第35話 悪魔について
私の師匠は、本気で怒るとものすごく怖い。
というよりも、恐ろしい。
まさに、恐るべき怒りだ。
師匠とはそれなりに長い時間を共に過ごしてきたが、この事実を知ったのはつい今しがただった。
「このお嬢さんの言うとおりだな。なんとも恐ろしい顔だよ」
私の背後に立つお客人も、そのように肯定した。
師匠の、その怒りに燃え盛る二つの目は、この紳士然とした客人に向けられていた。
かように感情をむき出しにした師匠を見るのは初めてだったが、怒りを、それも他人にそれをぶつけているのを見るのは、とても驚きだった。
だが、うれしくない。
こんな師匠の初めてを見ても、私はいささかも喜べない。
「何の用だ」
師匠は歯をむき出しにしながらも、静かに客人に問うた。
今にも噛みつきそうな、というよりも噛み砕きそうな程に顔をゆがませた師匠に対して、客人はやれやれと首を振った。
男性用の高級な燕尾服に身を包み、小粋な杖と紳士帽子を左右の手に携えたその男は、いかにもその外面から想像できるように、実に紳士的な好人物だった。
言葉遣いは丁寧だし、物腰は柔らかいし。
私が玄関で応対した際には、『こんにちは、可愛らしいお嬢さん』だのと褒めてくれていたし。
だというのに、師匠はいったいどうしたというのか。
来客を知った師匠が夕飯の支度を中断して玄関に来ると、突然このように豹変してしまったのだ。
空気中の魔力が師匠の激情に反応して、かすかに明滅を繰り返し、あるいはぱちぱちと小さく爆ぜていた。
「まあ、落ち着き給えよ。君」
こんな恐ろしい気迫を真っ向から受けているというのに、その客人は涼しい顔で堂々と我が家へと入り込んできた。
私の横を通り過ぎる際に、ほのかな香水の香りがした。
強くはないが、しつこく主張をしない。なんというか、落ち着いた印象を受けるような、そんなほんのりとした香りだった。
客人は、そのまま臆せずに師匠の横をも通り過ぎると、勝手に居間へと入り込んだ。
そして寝椅子に腰を下ろして杖を立て掛け、目の前の卓の上に帽子を置いて足を組んだ。
「そんなところに立っていないで、君たちも座り給えよ」
師匠は舌打ちをして、どすどすと乱暴に床を踏み鳴らしながら居間へと入ると、客人の対面の寝椅子へどっかと座り込んだ。
あくまでも落ち着き払った客人とは、まったく対照的な師匠のその姿に。
私は、思わず師匠を凝視してしまった。
普段の師匠なら、自然災害が起こったってしないような、酷く子供っぽい行為だ。
いつもはとても落ち着いているのに、今はこんなに粗暴に振舞っている。
いったい、この客人は何者なのだろうか。
「何の用だ!」
吠える師匠の怒りは、私には向いていない。それなのに、私の体は震え、心が悲鳴を上げていた。
これはもはや、単なる恐怖という感情ではない。
私という命、魂、存在のすべてを根こそぎに焼き尽くされるような、絶望が・・・
「いい加減に、野犬のように唸るのを止め給えよ。お嬢さんが怖がっている」
客人が手のひらで私を示すと、師匠はほんの少しだけ表情を戻して、気まずそうにそっぽを向いた。
途端に、師匠から溢れていた恐ろしい気配が弱まり、私はやっとまともに呼吸をできるようになった。
師匠はそんな私をちらりと確認し、咳ばらいを一つしてから、改めて客人に問うた。
「・・・何しに来たんだ」
「いや、何。私の部下の不手際を謝罪しに来たのだよ」
「冗談を!」
「本当に謝罪だとも。これ、この通りに。お詫びの品も持参した」
客人はそう言って、大きな菓子折りを卓の上に置いた。
お屋敷に入ってきたときには、両手はふさがっていたはずなのに、いったいどこに隠し持っていたのだろうか。
「お嬢さんと一緒に、食してくれ給え」
「貴様なんぞから、施しは受けん」
師匠は腕組みをして、きっぱりと拒絶した。
そんな取り付く島もないような師匠の態度に、客人は立派な口髭を撫でて諭すように言った。
「あの時のように、気安く『おっさん』と呼んでくれて構わんのだよ」
「ぬかしやがれ」
あくまでも落ち着き払った客人に対する、師匠のその酷い言葉に。
私はまたも、思わず師匠を凝視してしまった。
普段の師匠だったら、天変地異が起こったって口にしないような、汚い言葉遣いだ。
「ほほう、そうなのかい」
客人が、私の方を見て言った。
急に値踏みするような視線を向けられて、私は少し後じさった。
「ふむ。僅かながら、あの女の匂いがするな。それに、その守り・・・」
客人の視線が、私の顔から胸元へと動いたのが分かった。
私の胸元に下げられた、銀の小片。
あの、軽薄な兄ちゃんからいただいた品だ。
なにやら不思議な守りの力があるという師匠の言葉と、一応装飾品に見えなくもないという二つの理由から、こうして身に着けているのだが。
「とうとう使命が嫌になって、後継者を作ることにしたのかい?」
その意味不明な言葉に、再び師匠の体から怒りの気配が立ち上り始めた。
刺すような殺気とは違い、周囲を無差別に焼き払うような、原初的な感情の渦だ。
「それ以上言ったら、本気で滅ぼすぞ」
師匠は立ち上がり、壁に掛けてあった刺突剣に手を伸ばした。
いつぞやの、師匠の友人とやらの持ち物であるという、不思議な材質でできた剣だ。
師匠が使うわけではなく、かといって仕舞っておくわけでもなく、ただ壁に飾られていただけだったのだ。
「いやいや、悪かったよ。申し訳ない」
客人も立ち上がると、ぴしりと礼儀正しく謝罪をした。
さっきから感情的な言動ばかりの師匠とは、まったく正反対だ。
良く分からないが、なんで師匠はこんな好人物に対して突っかかるのか。
「昔、いろいろとあったのだよ」
客人はそうつぶやくと、玄関のほうへと歩き出した。
「滅ぼされてしまってはかなわない。おいとまするとしよう。可愛らしいお嬢さんと、よろしくやってくれ給え」
玄関の扉を開けたまま去っていく客人を、私と師匠はそれぞれ異なる表情で見送っていた。
私は不思議そうな顔で。
師匠については・・・、まあ、言うまでもなかろう。
なんとも、不思議な客人だった。
部下の不手際を謝罪しに、とか言っていたが、いったいなんのことなのだろうか。まったく心当たりがなかった。
・・・そういえば、なんだか口調が、少し師匠に似ていたような。
「まさか。冗談だろう」
師匠は怒りの表情を消して、呆然と私を見つめた。
いや、本気で気が付いていなかったのだろうか。
師匠の普段の話し方は、今の客人とそっくりだったのだが。
「一緒にしないでくれたまえ。やつは、大悪魔だ。部下の不手際などと、白々しい」
は?
悪魔?
悪魔って、こないだの?
「あんな下級のデヴィルではない。地獄の九圏の君主の一人だ。・・・本気で戦ったら、私の方が滅ぼされていたよ」
でびる?
じごくのきゅうけん?
「・・・なんでもいい。家が穢れた」
師匠はそう言い捨てて、どすどすと床を踏み鳴らしながら台所へと戻っていった。
夕飯の仕込みを続けるのかと思っていたら、大量の瓶を抱えてまた戻ってきた。
「君。ちょっとどいてくれ」
師匠は私を押しのけると、床にごとごとと瓶を置いた。そしてそれらの蓋をすべて開けると、逆さにして中身を床にぶちまけた。
うわ!
師匠、いったい何を!?
「清めるんだ。当然だろう」
そういいながら師匠が振りまいているのは、先日に悪魔を退治するために使っていた、“聖水”だった。
ただの水から成聖するにはそれなりに手間がかかるというのに、師匠は次から次へと瓶を空にしていた。
玄関から居間へと、あの客人が通った足跡をすべて洗い流すようにして、お屋敷はどんどん水浸しになっていった。
「まったく。とんだ来客もあったものだ」
聖水をまきながらそうつぶやく師匠は、表情が少し変化していた。
怒り。
それはもちろんある。
しかし、それだけではない。
なんというか、よく受像機の戯曲でみるような、とても懐かしい人と再会した時の様な。
あ。
そういえば。
私は居間の卓の上に目を移した。
あの客人が置いていった菓子折りが、まだそこにある。
たしかこれは、街でも三指に入る名店の最上級の贈呈品だった筈だ。
色々な店のお菓子を食べ歩いてきたが、いつだったかの他流試合の時のような幸運でもなければ、これ程の品を口にする機会はなかなかにないのだ。
「そんなもの、捨ててしまいなさい」
師匠は新たな聖水の瓶を大量に抱えながら、乱暴にそう言った。
でもなあ。
ここのお店のお菓子、すっごく美味しいんだよなあ。
きっとこの菓子折りも、そうなんだろうなあ。
捨てるなんて、もったいないなあ。
ふと、魔が差してしまったのだ。
私は、師匠の様子を窺いながら、そっと包みを解いた。
箱を開けると、中には精巧な細工のような、あるいは美しい装飾品のような、素晴らしい芸術品とも言うべき菓子が並んでいた。
私はごくりと唾を飲み込むと、そのうちの一つを手に取り、口の中に放り込んだ。
すごい。
なんていうか、おいしいという次元ではない。
これはそう、美味!
口の中でとろりと溶けたかと思ったらそれは外側だけで、中身はふわふわの生地だ。
溶けた菓子の表面の甘さが、中身の生地のほんのりとした苦みと絶妙な連結をし、私の舌の上で踊っているではないか!
私はたまらず、二個目、三個目を口の中に放り込んだ。
ああ、なんて素晴らしいんだ!
こんなすばらしい菓子折りをもってきてくれるだなんて、あの客人はとてもいい人だ!
せんじつ師匠は、地獄のあくまは残らずだらくしているといっていたが、やはりそれはへんけんだったのでは・・・。
・・・うん?
なんだろうな?
なんだか、あたまがぐらぐらするぞ?
なぜだか、からだがほてってくる。
なんだか、おなかのあたりが、せつないような。
わたしは、どうにかしてしまったのだろうか?
ししょう。
ししょう・・・。
「どうした、君」
ししょうがあわてたようすで、わたしのもとへとかけよってきた。
ああ、ししょう。
わたしの、ししょう。
「あーっ!食べてしまったのか、それを!やはり何か盛られていたな!」
ししょう、おねがいだ。
だきしめてほしい。
「落ち着きなさい!君は正気を失っている!」
いいや、わたしはしょうきだ。
じっさい、いまになって、ようやくかくしんしたのだ。
わたしは、ししょうを・・・
「あの悪魔めっ!君、止めなさい!冗談ではないぞ!」
わたしは、ほんきだ。
ししょう、おねがいだ。
わたしを、うけいれてほしい・・・
「ええい、仕方がない。許せよ、君」
ししょうはそういって、わたしのせなかにてをまわした。
ああ、ししょう。
わたしは、いま、とてもこうふくだ・・・。
「とりゃっ」
ぐえ。
気が付くと、私は自室の寝台に寝かされていた。
頭がぐわんぐわんとゆれている。
ひどく不快な気分だった。
「言わんこっちゃない。だから捨てろといったんだよ」
師匠としろすけが、そろって心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
いや、師匠はいつもの無表情に戻っていたが。
まあ、その方が安心する。
「恐らく、催淫剤の類が盛られていたんだろう。一応解毒の奇跡はかけておいたが、まだしばらくは休んでいなさい」
さいいんざい?
「あー・・・。そろそろそっちの勉強もしなければならないな」
師匠は無表情のまま、首筋を撫でた。
しろすけはそんな師匠を見つめると、何やらひと鳴きした。
「君。下品なことを言うのはやめなさい」
師匠がしろすけに言うと、しろすけは逃げるようにして私の部屋から去っていった。
前にもこんなことがあったが、師匠はしろすけの考えていることが分かるのだろうか。
「そんなことよりも、だ。私は捨てろと言ったのに、なぜ食べてしまったんだい。おかげで、こんなありさまだよ」
だって、おいしそうだったし、もったいないし・・・
「師匠の言いつけは、守るものだよ。まったく君ときたら、なんと意地汚い娘だろうか・・・」
師匠は、憔悴している私に対して、くどくどと日ごろのうっ憤をぶちまけ始めた。
私が弱って反撃できないのをいいことに、いつものような無表情で、いつものようにお小言を言う。
まったくもって、嫌な師匠だ。
・・・だが、私はこっちの師匠の方がいい。
「どういうことだい、君」
どういうことも何も、そのままの意味だ。
師匠は怒っているよりも、こっちの方がずっといい。
「・・・そうか」
師匠は、いつもの無表情のまま頷いた。
「これに懲りたら、拾い食いは止めなさい」
「うぅ、しんどい。ししょう、だっこして・・・」
「なんだ、まだ薬が残っていたか。とりゃっ」
「ぐえ」
「よし」
「・・・」




