第56話 導くことと挫くことについて 後
師匠・・・
もう、無理です・・・
堪忍してください・・・
私は足を震わせながら、師匠に懇願した。
もう、限界だったのだ。
しかし師匠は無表情のまま、酒瓶を片手に冷徹に言い放った。
「駄目だ。まだまだ大勢、君を待っているんだよ」
そ、そんな・・・
私は思わず後じさった。
周囲からチンピラたちの笑い声と、狂気めいた視線が降り注いでいた。
そろそろ空が白み始めているというのに、次から次へと粗暴な男たちの相手をさせられて、私は身も心もぼろぼろだったのだ。
「へたれている時間はないぞ。そら、次の相手だ」
壁にもたれかかった師匠が顎でしゃくると、新たな男が私の前に躍り出た。
「うおおおお!」
獣の如き咆哮をあげながら突撃してくるチンピラに対して、私は思わず眼をつぶった。
とうっ!
そして、右手の酒瓶を、男の顔面に向かって突き出した。
刺突剣と同じ要領で突き出されたそれは、我ながら見事に男の額を捉えた。
男は空中でくるりと回転すると、後頭部を下にして店舗の床に墜落した。
ごとんっ
という危険な音がしたが、周囲のチンピラたちは歓声を上げた。
「うおおおおおっ!また一人、生まれ変わったぞ!」
「アリシア様の敬虔なる下僕の誕生だ!」
「次は俺だ!俺だぁっ!」
周囲を飛び交う狂信者どもの言葉に、私は震えていた。
師匠、師匠。
「なんだい」
本当に、もう、帰してください。
限界です。
はっきり言ってしまえば、一対一ならチンピラなんぞ相手にもならないのだ。
これまで師匠の元で数々の修羅場をくぐり、強敵たちと死闘を繰り広げてきたが、この連中はその中でも最下位と言っていい。
だが、おかしいのだ。
みんなみんな、私にぶちのめされたがっている。
私がぶちのめすと、とても喜んで気を失っていく。
すごく。
すっごく。
ものすっごく怖いのである。
「君。聖職者の卵でありながら、彼らを見捨てるのかい?」
師匠は新たな酒瓶の栓を外しながらそう言った。
完全に飲んだくれの観戦者気取りである。
「アリシア様!我ら糞虫をお救い下さい!」
「我らは今こそ、貴女の下僕として生まれ変わります!」
「おお!アリシア様!アリシア様ー!」
店内を渦巻く怒号と酒精の臭いに、そして何より恐怖心によって、私は眼を回し始めていた。
「全員、財布を出したまえ」
師匠は巨漢を踏みつけながら、そう命じた。
その眼には、はっきりと怒りが浮かんでいた。
あの大悪魔と面会した時ほどではないが。
正しい道へと導くなどとのたまいながら、その次の言葉がこれである。
自分たちの頭をひどく打擲されて呆然としていたチンピラたちであったが、この言葉には色めき立った。
即座にチンピラの一人が、師匠の前に飛び出してきた。
「ふざけん・・・おぐっ!」
しかしそのチンピラは、師匠に殴りかかるどころか文句の一つを言う前に、容易く拘束されてしまった。
師匠はそのチンピラの鼻をつまむと、無理やりにその口をこじ開けて酒瓶を突っ込んだのだ。
「飲みたまえよ、兄弟。私からの奢りだ」
師匠は当てつけの様にそう言うと、そのチンピラの鳩尾に拳骨を叩き込んだ。
酒瓶の中には、それ程麦酒が残っていなかったのだろう。
昏倒したチンピラの口からは、空になった酒瓶がころころと転がっていった。
「さて。他にも奢ってほしい者はいるかね?」
一切を無表情にやってのけた師匠からの、しかし怒りのこもった一瞥を受けて、チンピラ達は大急ぎで懐をごそごそとまさぐり始めた。
一人、また一人と師匠の足元に財布を投げ捨てると、恐々と壁際に退避していった。
うわあ。
悪い奴らとは言え、チンピラたちをカツアゲするだなんて。
師匠ってば極悪人だなあ。
「カツアゲなどするものか。私は、あくまでも聖職者として彼らを正しく導くつもりだ」
などとまたしても綺麗ごとをのたまうと、師匠は怯えるチンピラの一人を指さした。
「君。今からこのお金を持って、表通りの酒屋から買えるだけ買ってきたまえ」
突如、お使いを命ぜられたそのチンピラは、恐怖に歪んでいたその顔をさらにくしゃくしゃにした。
「は、はひ・・・」
なんでこんなことになってしまったのか。
そのチンピラの顔には、そんな心情がありありと浮かんでいた。
いや、そいつだけではない。
チンピラたちは、みな一様に顔をゆがめていたのだ。
つい先刻までこの世の春を、自由を謳歌していたというのに、この頭のおかしい聖職者の闖入によってすべてはぶち壊されてしまった。
自分たちは、これからいったいどんな仕打ちを受けるのか。
ひょっとすると、死ぬよりもひどい目に遭わされるのではないか。
そんな恐れが、この場の珍走団員すべての顔に浮かんでいたのだ。
「五分以内だ。仮に逃げたら地獄の果てまで追いかけて、生まれてきたことを後悔させる」
そんな、少しだけ可哀そうなチンピラに対して一方的に言うだけ言って、師匠は巨漢に腰掛けた。
しかしその怒りの眼は、指名されたチンピラをじっと捉えていた。
そのチンピラは考えるそぶりすら見せずに、床に散らばった財布をかき集めると、珍走団にふさわしい速度で店舗の外へと飛び出していった。
「元気なことは、良いことだ」
ぬけぬけと言い放つ師匠に、しかしその場の誰もが皮肉の一つすら返すことができなかった。
まさに、師匠はその場のすべての者たちの心を挫いたのだ。
・・・と、この時私はそう思っていた。
だが、甘かった。
師匠という男のイカレっぷりの本領は、これからやっと発揮されていくのであった。
果たして五分経つこともなく、師匠に命令されたチンピラは律儀に戻ってきた。酒屋から借り受けてきたのか、荷車を店舗の中にまで引きこんできたのだ。
荷台には、酒瓶が山ほど積まれていた。
あるいは、酒屋への品卸をそのまま横から買い付けてきたのかもしれない。
師匠は立ち上がると、その荷車を覗き込んだ。
「ほほう。なかなか良い選定をしてきたではないか」
「え、えへへ・・・」
私には皆目分からなかったが、どうやら師匠の好みの銘柄があったらしい。
無表情のままの師匠からの賞賛に、チンピラは卑屈に笑った。
師匠は鷹揚に頷くと、その中から一本を取り出して、親指を弾くようにして栓を外した。
「では、ご褒美だ」
そう言って師匠は、チンピラの口に酒瓶を突っ込んだ。
そして、もがくチンピラの頭を押さえると、器用に鼻をつまみながら酒瓶をひっくり返した。
ひ、酷い。
ちゃんと師匠の言いつけを守って戻ってきたのに・・・
「うん?だからご褒美だと言っただろう」
師匠はチンピラの頭を押さえつけながら、不思議そうに私に答えた。
「がっ!がぼがぼっ!」
可哀相なチンピラは、じたばたともがいて抵抗を試みたが、師匠の怪力の前には無力だった。見る見るうちに酒瓶の中身が減っていき、完全に空になってしまってから、ようやく師匠はそのチンピラを解放した。
かなり酒精がきつい銘柄だったのだろう。
チンピラは即座に眼をまわすと、床にくずおれた。
それを見ていた他のチンピラたちは、眼に涙を浮かべたり、小さく『神様・・・』と呟いたりしていた。
「さあ、諸君も神の恩寵を賜りたまえ」
神の恩寵って何?
そんな疑問を抱く暇もなく。
ぱきぱきばきっ
そう呼びかける師匠の手の中で、空になった酒瓶が砕け散った。
いや、それは正確ではない。
師匠の手に触れていた部分の硝子が、全て砂の如き細かさまで砕かれていたのだ。
尋常な握力ではない。
というか、なんで硝子の破片で怪我をしないんだろうか。
師匠が荷車から離れると、一人、また一人とチンピラたちが荷車に群がっていった。
チンピラたちは震える手で酒瓶を掴むと、栓を外して少しずつ飲み始めた。
逃げ出そうとする者は、誰一人としていなかった。
逃げれば、地の果てまで追いかけて折檻をされると考えたのか。
あるいは、そんな考えが浮かばない程に心を挫かれていたのか。
「何をちびちびやっているんだ。どんどん飲みたまえよ」
とても静かな声だったが、すでに恐れをなしていたチンピラたちを従わせるには十分だった。
チンピラたちは師匠に言われるがまま、次から次に、大急ぎで酒瓶を開けていった。
私はその光景を、呆然としながら見つめていた。
無茶苦茶だ。
正しい道へと導くというのに、無理やり酒を飲ませてどうしようというのか。
師匠に何本もの酒を飲ませられたため、それなりに身体つきのよいチンピラたちもさすがに酩酊してきたようだった。
ほぼすべてのチンピラが床に倒れたり座り込んだりするのに、それ程時間はかからなかった。
それを確認した師匠は、ゆっくりと壁から離れて、チンピラたちに歩み寄っていった。
「君。君はいったい何だ?」
師匠は、顔を青くして口元を抑えているチンピラに優しく問いかけた。
「お、俺は、暴走族です・・・」
必死に嘔吐をこらえるチンピラの答えに、しかし師匠は頭を振った。
「違うな、違うよ。・・・君は?」
「え、えーっと・・・。ふ、不良?」
目線の定まっていない別のチンピラの答えに、やはり師匠は頭を振った。
いやいやいや。
どっちも正しいではないか。
一体全体、師匠は何が気に入らないのだろうか。
「君たちは、自分自身を過大評価している」
師匠は腰に手を当てて、やれやれと嘆息した。
「いいかい、君たち。君たちは、大勢の一般市民に多大な迷惑をかけたり、旨い酒を私にぶちまけたりする救いがたい人間たちだ」
師匠は荷車から酒瓶を手に取りながら、酔っ払って床に這いつくばっているチンピラたちに語り掛けた。
なんだか、半分は私事のような気が。
「君たちは、親を泣かせたり、私の大好物の麦酒に唾を吐きかけて無駄にしたりする愚か者どもだ」
師匠はチンピラたちに語り掛けながら、酒瓶の栓を外して中身をあおった。
結局お酒が原因ではないか!
なんという生臭坊主だ!
「そんな者どもを、この地上でどのように呼称するか。分かるかい、君?」
酒精臭い息を吐く師匠は、また別のチンピラを指名した。
指名されたチンピラは、汗を垂れ流し、がくがくと震えながら答えた。
「く、屑とか?」
「おお、いいぞ君。もっとだ」
「う、蛆虫・・・?」
「うんうん。調子が出てきたではないか」
「く、糞以下、とか・・・?」
「すばらしい。自分というものが分かってきたようだね」
師匠は大仰に両手を広げた。
いつもの無表情だったが、その姿は以前壊滅させた邪教集団の教祖とうり二つだった。
ああ、そうだ。
今の師匠のやってることって、あの邪教祖と同じなんだ。
「いいかい諸君!糞以下の君たちが生まれ変わるには、そのねじ曲がった性根を真っすぐにするしかない!」
師匠は無表情のままに、大声を張り上げていた。
チンピラたちは、陶酔するかのようにそれに聞き入っていた。
「そのためには、君たちの腐りきった心を真っ赤に燃やして、正義の金槌で何度も叩いてやらねばならんのだ!」
師匠の恐ろしい行いに、私は恐怖していた。
知らず知らずのうちに、壁際まで後ずさっていた。
「さあ、諸君!神の恩寵をその身に受けよ!心に薪をくべるのだ!」
師匠は荷車の酒瓶を引っ掴むと、次々にチンピラたちに押し付けていった。
すでにひどく飲んでいるチンピラたちに、さらに酒を飲ませようというのだ。
そう。
酒とは、行政の許可した麻薬である。
「どんどん飲みたまえ!腐った心を消毒するとともに、身の内の炎を大きくするのだ!」
師匠に命ぜられるまま、チンピラたちはさらに酒をがぶがぶと飲んでいった。
最早、まともな思考などできない状態だったのだろう。
すでにかなりの量を飲んでいたためか、体中に酒精が回り、彼らの目つきはどんどん怪しくなっていった。
恐怖と、痛みと、麻薬でもって、人の心を壊し都合の良いように操る。
まさに、邪教の。邪悪の行いである。
店舗の隅で縮こまってガタガタと震える私をよそに、師匠は仕上げに入っていった。
「さあ、唱えよう!偉大なる救済の女神、アリシア様万歳!」
『偉大なる救済の女神、アリシア様万歳!』
「我らのすべては、アリシア様のために!」
『我らのすべては、アリシア様のために!』
すでに時刻は深夜だったが、そんなことはお構いなしの大騒ぎっぷりである。
それでも苦情を訴える近隣住民や通報を受けた衛兵が来ないのは、ここが珍走団の根城になっているということが半ば公然と認められていたからだろう。
それは幸いだったのか、あるいは不幸だったのか。
「諸君らは、何だ!?」
『我らは蛆虫なり!』
「諸君らは、何だ!?」
『我らは塵屑なり!』
「諸君らは、何だ!?」
『我らは糞以下の存在なり!』
師匠による、救済の女神アリシアへの賛美と自己批判は、小一時間程続いた。
最初は恐怖にひきつった表情ばかりだったチンピラたちは、徐々に険しい顔つきになっていき、最終的には狂戦士のような面構えになってしまっていた。
まずい。
洗脳完了しちゃっている。
震える私がチンピラたちを憐れんでいると。
突如師匠は邪悪な儀式を止めて、私の方を指さした。
「諸君の心は、今真っ赤に燃えている!これから、私の弟子が諸君らの性根を叩いて修正してくれよう!」
・・・はい?
急に指名された私は、身体の震えを止めた。
師匠は訳が分かっていない私を店舗の中央に引っ張ってくると、空になった酒瓶を押し付けた。
「では、あとは頼んだ」
師匠はそれだけ言って、荷車のそばの壁にもたれかかった。
そしてまだ手の付けられていない酒瓶を取ると、栓を外して喇叭飲みをし始めたではないか!
おいこら、この糞坊主!
私に何をさせる気だ!
「“私たち”の仕事は、彼らを正しい道へと導くことだろう?」
何が私たち、だ!
師匠がやってるのは指導ではなく悪質な扇動、いや洗脳だ!
「人聞きの悪いことをお言いでないよ。犯罪組織の尖兵になるよりも、私の主神の下僕となったほうがはるかにましだろう」
そうだとして!
私に何をさせようというのだ!?
「私の導きで、彼らの腐った性根は真っ赤になるまで熱せられた。後は、君が一発ガツンとやってくれればいい」
ふざけるな!
そんなの自分でやればよいではないか!
「本当なら、チンピラ相手に君がどれだけ戦えるかを見るつもりだったんだが、予定が少々変わってしまった。まあ、結果良ければすべて良し、だ」
過程も結果も全然良くないではないか!
この甲斐性なしの、大酒飲みの、生臭坊主め!
「ああ、そこの君。君が一番手だ。さあ、行きたまえ」
「うおおおっ!」
指名された一人のチンピラは、眼を爛々と輝かせながら私に向かって突撃してきた。
「う、ううん?」
巨漢が目を覚ますと、大勢の仲間たちが。
いや、すでに“その道”においては先達となった者たちが、巨漢の周を取り囲んでいた。
彼らは一様に眼を怪しく輝かせながら、ジャックへと優しく、優しく語り掛けた。
「ジャックさん。あとはあんただけです」
「あ?な、なに?」
その、見たことのない異様な表情に怖気を覚え、ジャックと呼ばれた巨漢はかすかに後じさった。
しかし、その体を彼らは優しく優しく引き留めた。
「さあ、一緒に俺たちと糞虫になりましょう」
「え?何言って・・・。ちょ、やめ・・・」
生まれてこのかた遭遇したことのなかった類の恐怖を感じていたジャックの口に、酒瓶がねじ込まれた。
『鷹の嘴』と呼ばれた漢の、最後であった。
「おい、君」
「ありしあさま、ばんざい!ありしあさま、ばんざい!」
「おーい、君」
「われらはひとしく、くそむし!うじむし!ごみいか!」
「・・・とりゃっ」
「ぐえ」
「よし」
「・・・」




