氷の王子と魔王が棲むレイチェルで(中篇)
「では、シャンプー台へどうぞ」
店長さんは佐内青年の態度なんて全く気にしない様子で、人の良さそうな笑顔を浮かべて私を促す。隙の無い動きと有無を言わせぬ黒い気配を垂れ流しで、抗いがたい雰囲気のまま、シャンプー台のある方へ私を案内という名の強制連行してくれた。
しまった。佐内青年の事を聞こうと思ったのに、相手の空気に呑まれてた!だめじゃん、私!
ちゃんと確認しておきたい事があるのに!
椅子に座った私は、あれよと言う間に首周りから肩にフェイスタオルをかけられ、軽やかに宙を舞った洗髪用のケープに包まれる。
声をかけようと顔を店長さんの方に向けようとしたら、一つ結びの私の髪を掴んで髪留めを外された。そして、まるで大切なものを扱うかのように、店長さんは手の内の髪を梳くように広げる。
髪の毛一本一本を丁寧に指で撫でながら見つめるその表情は、毛先の時はかなり険しかったけど、根元に近付くにつれて表情が和らぐ。しかも、無駄な色気がむんむんしてきて、店長さんの立つ私の左半分がゾワゾワする。
髪の毛を見てるだけなのに、エロさ満載って何!?魔王にはお色気オプションでもついてるの!?
……あ、わかった!佐内青年と同じ髪フェチなんだ、この人。
恍惚としてる表情が同じだ。うん。この父子、似てるわ。
って、感心してる場合じゃないー!店長さんはシャンプーをやる気満々で、入念な髪質チェックしてるんだから、阻止しないと!
私の意思は別方向に向いていて、私はまだシャンプーを始める気分じゃないのに!
「あの…」
「今日は、どのようになさるか、悠里とお決めになっていますか?」
今度こそは話しかけようと一言目を発した瞬間に、言葉を塞がれた!
「…まさか、何もお決めになっていない?」
やだーっ。この店長さん、また佐内青年似のグッドスマイルで、暗黒冷気を垂れ流ししてくるからマジで泣きたい!
私、曲がりなりにもお客さんなのに、敵意むき出しと言うか、なんでこんな魔王みたいなキャラで接客してんのよ、この人ーっ!
店長さん!貴方、私が嫌いなの!?
腹の底で何を考えてるのか読めなくて、怖すぎる。
従兄の要とは別ベクトルで苦手なタイプだよ!
同じ腹黒系でも、真幸はもっとおバカで可愛げがあるのにーっ!
「…一応、カットだけ…しばらく切っていなかったので、傷みも酷いし思い切ってざっくりボブかショートにしようかと」
答えを間違えたら闇に葬られそうな圧力に、柄にもなく怯えながら、此処に来る途中で佐内青年と話した事を答えると、店長こと佐内父は少し考える様に髪を眺めてから顔をあげて私を見る。
普段なら、キレるところだけど、私にだって苦手な相手はいるのよ。
「確かに毛先にかけてかなり傷んでいますので、十五㎝程度のカットは必要かもしれませんが、補修用のトリートメントを追加すれば、ロングのままでも大丈夫ですよ?」
十五㎝切ってもまだロング扱いなんだ…流石、無駄に伸び散らかした髪。
「佐内君にも来る時にそう言われましたけど、イメージチェンジもしたいので」
「そうですか。毛先以外の髪質はとてもいいので、もったいない気もしますが、新しい髪形に挑戦するのも楽しくていいですよね」
親子だからなのか、美容師としての性質なのか、息子と同じことを言う店長さんに、口が裂けても、シャンプー代節約の為に短くしますなんて事実は言えない。
「では、背もたれを倒しますね」
「あ、あの、店長さん!」
思い切って傍にいる店長さんに声をかけると、彼は「何でしょう?」とにこやかに言葉を返してくれる。
「このお店は予約制ですよね?私が突然伺ったせいで佐内君にも、お店にもご迷惑をかけたのではありませんか?予約を取って日を改めた方がいいと思うんですけど」
絶対、私に対して店長さんが怒っている理由はそれしか考えられない。
こんなおっかない人に、椅子を倒されて顔を隠され髪を洗われるなんて無理!
まな板の上の鯉みたいに、容赦なく殺される!
「貴女の事は、事前に松子から連絡を受けていたので、お気になさらないでください。悠里が言い出したことですから、貴女には何ら非はありませんよ」
相手が丁寧に言葉を返してくれるけど、後半の言葉には刺々しさを感じた。
やっぱり佐内青年は、私を連れてきたことで咎められたんだ。
この雰囲気だと、私にも文句を言いたいけど、客だがら言わないでやると言った感じだ。
申し訳ないことを佐内青年にしちゃったな…。
「誤解なさらないでください。貴女を連れてきたことを咎めたのではなく、悠里は仕事の途中で許可を得ずに抜け出したので、それを注意しただけです。プロ意識を欠く事を悠里に覚えて欲しくないので」
私の考えを見透かしたように、終始微笑みながら言葉を紡ぐ。
やっぱ魔王だ。この人、人の心まで読む!!魔王だ!
「悠里の態度が気になりますか?」
「彼が怒っている所、初めて見たんで…」
「貴女に奇跡の笑顔を向けていたのに、あれで怒っている!?」
初めて魔王の表情が崩壊した。
奇跡って何なの?っていうか貴方、魔王だから、あれくらいの変化はすぐ分かるでしょ?
とか思ってたら、イケメンが台無しの表情を浮かべた店長さんに呼応して、ガチャンと音がする。
一瞬にして、有線から流れるポップミュージックのBGM以外の音が消える。
な、何この凍りついた空気!?
「し、失礼しました」
平静を装っていたけど明らかに動揺した声音が聞こえて、一人の女性スタッフが床に落ちたシザーを拾い上げる。
美容師さんのハサミはピンキリだけど、高額だと一本ン万円単位で、落としただけで壊れたりするデリケートなものだと、以前、馴染みの美容師さんから聞いたことがある。
彼女のシザーは高額のものだったみたいで、破損がない確認をしてほっと胸を撫で下ろしているのを見て、自分も思わずほっとする。
だって、修理代だってばかにならないし、商売道具だから無いと困るじゃない?
「貴女は、どうして悠里が怒っていると?」
不思議そうに問われたけど、こっちが疑問だわ。
「…いつも無邪気に笑って喋りかけてくれるのに、今の笑顔は不自然で目も笑ってないし…不機嫌さがにじみ出てましたよね?」
誰かが思いっきり噎せかえり、別の誰かが「ウソだろ」とか、「有り得ん」だの「天変地異の前触れ?」だの、口をそろえて大概失礼なことを言っている。
「貴女の見間違いではなく?」
「会って日は浅いですけど、毎日のように見た笑顔は間違えませんよ?」
普通、あれだけはっきり表現していれば、気付かない方が変だもの。
なのに、店長さんは半ば放心したような表情だった。
「…貴女の前で、悠里はいつも笑っていますか?」
「彼、感情表現豊かですよ?良く喋るし、笑って拗ねて、落ち込んでみたり…今みたいな冷たい感じの方が珍しくて、私としては気になると言うか…」
「その悠里、何処の悠里ですか!?」
あれ、デジャヴ?その台詞、貴方の奥さんから聞いた気が…。
そしてスタッフが無言で頷いている。
「どこも何も、さっきまで一緒にいた佐内君ですけど…」
「あり得ない!悠里は何時もむっつり無表情なのに!」
叫ぶように声をあげたサロンのスタッフへ視線を向けると、佐内青年と同年代の美容師が、隣のシャンプー台の傍で泡だらけの手で自分の頭を抱えていた。
一斉に手を止めたスタッフは、一様に首を縦に振った。
え、何?この店のみんな、鈍感なの?
「基本無口で、喋ったっていつも淡々としてるのに!」
「感情を見せない氷の王子が笑うとか、マジでありえねー」
「悠里の表情が変わるなんて、松子センセーがフォーマルスーツ着るくらい有り得ない」
スタッフの言葉に、私は思わず固まる。
佐内青年…君、いつもどんな顔をして仕事をしてるの!?同僚に其処まで言われちゃうってどうなの!?駄目よ、客商売は笑顔が命なんだから!私にいつもするみたいに、ニコニコしないと!
そう心の中でその場にいない佐内青年に遠慮なく、猛烈な勢いで突っ込みましたとも。
だけど同時に、酷く悲しい気持ちになる。
佐内青年の周囲で彼を一番よく見ている人たちが、彼の事を笑わない、怒らない、無表情顔…そんな風に言うなんて。




