第62話 やっと分かったことについて
まだ、続きます。
分からない。
この、目の前の正体不明の女が、一体何を言っているのか。
私には、これっぽっちも、分からなかった。
「分からないのは、アタシの方よ」
女は卓上に置いてあった、奇妙な形の帽子を手に取りながらそう言った。
「もう一度、分かる様に言ってもらえる?」
『おら!ちゃんとしゃべってみろよ!』
やめろ。
「聞いてんの、アンタ?」
『バッカじゃねぇの、お前?』
その、蔑むような眼。
「落ち着きなさいよ、頭ん中ぐちゃぐちゃじゃない」
『きちんと話せよ、めちゃくちゃでワケ分かんねぇよ!』
そんな眼で、私を見るな。
「別に、馬鹿にしちゃいないわよ」
『ほんっとうに、まともじゃねぇな、お前!』
私は、まともだ。
「顔色、悪いわよ」
『父ちゃんに診てもらえよ!どっかおかしいんだからよ!』
どこも、おかしくなんかない!
私は知らずに、がちがちと歯の根を鳴らしていた。
体中の毛穴から汗がドバドバと吹き出し、寒さによるものではない震えが私を襲った。
正体不明の女が一言しゃべるたびに、脳裏に嫌な記憶がよみがえった。
閃光の様に、現れては消えて、消えては現れる。
やつらの影が、私の周りをぐるぐると周っている。
やつらの影が、口々に私を罵ってくる。
畜生!馬鹿にしやがって!
私は吐き気を堪えて、手で口を押えた。
そして、必死に鼻で呼吸を整えた。
大丈夫だ。
何も心配はない。
何も恐れることなどない。
私は、平気だ。
ちゃんと、話せる。
私は、まともだ。
私の話す言葉は、普通なのだ。
みんなに、私の言葉は通じるんだ。
師匠だって、ちゃんと私の言うことを理解してくれている。
あの故郷の村にいた頃とは、全然違うのだ。
私の気持ちは、今ではきちんと師匠に通じているのだから。
「そりゃ、そうでしょ」
その言葉に、きっ、と私が女を睨みつけると。
金色に輝く二つの眼が、私を静かに見つめ返していた。
まるで、心の奥底まで見通すかのようにして。
「だってアイツ、心を読めるもの」
『こころを、よめる?』
果たしてそれは、私の口からはっきりと出た言葉だったのだろうか。
それとも、私の頭に浮かんだ言葉だったのだろうか。
あるいは・・・・・・
「そう。魔法士の使う“読心”。今、アタシがやってんのと同じ」
女は、ただ淡々と、語っていた。
まるで私が、師匠の欠点をつらつらと述べるようにして。
師匠は、こころを、読める?
魔法士と、同じように?
「そうでもなきゃ、分かんないもの」
うそだ。
うそだ。
そんな筈は、ない。
師匠は、言ってくれた。
師匠はちゃんと、私の言葉は、分かるって。
欠点などでは、ないと。
「悪いんだけど、アタシにはさっぱりだわ」
わざとらしく、やれやれと首を振る女に、私は先刻以上に怒りを覚えた。
さっぱりだと?
私の言葉が、分からないだと?
馬鹿にするな。
馬鹿にするな!
私を、馬鹿にするな!!
私は、無礼な女に向かって大きく一歩を踏み出した。
幸いと言うべきか、気分の悪さによる体調不良は、感情によって薄れていた。
もうこれ以上、我慢できなかったのだ。
全体、私は負けず嫌いな女なのだから。
「ぁぁぁあぁあぁあっ!」
私は叫びながら、いけ好かない女に向けて拳を振り上げた。
別に、この女の師匠との関係性が気に入らなかったからではない。
そんなことは、最早些末な問題だったのだ。
この女は、あの忌々しい村の連中と同じ。
私を馬鹿にする。
私を侮辱する。
私を虐げる。
私を否定する、最低最悪な存在だ。
絶対に、許しては置けない。
決して、許してはならないのだ。
私がその命を懸けてでも、立ち向かわなければならない敵だ!
そんな、今にも飛び掛かりそうな私を見ていた女は、表情を変えずに、そっと呟いた。
「・・・“動くな”」
女のその一言で、私は身体の動きを止めた。
私の意志に反して、指先の一つどころか眼球さえも動かない。
どうやら許されているのは、呼吸だけのようだった。
困惑して、息を乱している私の視界の端で、しろすけが動いた。
私の危機を、察知してくれたからであろう。
私と女の間に割って入ると、先刻までとは打って変わって、身体と尻尾を精一杯に持ち上げて、威圧するような構えをとっていた。
私を見つめていた二つの金色の眼が、しろすけへと動いた。
やめろ!
そう叫ぶことができよう筈もなく、私はただただ、目の前でしろすけがひっくり返るのを見ていた。
「別に、殺しゃしないわよ」
女は悠々と、奇妙な形の帽子をかぶりながら立ち上がった。
魔法の詠唱など、している気配はなかった。ただ、一言命じられただけだったのだ。
それなのに私としろすけは、明らかに魔法の力によって拘束されている。
私は眼を見開いたまま、考えていた。
師匠から、聞いたことがある。
あまりにも熟達した魔法士は、その発する言葉の一つ一つでさえも強大な力を持つ、と。
ある時は五感を奪い、または五体の自由を奪い、そして究めれば命すらも奪う。
たった一言、ささやくだけで。
この金色の眼の恐ろしい女は、間違いなく街の魔法院の連中が束になっても敵わない程の実力者だ。
駆け出しの戦士もどきの私では、何をどうしたって傷一つどころか、指一本触れられない化け物である。
だが、それがどうしたというのだ。
私にとっては、この女の正体などどうでもいいことなのだ。
こんな女は、いけ好かない。ぶん殴ってやらなければならない、くそったれのあばずれだ!
「なかなか、根性があるわね」
“黙って”睨みつけるだけの私に対して、いけ好かない女は卓に立て掛けてあった杖に手を伸ばしながら、口の端を釣り上げた。
その邪悪な笑みは、どうやったら楽しくおもちゃを壊せるのかと思案する悪童のような、嗜虐性を感じさせた。
「でも、残念。もうちょっと話したかったけど、時間切れみたいだわ」
そんな怖気が走るような笑みを湛えたまま、女が手にしていた杖で一度床を叩くと。
私は、どうっ、と床にくずおれた。
戒めから解放された私は即座に立ち上がろうとしたが、鼻先に杖を突きつけられて、悔しさを胸に歯噛みをした。
「アンタには言いたいことが山ほどあったんだけど、次にしとくわ」
歯ぎしりする私の目の前で、恐るべき、そして忌むべき女は、今度は朗々と呪文を唱えた。
たちまちの内にその姿が陽炎の様に覚束なくなっていくと、それとほぼ同時に玄関の方から音がした。
誰かが、お屋敷の鍵を開けているのだ。
いや、一人しかいないではないか。
「また、会いましょ」
扉が開く音が響いてきた瞬間に、私の目の前から、あの最低最悪の女は去っていった。
「ただいま。今日はいつもよりも、早く済んでよかったよ」
背後から、師匠の声がかかった。
「君、何をしているんだい。明かりをつけてくれたまえよ」
しかし私は、自分の肩を抱いたまま、震えていた。
「・・・君、どうしたんだい?具合が悪いのかい?」
師匠が心配するような口調で、私の肩の上の手に自分のそれを乗せた。
大きく、温かく、力強い手。
しかしそんな師匠の手は、今はよけいに私の心を大きくかき乱した。
「リィル!?」
私は師匠の手をはねのけて、立ち上がった。
そして、床に置かれていた買い物袋を蹴とばしながら、階段へと走った。
足元に散らばった林檎や割れた卵に気をむける余裕もなく、私はそのまま二階へと上がって行った。
「リィル!?どうしたんだ!?」
叫ぶような師匠の声に応えようともせずに、私は自室へと飛び込んで扉に鍵をかけた。
そして、寝台の上で毛布をかぶってまるまった。
最低な気分だった。
酷く惨めな気分だった。
そして、恐ろしい気分だった。
これらをすべて、師匠は見透かしているのだろうか?
私は、師匠からの見えない視線を感じるような気がして、身体を縮こまらせた。
「リィル?どうしたんだい?リィル!?」
師匠が扉を叩きながら、私に声をかけてきた。
私は涙で顔を濡らしながら、舌打ちをした。
白々しい!
全部、分かっているくせに!
人でなしの嫌な師匠め!
私の心を読んでおいて、涼しい顔をして、よくも今まで黙っていたな!
「・・・なぁ、リィル。扉を開けてくれ。一体何があったんだ?」
師匠の私を気遣う様な言葉に、しかし私は一切答えることはなかった。
「リィル、晩御飯の時間だ。君の好物の、卵料理だよ」
「・・・」
「なあ、リィル。お願いだから、顔を見せておくれ」
「・・・」
「リィル・・・」
「・・・」
でもきっと、立ち上がります。




