第67話 天使について 前
私の師匠は、大げさだ!
「なんとでも、言ってくれたまえ」
師匠は私を抱擁しながら、そう言った!
家の中とは言え、恥ずかしいではないか!
止めてよ、師匠!
「止めない。離さないよ」
いつもの彫像の様な顔のままに、師匠はより強く私を抱擁した!
うわわわ!
し、師匠、これ以上は・・・
「私を好いている、と言ってくれたではないか」
そ、そんな。
好きっていうのは、男女としてのそれではなくて。
その、ええと、ええと・・・
「それでもいいんだよ。私は、君のその言葉を待っていたんだ」
師匠、大げさ!
大げさだってば!
師匠の力強い身体に包まれながら、私はじたばたともがいた。
しかし反面、多幸感に喜んでもいた。
「君、お願いだ。私を、受け入れてほしい・・・」
そう優しく囁くと、師匠が顔を近づけてきた。
うわわわわっ!
し、師匠!
それ以上は、本当にまずいってば!
私は顔を真っ赤にしながら背けたが、師匠は構わずに私の頬に唇を・・・
がぶっ
頬に熱い接吻を受けて。
否、痛い接吻を受けて。
私は、眼を覚ました。
私の腕の中で眠りこけていたしろすけは、夢の中で果物の山にでも飛び込んだつもりらしい。
私の頬っぺたに噛みついて、離れようとはしなかった。
無理やりに引きはがしでもしたら、私の美貌が台無しになってしまいそうである。
かと言って、そのままにしておくには微妙に痛かった。
仕方なしに私はしろすけの身体を抱き上げて、赤ん坊をあやす様に歩き出した。
その内に離してくれるだろう。
まだ、外は暗い。
時計を見ると、五時ちょっと前だ。
私はしろすけの身体を優しく揺らしながら自室を出ると、階段を下りた。
このまま寝台に入っても良かったが、眠ろうにもしろすけからの接吻が気になって仕方がなかったのだ。
私はしろすけを起こさないように、ゆっくりと居間へと入っていった。
しばらく居間をぐるぐると歩き回っていると、いつの間にかしろすけは、私の頬っぺたに歯を立てるのを止めていた。
そして私の身体にぴったりと密着するように、前足でしっかりと肩を掴み、尻尾を巻き付けてきていた。
私は微笑みながら、可愛い可愛いしろすけの頭を撫でてやった。
まだ生後数か月だというのに、この赤子はかなり大きく成長してきている。
今は何とか私が抱きかかえてやれているが、あと半年もすれば私の体重を上回るだろう。
赤ん坊の成長を見守る母親という訳ではないが、なんとなく嬉しい気持ちとさみしい気持ちになってしまう。
「あかちゃん、か・・・」
そう言えば、私も一応女である。
将来は、自分の赤子を生み、育てることになるのだろう。
その場合は、相手はだれなのだろうか?
ふと、先刻の夢が頭をよぎった。
いやいやいや!
何をそんな、血迷って・・・
しろすけを抱えたまま、私が頭を茹らせていると。
がちゃり。
と、師匠の部屋の扉が開いた。
中から現れた彫像の様な顔の男は、私の姿を認めるなり、眼を大きく見開いた。
「なんと!早起きだね、君!」
言うなり師匠は足早に近づいてきて、私の頭を撫で繰り回した。
「し、ししょう!?いったいなに!?」
「いつも寝坊してばかりの君が、こんなに早起きをするだなんて。素晴らしいではないか!」
などと師匠は、大げさに私を賞賛した。
先刻の夢のこともあって気恥ずかしくなった私は、そそくさと自室に退散した。
「偉いじゃあないか。自分から進んで鍛錬の準備をするだなんて!」
結局二度寝をするには興奮しすぎてしまった私は、しろすけだけを寝台に放り込んだ。
かと言ってすることが思いつかなかったので、着替えて鍛錬の準備でもしようと思ったら、またこれである。
「ししょう、おおげさです」
「そう言わないでくれたまえ。とてもうれしいんだ」
頬を膨らませながら屋敷の外へと繰り出す私の後ろで、師匠は彫像の様な顔のまま、しきりに頷いていた。
まったく。
普段の私は一体どのように評価されているのやら。
重りをつけた木剣を担いで歩きながら、私はため息をついた。
たったあれだけの行為でこの喜びようでは、肩を叩いてあげようなどといったら涙を流してしまいそうである。
それだけいつもの私の行動に問題があるということなのだが、師匠の反応だって大げさと言っても差し支えない程だった。
ふと、私は思い至った。
魔が差したのだ。
もしも。
もしも、もっと師匠が喜ぶようなことをしたのなら。
あるいは、言ったのなら。
師匠は喜びのあまりに、私を抱擁しちゃったりするのだろうか?
「・・・ししょう」
「なんだい?」
その彫像の様な顔の中にあって、奇妙な程に喜びに満ちた眼が私を見つめていた。
ひょっとして。
ひょっとして、本当に。
師匠は、喜んでくれるのだろうか。
私は深呼吸をしてから、宣言した。
「わたし、聖職しゃになろうかな、とおもうんですが」
ひょう、と一陣の風が私と師匠の間を通り抜けた。
師匠はいつもの通りの表情のままで、じっと私を見つめていた。
あ、あれれ?
予想が外れたのかな?
などと思っていると。
「リィルっ!」
師匠は突如、私に覆いかぶさった!
「うわわ!なにすんの、このへんたい!」
「なんとでも、言ってくれたまえ」
師匠は私を抱擁しながら、そう言った!
まだ早朝とはいえ、外でこんなことをされたら恥ずかしいではないか!
「やめてよ、ししょう!」
「止めない。離さないよ」
いつもの彫像の様な顔のままに、師匠はより強く私を抱擁した!
「うわわわ!し、ししょう、これいじょうは・・・」
と、そこまで言ったところで、私の脳裏に電流が走った。
まずい。
これって、先刻の夢の通りではないか。
と、なると次に待っているのは・・・
貞操の危機と心の準備ができていないという理由から、私は手遅れになる前に迎撃に打って出ることにした。
私は師匠の右襟をむんずと掴むと、大きく右拳を振りかぶった。
「おりゃぁっ!」
「ごふぅっ!?」
私の放った渾身の顎打ちが決まり、師匠の身体は私から剥がれ落ちるようにして、地面にあお向けに倒れた。
「お、お見事・・・」
師匠はまたもや賞賛の言葉を吐くと、白目を向いて昏倒した。
いつもの鍛錬の場所に来ると、師匠は顎をさすりながらも私に喜びと感謝を述べた。
「本気で聖職者を目指す気になってくれて、本当にうれしいよ」
「まだ!まだほんとにきめたわけじゃないから!」
数秒後に何事もなく起き上がった師匠は、懲りずにまたもや私を抱擁しようとしてきたのだった。
余程私が聖職者を目指すと宣言したことがうれしかったらしいが、いくら何でも喜び方が大げさすぎやしないだろうか。
「そう言わないでくれたまえよ。あんなに毛嫌いしていたのに、やる気を見せてくれて嬉しいんだ」
師匠は、我が主神よ感謝いたします、などとのたまいながら天を仰いでいた。
いやいや、そこは私に感謝するべきだろうに。
私が頬を膨らませていると、師匠は急に何か余計なことを思いついたように、手を打った。
「では早速、今日の鍛錬は聖職者としてのそれに切り替えよう」
「ええ?いきなりなにをさせようっていうんですか?」
私は露骨に顔をしかめながら、木剣を師匠に突きつけた。
今更冗談だったなどと言える雰囲気ではないが、だからと言って変なことをさせられてはたまらない。
「なに、身構える必要はないよ。そうだね、まずは奇跡の勉強といこうではないか」
奇跡。
それがどのような力であるかは散々講義を受けてきていたが、何ができるのかについてはあまり知らなかった。精々傷を治せるとか、吸血鬼を退散させるとか、そんな程度だ。
「きせきって、どんなことができるんですか?」
「それはもう。神の御業の顕現たる奇跡は、様々なことができるんだよ」
様々なことができるのならば、魔法だって同じだろうに。
という言葉を飲み込んで、私は師匠の次の言葉を待った。
せっかく機嫌がよいのだから、変に邪魔していつもの鍛錬になるよりもましである。
私は木剣を地面に突き立てて、表向きは行儀よく師匠の言葉に耳を傾けた。
「傷を癒す。呪いを解く。邪な者を退散させる。それに、天の御使いを呼び出すこともできるよ」
師匠は私の思惑を知る由もなく、得意げに講義を続けていった。
しかし適当に聞き流すつもりだったが、なかなかに興味深い単語が飛び出してきたではないか。
「てんの、みつかい?」
「そうとも。まあ、いわゆる天使だね。」
天使。
それは神の被造物にして、善の体現者。
罪なき者の守護者にして、悪と戦う者。
彼らは神々と同じく天上にあって私たちを見下ろし、神々の意思を代行する存在である。
要するに、偉そうな神様たちの使い走りということである。
地獄の悪魔と遂になる強大な存在であるが、そんな大それたものを呼び出せるとは、確かに奇跡というのは神の御業と言えるだろう。
「ししょうも、よびだせるの?」
「勿論だとも。そこいらの司祭には到底不可能だが、私ほどに徳の高い人間には簡単なのだ」
そう言って師匠は、胸を張った。
普段はめったに自慢をしない人物であるが、何故だか『徳が高い』という部分を強調するように言うではないか。
その偉そうな態度が癇に障ったために、私はいらない口を出すことにした。
「それじゃあ、ししょう。さっそくよんで」
「え」
私の言葉に、師匠はその表情の通りに、彫像のように動かなくなった。
おやおや、なんという反応だろうか。
これはひょっとして・・・?
「いや、その、なんだね。そろそろ寒くなってきたし、帰ろうか」
「まだたんれんは、はじまったばかりですよ」
首筋を撫でながらそっぽを向いた師匠の顔を覗き込むようにして、私は語り掛けた。
つい今ほどの自信たっぷりな態度は何処へやら。
師匠は平静を欠いた様子で、来た道を引き返そうとしていた。その額からは、脂汗がだらだらと垂れていた。
この、逃げるような反応!
これはひょっとすると・・・?
「いや、しかしだね。今日はちょっと、天気が悪いし」
「今日は予報では晴れです」
「な、なんだか具合が悪くて・・・」
「ししょう、ひょっとして・・・」
私は自分の予想が正しいことを確信して、師匠に問いかけた。
「ほんとうは、よべないんじゃないの?」
しかし予想に反して師匠は、彫像の様な顔のままに眉根だけを寄せて、反論してきた。
「いや、できるさ、できるとも!ただ・・・」
「ただ?」
予想が外れて拍子抜けした私は、師匠が天使を呼びたがらない理由について考えていた。
時間がかかるのだろうか?
お金がかかるのだろうか?
それとも、呼んだ瞬間に一帯が焼け野原になってしまうとか?
自分の恐ろしい想像に身震いしながら、私は師匠の言葉を待った。
「その、なんだね。天使への印象を、悪くしないでもらいたいのだが」
・・・印象?
天使への印象って、どういうことだろうか?
「すごくえらそうなの?にんげんをばかにするの?」
「そうではないんだ。そうではないんだが・・・」
なおもぐずる師匠に対して、私はいい加減にいら立ちが募ってきていた。
なんだか良く分からないが、危険はなさそうなのだ。
ならばとにかく、呼べば分かることなのだ。
だったらさっさと、呼んで確かめればよいではないか。
「いいから、ししょう。はやくよんで!」
「はあ・・・、承った」
私からの一喝を受けると、師匠は眉根を下げながら嫌々と跪いて瞑目し、祈りの言葉を呟きだした。
私は鼻息を一つついて、腕を組んでその様子を見守った。
その祈りは、なんとなく、普段聞くようなものとは違うような感じがした。
いつもの、他者をいつくしむような感情は込められていない。
むしろ、力強い存在を呼び込むために、勇ましく、心を震わせるような言葉を繰り返しているようだった。
三十秒も経っただろうか。
師匠が祈りをしていると、天から一筋の光が差し込んできたではないか!
その眩い光に私が手をかざしていると。
はるか天上から、一つの影が降りてくるのが見えた。
三対の美しい翼をはためかせるその姿は、なんという美しさか。
白装束に身を包み、美しく長い金色の髪をなびかせながら、その女性はゆっくりと私たちのそばへと降り立ってきた。
なぜだろうか。
その顔は、夢でよく会う不思議な娘とよく似ているような気がした。
その見目麗しい天使は、超然と微笑みながら口を開いた。
と、同時に。
ぐぎゅるるる~!
その天使の腹から、大きな大きな腹の虫の鳴き声が聞こえた。
天使は腹を抑えながら、悲痛な表情で叫んだ。
「お腹すいたぁ~」
なんだそりゃ。




