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29:ひとりにしないで

 真帆と穂高は、墓地のそばにある休憩スペースで弁当を広げていた。申し訳程度の屋根にベンチとテーブルがあるだけだけれど、日除けがあるだけずいぶんマシだし、風が吹くと涼しく感じた。

 今日の弁当は、真帆が早起きして作ったものだ。鶏の唐揚げにきんぴらごぼう、エビとブロッコリーの炒め物、白だしの入った卵焼き、梅干しとおかかのおにぎり。デザートのリンゴは、ウサギの形にカットした。


「いただきます」


 穂高がまず箸を伸ばした鶏の唐揚げは、父の大好物だった。父とここに来るときはいつもお弁当を作って、ピクニック気分で二人で食べた。当時の真帆は揚げ物なんて作れなかったから、冷凍食品の唐揚げだったけれど。真帆の作った拙い弁当を、父は美味しいと笑って食べていた。


「美味しいよ」

「よかった。じゃあ、いっぱい食べて。張り切って揚げすぎちゃった」


 たくさん歩いて疲れていたのか、穂高はもりもりと弁当を食べている。見ていて気持ちいいぐらいの食べっぷりだ。美味しい美味しいと何度も言ってくれるので、真帆の胸の奥がじんわりと温かくなった。

 ちっとも似ていないはずなのに、目の前にいる穂高の姿が、かつての父と重なる。どちらも、真帆の大切な家族だ。


「……お父さんが生きてたら、きっと穂高との結婚を喜んでくれただろうな」

「そうかな。ろくでもない奴連れてきたって、怒られるかも」

「そんなことないよ。真帆にはもったいないぐらいだって、誉めてくれると思う」

「再会したその日のうちにプロポーズして入籍するような男なのに?」

「……まあ、それもそうか。もしかしたら、一発くらい殴られるかもね」

「一発は甘んじて受けよう。土下座して許してもらうよ」


 そんな光景を想像してみて、ちょっと笑った。今の穂高と父が話しているところを見てみたかったな、と寂しく感じる。

 箸を置いた穂高がふと、真帆の頰に手を伸ばした。何かを確かめるように、そっと目尻に指で触れる。


「どうしたの」

「泣いてる?」

「泣いてないよ。見たらわかるでしょ」

「俺には泣いてるみたいに見える。四ヶ月前に会ったときからずっと」


(どうして、そんなこと言うの)


 こちらをまっすぐに見据える穂高の瞳は、すべてを見透かすような不思議な色をしている。喉の奥が詰まって、泣いてなんかない、と答えることすらできなかった。

 真帆は穂高と結婚してから――父が死んで以来ずっと閉じ込めていた感情が、少しずつ溢れ出しそうになっていることに気付いていた。


「真帆」


 全部わかってるよ、と言うみたいに。彼は驚くほどに優しい声で名前を呼ぶ。


(どうしてこの人は、こんなにも私の感情を掻き乱すんだろう)


 ぱきぱきに凍りついていた心が、彼のぬくもりに触れて、少しずつ溶かされていく。

 父と過ごした幸せな記憶と一緒に、父を喪ったあの日の記憶が、まざまざと蘇ってくる。普段はできるだけ、思い出さないようにしているのに。

 喉から出た「あのね」という声は、自分のものとは思えないぐらいに、か細く震えていた。


「……お父さんが死んだ、前の日の夜」

「うん」

「私、電話してたの。そろそろ帰って来ないのかって言うから、そのうち帰るねって答えた」


 当時の真帆は社会人三年目で、ようやく一人暮らしにも慣れてきた頃だった。少しずつ仕事の大変さも楽しさも覚えてきて、毎日目の前のことに無我夢中で、父のことを考える余裕なんてほとんどなかった。


「あのときお父さんがなんて言ってたのか、もう思い出せない。体調は大丈夫かとか、仕事はどうだとか、ちゃんとメシ食ってるのかとか。しょっちゅう訊かれてることだから、またかって軽く流してた。あーはいはいって、適当に答えて電話切って」


 実家には盆休みに帰ったばかりだし、あと数ヶ月もすれば正月だ。そう遠い距離でもないし、会おうと思えばいつでも会える。真帆はそんな風に、軽く考えていた。


「最後の、会話だったのに……」


 そして父はそのまま、帰らぬ人となった。真帆と電話で話をしたあと、布団に入って眠りについて、二度と目覚めなかったのだ。


「もしかするとずっと、体調が悪かったのかも。不安になって、電話をしてくれたのかも。もし実家に帰ってお父さんの顔を見てたら、気付いてあげられたかもしれない」

「真帆」

「どうしてもっとちゃんと、話さなかったんだろう……どうしてすぐに、会いに行かなかったんだろう」


(もう二度と、会えなくなるなんて思いもしなかった。今まで育ててくれてありがとうって、ワガママばっかりでごめんねって。大好きだよって伝えたかった)


 膝の上で握りしめていた手に、穂高の手が重ねられる。真帆の手の甲をすっぽりと覆う、大きくてごつごつしたてのひら。

 俯いたまま下唇を噛みしめる。喉の奥から溢れ出す熱の塊を、真帆は必死で飲み込もうとしている。何度も何度も瞬きを繰り返して、決してこぼれ落ちることのないように。

 突如として父を喪ってから真帆は、ただの一度も涙を流していない。

 真帆は父の死を職場で知らされ、慌てて実家に駆けつけた。冷たくなった父の身体に触れて、穏やかな死に顔を見たときも、脳が現実を理解することを拒んでいた。

 真帆は淡々と葬儀の手配をして喪主を務め、相続や保険金の請求手続きをした。父が死んだというのに涙ひとつ流さない真帆を見て、周囲は「気丈な娘さんだ」と言ってくれたけれど、心の底では不気味で冷血な女だと思われていたのかもしれない。

 本当はずっと、真帆は泣くのが恐ろしかったのだ。

 一度涙を流してしまえば、感情の流れに任せて、真帆も父の後を追ってしまうかもしれない。それならいっそマイナスの感情を全部閉じ込めて、何も感じないように心を殺してしまえばいい。そうすれば、なんとか日々を生きていくことはできる。

 それからの真帆は、仕事で理不尽なことがあっても、恋人に浮気されても、泣きも怒りもしなかった。楽な生き方だったけれど、なんだか世界がモノクロになったみたいに味気ない毎日だった。


 ――結婚してくれ、今すぐに。


 そんな真帆の世界に再び色を与えてくれたのが、穂高だった。


「……真帆が一番辛くて寂しいときに、俺がそばに居てあげられればよかったのに」

「ほだ、か……」

「真帆が俺にしてくれたみたいに、隣で手を握ってやれればよかった」


 ぽたり、と。穂高の手の上に、雫が落ちる。自分の瞳から溢れたものだと気がつくのに、数秒かかった。

 泣いているのだと自覚した瞬間に、もう止まらなくなってしまった。二年間押さえ込んでいた感情が、堰を切ったように溢れ出す。


「っ、お、お父さん、なんで私のこと置いて死んじゃったの……」


 鼻の奥が痺れて、喉から嗚咽が漏れる。次々とこみ上げてくる涙は、瞼の裏が焼けるほどに熱い。えぐ、と泣きじゃくる声は、まるで子どものようだ。


(お父さん、お父さん。大好きだったお父さん。私の家族は、お父さんしかいなかったのに)


「……私っ、ひとりぼっちになっちゃったよ……ねえ、ひとりにしないでよ……」


 そのとき穂高が真帆の腕を掴んで、強く引き寄せた。硬い胸板に鼻がぶつかる。穂高の腕が背中に回されて、てのひらで後頭部を包み込まれる。少し汗ばんだ彼のシャツから、自分のものと同じ柔軟剤の匂いがする。

 真帆をきつく抱きしめた穂高は、耳元に唇を寄せて、小さな子どもに聞かせるような口調で言った。


「一人じゃない。俺がいる」

「……ほだ、か……」

「俺は絶対に真帆のこと、一人にしないから」


 穂高の腕に力がこめられる。彼の言葉が、挙動が、真帆の心を覆っていた分厚い壁を容易く壊していく。

 真帆は彼の背中に手を回して、おそるおそる抱きついた。触れ合った身体から、どくどくという心臓の鼓動を感じる。真夏の昼下がりはうだるような暑さだというのに、離れたいとは思わない。


「……穂高……ずっと、一緒にいて」


 涙声でそう訴えかけると、穂高は「うん」と優しく髪を撫でてくれる。それは真帆がようやく手に入れた――もう絶対に手放したくない、家族のぬくもりだった。

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