第26話 知人について
その姿に、私は目を奪われていた。
私どころか、この山全体を覆いつくさんばかりに広げられた翼をはためかせて、私の眼前へと降り立ったあまりにも巨大な影は、勢いを殺して着地したはずなのに大量の雪のしぶきを私へと浴びせてきた。
両の翼を畳んでもなお山の一部と見まごう程の巨体は、ゆっくりとした動作で鎌首をもたげた。
その体中を覆う鱗は陽光を眩く反射し、赤い瞳は厳かに私を見下ろしていた。
銀の鱗の、龍。
神話として語られる、書物の文面上にのみ存在する超常の生物である。
一度その荘厳なる姿を現せば、地は裂け、山は砕け散り、海は凍り付き、森は灰塵と化し、命ある者はことごとく腐り果てるという。
ああ、そうか。
私の人生は、今、この瞬間のためにあったのだ。
この偉大で、美しく、何者にも屈することなき強靭なる存在。
今日という日に、この恐ろしくも素晴らしい龍と出会うために、私は生まれてきたのだ。
私は寒さを忘れて、雪の上に両膝をついた。
銀の龍は、静かに私を見つめていた。
私は、信仰心など欠片も持ち合わせてはいない。
祈りだって、師匠の見よう見まねでしかできなかった。
だが、今ならわかる。
人が祈ろうとするのは、かように偉大な存在に心打たれるからなのだ。
私は左右の手袋を外すと、目を閉じ、両手を組んで祈った。
ああ、この素晴らしい瞬間を迎えることができたことを、感謝します。
「だいじょぶー?」
軽い調子の声に私が目を開くと、あの神秘的な銀の龍の姿はなかった。
「やーやーお嬢さん。こんちわー」
代わりに、軽薄そうな兄ちゃんがいた。
「お前、こんな子どもを驚かせて喜ぶな」
「いやいやー。久しぶりのお客さんだったんでねー、つい」
そんな馬鹿な。
確かに目の前に、いたはずなのに。
あの赤い瞳に睨まれて、死を覚悟しつつも満ち足りた気分だったのに。
「さー、どうしたんでしょうねー?」
「いい加減にしろ」
後ろにいた師匠からの叱責を軽く受け流しているこの兄ちゃんは、いったいどこから現れたのか、この降り積もった雪の中に膝までずっぽりと埋まっていた。その肌は南部出身者特有の黒色で、その軽装も相まって雪山には全く相応しくない存在だった。
そう。
私と師匠は、雪山に来ていた。
街からも遠望できるこの“龍山”は、毎年初秋には頂上付近に雪が積もる。
この時期からは、行楽目的で登山をする人間も少なくないが、私たちはその類からは漏れていた。
『ちょっと、知人に会いに行こう』
今朝がた、師匠は軽い調子でそう言ったのだが、続く「できるだけ厚着をしてきなさい」との言葉で嫌な予感はしていたのだ。
龍の住まいであったという古い言い伝えが今でも残る山ではあるが、観光名所というよりは雪遊びで有名な土地であり、それなりに楽しめる施設なんかもあるが、師匠がそんなところに連れて行ってくれるほどの甲斐性がないことなど重々承知していたのだ。
家族連れで余暇施設へと向かう人だかりをしり目に、山頂へと向かう寂れた参道を指さされて、私は盛大にため息をついたものである。
ちなみに、私はきっちりと防寒具を着込んできていたが、師匠はいつもの冴えない普段着だった。
最早、意識が低いとかそういう次元ではない。
師匠は頭がおかしいのだ。
「あっはっは!なかなかきっついお嬢さんですねー!」
「いつも、こんなものだ」
雪山どころか登山にすら適さない服装でこの場にいるくせに、腕組みをして無表情にため息をつく師匠に対して、軽く殺意が湧いてしまう。
その隣でゲラゲラと笑っている兄ちゃんも、師匠と大して変わらない薄着であるのだが。
「こいつが、知人のグレンだ」
「どもどもーっ、よろしく!」
二人の男どもは、そろいもそろって雪山をなめ切った格好である。
真面目に防寒具を完全装備してきた私が、かえって阿呆のようではないか。
いや、それにしても、兄ちゃんの方はなんとも着こなしが良いような。
黒に染めた半袖の襯衣は、本来は腰に巻いている上着を羽織ることを見越してのものだろう。下服も、一見すると女性ものかと思うほどに細いつくりだが、兄ちゃんの細い体の線を強調する役目を立派に果たしている。
このほとんど極限環境と言っていい場所においては、人体の保護という被服上の最重要機能をまるで果たしてはいないが、装飾という一点で評価すれば、うん、まあ、格好いいではないか。
「あっ!いいでしょー、この服!あっちで買ってきたんですよー」
兄ちゃんは、薄着であるというのに全く寒さを感じさせない様子で語りかけてきた。
何というか、その服装も相まって人間性まで軽く見えてしまう。
いや、それよりも、今なんと言ったのだ?
「あっち?まさかニホンに行ったのか。どうやって」
「それりゃあもう、アレしてコレしてちょいちょいっとねー」
やっぱりだ。
あまり見ない種類の服装だと感じたが、どうやら異世界のものらしい。
それにしては、なんとも様になっているではないか。
「褒められちゃった!うれしー!」
「おい、まさか密入国したのか。犯罪だぞ、それは」
「まーまー。バレなきゃいいんですよ、バレなきゃ!」
突っ込みをすいすいとかわし続けるこの兄ちゃんに、師匠は振り回されているようだった。
いつもは無茶苦茶なことをやって周囲を引っ掻き回すことの多い師匠だが、このグレンという知人の前では一貫して受け身の立場だった。
「そんなに遊び歩いていたら、お前の母親に怒られるぞ」
「いやー、それがねー。母上様は今も向こうで遊んでおられるんですよー。今日も若い男にナンパされたって喜んでましたよっ、メールで!」
「何、手紙?いや、それにしても、あのお転婆娘は・・・」
「あっははは!母上様をお転婆娘なんて呼べるのは、ディンさんぐらいなもんでしょーね!」
私がやや呆然として二人の漫才じみたやり取りを見つめていると、ついに師匠が首を振ってため息をついた。
「まったく、お前たち親子は・・・」
そう言って首筋を撫でる師匠の彫像のような顔からは、若干の疲労が見え隠れした。
まあ、なんとなく気持ちは分かる。
「他にも戦利品はあるんですよー、これとか!」
そんな師匠の様子がちっとも気にならない様子で、兄ちゃんは懐から取り出した品物の解説へと移行した。まるで、子どものような落ち着きのなさだ。
そんな兄ちゃんに対して、師匠は仕方なしに応じた。
「・・・なんだ、これは。携帯通信機か?」
「ちーがうちがう!スマホ!」
「すま、ほ?」
「そそ!通話もできるし、メールも送れるし、ネットもできるし、音楽も聴けるし、動画も見れるし、写真もとれるし。ちゃんと改造して、こっちでも使えるようにしてるんですよー!母上様とお揃い!」
兄ちゃんが自慢げに見せつけてきたスマホとやらの画面には、笑顔で並ぶ見知らぬ女性と兄ちゃんの画像があった。二十代程の女性は、肌が白かった。
「これ、ボクの母上様!美人でしょー?」
何を言ってるんだ、この兄ちゃんは。
肌の違いはまあ置いておいても、ほぼ同年齢に見える男女が親子だなどと、何を世迷いごとを。
「えー?ホントなのにー」
兄ちゃんは大げさに落ち込んでみせると、すまほとやらをいじくり始めた。
なんだか、街で昔から使われている携帯型端末にそっくりだが。
「おっ!お嬢さんお目が高い!」
兄ちゃんは機嫌を直したようで、急にずずいっ、と私との距離を詰めてきた。
初対面の私に対して、なんとも馴れ馴れしい。
というか、この兄ちゃんとは距離感がいまいち掴めない。
これは師匠でなくても疲れるはずだ。
「こいつはねー、今年になってようやく発売されたんですよ。やっと向こうでもこの程度のものが作れたのかーって感激しちゃって!もー徹夜して並んじゃって、つらかったのなんのって・・・」
「あー・・・。もういい加減に、本題に入ってもよいかな?」
師匠が珍しく、うんざりした口調で止めに入ってきた。
心なしか、表情に明らかな疲労が見え始めていた。
まあ、私も同意見だった。
こう休みなく話しかけられては、聞いているだけでも疲れてしまう。
「あーあー、そーでしたねー」
兄ちゃんはにやりと笑うと、私の顔を無遠慮に覗き込んできた。
なんだ、いったい何が始まるのだ。
「うーん。ま、並みかな」
数秒程私の顔を見つめた後に、兄ちゃんはすっぱりと言い放った。
いったい何が並みなのかは分からないが、なんだかひどい侮辱を受けたように感じる。
「見込みはあると思うか」
「どっちかってーと、ディンさんの領分っぽいですよ、このコ」
「何、すると」
「ま、奇跡の範疇でしょうな。ボクにはさっぱり!」
大げさに腕を広げる兄ちゃんからの評価を聞いて、師匠が微妙な表情をした。
なんというか、喜んでいるようで困っているような。
「んじゃ、ボクはそろそろお出かけしよっかな!」
私のあずかり知らぬところで話は終わったらしく、兄ちゃんは踵を返そうとした。
しかし、何かを思い出したように、再び私に向き直った。本当にせわしない兄ちゃんである。
「あ、お嬢さん。お近づきの印に、これ差し上げちゃいます!」
そう言って兄ちゃんが差し出してきたのは、何やら銀色の小片のようなものだった。
美しく陽光を反射するそれは、何か不可思議な力を秘めているように思えた。
「なかなかいい直感ですねー!ま、お守りにどうぞ!なんかちょっかい出されそうな予感がするんで!」
そう言って兄ちゃんは、私の手に半ば無理やりにそれを押し付けてきた。
なんだか、じんわりと温かい。
あの兄ちゃんの体温で温まったにしては、彼の手は冷たかったが。
「いい物をもらったね・・・」
師匠は疲れ気味な口調で、横から声をかけてきた。
私との鍛錬や以来の時にはあまり疲れを見せることはないが、こんな数分程度の会話でここまで疲弊するとは驚きであった。
まあ、確かにこの小片、一見すると銀の装飾品に見えなくもないが・・・
「そんな俗なものよりも、はるかに有用だよ。・・・まあ、大切にしなさい」
師匠の言葉に首を傾げたが、取り合えず私は兄ちゃんに礼を言おうとした。
しかし、手の中の銀の小片から目を離すと、すでに目の前には誰もいなかった。
「やれやれ。本当に落ち着きのない奴だ」
さっさと帰ろうという師匠の言葉に、私はすぐには従えなかった。
銀の龍といい、怪しげな兄ちゃんといい、寒さで幻覚でも見てしまったのだろうか。
そういえば、今になって気づいたが。
変な兄ちゃんの目は、赤い色だった。
「ししょうは、なんでうすぎでかぜひかないの」
「それは、まあ、神様のおかげだ」
「・・・なるほど」
「なんだい」
「ばかだから、ですね」
「・・・」




