097 与右衛門(よえもん)の噂 羽柴駒
小一郎の今浜への滞在は八日ほどの予定です。
先に京に戻った近衛殿下が帝に拝謁して、なにかしら本願寺と織田の和睦を進める手立てを得るのに十日ほど。それに合わせて出立し、京で合流するということだそうです。
それより今は、城中が大変な慌ただしさです。先日の秘密会合で藤吉郎様が発案したとおり、朝倉攻めのため、武器弾薬や兵糧、兵員の塩津浜への移動が始まったのです。
でも、いくさが始まろうかというのに今浜の民たちにあまり暗い色は見えません。朝倉領への侵攻なので今浜が戦火に見舞われる恐れはないし、朝倉が弱体化しているのは知れ渡ってますからね。
おまけに、今の織田方には天が味方しているなどという風聞もあります。三方ヶ原での大勝は、それほど世間に大きな驚きをもたらしたのです。
先日も(蜂須賀)小六殿など何人かの将が兵を率いて先発隊として出立したんですけど、民たちの見送りはまさに熱狂的なものでした。
『蜂須賀様ぁ、ご武運を!』
『おお、また磯野様のご雄姿が見られるとは!』
その顔ぶれには磯野丹波守(員昌)殿を始め、浅井家の家臣から羽柴家の与力となった武将も多く含まれています。特に磯野殿は浅井家屈指の猛将として民たちにも広く知られてますから、その辺りもこの熱狂の一因なんでしょう。
何しろ、朝倉や明智の耳にちゃんといくさ支度の情報が届かないといけないので、騒ぎは派手であればあるほどいいのです。さすがは藤吉郎様、こういうあたりの采配はさすがよね。
さて、私はいくさに行くわけでもなし、医師に診てもらったところ赤子が出来ていることも間違いなさそうだということで、しばらくはのんびりさせてもらいます。
久しぶりに無双丸様や双葉姫様とも遊びたいですし、半兵衛殿と芳野様のお子とも対面したいですね。阿古丸様も足止めで退屈でしょうから、お話し相手もしてあげなきゃ──あれっ、なんだかんだ言ってけっこう忙しいんじゃない?
その上、藤吉郎様から頼みたいことがあるとの呼び出しまで来てしまいました。小広間まで出向くと、ちょうど義姉上様と鉢合わせです。
「──あら、お駒殿も呼び出しなの?」
「義姉上様もですか? いったい何なんでしょうね」
二人で首を傾げながら部屋に入ると、藤吉郎様と、もうおひとり見覚えのない方がおられました。ちょっと温厚そうな初老の男性です。
「おお、来てくれたか、お駒殿、おね。
お駒殿は初めてじゃったな? こちらは藤堂源助(虎高)殿、与右衛門のお父上じゃ」
え、与右衛門のお父上? 最近、羽柴家に出仕してきたとは聞いていたけど──あまり似てないのね。
「実は、与右衛門のことで相談があってな。まあ、座ってくれ」
与右衛門のことで? 私たちに相談? ──あ、もしかして。
義姉上様も同じ考えに至ったようで、ふたりで頷き合います。
「もしや、嫁取りの話ですか?」
「さすがに察しがいいな。そのとおりじゃ。
あやつは文武ともに秀でておるが、どうにも頭が堅くていかん。もうちょっと人として、その、柔らかさみたいなものがないとなぁ」
「ああ、それは確かにそうですね。源助殿も同じお考えですか」
義姉上様が訊ねると、源助殿は少し苦笑いを浮かべました。
「いや、恥ずかしながら妻を早くに亡くして男手で育てたせいか、何だか武骨に育ってしまいましてなぁ。あれでも羽柴家に仕官してからは、ずいぶん柔らかくなった方でして」
──え、あれで?
「嫁のこともそろそろ何とかせねばと思っていたのですが、わしはしばらく隠居しておったので、他の家臣たちとの関わりも薄い。かといって、あいつが自分で相手を見つけてくるわけもなし。
ここはひとつ、殿にお骨折りをお願いしてみようかと思ったわけです」
「それでじゃな。すまんのだが、ふたりには家臣の家族の中から、与右衛門の嫁に見合いそうな相手を──」
『やりますっ!』
義姉上様と返事が綺麗に揃いました。だって──こんな面白そうなことって滅多にないもの。
あの朴念仁の仏頂面が可愛い奥さんをもらってどんな顔になるやら、想像しただけでおかしくなります。
「それで、藤吉郎殿っ。他に何か条件はありますかっ?」
義姉上様もやる気に満ちあふれてます。
「あ、ああ。条件は特にない。
与右衛門は本隊とともに出陣させるので、出立は五日後になる。できれば、それまでに顔合わせだけでも済ませておきたいんじゃが──」
「わかりました、任せて下さい! さ、頑張りますよ、お駒殿!」
私だって張り切っていました。義姉上様といっしょに何かをするなんて初めてですし。
そしてその日のうちに、どこから話を聞きつけてきたのか、三介様も目を輝かせて私たちの話し合いに飛び入りして来ました。
『与右衛門殿の嫁選びだそうですな! 面白そうじゃ、わしも混ぜてくだされ!』
そうして三人で色々と頭を捻り、吟味に吟味を重ねて、五人の候補を選んで藤吉郎様に報告したのです。
ところが──。
「うーん、おかしいですねぇ……」
藤吉郎様からの報告書を前に、義姉上とふたり、困惑した顔を突き合わせています。何と、五人ともお断りの返事が来たらしいのです。
始めは、話を持ち掛けられた家臣たちは大喜びするのです。それはそうですよね。主君からの口利きですし、与右衛門は将来性も充分に見込めそうですし。
羽柴家きっての鉄砲の名手であり、三方ヶ原でも武功を上げ、藤吉郎様ばかりかお館様の覚えもめでたい。将来、羽柴家を支える大きな柱のひとりとなることはほぼ間違いないのです。
でも、なぜか縁談を聞いた娘たちが激しく拒絶して、中にはそれなら自害するとまで言い張る娘もいたのだとか。
──うーん、条件は決して悪くない、どころか相当にいい方だと思うんですけど。
そりゃ確かに面白みに欠ける性格はしてるけど、酒乱や女狂い、博打好きなどの悪癖があるわけでもないですし。
だいたい、親が決めた話や、まして主君の口利きの縁談を娘が拒絶するなど、普通に考えれば絶対にあり得ません。何かよっぽどの理由があるんでしょうか。
『──おね殿、駒殿。よろしいですか』
その時、部屋の外から三介殿の声が聞こえました。三介殿もこの件は一緒に聞いたのですが、話を聞くなり何を思ったのか、いきなり部屋を飛び出して行ってしまっていたのです。
中へといざなうと、忍びの新吉殿も一緒です。
「あれだけ断られ続けるのはやはり変です。それで新吉殿に頼んで、町の噂を集めてもらったのですが──」
そこで三介様が言葉を切ると、新吉殿が少し言いづらそうに口を開きました。
「それがですね、どうも与右衛門殿について、いささか物騒な噂が流れておりまして。
その、にわかには信じがたい話なのですが──」
これは私たちだけで処理すべき問題ではないと判断して、藤吉郎様から与右衛門を呼び出してもらいました。
「──失礼します。藤堂与右衛門、お召しにより参上いたしまし、た、が──?」
案の定、与右衛門は怪訝そうな顔つきです。なにしろ、先日の秘密会合の面々がずらりと揃っているのですから。
「あの、それがしが何か──?」
「あ、ああ、まずは座れ。実はおぬしにもそろそろ嫁取りを世話してやろうと思うてな」
「──は。ご命令とあらば」
にこりともしません。そういうところも問題なんだけどなー。
「ところが何人かの家臣に打診したところ、父親が乗り気でも娘がどうしても嫌だと断られることが続いて、じゃな。どうやら、その、おぬしに妙な噂があるらしくてな──」
さすがにちょっと藤吉郎様も切り出しにくそうです。それを察したのか、三介様が顔をひきしめて話を引き継ぎました。
「単刀直入に訊くぞ。与右衛門殿が屋敷におなごを連れ込んだものの、逃げられたので腹いせに鉄砲で後ろから撃ち殺した、という噂がある。まことの話か?」
──与右衛門は目を大きく見開いて口をぽかんと開け、しばらく固まっていましたが、やがて観念したように大きく溜息を吐き出しました。
「──ずいぶん変な尾ひれが付いてしまっているようです。いきさつを話してもよろしゅうございますか?」
皆の顔を見回すように確認し、与右衛門は話を始めました。
「そのおなごは、藤堂家の屋敷の近くで行き倒れていたのです。屋敷で介抱し、行くところがないというのでしばらく居させてやろうとしたまでです。気のある素振りは見せてきましたが、それがしは誓って手など出しておりません。
──というより、始めから怪しいと感じていましたので」
「怪しい、じゃと?」
「はい。今の羽柴領で行き倒れだなど、むしろ不自然ではありませんか」
ああ、それは確かにそうかも。働き口はいくらでもあるし、仮に旅の途中で無一文になってしまっても、役場では臨時雇いの仕事も紹介してもらえるわけですしね。
「よくよく観察してみると、気配がしなさすぎるし、足音もほとんど立てない。
これは恐らく忍びではないかと思い、問い質そうと思ったところ、突然逃げ出しまして──」
「それで鉄砲で撃ったのか?」
「あ、いえ、断じて当ててはおりません。込めてあったのは弱薬(威力を弱めた火薬)ですし、足元の地面を撃って転ばせただけです。ただ、近づいたところ、すでに──」
「舌を噛み切ったか、毒を飲んだか、ですかな?」
治部殿が推測を口にすると、与右衛門が苦い顔で頷きました。
「毒の方です。他にも何種類かの薬や、読めない文字で書かれた紙なども持っておりましたので、あとで治部左衛門殿に確認していただければ」
「ふうむ、それを見ていた誰かから、噂が変に広がってしまったということか……」
藤吉郎様が深く嘆息されます。
「まあ、その噂についてはわしの方で何とかしよう。しかし、与右衛門、何で報告してこなかったんじゃ?」
「それはその、当家にいたのは一晩ほどで、ほとんど何も探られなかったと思いますし、それにおなご絡みだったので、変に勘繰られたくなかったと言いますか──その、申し訳ございません」
与右衛門が少し縮こまったように頭を下げると、緊張した空気が少し緩んだように感じられます。
与右衛門が理由もなく人を撃ったりしないとはわかっていても、やはり真相を聞くまでは落ち着かなかったもの。
さっそく義姉上様と三介様が、少し場の空気を和ますように話し始めます。
「だいたい、与右衛門殿は普段から仏頂面だからいけないのです。若いおなごから見ると、怖くて危ない人に見えちゃうんですよ?」
「話してみればそんなことはないとわかるんじゃがな。やっぱり見た目は大事じゃぞ、与右衛門殿。ほれ、口を『へ』の字ではなく、せめて真っ直ぐに、じゃな──」
──ただ半兵衛殿と治部殿だけは、まだ少し浮かない顔のままです。
「今回は大した実害がなかったようですが──これは少し厄介なことになったかもしれませんね。
治部左衛門殿は否定していましたが、明智が伊賀や甲賀と接触している可能性も出てきたのではないですか?」
「いや、むしろもっと厄介な話かもしれません。与右衛門殿、そのおなごの足元の地面を狙って撃ったのですな?」
「は、はぁ」
与右衛門の答えに、治部殿の顔がいっそう険しさを増しました。
「ならば、それは伊賀や甲賀の忍びではありません。それなら、狙いをつけられるような直線的な逃げ方など絶対にしません。
そうなると、そのおなごは我らのように体術を鍛えた忍びではなく、諜報活動や対人工作に特化した忍びの可能性があります」
「そんな忍びがおるのか?」
「はい。例えば──武田の『歩き巫女』」
『武田──!?』
思いがけない名前に、皆が一斉に息を呑みました。
──武田家が降伏して以来、亡き信玄公がどのような策略を使ってきたのかなどが少しずつ伝わってくるようになっています。どうやら信玄公は、いくつかの忍びの集団を駆使して、積極的に諸国の情報収集をしていたようなのです。
歩き巫女とは本来は忍びではありません。特定の神社に属さず、全国を遍歴して祈祷などを行って生計を立てる巫女のことで、中には旅芸人や遊女を兼ねる者もいるのだとか。
信玄公は信州を本拠とする歩き巫女の集団を支援し、その者たちに各地の情報を集めさせていたということなのですが、もうすでに亡くなっているし──あっ⁉
「それって──信玄公が使っていた忍びを、今は他の誰かが使っているってこと?
そして、羽柴家の周りを嗅ぎまわっているってことは──」
「ご明察です、お駒様。
これは最悪の想定なのですが──武田攻めに行ったどなたかが武田の忍びを掌握してしまった、そしてその方こそが無明殿だという可能性も考えられるのです」
「これは──厄介なことになったのう」
沈黙を破るようにこぼしたのは小一郎です。
「何人潜入しているかもわからんし、どれだけ情報が漏れたかもわからんのか」
「まだ、そこまで入り込んではいないでしょう。武田の降伏からわずか二か月ほどですので。
今浜城の使用人たちの身元は全て洗ってありますし、このところ増減もありませんから。ただ──」
そこまで言って、治部殿が少しばつの悪そうな表情を浮かべました。
「家臣の屋敷の使用人や、商家のものなど、全てを確認するのは不可能です。人手も足りませんし、人の心を把握することなど出来ませんから。
せめて、そのおなごを生かしたまま捕らえておれば、情報を聞き出すことも出来たと思うのですが……」
「──それがしばかりを責められても困りますな」
与右衛門の声が妙に硬い。え、治部殿は別に責めるような口調ではなかったと思うんだけど。
「それがしとて、小一郎様の家臣に忍びがいることを知らされておったなら、自分で問い質そうなどとは思わなかったのです」
──もしかして与右衛門、すごく怒ってる?
「文句があるなら、大事なことを隠してばかりいる小一郎様に言ってくだされ」
──あ、違う。本人は怒っているつもりなんだろうけど、これは──すねてるんだ。
与右衛門だって小一郎と近い存在だったはずなのに、自分だけ秘密を教えてもらってなかった。三介様どころか、おなごである私や義姉上様ですら知っていたのに。
それが面白くなかったんでしょうね──子供かあんたは。
でも、それを私が指摘しちゃったら逆効果でしょうしねぇ。小一郎も対応に困っているようだし、どうしようかな──などと思っていたら、三介様と目が合いました。何だか目配せしてくるし──えっ、自分に任せろってこと?
「与右衛門殿、何をふてくされておるのだ。自分が軽んじられてるとでも思ったか?」
「──は?」
「小一郎殿が与右衛門殿に隠していたのはな、与右衛門殿のことを重んじておればこそ、なんじゃ。
律義者の与右衛門殿なら、小一郎殿から未来の秘密を打ち明けられて、他言無用と言われれば絶対に口外せんだろう。だが、藤吉郎殿から問い質されたらどうする?」
「そ、それは──」
「藤吉郎殿に嘘をつき通せるのか?
小一郎殿との約束と、藤吉郎殿への忠義──その板挟みになってしまうのではないか?
そなたの一番良いところをよーく知っているからこそ、小一郎殿はそなたに打ち明けられんかったんじゃ」
うーん、上手いなぁ、三介様。さりげなく持ち上げたりして。
小一郎も心得たもので、すかさず深々と頭を下げます。
「与右衛門、すまんかった! おんしが誰よりも律義者で忠義者だからこそ、兄者に隠し通すためにおんしにも隠すしかなかったんじゃ、どうか許しとうせ!」
「あ、いえ、その、そこまでしてもらわなくとも──」
「──ようし、この話はこれで手打ちじゃ! この後のことを決めるぞ!」
頃合いと見たのか、藤吉郎様がひときわ大きな声を上げました。
「無明殿が探りを入れ始めた気配はあるが、明智にまでこちらの意図が伝わっている可能性は低いと見る。越前攻めは予定通りの形で進める。半兵衛殿、どうじゃ?」
「は、それでよろしいかと」
皆も大きく頷きます。
「それと、本願寺へ向かう一行だがな。無明殿や明智の妨害の可能性は低いと思うが、警戒はせにゃならん。かといって大人数を動かして目立つのもまずい。なので、少数精鋭の護衛をつける。
与右衛門。兵数人を選抜して、小一郎と同行せよ」
「え──?」
「おぬしには、無双丸の代まで羽柴家を支えてもらわにゃならん。そのおぬしが、小一郎との間にわだかまりを残したままでは困るんじゃよ。しばらく寝食を共にしてくるといい。
ああ、それとな、小一郎がどんなふうに本願寺の坊主どもをやり込めるのか、よーく目に焼き付けて、後でわしやおねに教えてくれよ?」
藤吉郎様が少し悪戯っぽい笑みを浮かべて付け加えると、ようやく与右衛門の表情が和らぎました。藤吉郎様、さすがですねぇ。
「あ、そういや、あの孫一も同行するんじゃろ? 与右衛門も少しはあの男のいい加減さを見習ってじゃな──」
『いえ、それはやめた方がよろしいかと』
皆の声が綺麗に一致しました。




