第70話 領主アーマの回想
ちょっとだけ、昔のお話です。
薄暗い倉庫の中。
様々な食料品が詰め込まれた袋に腰掛けながら、私は本を読んでいた。
帝王学について記されたそれは、私が師匠と仰ぐ男に“命じて”購入させたものだった。
冷暗所として機能させるために窓を閉め切られた暗く狭い部屋ではあったが、私は自らに“暗視”と“適温”の魔法をかけていたために、特に苦痛を感じることはなかった。
隣で床に座り込んでいる男については、そもそも眼が悪くなる心配も風邪をひくなどということもないために、同じようにして本を読んでいた。こちらは料理関係について記されていた。
ぐぎゅるるる~。
その場の誰かの、否、野卑なこの男に決まっているが、その腹が盛大に鳴り響いた。
当然のこと、高貴な生まれである私が、こんなにはしたなく腹を鳴らすわけがないのだから。
「空腹ですわね」
「空腹だね」
私と、その隣の男は本に視線を落としたまま、そう呟いた。
なにせ今の私たちは、無一文。
つい先日までだって、最下層民の住まう様な兎小屋に住んでいたというのに、それすら失ってしまったのだ。
持ち出せた数少ない物品は、この男の思い出の品々と数冊の本だけであった。
『金などいくらでも稼げる』とこの男は言っていたが、当座の生活費のあてがないのは頭の痛い問題だった。
『おっと。いけない、いけない・・・』
すでに地に落ちた家名とは言え、偉大な父から受け継がれたその誇り高き名に恥じぬように、私は常に高潔であらねばならない。
少しばかりの金銭に執着するようでは、まだまだだ。
それに、明日の食事にすら事欠く、という程の差し迫った状況ではないのだ。
「なあ、マルコ。何か馳走してくれたまえよ」
隣の男が似合わない老眼鏡を直しながら、狭い部屋の片隅に立つ中年の男に命じた。
見向きもしないその態度から、二人の上下関係がはっきりとうかがい知れるというものだ。
「つーかね、あんたらね。とっとと出てってくんないかな?マジで」
マルコと呼ばれた中年の男は、頭髪と同じく白いものが混じった髭でいっぱいの口元をひくつかせて、そう切り返した。
腕組みをしながら仁王立ちをするその様は、成程、怒っているということを主張しているらしい。
まあ、私には大して関係ないのだが。
「そう、冷たくしないでくれたまえよ」
相変わらずこの男は、変化の少ない表情でそう言った。
どんな事態に陥っても常に冷静・・・、と言えば聞こえはいいが、要するに表情を変えない人物である。
それでも長い付き合いから、それなりに感情を読み取れるようにはなってきていた。
右手で本を持ち、左手で首筋を撫でるその仕草は、間違いなく困っているのだ。
そんな様子に気づいているのかいないのか、マルコは近くにあった豆の入った袋を引っ張り出しながら、隣の男を睨みつけていた。
今は丁度昼時なので、すぐ隣にあるマルコの店には大勢の客が訪れているようだった。
厨房から響いてくる調理人たちの声や調理の音は、私の空腹をさらに刺激していた。
「いや、マジでね、カミさんもお冠なのよ。弟子の面倒も見なきゃいけないのに、厄介事持ち込まないでくんない?」
「人聞きが悪いな、君」
そんなマルコの懇願に、あくまでも耳だけしか貸そうとはしないつもりらしい。
隣の男は静かに本の頁をめくりながら、今度は情に訴えだした。
「君と私との仲ではないか。師匠の恩に報いるべき時だろう」
「きちんと月謝取ってただろうが!金貨一枚!おかげでこの店のための出資金が減ったんだっての!いいから出てけよ、忙しいんだから!」
言いながら、大きな荷袋をどすんどすんと床におろすマルコに、初めて隣の男は視線をむけた。
何か言い訳か、その場をしのぐ文句を思いついたのだろうか。
首筋から、手が離れていた。
「ふむ、そろそろ秋も深まってきたこの頃。着た切りのまま放り出されてしまったら、さぞかし寒いのだろうね?」
そう言って隣の男は、今度はマルコから視線を外して、私に意味ありげな一瞥をくれた。
私は即座にその意を汲んで、続けた。
「寒いのだから、仕方がないですわね。精々暖をとるために、火を熾すしかないのかしら?」
そう言って私は、今度は意味ありげにマルコを一瞥した。
その視線と言葉に込められた意味を察したらしい。
マルコの顔が怒りから恐怖へと歪んだ変化をしていった。
「うそだろ・・・。聖職者のくせに、脅迫するのかよ・・・?」
マルコは震えながら頭の調理帽を引っ掴むと、歯ぎしりしながらわなわなと震え出した。
余程、自分の店が大事であるらしい。
成程、人というものは弱みを握られると、こうなってしまうのか。
そう思いながら私は、隣に視線を移した。
すると、となりの男も何やら衝撃を受けているようだった。
「・・・それを言われると、ちょっと私もつらいのだが」
聖職者を自称するこの男としては、まっとうに働く市民に対して放火を匂わせるような言動をしたことに、僅かにでも自責の念を持ったらしい。
それならば最初から言わなければよかったというのに、またも首筋を撫で出した。
まったくこの男は、考えなしの筋肉達磨だ。他人の気持ちというものを、少しは慮れないのだろうか。
それに、このマルコという者も大概である。小さいことにこだわって、年の割になんとも落ち着かないではないか。
店は大分繁盛しているようだし、たかだか二人分の食事を賄う程度は造作もない筈だというのに。
とは言え敬愛する師匠が、皮がめくれそうなくらいに首筋を撫でまわしているのだ。
甚だ不服ではあるが、一応弟子として助け舟を出してやるべきか。
私はそう思って、一つ咳払いをした。
歯をむき出しにしているマルコが、こちらを見たのを確認してから、私は荷袋から腰を上げてから述べた。
「マルコ殿、これは先行投資なのです」
あ?
と、マルコが口を歪めた。
どうやら頭の回転は良くないらしい。仕方がないので、続けて解説をすることにした。
「私は将来、この街の中枢を担うことになりますわ。私は受けた恩には必ず報います。ですから・・・」
「あー、その、なんだね。つまり出世払いをするから、食わせてくれということだよ」
急に隣の男は、私の宣誓に割り込んできた。
せっかく格好よく決めたというのに、なんで邪魔をするのか。
言いたいことはおおよそその通りではあるが、もう少し言い方というものがあるのに。
案の定、マルコは反発してきた。
「だから、タダ飯食わせろっての?」
再びその表情を恐怖から怒りへと塗り替えて、私たち二人を交互に睨みつけてきた。
だが、先刻よりも大分弱々しい。
これならばいっそ、畳み掛けた方がよさそうだ。
私たち二人は、さらに注文を付けることにした。
「私は、牛肉の厚切り焼きがいい。しっかりと火を通してくれたまえ」
「私は、鶏がいいですわ。貴方の赤茄子の醤は気に入っているので、たっぷりと」
「うむ。ついでに、もうしばらく匿ってくれたまえ」
「光栄に思いなさいな。この店は、末代まで安泰となりますわ」
口々に好き勝手を言い出す私たちに対して、とうとう我慢の限界が訪れてしまったらしい。
マルコは頭を抱えて叫び声をあげた。
「じょーだんじゃねぇっ!こうなったら、衛兵に頼んででも追い出すからな!」
その言葉に、今度は私たちが慌てることになった。
わざわざこんな暗く汚い倉庫を間借りしているのも、人目を避けるためなのだから。
「この娘のおかげで家が焼かれて、住む場所がないのだ。頼むよ」
「別に私が火を放ったわけではありませんわ。領主に尻尾を振る下賤な者がやったのです」
「ざっけんなよ!やっぱり厄介事じゃねーか!今すぐ出てけ!さぁ出てけ!」
マルコは涙目で地団太を踏み始めた。大の大人がみっともない。
私の偉大なる父も、そして隣の男でさえも、こんな情けない姿は一度として見せなかったのに。
それにしても、まったく。
隣の男は『昔世話をしてやったから、喜んで私たちを助けてくれるだろう』、などと言っていたのにこの狂乱っぷりである。
たかだか半月程度世話になっているだけで、どうしてこんなに怒るのか。
やはり、身分の低い者どもの思考は理解しかねる。
もっとも、そうした怒りや不満の感情に付け入ることができたからこそ、下準備ができたのだが・・・
「カミさんも!息子も!弟子たちも!俺が美人局に引っかかったなんて誤解してんだぞ!?」
「ふむ、それはよくないね。どれ、一宿一飯の礼として、誤解を解いて見せよう」
「止めて!?余計な事しないでよ!?っつーか、さり気なくサバ読むなよ!一宿一飯どころじゃないだろ!」
恐らくこれは、脅しなどではなく純粋な善意からの言葉だったのだろう。
隣の男は、人が本当に困っているのならばとにかく助けようとする人間だ。
だが、この朴念仁がマルコの家族や弟子たちに上手く申し開きできるとは思えない。
それは、私とマルコの、同じ弟子としての共通認識であるらしかった。
結局今回も折れる形となったマルコは、やけくそに叫んだ。
「分かった!飯、持ってくるから!頼むからじっとしてて!お願い!」
「うむ。最初からそうすれば良いのだ」
「早くお願いしますわ。空腹で死にそうですの」
「うわあああぁん!」
マルコは荷袋を担ぎ上げると、泣きながら倉庫から走り去っていった。
やれやれ、これでやっと昼食にありつけるというものだ。
毎度毎度、食事のたびに同じようなやり取りをしているのだが、いい加減にマルコも諦めが付きそうなものだが。
そう思っていると、急に倉庫内の雰囲気が変わった。
つい今しがたまで弛緩した空気だったのに、隣の男からの強い気配が充満してきたのだ。
「中枢を担う、か・・・」
私の隣から、ぱたん、と本を閉じる音が聞こえた。
わざと気を引くために、力を入れたらしい。
私がそちらを向くと、老眼鏡を外した漢の眼が、私を見据えていた。
「最近、何か良からぬことを考えてはいないかい?」
私の心中を探ろうとするような視線でそう語りかけてくるのだが、別に心配はしていない。
この男は。
否、この人は、私の心を読むような無粋なことはしない。
それは、随分前から分かっていたことなのだから。
「何のことでしょうか」
「夜な夜な出かけては、決起集会のようなことをやっているな。物騒なことはいけないよ」
言いながらこの人は。
否、私の師匠は、立ち上がった。
先刻までの、昔の弟子にたかろうとしていた情けないヒモ男ではない。
今、私と向き合っているのは、偉大なる私の師匠だ。
「私はただ、虐げられている人々の言葉に耳を傾けているだけですわ」
「怒りと不満を焚き付けるのならば、それは扇動というのだ」
その力強い視線に射貫かれ、私は顔をそらした。
いっそ、打ち明けてしまうべきではないのか。
そんな考えがよぎった。
ひょっとしたら、この人は。
昔、行き倒れになりかけていた私を助けてくれた時の様に、また今回も・・・
「君は私と違って、逆境に挫けない強い心を持っている。だからお願いだ、アーマ。どうか“その道”を選ばないでおくれ」
心から懇願するようなその言葉に、私は本を投げ捨てて立ち上がった。
「選ぶな、ですって?」
そんなことはできない。
貴方の元に転がり込む前から、私は常に“その道”だけを考えて生きてきたのだ。
貴方から武術や知識を学び、貴方の友人から魔法の指導を受けてきたのも、全てはそのため。
私は、師匠を見据えた。
もう、誤魔化しはしない。
「貴方こそ、私と共に来てくださらない?」
そう言って、私は手を伸ばした。
お願いだ、この手を取ってほしい。
また、私たちを。
否、私を助けてほしい。
そんな強い想いを込めて。
「貴方の力は、弱者を救うための力。ならば私と共に、“この街のために”戦うべきでしょう」
そうだ。
貴方の力は、こんなところで腐らせておくべきものではない。
この街の未来のために。
そして、私のために・・・
しかし。
「申し訳ないが、それはできない」
返ってきたのは、冷たく、胸に刺さるような言葉だった。
分かっていたことではあるが、いざ宣告されてしまうと。
成程、好いた相手に袖にされると、こういう気分になってしまうのか。
「“君の復讐のために”、力を貸すことはできない」
「・・・そう、残念ですわね」
私は眼をつぶり、伸ばしていた手を下げた。
本当なら、しつこく食い下がりたかったが、それはできない。
すでに地に落ちた家名とは言え、偉大な父から受け継がれたその誇り高き名に恥じぬように、私は常に高潔であらねばならない。
取るに足らない男に執着するようでは・・・。
「さようなら、愛しの師匠。今まで、お世話になりました」
私は返事も聞かずに、倉庫を飛び出した。
途端に強い陽光に眼を焼かれるような気分になったが、かえって今は丁度良かった。
私は眼に腕をこすりつけた。
「私と共に、歩んでいただきたかった・・・」
濡れた目じりを拭うと、私は正面を見据えた。
もう、あの人の元には戻らない。戻れない。
彼には黙っていたが、隠れ家はいくつも用意してあったのだ。
すでに、この街の領主への不満を募らせた市民たちは、反乱軍と言っていい規模にまで集まっていた。
恐らくあと十年足らずで、領主を下すその日が訪れるだろう。
今、私が折れるわけにはいかないのだ。
そうとも、虐げられる弱者たちを救うために。
そして何よりも・・・
「父と母の仇。憎き領主を、この手で討ち取るために」
私は心に纏わりついていた迷いを払いのけて、足取りも軽く歩き出した。
想い人に振られて、返って吹っ切れたようだ。
さあ、始めよう。
私の立身出世物語を!
見ていてください、偉大なる父上、優しかった母上、そして・・・
「あっという間でしたわね・・・」
二人の客人が去った後。
私は以前と寸分も変わらない、かつての師匠の姿を思い浮かべていた。
未だに過去の“喪失”に囚われ、立ち上がることのできない心の弱い殿方。
私の伴侶とするには、不足に過ぎた。
だが、今までに自分に言い寄ってきた生白い貴族の凡々どもに比べれば、天に輝く星のような漢だ。
星の如き輝きの王子様など、いくら待っても、それどころか街中ひっくり返しても、彼以外には見つかりっこないのだ。
「そんなだから、未だに独り身なのかしら」
私は、寂し気に自分の手を眺めた。
あの日、彼へと伸ばした手を拒絶されてから、随分と長い年月が経った。
私は宿願を果たし、地位を手に入れ、今は亡き偉大なる父と母の仇を討った。
だが、私はもう空っぽだ。
残ったのは、この皺くちゃの手だけ。
それも血にまみれ、自分の子どもを抱くことは出来そうにない。
成程、後継者を残せないというのは、こういう気分なのか。
「そう言えば、あの娘・・・」
彼の新たな弟子なのだろう、白い髪の可愛らしい娘。
生ける伝説と持てはやされる私を前にして、緊張していたあの姿。
もしも“この道”を選ばなかったのならば、あの人との間に娘を持つことができたのかもしれない。
・・・なかなかに強い心を持っているように感じられたが、彼女は師匠との仲は良いのだろうか?
「もしも彼に放り出されるようなことがあったら、私が引き取りたいわね」
誰もいなくなった、小さな執務室で、私は独り言ちた。




