096 弟と兄貴 羽柴藤吉郎秀吉
小一郎のやつ、わざわざ夜に呼び出すとは、いったい何なんじゃろうな。
「与右衛門、お前なにか聞いとるか?」
「いえ、それがしも全く──」
「うーん、駒殿の腹の子に何か問題でもあったのかのう。まさかまた双子だとか──」
「それはまだわからんでしょう。それより、例の『無明殿』とやらに関する話かも知れませんな」
小一郎たちの元の屋敷は小六(蜂須賀正勝)に預けているので、ふたりは今、三の丸の空き部屋に逗留させておる。与右衛門を連れてその部屋を訪ね、声をかけて中に入ったんじゃが──うおう、何じゃ何じゃ、皆して雁首を揃えて。
小一郎と駒殿はわかるが、三介様や半兵衛殿、治部左衛門に──おねまでおるではないか。
「おいおい、こりゃ何の集まりじゃ? 昔話に花でも咲かせようということか?」
妙に緊迫した空気が漂っているのであえて軽口を叩いてみたが、誰もにこりとも笑わない。
車座になって一部を空けてあるという座り方からみて、公式の話ではなく内々の話だということなんだろうが──それにしては、この空気はいったい──まあ、いい。とりあえず聞いてやろうじゃないか。
わしは空いた場所に腰をおろし、右隣に与右衛門を座らせた。左隣はおねで、正面に小一郎がおる。他の者も緊張した面持ちだが、小一郎は特にひどい。何じゃあれは、真っ青ではないか。
「──兄者。ご足労をかけて申し訳ない」
「いや、それはいいんじゃが、そろそろ用件を教えてはもらえんか?」
「あ、いや、その前に──治部左衛門、警戒は万全なんじゃろな?」
「は。何名かで守らせております。ここでの話が漏れることは、万に一つもあり得ません」
治部左衛門が強い口調で請け負う。ずいぶん自信ありげじゃな、忍びが入り込むこともあるだろうに。
「兄者。実は、この治部左衛門は小さな忍びの集団の首領でな。かつて浅井の御隠居が雇っておったんだが、わしの発明の秘密を守るため、そして無明殿から家族を守るために里ごと召し抱えたんじゃ。
今まで隠しておって申し訳ない」
小一郎が深く頭を下げる。え、話とはそんなことなのか?
「いや、それは別に構わんのだが──あ、しかしお館様に知れたらマズくないか?」
「そこは心配ない。先日、事後承諾をしていただいたんでな」
「何だ、なら何も問題はないではないか。えらく緊張しとるから何事かと思うたわ」
わしがそう笑ってみせても、小一郎の表情は変わらない。
「いや、これは今夜の話のほんの一部で──」
そう言って、小一郎が珍しく言葉を探すように目を泳がせる。そんなに言いにくい話なのか?
しばし待ってやっていると、隣の駒殿が励ますように小一郎の背中をぽんと叩き、ようやく小一郎が決然と顔を上げた。
「──兄者、すまん!
先日話した、わしの『生まれ変わり』の話──あれが全てではないんじゃ。
実はその後ろにもっととんでもない秘密があって──その、怒らずに最後まで話を聞いてほしいんじゃが」
──ええっと。
わしはいったい今、何を聞かされとるんじゃろな?
話の内容はわかるんじゃが、あまりに現実味のない話ばかりでまったく実感が湧いてこない。
小一郎はわしに怒られることを恐れているようだが──怒るどころか、それこそ何をどう感じていいものやら、さっぱりわからん。
ときおり与右衛門と顔を見合わせるのだが、実に間の抜けたぽかんという顔をしておる。たぶん、わしもあんな顔しとるんじゃろな。
──三百年後の未来の記憶だと?
このわしが、毛利攻めの総大将?
お館様と勘九郎様がそろってあの明智殿に討たれる?
それどころか、他のお子たちや重臣方を押しのけて、百姓上がりのこのわしが『天下人』になるだと!?
ましてや、あんな幼い茶々姫様を側室にして、世継を産ませるとかあり得んじゃろ⁉
──それ、本当にわしの話なのか?
「兄者、大丈夫か? 聞いてくれておるか?」
あまりにわしの反応がないからか、小一郎が心配そうに声をかけてくる。
「あ、ああ──大丈夫、ちゃんと聞いておる」
話の区切りが良さそうだったので、少し空気を変えたくて、わしは大きく溜息をついた。
「ふう。──いや、隠しておいてくれて良かったわ」
「は?」
「前もってあの『生まれ変わり』の話を知らされんうちに、いきなりこんな話を聞かされた日にゃ──わしゃ、おんしがおかしくなったと思って座敷牢にでも放り込むところじゃったわ」
少しおどけるように言ってやると、少しだけ小一郎の表情が緩んだ。
「──お待ちください」
だが、わしの隣で与右衛門が険しい声を発する。おい、少しは空気を読まんか、堅物め。
「すると小一郎様は、殿が天下人になる未来を知りながら、それを妨害していたということですな?
──それはあまりに重大な、殿に対する背信行為となるのではないですか?」
「ま、待ってくれ、与右衛門殿!」
慌てて三介殿が間に入ろうとし、おねも何やら口を開きかけたが、身振りで制した。これはわしが言うてやらねばなるまい。
「控えよ、与右衛門。
──小一郎。それがわしのためにならんと判断してのことなのだな?
あくまでも、わしのためを思うて、のことなのじゃな?」
わしが念を押すように強く訊ねると、小一郎も強く頷き返してきた。
「無論じゃ。わしは兄者の晩年の姿を知ってしもうたんじゃ。
兄者は栄耀栄華と引き換えに、『出世』という生き甲斐を失ってしまい、その虚しさを埋めるようにどんどん横暴な振舞いをするようになってしまう。
そして、晩年に出来たまだ幼い世継の将来を案じながら、未練をたっぷり残してこの世を去ってしまうんじゃ」
「そして、羽柴家は三河殿(徳川家康)に天下を奪われ、滅ぼされる、か──」
わしがそう溜め息まじりにこぼすと、半兵衛殿が補足するように言葉を挟んできた。
「ええ、その辺りは間違いないようです。他の『記憶持ち』に聞いても、ほぼ同じ話が返って来ましたので」
「他の『記憶持ち』か。堀次郎殿は何となくわかるが、まさか市松(福島正則)までもがなぁ」
ああ、そうか。市松の急な病と、療養のために急いで伊勢に連れて行ったのは、これを隠すためだったのだな。
「小一郎ひとりの話だけならともかく、他に何人も同じようなものがおるというなら、これはもう信じざるを得まい。
――なあ、与右衛門。わしゃ、今までに一度も『天下人』になりたいなんぞと夢にも思ったことはないぞ。
それに、仮に天下を手中に収めたとして、息子の代で滅んだのでは割に合わんではないか。
小一郎はそうならんよう、ひそかに骨を折ってくれていたんじゃ。そうカリカリするな」
「──は」
与右衛門もようやく納得してくれたか。律義者だが面倒くさいやつじゃな。
別に与右衛門までここに呼ぶ必要はなかった気はするが──まあ、そこは三介様の意向なんじゃろな。
確かに与右衛門はここにいる面々とは関わりも深いし、三介殿とは特に仲が良い。それに、口が堅いことは間違いないからな。
それにしても──小一郎め。本当に呆れるほどのお人好しじゃな。
こいつほどの知識と才覚、そして他の『記憶持ち』との人脈があれば、自分が天下を取ることすら夢でもなかろうに。
それなのに、持てる全てをわしとお館様と、民を豊かにすることだけに捧げてきた。まったく、信じられんくらいの大うつけじゃな。
「――それにしても、小一郎様。これほど皆が知っておるのであれば、もっと早くに殿に打ち明けるべきだったのではないですか?」
また、与右衛門は余計なことを。それに苦笑いして答えたのは三介様だ。
「わしもそう思ったのだ。だが小一郎殿ときたら、多くの人の運命を平気でどんどん変えてきたくせに、藤吉郎殿のこととなるとからきし意気地がなくてな。
まあ、それだけ小一郎殿にとって藤吉郎殿が格別の存在だということなんじゃ」
「あ、いや、それはまあ──」
ばつが悪そうに頭を掻く小一郎を見ていると、何だか申し訳ない気になってくる。
──考えてみれば、わしは小一郎には昔から迷惑のかけどおしだった。
若い頃にさっさと家を飛び出して、家のことや田畑のことなど、全部小一郎に押しつけてきた。
織田家に仕え、出世の糸口が見え始めてきた頃に、どうしても信用のおける血縁の家臣が欲しくて、嫌がる小一郎を無理やり家臣にした。
わしが調略などで飛び回っている時も、しっかり留守を守ってくれた。
なのに、お館様の覚えめでたくなったことに嫉妬して遠ざけたり仕事を与えなかったり──よく考えてみたら、わしってけっこう、ひどい兄貴だったんじゃないか⁉
それでも恨み言ひとつ言わずに、とことん尽くしてくれた弟に、いったいわしは何を返してやれるんじゃろうか……。
「──まあ、小一郎がわしに、なかなか言い出せなかったというのもわかる。
確かに前までのわしなら、おんしらが言ったような未来を選んでしまったかもしれんからな」
よし。ならばわしは正直な気持ちを話してやろう。小一郎の永年の懸念を払拭してやろうではないか。
「小一郎。わしはな、出世することで周りの連中を見返してやりたかったんじゃ。
──お館様から城持ちにまでしてもらえたが、これほどに出世しても、相変わらずわしは『百姓上がりの成り上がり』と蔑まれたままじゃ。重臣方にも、三介様以外のお館様のお子たちにも──。それがずっと悔しくてならんかった。
その『本来の歴史』の中で、わしが明智討伐の後に、お館様のお子たちや重臣方を叩き潰したのは、そういう恨みつらみもあったんじゃろうな──」
わしの独白に小一郎の顔が曇る。そこでわしは、ことさらに声を明るくして張り上げてみせた。
「だがな、今は違うぞ!
ほれ、醤油蔵だの甘辛煮だのと、重臣方との関わり合いも増えたじゃろ? あれ以来、皆とそういう話をする機会も増えてな。そのうちに、皆の顔から蔑みの色が消えてきたんじゃ!
そりゃ、すぐに仲良く、とはさすがにいかんがな。しかし、ちゃんとわしのことを、共に織田家を支える同輩として扱ってくれるようになった。──それが何より嬉しいんじゃ!
それにな──」
興が乗ってきたわしは、隣に座るおねをぐいっと抱き寄せた。
「ちょ、ちょっと、藤吉郎殿! こんなところで──!?」
真っ赤になって恥じらうのが可愛いのう。
「今のわしには無双丸と双葉がおる!
その天下人となった頃のわしには、まだ世継がおらんかったんじゃろ? だから『どうせ自分一代で立てた家だ、失うものなどない』とかなりの無茶が出来たんじゃないか?
だが、今のわしには無双丸も双葉も、それに、このおねもおる。
わしゃこのところ、命がけでわしの子を産んでくれたおねのことが愛うしゅうてならんでなあ。それが証拠に、あれ以来他のおなごには一切手をだしておらんぞ」
──おい、何じゃ小一郎、その信じられんものを見たような顔は。
「そりゃ、今でも羽柴家を大きくしたい、出世したいという欲はあるぞ。だが、そのために他の者から恨まれたり妬まれたりするようなのはごめんじゃ。
『羽柴家は頼みに出来る』『羽柴家がなければ困る』──羽柴をそういうゆるぎない立場の家にして、子供に受け継がせる。それこそが今のわしの最大の望みなんじゃ」
──よし、おふざけはここまでにしよう。わしはおねから手を放し、姿勢を正して真顔を作り、小一郎に深く頭を下げた。
「あ、兄者──!?」
「小一郎、心から礼を言う。おんしがわしにかけがえのない宝をくれた。おんしがわしの運命を変えてくれたんじゃ。
だから誓おう。おんしと子供らと、そしてここにいる皆に、じゃ。
わしは断じて天下人になどならん。なりとうもない。
仮に『本能寺の変』が話どおりに起きてしまったとしても、わしは三介様をお支えする道を選ぶ」
わしの宣言に皆の顔が明るくなったが、小一郎はまだ戸惑いの色が消せていない。本当に心配性じゃのう、そのうちハゲるぞ。
「小一郎、わしの行く末への心配はもはや無用じゃ!
だから、存分に働いてこい。本願寺との和睦などさっさとまとめて、坊主どもの運命も変えてしまえ。
──自信を持て、小一郎。おんしはお館様がするはずだったという叡山や長島での根切り(虐殺)も止めて見せたではないか。おんしは『お館様』と『わし』、ふたりの未来の天下人の運命をも大きく変えたほどの男なんじゃ」
小一郎の表情に、少しずつ凛としたものが戻ってくる。
やれやれ、これでようやくわしも、少しは兄貴らしいことをしてやれたかの。
「信じておるぞ、小一郎。おんしならもっと多くの人の運命を──いや、この日ノ本の運命すら、大きく変えてみせることが出来る、とな。──励め!」
「はっ!」
──お館様が話の締めくくりに使う『励め!』の一言、一度言ってみたかったんじゃよな。
さて、夜も更けてきた。
そろそろお開きにしようかとも思うたが、ふとあることが気になった。
「そういえば、此度の本願寺との和睦交渉、無明殿や明智殿が妨害するなんてことはないんじゃろか?」
「実は、それが一番気がかりなのです」
すかさず答えたのは治部左衛門だ。
「おそらく、まだ本願寺の動きには気づいていないはずです。阿古丸様ご一行は雑賀から海路で熱田まで来られましたし、向こうの目もそこまでは届いておらんでしょう。
しかし、これから石山に向かうとなると、明智殿の監視の網にかかる可能性は高くなります」
「ふうむ。明智は忍びを使うておるのかな?」
「いえ、今のところ忍びとは接触していないようです。その辺は、尻尾を出さぬよう細心の注意を払っているようでして」
ずいぶん自信ありげじゃな。そんなことがわかるものなのか?
そんなわしの疑念に気づいたのか、治部左衛門はにやりと笑って話を続けてきた。
「実は、このところ伊賀や甲賀の忍びからの情報がよく入ってくるのです。
どちらも、そろそろ織田方につくべきか、大いに揺れているようでして。
まあ、我々がどのような待遇を受けているか、少しずつ噂を流しておりますからなあ。
最近は、我らの一党に加わりたいという者も増えておりまして──罠の可能性もあるので、時間をかけて見極めておるところなのですがね」
「ふうむ──」
なるほど、忍びを使っていないということは、その監視の網とやらは普通の家臣などを使っておるのだな。──ならば、ここいらで一手、仕掛けてみるか。
「よし、半兵衛殿。そろそろ越前の朝倉に仕掛けるぞ」
「ええっ、朝倉に──⁉ しかもこんな雪の時期に、ですか⁉」
半兵衛殿が素っ頓狂な声を上げる。それはそうだろう。北近江と越前の境は険しい山間の地形で、この時期は積雪も多い。普通に考えれば、この時期にいくさなどするべくもないのだ。
「なに、フリだけよ。塩津浜(琵琶湖北岸の湊)あたりに軍勢を集め、いくさ支度を見せつけるんじゃ。
さすれば朝倉も、迎え撃つために敦賀あたりに兵を集めにゃなるまい。一乗谷(朝倉氏の本拠地)あたりもいささか手薄になろう。
さあて、野心あふれる大野郡司(越前国大野郡を治める行政官、朝倉景鏡)殿がその隙を見逃すかのう──?」
朝倉景鏡は越前国主である朝倉義景の一門衆だが、やたらに気位が高く、一門の中でもたびたび諍いを起こしてきておる。以前から半兵衛殿が調略をしかけ、いっそ覇気のない義景を排して国主になってしまえとそそのかしており、本人も半ばその気になっておるらしい。
織田と連携して義景を排するなら、越前一国を安堵するとも約束しておるんだが──まあ、あの陰険な性格なら、他の一門衆や国人衆も従うまい。早々に自滅するのは目に見えておる。
「いや、しかしこの時期に大野郡司殿が動きますかね? こちらとしても、雪山を越えて援軍を送るのは難しいですし──」
「なあに、別に動いてくれんでもいいんじゃ。この時期に無理をせんでも、朝倉なんぞもはや織田の敵ではないからな。
むしろ肝心なのは──明智の目を北に向けさせることだからな」
「あっ──!」
わしの意図にようやく気づいたか、半兵衛殿が声を上げた。
越前が崩れれば、当然その属国である西の若狭国も乱れる。明智家にとっては、北に領地を広げる好機ともなるのだ。まあ、冬の間は動けんだろうが、それでも越前・若狭の情勢には目を向けざるを得まい。
「明智の目が北に向けば、本願寺方面への警戒も手薄になろう。少しは小一郎の助けになるのではないかな」
「おお、それはありがたい。兄者、感謝する」
「──いや、しかし本当に越前が崩れて、明智が早々に若狭一国を掌握してしまうようなことになると、後々面倒なことになるのではないですか?」
うーん、さすがは半兵衛殿じゃ。確かに北陸方面はわしに一任されておるが、明智が自力で切り取った国を丸ごと返せとは言いにくいしの。
「大丈夫、そこは我らにお任せください」
そこに治部左衛門が、妙に活き活きとした顔で名乗りを上げた。
「情報を攪乱したり、進軍経路に工作を仕掛けたりして、明智の足止めをしてやりましょう。なに、敵に忍びがいないのであれば造作もないことです。
そして、どうせいずれまた乱れる越前など放っておいて、雪解けともに若狭に侵攻して、一気に掌握してしまえばいいのです」
「なるほど。で、春までのあいだ、明智の足止めは出来るんじゃな?」
「そりゃあもう。そういう意地の悪い仕事は──大好きです。くくく──」
「ふ、ふふふ」
治部左衛門とふたり、顔を見合わせてほくそ笑む。
うむ。何だかこいつとは気が合いそうな気がしてきたぞ。
「──うわ、実に黒い笑顔じゃなぁ。六角の時を思い出すのう」
「あーあ。せっかく途中までいい話だったのに、台無しだわー」
何だか背中に、皆のじっとりとした視線が刺さっている気もするが──まあ、気のせいじゃろ。




