第64話 立ち上がることについて
胸糞パートの最後です。
説教臭いです。
凄まじく陰鬱な気分で、私は夜の道を歩いていた。
師匠の大馬鹿者。
あんぽんたん。
朴念仁。
無神経。
唐変木。
おたんちん。
師匠なんて、大嫌いだ。
師匠は今まで、私を騙していたのだ。
なんて酷い。
『君はきちんと話せるようになった』などと、嘘をつくだなんて。
本当は、私は全然話せるようにはなっていなかったのだ。
私は鼻をすすり、目じりを拭った。
そして雪が降らんばかりの寒さに凍えながらも、“街壁”の上にたどり着いた。
この“街壁”は、街の名所の一つだ。
まるで城壁のように切り立ったこれは、まさに街と外界を隔てる巨大な障壁である。
ここから一望する街や外界の景色は、年寄り連中にはそこそこに人気がある。
だが、私の言う名所としての本質は、それとは違う。
この名所に訪れる人々は、ちょっとばかり特殊なのだ。
例えば、恋人に振られた女性。
例えば、死に至る呪いを受けた戦士。
例えば、借金で首が回らなくなった男。
例えば、麻薬におぼれた芸術家。
例えば、自分の持つ“ある種のもの”に悲観した少女。
そう言った人間が寄ってくる場所である。
そう。
ここは、自殺の名所だ。
私は、転落防止のために二重に設置された柵に触れた。
眼下に広がるのは、外界の地面だ。
しかし夜八時をまわった現在では、そこは地の底にまで続くかのような、一切の闇である。
しにたい
私は、そう呟いた。
きちんと発音できていたのだろうか?
いや、そのようなことはどうでもいい。些末な問題だ。
どうせこれから、全部終わるのだから。
師匠は私の心を読める筈なのに、何故だか追ってはこなかった。
あの、女心を理解できない甲斐性なしのことである。
きっと私に、どんな言い訳をすればよいのかが分からず、尻込みでもしたのだろう。
あるいは、いっそ来ないでくれた方がよいのかもしれない。
そうすれば・・・
「死にたいのかい?」
背後から、聞きなれた声がかかった。
少しだけ。
ほんの少しだけ、来てくれたのか、という思いが芽生えた。
そして逆に、来てしまったのか、という思いも芽生えた。
私は、ゆっくりと振り返った。
「本当に、それが君の望みなのかい?」
師匠と、その肩の上のしろすけが、私を見つめていた。
分かっているくせに。
私の気持ちを、全て、見通しているくせに。
私はそう思いながら、黙って師匠を睨みつけた。
「・・・答えてくれたまえ」
「こころを、よめばいい!」
あくまでも白を切る師匠に対して、私は怒鳴りつけた。
そうだ。
今まで散々人の気持ちを勝手に読んでおきながら、なんでわざわざ訊ねるのだ。
私が怒鳴った瞬間に、師匠は彫像の様な顔のまま瞑目した。
「知ってしまったか」
その師匠の言葉に、私は唇を噛んだ。
やはり、そうだったのか。
ひょっとしたら、あのいけ好かない女の戯言なのではないか、と希望を抱いていたのだが。
それは無残に砕け散った。
思い当たるふしは、いくらでもあったのだ。
およそ、他人の気持ちを推し量ろうとしないような人間である師匠が、何故だか異常な勘の鋭さを見せるときがあった。
それこそ、心の中が分かっているかのように。
あれはつまり、“読心”をしていたにすぎなかったのだ。
同時にその事実は、私の心の中が筒抜けだったということでもある。
今までこの人に対して様々な思いや想いを抱いてきたが、それがすべて見透かされていたとは。
なんという仕打ち。
なんという屈辱。
まさに、精神を凌辱されたようなものだ。
「こころを、よめばいい!そうすれば、わたしのきもちがわかる!」
今までの日々が。
師匠の私への態度がすべて偽物だったように感じられて、私の胸の中は哀しみと怒りでいっぱいになった。
そんな私の絶叫に対して、しかし師匠は静かに首を振った。
「いや、読まない」
「なにを、いまさら!」
師匠の眼が、私を見つめていた。
そこに宿る感情を、私は読み取れなかった。
こんなの、不公平ではないか。
私の気持ちだけが、師匠に一方的に知られてしまうだなんて
「大変に申し訳なく思うが、君と出会った頃はこの能力を使っていた。・・・分からなかったからだ」
師匠は首筋を撫でながら、口ばかりの謝罪をした。
それはそうだろう。
さぞかし、聞きにくかったことだろうさ。
私の、不明瞭極まる言葉は。
だからと言って、勝手に他人の心を覗き見るだなんて、最低だ!
私は、心の中で、そう訴えた。
しかし、師匠はそれには構わずに、淡々と続けた。
「だが、今は使っていない」
「・・・そんなの、うそだ!」
師匠の白々しい言葉に、私は地団太を踏んだ。
今更そんな嘘をついたって、信じるものか。
だが師匠は、激情に苛まれる私とは真逆に、冷静に語り出した。
「嘘ではない。時々気を抜いた時に、君の強い感情が流れ込んでくることがあるが、普段は完全に締め出しているんだ」
「うそだ・・・」
私は、師匠を拒絶した。
当然である。
信じられる訳がないのだから。
「だってそうだろう?同じ家族だというのに、私だけが一方的に君の心を覗くだなんて、不健全な関係にも程がある」
「うそだ・・・。うそだ・・・」
冷静に、諭すように言う師匠を、私はあくまでも拒絶し続けた。
当然である。
今までは心を読んでいたが、今は読んでいないなどと。
そんなことが、どうやって証明できるというのだ。
「信じられないかい?その通りだ。私の言葉など、何の証明にもならない。だが、“君に”誓って、君の心を読んだりはしない」
『君に誓って』
その言葉に私は、はっと師匠の方を見た。
『私の主神に誓って』、ではない。
聖職者気取りの師匠は、誰あろう、私に誓うと言ったのだ。
私の眼が師匠のそれと合った瞬間に。
やっと私は、師匠の眼に宿るものを読み取ることができた。
師匠の、強い強いまごころを感じ取ることができたのだ。
「だから、リィル。お願いだ。君の本当の気持ちを聞かせてほしい」
私は、直感した。
確信したのだ。
ああ、この人は。
師匠は本気で、私の心を読んでなどいないのだ。
「君は、死んでしまいたいのかい?」
再度問いかけてくる師匠への、怒りは消えた。
だが、私の哀しみは消えなかった。
「しにたい。しんでしまいたい」
「・・・そうか」
師匠はいつものように、また首筋を撫でた。
そうだ。
私の哀しみは、消えてなどいない。
結局私が、まともに話せないというのは、純然たる事実なのだから。
「ぜんぶ、むだだった。いっしょうけんめい、れんしゅうしたのに」
「そんなことはないよ、君」
師匠が、相変わらずの彫像の様な顔のまま、どこか必死に言った。
あのつらかった日々を、間近で見ていた師匠はよくわかっている。
その上で、師匠は言ってくれているのだ。
だが、無駄だったというのは、紛れもない事実なのだ。
「事実、私は“読心”の能力に頼らずに、君と正確に意思疎通をしてこれたのだ。これからも全力で練習を続ければ、もっと上手くなるさ」
「・・・うまくなんて、ならない」
意味の分からない身振り手振りを交えた説得は、はたから見れば実に滑稽な姿だったに違いない。
だが、そんな師匠のひたむきな様子に、私の心の何処かがほんの少しだけ温まった。
だが、ほんの少しだ。
結局のところ、上達しないというのは、間違えようのない事実なのだから。
「大丈夫だ。君の言葉は、しっかりと理解できる」
「ししょうにだけ、わかってもらえてもうれしくない」
師匠の優しい言葉が、逆につらかった。
結局私は、この人の期待に応えられなかった。
その揺らがぬ事実に対して、私はとうとう涙をこぼした。
・・・そうだ。
そもそも私という人間は、生まれてきたことそのものが間違いだったんだ。
「・・・うまれかわりたい」
ぼろぼろと、大粒の涙を流しながら、私は心の底から願った。
私なんて、生まれてこなければよかったのだ。
そうすれば、父も、母も、あの故郷の村も、不幸にならずにすんだのだ。
そして師匠に、迷惑をかけずにすんだのだ。
「しんで、うまれかわれたら。きっと、いまよりしあわせになれる」
そうとも。
こんな酷い人生よりかは、来世にでも期待する他ないのだ。
そんな思いで呟いた一言に対して。
「・・・何を、言っているんだ?」
師匠の、冷え切った声が聞こえた。
とめどなく涙を流していた私には、師匠の眼に浮かんでいた新たな感情を読み取ることができなかった。
「うまれかわれたら、つぎこそがんばって、しあわせになれるのに・・・」
私は、あふれ出す涙を受けとめるかのようにして、顔を両手で覆った。
そうなんだ。
きっと私の人生は、今、ここで終わるためだけのものだったんだ。
そして新しく生まれ変われたら、次こそ全力で幸せになるために・・・
「有害、ここに極まれり、だ」
突如、師匠の声が、すぐ目の前から聞こえた。
私が顔を上げるよりも早く。
何かが弾けるような、乾いた音が響き渡った。
同時に私の頭の中で、真っ白い花火が炸裂した。
思考が完全に停止した私は、右を向いていた顔を正面に動かし、いつの間にか近寄って来ていた師匠を見上げた。
「私は何人も弟子を取ってきた。彼らも君と同様に、悩み、泣き、死を願ったこともあった。だが一人として、“来世ならばもっとうまくやれる”などと考えた者はいなかった」
そう言って私を見下ろす師匠の表情は、あくまでも彫像のようだった。
だが、眉だけは釣り上がっていた。
そして師匠の背後からは、恐ろしいほどの怒りの気迫があふれ出していた。
あの、原初的な感情の渦。まるで、周囲の一切を焼き払う炎が。
その気配におののくようにして、私は地面に尻もちをついた。
「生まれ変わったら、今よりも幸せになれるだと?馬鹿馬鹿しいにも程がある」
左の頬が、焼けるように痛んだ。
どうやら、師匠が私の頬を張ったらしい。
恐れおののきつつも、初めての師匠から受けた平手打ちに、私は今までにないほどの驚きを覚えていた。
「いいかい、リィル。仮に、もしも仮に君が、どこかの貴族のご令嬢生まれ変わったとしよう。多くの才能に恵まれ、多くの人から愛されたとしよう」
じりじりと、燃え盛る炎から逃げるようにして後ずさる私を、師匠はゆっくりと歩きながら追ってきた。
そして私の背中は、すぐに柵へとぶつかった。
「そうだとしても、君は絶対に幸せになどなれない」
逃げ場のなくなった私は、迫りくる死の恐怖に身体を震わせて、頭を抱えて縮こまった。
先刻までに死にたいと呟いていたのに、今では目の前の魔人に折檻をされることが、死ぬことよりも恐ろしく感じられてしまっていた。
「なぜなら君は、その生まれ変わった先でもきっと何かに打ちのめされて、そして身を投げるからだ。『次に生まれ変わったら、全力で幸せになる』、とね」
そこまで言って、師匠は静かになった。
あの、命、魂、存在のすべてを根こそぎに焼く尽くしてしまう様な怒りの気配も、霧消していた。
私が、恐る恐る顔を上げると。
いつも通りの彫像の様な顔が、すぐそこにあった。
もう、眉はつり上がっていなかった。
「・・・今、この瞬間を全力で生きようとしない者が何度生まれ変わろうとも、幸せにはなれないんだよ」
つい今しがた、燃えるような怒りを湛えていた師匠の眼は、すでに穏やかな海のように落ち着いていた。
そしてその中には、深い慈愛の感情が浮かんでいた。
そこでやっと、私は理解した。
「私が、君の最も素晴らしいところだと思っているのは、立ち上がろうとする心だ」
師匠の穏やかな声を聴きながら、私は深い感謝の念を抱いていた。
この人は、本当に、私のことを大切に思ってくれているのだ。
だから私の自暴自棄さに本気で怒り、そして諭してくれているんだ。
なんて、素晴らしいんだ。
「君は私とは違い、どんな苦しい思いをして挫けても、どんなつらい目に遭って倒れても、最後には必ず立ち上がった」
師匠は言いながら、地面に膝をついた。
眼の高さが、私のそれと同じになり、師匠の表情がよく見えた。
なんだか、口の端がひくひくと動いていた。
「私は、そんな君の心の強さが大好きだ。だからお願いだ。今度もまた、立ち上がっておくれ」
そう言って、師匠は私に手を差し伸べた。
大きく、温かく、力強い。
安心する手だ。
私はおずおずと、自分の小さな手を、師匠のそれに重ねた。
師匠は優しく私の手を握りしめると、私を引っ張って立たせてくれた。
同時に、師匠の口の端が、少しだけ上がった。
「何度、挫けたっていい。その度に、立ち上がればいいんだ。一人で立てないときには、私が必ず手を貸すから」
師匠は、ぎこちなく笑ってくれていた。
「・・・おなかすいた」
「分かっているとも。すぐに帰って、夕食を・・・。ああ、しまった」
「どうか、しましたか?」
「いや、その。鍵を屋敷に置いたまま、二階から飛び出してきてしまった」
「・・・だいなしです」
「・・・」
次からはしばらく、日常パートに戻ります。




