第77話 魔法士見習いクリスのお話 その2
「どうぞ、お師様!」
「はいはい」
僕の気合の入った呼びかけに、お師様は読んでいた本を閉じました。
気分を害したようなお顔に見えますが、きっと気のせいでしょう。
今日こそ、今日こそは。
そんな思いを込めて、僕はお師様の前にお皿を置きました。
お師様は卓上に本を置くと、優雅な動作で湯呑に細い指をかけました。
普通、魔法士として研究をしていたら、様々な実験のせいで手は荒れ放題になるものです。
防護用の手袋をつけているにしても、強力な薬品を防ぎきれなかったり、あるいは長時間着用することで蒸れてしまったりと、手荒れは魔法士の宿命なのです。
しかし、僕のお師様はそんなものとは無縁のようです。
その、白磁の様に美しく細い指は、僕の大好きなお師様の指です。
「ど、どうですか、お師様?」
僕はお盆を抱きしめながら、恐る恐る尋ねました。
今日は、あんまり長くお湯を沸かさなかったから、悪くないはずなのですが。
ドキドキしながら見守る僕を気にした様子もなく、お師様は香りを嗅いだ後に、ほんの一口飲みました。
そして短く息をつくと、湯呑を皿の上に戻して、間髪入れずに通告をしました。
「まだまだね。四十点」
自信をもって淹れた紅茶に対する厳しい評価に、僕はがっくりとうなだれました。
紅茶の淹れ方を教わってから一年は経ちましたが、なかなか及第点をもらえません。
全体、紅茶というものの奥が奥が深く、僕の淹れ方が下手すぎるのか。
あるいは、お師様が過去に味わった紅茶が比較にならない程に美味なのか。
とにかく、お師様に喜んでいただく日は、まだまだ遠いようです。
「しゃんとしなさいな」
そう言ってお師様は、打ちひしがれていた僕の額を、ぺちんと優しく指で弾きました。
「あううっ!」
そんなに力を込めていない筈なのに、僕の頭は跳ね上がりました。
お師様は、その華奢な身体に似合わず結構力持ちなんです。
僕が涙目になって両手で額を押さえると、お師様は今度はよしよしと頭を撫でてくれました。
小さくて、ひんやりして、優しい。
心休まる手です。
その、僕の頭を優しく撫でてくれる手は、僕の大好きなお師様の手です。
「もっと精進しなさい、少年」
お師様は、少女のような笑顔でそう言ってくれました。
僕はつられて、涙目のまま笑顔になりました。
「はいっ!頑張りますっ!」
「今日は、行商人の護衛よ」
僕が赤点ぎりぎりだった紅茶を片付けていると、後ろからお師様の声がかかりました。
また、いつもの急な依頼のようです。
全体、お師様が拾ってくるのは緊急の依頼が多いのですが、そう言った場合は街の組合で突っぱねられたものであることが多いんです。
なにせ、その依頼に見合った人員が出払っていることだってあるわけですし。
そうならないために、組合はきちんとした手順を踏んで依頼を請け負う様なのですが、僕のお師様はそう言ったことはしません。
『困ってる人は、助けてあげなきゃね』
お師様は、いつも口癖のようにそう言います。
とても、お優しい人です。
「では、また遠出をするんですね」
台所の流し台で湯呑や薬缶を洗いながら、僕は返事をしました。
行商人とは、街の外からやってくる商人さんたちのことです。
遠く離れた港町や、あるいは山の鉱人の里。顔の広い人だと、森人の住処にまで手広く商いをしている場合もあるそうです。
彼らは街のような大きな自治体を渡り歩いては、そこで特産物なんかを仕入れて別の自治体に売りに行くわけです。
こういうのを、貿易って言うんだったかな?
「いつもの顔なじみの連中だから、大丈夫よね?」
「はい!大丈夫です!」
僕は、いつも会う商人さんたちの顔を思い浮かべました。
ニーニャさん、リャノンさん、ライネンさんの三姉妹。
女性だけの行商人隊ということで、いろいろと厄介事に巻き込まれることも多いそうなのですが、今回もそうなのでしょうか。
同じく女性でありながら腕っぷしの強いお師様とは仲が良いらしく、時たまこの家にご招待することもあります。
いずれも美人な方々で、何かと僕を子ども扱いするので困っています。
僕もいい加減に多感な時期になっているんだから、あんまり気軽に抱き着かれたりすると、困るんですが・・・
「少年、割ったら怒るわよ」
「うわわっ!す、すみません!」
ぼんやりして、お師様の大切な湯呑を落としそうになっていたようです。
椅子に座ったままのお師様から、警告が飛んできました。
僕は、慌てて食器の片づけに戻りました。
お師様と僕は、よく街の外を移動する人々を護衛する依頼を請け負います。
なにせ人の支配する領域を一歩でも出てしまえば、そこは魑魅魍魎の跳梁跋扈する危険地帯。
戦う術を持たない人々にとっては、丸裸で針山の上を歩くようなものなのです。
だからお師様や僕は、報酬をいただく代わりに彼らの命と財産をお守りするのです。
とはいえ、ほとんど僕は見ているばかりです。
今までに何度もお師様の後をついて行きましたが、街の外には信じられないくらいに恐ろしい魔物がたくさんいて、僕程度の実力では到底歯が立たないのです。
「とりあえず、正午に街の正門近くの補給店で待ち合わせなの。遅れないようにね」
「分かりました!すぐに!」
食器の片づけを終えた僕は、お師様の指示に従って準備に掛かりました。
別の自治体まで移動するとなれば、馬を使っても数日かかってしまうことはざらです。
そうなると、それなりにしっかりと旅支度をしなければなりません。
僕は自分の部屋に・・・、まあ、扉もないのでそのままつながっているのですが、とにかくそこに飛び込みました。
お師様を待たせるわけにはいきません。
とはいえ、それ程時間は掛かりません。
三日分の着替えや、携行食糧に水。
寝袋に緊急用の魔法薬と巻物など、様々な遠出用の装備品。
これらはすべて、前もって部屋の隅の背嚢に詰め込まれているんです。
なにせお師様は気まぐれの様に遠出をする依頼を請け負ってくるので、お話を聞いてから用意をしていては、『遅い!』と文句を言われてしまうからです。
そこで、即座についていけるようにと身に着けたのがこの習慣なのです!
こうしておけば、緊急の依頼を請け負った時にも、背負うだけで準備完了なのです!
まあ、さすがに携行食糧や水なんかはこまめに変えておきますが。
僕はその背嚢を背負うと、即座にお師様の元へかけていきました。
「おっと、いけない!」
途中、僕は忘れ物に気が付いて、自分の机に引き返しました。
そしてその上に広げられていた書物を閉じると、大事に抱えました。
父の形見の、大切な呪文書。
魔法士として、これは絶対に手放すわけにはいきません。
「お師様!準備できました!」
僕は完全武装でお師様の元に戻ると、びしりと背筋を伸ばして直立不動になりました。
ここまで、僅か二十秒です。
「よしよし。素早い行動ができているわね」
「えへへ・・・」
大好きなお師様に褒められて、僕は顔を赤くしました。
普段、魔法の鍛錬や紅茶の味なんかには厳しい評価をする人ですが、その反面、僕がしっかりやり遂げた時にはきちんと褒めてくれる人です。
とても、お優しい人です。
「じゃ、行ってらっしゃい」
「・・・はい?」
予想していなかったお師様の言葉に、僕は首をかしげました。
依頼を受けるときは、いつもいつもお師様と僕は二人一緒だったものですから。
「アタシは、知人に会う予定があったの。だから、代わりにアンタ一人で行きなさいな」
「そ、そんな!僕一人じゃあ、無理ですよう!」
僕は大慌てでした。
それも当然でしょう。
なにせ街から離れれば離れる程に、強力な魔物と遭遇する確率は高くなるのです。
実際、過去に何度か護衛の依頼を受けた際にも、見ているだけで腰を抜かしそうな魔物に出会うことはざらでしたから。
「あー、うん。大丈夫よ。そこそこ成長してる筈だから、何とかなるでしょ」
「そ、そんなぁ!僕はまだ見習いですよう!」
笑顔から一転して涙目になった僕に対して、なんだかお師様は面倒くさそうに言い放ちました。
一体、どうしたというのでしょうか。
なんだか、いい加減な言い訳に聞こえるのですが。
「えーと、うん。アレだ。いつまでもアタシがついてたら、成長できないでしょ」
「成長・・・」
「そう!これを機に成長して、アタシを喜ばせなさいな!」
そう言ってお師様は、僕に笑いかけました。
いつもの少女のようなそれではなく、なんだか腹に一物含んでいそうな大人の笑み。
成程。
僕は、やっと理解できました。
いつまで経っても成長しない僕に、厳しい試練を与えるということなんですね。
流石は僕のお師様。
いやもう、本当に・・・
とても、とても・・・
お優しい人です・・・
「ええと、本当に僕一人でやるんですか?」
「そうよ」
「ええと、危なくなったら、助けに来てくださるとか?」
「まさか」
「ええと、も、もしも僕が、魔物に食べられちゃったりしたら?」
「新しい弟子を探すわ」
「・・・」




