおろか、気遣いの一つも感じられない。
「……私の気持ちは、関係ないのですか?」
「貴族の娘には相応の務めがある。お前もわかっているだろう。家督はラルフが継ぐ。あれはそのために養子に迎えた」
その言葉に、私は何も返せなかった。
涙も出るでもなく、ただ心が凍りついたようだった。
貴族の娘としての人生を、私は否応なく受け入れさせられたのだ。
「話は終わりだ。部屋に戻れ」
「……失礼いたします」
部屋から出ると、廊下でラルフと鉢合わせた。
「姉さん」
「ラルフ……」
「何かあったの?」
優しくかけられた声に肩が震えた。
何でもない……そう言おうとして、声の出し方を忘れた。
息が出来ない……肺の奥から変な音がする。
私は咄嗟にラルフに背を向けて走った。
どんな顔をしていたのだろう。
少なくともこんな沈んだ気持ちの顔を見られたくはなくて、部屋に戻って頭を枕に埋めた。
私を見ないで。声を聞かないで、と。
年が明け、冬を越し、私の縁談は着々と進んだ。
婚約者の相手は、私よりも少しだけ歳上の男性。
彫像のようにたくましく、それでいて紳士的で、自らも率先して領地の経営を営む、非の打ち所のない人格者だった。
婚約発表の夜会の席で、私は理想の婚約者として振る舞った。
社交界の華。
誰もが羨む令嬢。
だが、笑顔の下に本心は無い。
婚約者の彼に不満など、ほんの僅かでもあるわけがない。
だけど、どれだけ私を好いていてくれていても、私の心は……
ワルツの途中、私は踵を返し、誰にも気付かれぬよう会場を抜け出した。
庭園の奥の噴水の傍。
あの日一緒にラベンダーの苗を植えた、私たちの思い出の場所。
彼はまるで私が来るのをわかっていたかのようにそこにいた。
真っ直ぐに私を見て、微笑みもせず、ただ静かに言った。
「ミレイア姉さん……。……おめでとうございます」
今にも消え入りそうな声だった。
けれどそんな言葉が聞きたいわけじゃなくて、私はつい意地の悪い返しをした。
「祝ってくれるの? 優しい弟ね」
「……もちろんです。僕は……姉さんの……」
「本当に? 本当に、祝ってくれるの?」
ラルフは私から目を背けた。
私は頭が沸騰しそうになりながら彼に詰め寄った。
「本当に、心から祝ってくれる? 幸せになれって、言ってくれる?」
すると、ラルフは震えながら呟き、腕を私の背中に回した。
「やっぱり無理です……。祝うなんて……あなたが、誰かのものになるのが……どうしても耐えられない」
いつの間にか私より背が高くなっていた。
力もこんなに強く。
骨が軋みそうになるくらい、ラルフは私を抱きしめた。
「やめて……。私たちは……家族でしょう?」
ずっと蓋をしてきたのに。
こんなの……
「僕はあなたを姉として見てなんかいなかった……。ずっと、ずっと……こうしたかった」
彼の手が、私の頬に触れた。
「あなたが手を差し伸べてくれた日から、ずっとあなたに恋をしてた。好きだ……愛してるんだ……」
火照り。背徳。激情。禁断。熱。愛。
様々なものが一瞬で身体の中を駆け巡った。
「どうか受け入れて。僕のこの思いを、どうか」
堰が切れた私の……私たちの理性は、もう何も止められなかった。
早馬を飛ばしたその夜、領地の端の使われていない別邸で、私はラルフに抱かれた。
余すことなく身を捧げた。
それは長い長い時間の中で育ってきた愛が、やっと形になったというだけのこと。
情熱的に唇を交わし、肌を重ねながら甘い時間に揺蕩い、何度も愛を囁いているうち、いつしか私は気を失っていた。
翌朝目を覚ますと、彼はベッドの傍にいた。
夢じゃない。
身体の痛み熱は、まだ確かにここにある。
「おはよう、ミレイア」
その一言に、私は目を見開いた。
「今、名前……?」
「姉さん、じゃない。これからはあなたを名前で呼びたいんだ。地位も名誉も要らない。僕はこの世界の誰よりもあなたを愛する。生涯をかけて守り抜くと誓う」
ラルフは私の手に小さな革の袋を握らせた。
中にはラベンダーの種が。
「ミレイア、僕と一緒に幸せになってくれないか」
その言葉に胸が熱くなった。
私は泣きながら彼の胸に顔を埋めた。
「もう、順番がめちゃくちゃじゃない。プロポーズより先に……なんて」
「ゴメン……」
「ううん……。嬉しいわ。愛してる、ラルフ。私も、あなたと幸せになりたい」
もう姉ではない。
私はラルフだけのミレイアになると決めた。
そして今、私たちは国を離れた遠い港町に住んでいる。
誰も私たちの過去を知らないこの場所で、白い家と小さな庭に囲まれて。
「ミレイア、起きて。パンが焼けたよ」
「ん……ラルフ、あと少しだけ……」
そんなありふれた朝が、何よりも愛おしい。
あの後、私たちが消えたことは騒ぎになったと風の噂で聞いた。
父は捜索隊まで派遣して国中を探し回ったらしい。
心配をかけてゴメンなさい。
迷惑をかけてゴメンなさい。
あれから数年が経った今も、ふとしたときに贖罪の気持ちが湧き上がる。
けれど赦しは要らず、後悔はしていない。
「ママ、起きて! はやく起きないと朝ご飯食べちゃうよ!」
あの夜のことは過ちじゃなく、全ての始まりだったのだから。
庭一面に咲いたラベンダーの香りの中、私たちはこの時を幸せに生きている。
義理の……が癖な当方です。
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基本は百合ファンタジーをメインにしてますが、短編のシリーズはサクッと読める恋愛ものです。
何かしら刺さるものがあるかもしれません。
興味がある方はぜひm(_ _)m




