40:今すぐ結婚してください!
どうしようもない孤独に苛まれ、一人きりの夜に押し潰されそうになったとき。五十嵐穂高が思い出すのは、小さくて温かい手の感触だった。
*
受け取ったばかりの卒業証書を片手に、穂高はほとんど何の感慨もなく校門をくぐった。クラスメイトは互いに笑い合ったり涙ぐんだりしながら別れを惜しんでいたようだが、穂高にはそんな友人もいない。愛想もなければ態度も悪く、放課後になると母の見舞いのためにすっ飛んで帰る穂高に対する周囲の評価は、「ノリが悪い、つまらない奴」だった。
それでも、たった一人だけ――最後に話をしておきたかったな、と思う人がいた。放課後の短い時間を共にして、他の奴には言えないような立ち入った話をして、ほんの少しだけ自分の内側に入ってきた女の子。
(……大汐、もう帰ったかな)
大汐真帆も、穂高と同じくあまり友人が多くないタイプである。クラスの女子と話している様子は見かけるが、それほど深い付き合いはなさそうだ。彼女が築く人間関係は淡白で、周囲とうっすら一線を引いているようにも見える。
表情に乏しく口数が少ないので、男子からの評価はおおむね「可愛いけどクールで話しかけづらい」といったところだった。別にクールなわけではなく、ただぼんやりしているだけだということを穂高は知っている。わりと深刻そうな表情で考え込んでいることが多いので、一度何を考えているのか尋ねてみたところ、「今日の晩ごはんのおかず」と返ってきた。
彼女とはひょんなことから帰り道を共にしていたが、母が死んでからは会話を交わすこともほとんどなくなった。穂高にとっては「カッコ悪いところを見られた」という気恥ずかしさもあったし、真帆の方も積極的に声をかけてはこなかった。
本当は、一言「ありがとう」と伝えたかった。母の死に直面したあのとき、もしも真帆がいなければ、穂高はきっともっと心細い思いをしただろう。何言わずに手を握ってくれていた真帆の存在に、どれだけ救われたかわからない。
穂高はふと思い立ち――自宅とは逆方向へと歩き出した。あの日以来足が遠のいていた、小鳥遊病院がある方だ。毎日のように、彼女と並んで歩いた帰り道。
祈るような思いで足を早めると、赤信号の横断歩道の手前で、髪をふたつに結んだセーラー服の後ろ姿を見つけた。
「……大汐!」
思っていたよりも、大きな声が出た。真帆は黒髪を揺らしてこちらを振り向く。少し垂れ目気味の瞳が、ふっと柔らかく細められる。
「五十嵐くん」
彼女の顔を見た瞬間に、ほんの少し心が浮き上がった。もしかしたら会えるかも、と思ってはいたものの、会えてよかった。穂高は真帆の隣に駆け寄る。
「もう帰るのか。早いな」
「五十嵐くんこそ」
「別に、残っててもすることもないし」
「私もだよ。早く帰って晩ごはん作る」
真帆の声のトーンはやや低く、うるさくなくて耳に心地良い。ややのんびりとした彼女の話し方は、穂高にとって好ましいものだった。
真帆はやや腰を屈めて、穂高の学ランの胸のあたりをまじまじと観察してくる。
「あれ。まだ第二ボタン残ってるね」
「残ってるけど……なんで?」
「うーん、私もよくわからないけど……みんな好きな男の子の第二ボタン欲しがってた」
「なんでだよ。藁人形に入れて呪いにでも使われるのか」
「そんな物騒なものじゃないよ。たしか第二ボタンは一番大切な人にあげる、みたいな意味だったと思う」
「ふーん。大汐が欲しいならあげるけど」
「私はいいよ。大事にとっときなよ」
真帆は笑って首を振った。今後学ランに袖を通す機会もないだろうし、彼女になら本当にあげてもよかったのだけれど、いらないと言うなら仕方がない。
信号が青に変わる。穂高は真帆と並んで、いつもより心持ちゆっくりと歩き出した。
「そういえば、話すの久しぶりだね。あ、星南受かったんだってね。おめでとう」
「ありがとう」
穂高は中学卒業後、私立の進学校に通うことになっている。真帆も地元の公立高校に受かったと、風の噂で耳にした。
今日が終われば、穂高と真帆の人生が交わることは二度となくなるだろう。なにせ穂高は、彼女の連絡先すら知らないのだ。礼を伝えるなら、最後のチャンスだ。
「その、大汐」
「なあに」
「えーと、なんだ……いろいろ、ありがとう」
どう切り出していいものかわからず、ようやくそれだけ伝えた。真帆には意味が通じなかったのか、キョトンと瞬きをして首を傾げる。それでも、穂高はおおむね満足した。
それから他愛もない話をしているうちに、あっというまに真帆のアパートの前についてしまった。真帆は「そういえば」と不思議そうに穂高の方を見つめる。
「五十嵐くん、家こっちじゃないよね」
「……ちょっと、用事があって」
「そうなんだ。じゃあまたね」
「ああ。……大汐、卒業しても元気で」
「うん。五十嵐くんもね」
真帆はそう言って、ひらひらと片手を振った。ずいぶんと軽い挨拶だが、もう二度と彼女に会うことはないだろう。穂高は踵を返して、来た道を引き返していく。
歩きながら、穂高は今しがた別れたばかりの真帆のことを考えていた。
できることなら、自分の知らないところで。優しい父親と一緒に、ずっと穏やかに過ごしてくれないだろうか。そういえば、彼女もいつかは結婚したいと言っていた。美人で性格もいいから、きっとこれから素敵な恋人ができるだろう。そして大人になって、大勢の人に祝福されながら、家族想いの優しい男と幸せな結婚をする。
他の男の隣に立つ真帆の姿を想像した瞬間に、胸の奥にほんの僅かな痛みを覚えた。心臓のあたりを左手で押さえて、ぴたりと足を止める。
(もし今振り向いて、まだ大汐がそこにいたら……連絡先を聞こう)
そう決意して、穂高はくるりと振り向いた。
アパートの前に、真帆の姿はなかった。結局、自分と彼女はその程度の縁だったということだ。穂高は小さく溜息をつくと、アパートに背を向けて再び歩き出す。
*
あの日の自分の選択を、穂高は何度も後悔することになる。
卒業したあとも、穂高は折に触れて真帆のことを考えていた。
彼女の言葉を思い出して、自分の名前を書くときは「丁寧に書こう」と気をつけていたし、異性からの告白にはできるだけ誠実に答えを出そうとしていた。父子関係は相変わらず冷え切ったものだったけれど、真帆の父の「家族だからって、無理して好きになることないんじゃないかな」という言葉が穂高の支えになっていた。
母の死が重くのしかかる、どうしようもなく辛くて寂しい夜には、自分の手を握ってくれた女の子のことを思い出した。大丈夫だよ、一人じゃないよ、とでも言うように、強く握り締めてくれた。あの手よりも優しくて温かいものを、穂高はついぞ知らないままだ。
そんなことを繰り返すうちに、穂高にとって大汐真帆が特別な女の子だったのだと、ようやく気がついた。
真帆のことは忘れられなかったが、女性ともそれなりに交際した。付き合った女性は全員どことなく真帆に似た雰囲気で、義姉からは「穂高くんの好みって、ものすごーくわかりやすいよねえ」と呆れられた。
歴代の恋人のことは、穂高なりに大事にしようと努力はしたけれど、ちっとも上手くいかなかった。キスをするときも身体を重ねるときも、他の女性のことを考えているのだから当然だ。恋人の手料理を食べながら、「大汐の作ったオムライスの方が美味かった」なんてことを思うのは、不誠実にも程がある。
自分は一生まともな恋愛なんてできないんだろうな、と捨て鉢になり始めた頃――父から見合いの話を持ち込まれた。
相変わらず、こちらの気持ちなどまったく考えていない父の行動に、穂高は激昂した。あの男の決めた相手と結婚するなんて、絶対にごめんだ。自分の家族になる人は、自分で選びたい。その人のことを一生大事にして、温かくて幸せな家庭をつくりたい。
穂高が「温かくて幸せな家庭」を想像するとき、脳裏に浮かぶのはいつだって、真帆のアパートでオムライスを食べたときの光景だった。
美味しいと言って夕飯を食べて、他愛もない話をして。冷蔵庫に入れたプリンに油性マジックで名前を書いて。楽しげに笑い合う父子の姿は、穂高が憧れてやまないものだった。
(……もし大汐みたいな人を、見つけることができたなら。絶対一生、大事にするのに)
そうして、穂高は婚活を始めた。しかし、どうしても「結婚したい」と思える相手には巡り会えず――知り合いからの紹介が軒並み全滅した頃、やけっぱちのような気持ちでマッチングアプリに登録した。
スマホ画面にずらりと並んだプロフィールを、穂高は空虚な気持ちでスクロールしていた。こんな情報だけでは、相手のことなど何もわからない。とりあえず、連絡を取って会ってみた方がいいのだろう。
そんなとき――穂高がふと目を止めたのは、ひとつのアカウントだった。名前は〝maho〟となっている。
「……まほ」
お母さんがつけてくれた名前だから、という彼女の言葉を思い出す。偶然にも、穂高と同じ年齢だ。一応写真も登録してあったが、ピンボケすぎて誰だかまったくわからなかった。できうる限り拡大して見てみたが、似ているような気もするけれど確証は持てない。
(まさか、大汐のはずがない)
そう思いつつも、心が逸る。プロフィールに書かれた一言メッセージを見て、穂高は決意した。
『私の家族になってくれる人を、探しています』
穂高はそのまま勢いでmahoにメッセージを送り――後になってみると、怪しさしかない文言ではあったが――幸運にも、その日のうちに彼女に会うことになった。
待ち合わせ場所のカフェで、大汐真帆の姿を見つけたとき――穂高の胸は歓喜に震えた。
十二年の時が経ち、大人びて綺麗になってはいたけれど、中学時代の面影はそのままで、一目見ただけですぐにわかった。多少は脳内で美化しているのでは、と危惧していたのだが、そうでもなかったらしい。
とりあえず食事をすることになったが、久しぶりに過ごす真帆との時間は、驚くほど穏やかで居心地がよかった。こんなにも楽しく食事をしたのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
真帆の父親が亡くなった、と聞かされたのは、少なからずショックだった。ひねくれて生意気だった穂高を優しく諭してくれた人がもういないのかと思うと、やりきれない気持ちになった。ぼんやりおっとりとした真帆の雰囲気は相変わらずだったけれど、瞳の奥にどこか深い悲しみを湛えているように見えた。
真帆の「家族が欲しい」という言葉には、切実な響きがあった。たった一人の家族である父を喪った彼女は、どうしようもない孤独に苛まれているのかもしれない。
(その〝家族〟俺が立候補できないか?)
もんじゃ焼きを食べながら、何度もそう言おうとした。けれど、できなかった。いざ真帆を目の前にすると――本当に自分なんかが彼女を幸せにできるのか、という不安が押し寄せてくる。なにせ自分には、あの碌でもない父親の血が流れているのだから。
そんな穂高の気など知らず、真帆は無邪気に尋ねてきた。
「五十嵐くんは、どんな人と結婚したい?」
(俺は、大汐と結婚したいよ)
そう思ったけれど、その場では結局言えなかった。
時間は無情にも過ぎていき、あっというまに別れのときがやってきた。
地下鉄の駅へと向かう足取りが重い。とうとう改札まで辿り着いてしまい、穂高はこっそり溜息をついた。
「俺、こっちの路線だから」
「今日、楽しかった。ありがとう。会えてよかったよ」
「ああ。俺も楽しかった」
真帆は卒業式の日と同じように、ひらひらと軽く手を振っている。穂高もあのときと同じように彼女に背を向けて、定期入れをかざして改札を通った。
(……結局、何も言えなかったな)
自分の臆病さにうんざりする。この機会を逃せば、今度こそ穂高と真帆の人生が交わることはないだろう。彼女はきっと、穂高とは別の男性と幸せな結婚をして、温かい家庭を築くに違いない。真帆は素敵な女性だから、きっとすぐに結婚相手が見つかるはずだ。
(……でも。俺は本当にそれでいいのか?)
幸せになってほしい、と思っていた。それでも彼女は自分の知らないところで父を喪い、今もきっと一人きりでその悲しみに耐えている。彼女の涙を拭うのが、自分以外の誰かじゃ嫌だ。
(俺は、大汐に幸せになってほしいんじゃない。俺がこの手で幸せにしたいんだ)
穂高はぴたりと足を止めて、振り向いた。真帆はまだ、そこにいてくれた。不思議そうに小首を傾げて、こちらを見つめている。
彼女の顔を見た瞬間、穂高は覚悟を決めた。再び改札を通って、真帆の元へと駆け寄る。真帆は驚きに目を見開いて、「どうしたの? 忘れ物?」と尋ねてきた。
「ああ、忘れ物だ」
穂高は十二年前に置いてきた忘れ物を、今このときに取りに来たのだ。
真帆の両手を掴んで、強く握りしめる。ずっと焦がれてやまなかった、世界で一番優しくて温かい手。今度はもう、絶対に離さない。
「大汐」
「は、はい」
「頼む。俺と今すぐ、結婚してくれ」
「へ」
ここは人が行き交う駅のど真ん中だけれど、周囲のざわめきも、まったく耳に入らなくなっていた。大きく息を吸い込んで、祈るような気持ちで繰り返す。
「結婚してくれ、今すぐに」
しばしの沈黙のあと、こくり、と真帆が小さく頷いた。




