094 おもてなし 羽柴駒
さて、小一郎とともに評定の場に向かうお館様は、またしても去り際に私に仕事を押しつけて来ました。
「よし、今宵は阿古丸たちを羽柴の飯でもてなしてやろう。駒、宿の者に指示して用意をさせておけ。
──ああ、関白殿下も来たがるだろうから、この宿は貸し切りにしておくように。良いな」
その、こちらの返事も聞かずに立ち去るってのはどうなのよ。だいたい『羽柴の飯』っていうけど、さすがにお坊様に軍鶏鍋ってのはマズいわよね?
「あのー、少進殿、阿古丸殿。お館様から、今夜は羽柴流の食事をふるまうようにと言われたんですけど、仏門の方にお肉はやっぱり──」
「お肉は大好きです!」
阿古丸殿が元気に答えますが、え、本当に大丈夫なの? 伺うように少進殿に目を向けると、にっこりと笑みを返してきました。
「はい、真宗にはそういう厳しい戒律はないのです。親鸞上人が御自ら、肉食も妻帯もされてましたから」
あ、そうか。阿古丸殿も顕如上人のお子だし、さかのぼれば親鸞上人のご子孫にあたるんだもの。当然、それぞれ奥さんもいたはずよね。
「厳しい戒律を守り、厳しい修行を積んだ末に救われるというそれまでの宗派のあり方に異を唱え、普通の人が救われるための道を説いたのが浄土宗です。
特に真宗を開いた親鸞上人は、それまでの僧侶の戒律を破り、御自ら普通の人のように妻帯肉食をし、ご自分が特別ではないことをお示しになられたのです」
「ふうん。だから戒律がゆるやかなのね。
一向門徒ってあちこちで一揆を起こしてばかりで、ずいぶん物騒な印象があったけど、本来はそういう庶民のための教えなのね」
「はい。それゆえ、真宗の教えは広く民に受け入れられたのです。
ただ、既存の宗派の教義とはあまりに違い過ぎて、親鸞上人も当時からかなり批判を浴びたようですが」
「まあ、そういうことさ」
少し苦い笑いを浮かべた少進殿の言葉を、孫一殿が引き継ぎました。
「他の宗派からすれば、自分たちの厳しい戒律や修行が無意味だと馬鹿にされているようで、面白くない。
真宗と他の宗派とのいざこざは、けっこう根深いものがあるのさ」
そう言えばさっき、他の宗派に昔の総本山が滅ぼされたとか言ってたわね。
「ただな、どんな民をも救おうという真宗の教えは、庶民を大事にする織田のまつりごとと、決して相性は悪くないと思うぞ」
「ああ、確かにそうかも。私の周りの一向門徒の人も、話してみればごく普通の温厚な人たちだし」
「えっ──!?」
私の言葉に、阿古丸殿が意外そうな声を上げました。
「一向宗は禁じられていないのですか? 織田家と一向一揆とはかなり激しくやり合ってきたと聞いていますが」
「別に禁止されてないわよ。長島の一揆勢にも、信仰を捨てろだなんて一度も言ってないし」
「そんな──!?
主戦派の者たちは、織田にくだれば間違いなく信仰を捨てさせられる、だからだんじて和睦などできないと言っていたのです。
だからこそ和睦派も、何とか信仰の自由だけはみとめさせられないものかと思案していたのですが……」
阿古丸殿が溜息混じりに教えてくれますが──うーん、何だかずいぶんと歪められた話が広まっているみたいですね。
たぶん、長島でいくさを主導していた坊官たちが、石山に戻ってデタラメな報告をしたのでしょう。
だって、織田が長島の門徒に示した降伏条件って、武器を捨てて一揆をやめれば仕事も世話する、信仰も捨てなくていいという実に寛大なものだったし。これが知れ渡ったら、ほとんどの一揆が立ち消えになっちゃいそうだもの。
だからって『多くの門徒が殺された』とか『信仰を捨てさせられた』なんて嘘を広められるのは迷惑な話よねー。
──まあ、少進殿は降伏の本当の理由に察しがついているようですけど。
「あのね、阿古丸殿。お館様はその辺については寛容なお方よ。何しろ、伴天連さんにまで布教を許してるんですから」
「ばてれんって──き、切支丹にもですか⁉」
あ、やっぱり知らなかったのね。
「そうよ。それくらい、個人の信仰には寛大なのよ。
ただし、叡山のように寺社が阿漕に金儲けに走ったり、信徒たちに一揆を起こさせて戦やまつりごとに介入しようとしたりすることには厳しいんですけどね」
「なるほど──」
私の言葉に、少進殿が相槌を打ちます。
「確かに、叡山にはかなり厳しい仕置をしたものの、天台宗の信仰や布教そのものは禁じられなかったと聞いています。
なら、叡山の和睦の条件に近い形でなら──」
「あ、ごめんなさい。それ以上はちょっと私には何とも──。
ただ、お館様はむやみに寺社や民を弾圧するようなお方ではない、ということだけは覚えておいてください」
少進殿にそう言って、次に私は阿古丸殿に向き合いました。
「阿古丸殿も、織田の民がどのような暮らしをしているか、しっかり見ていってね。
主戦派の人があることないこと言っているようだけど、それはいったん忘れて、ちゃんとご自分の目で確かめて」
「わかりました」
阿古丸殿は、神妙な面持ちでしっかり頷き返してくれました。
「──さて。じゃ、難しい話はここまでね。
私は、宿の人と夕食の打ち合わせをしてきます。今夜の食事は期待しててくださいね?」
「おおっ、羽柴の飯か! しばらく食ってなかったから楽しみだ!
阿古丸殿、少進殿。羽柴の飯は旨いぞ!」
私が話を切り上げて立ち上がると、孫一殿が嬉しそうな声を上げました。
「なあ、お駒殿。ここはやっぱり『軍鶏鍋』だよな?」
「ええ、それと蕎麦ね」
「──はぁっ、蕎麦だと!?」
何だか、孫一殿の顔が急に曇ったんですけど──あれっ?
「孫一殿、小一郎が雑賀にいた頃に、蕎麦は食べさせてもらわなかったの?」
「その機会はなかったなぁ。蕎麦が脚病(脚気)にいいという話は聞いてるが──だいたい、蕎麦茶はともかく、食い物としての蕎麦は旨くも何ともなかろう?」
ああ、なるほどね。ならば──。
「ふっ、お気の毒に。孫一殿、本当に美味しい蕎麦料理を食べたことがないのね」
「な、何だと──?」
「蕎麦の一番美味しい食べ方は『蕎麦切り』と言って──あ、でも私の細腕じゃ作るのはちょっと無理かな。あれ、けっこうな力が要るから……」
「おっ、何だ、力仕事なら俺が手伝うぞ。それでその『蕎麦切り』とやらが食えるんなら、お安い御用だ」
──よし、蕎麦打ち要員ひとり確保っ!
私でも出来なくはないけど、あれって疲れるから自分ではやりたくないのよね。
夜になって、小一郎がお館様と近衛様、三介様や半兵衛殿たちを伴って戻ってきました。
もちろん、料理の準備は万端。そのままいつものように、羽柴流の無礼講の酒席になります。
藤吉郎様は、他の重臣方との酒席に赴いたそうです。何でも、皆様の領地で新たに作った特産品の食べ比べだそうで。──まあ、お館様と近衛様が参加する酒席よりは、そっちの方が気楽な気がするものね。お二人とも、こういう場では気さくで面白い方々なんですけど。
「うむっ! これこれ、この蕎麦切りを食したかったんでおじゃるよ。都ではまだこれを作られる料理人がおらんでなぁ」
「何を言われます、近衛様。この『鴨ネギ蕎麦』こそ、まさに至高。この鴨の脂の甘さと焼いたネギの香ばしさの相性ときたら──」
「わかってないのう、孫一殿。それはあくまで鴨肉とネギの旨さや。それでは蕎麦本来の旨さや香りが消されてしまうではないか。
ま、初めて蕎麦切りを食す素人にはわからんやろなぁ。ほほほほほ」
「けっ、なら塩だけつけて食ってればいいじゃねぇか」
「何じゃと!」
──ええっと、まあ、皆さん楽しそうで何よりです。
さて、阿古丸殿は始めての料理に舌鼓を打ちながら、大人たちの話にけなげについていっていました。
時おり織田家のまつりごとについて質問するなど、なかなかに頑張ってはいたのですが、やがてそのお顔に疲れの色が浮かび始めました。旅の疲れもあるでしょうしね。
すると心得たもので、隣に座っていた三介様がすっくと立ちあがりました。
「阿古丸殿、腹はいっぱいになったか? そろそろ少し甘いものが欲しくないか?」
「甘いものとは、水菓子(果物)ですか?」
「いや、南蛮渡りの甘ーい菓子があるのだ」
「えっ!?」
阿古丸殿の顔がぱあっと華やぎます。
「わしの部屋に置いてあるのでそちらで食おう。
近衛殿下、お館様。阿古丸殿を連れて行ってもよろしいでしょうか?」
「うむ」
別室で休ませて、たぶんそのまま寝かせちゃうんでしょうね。さすがの気配り。
「──三介様は、なかなか気の利くお方なのですね。
先ほどまでの話しぶりなどを見ていると、日頃から民のことをよく見ていることが察せられます。
正直言って、あまり評判は芳しくなかったのですが──」
その様子を見ていた少進殿が、感心したように漏らします。
「いや、昔は噂どおり、ただの『うつけ』だったのだ。ここ二・三年での成長ぶりにはわしも驚いておる」
そう答えるお館様の顔には誇らしげな色が浮かんで見えます。
「──そうか、そろそろあいつも元服させて良い頃だな。わしの名代として行かせるのなら、その前に元服させておくか。烏帽子親は──三十郎(織田信包)で良いか」
烏帽子親とは元服の儀で烏帽子をかぶせる役のことで、実の親に準ずる縁を結ぶこととなり、後々の後見役ともなる大事な存在です。
三十郎様なら北伊勢騒動の時にご一緒したので、よく知っていますし、三介様のことも認めてくれているようなのでぴったりなんじゃないかしら。
あれ、でもお館様の名代って、どういうこと──?
私が腑に落ちない顔をしているのに気づいたのか、お館様が口を開かれます。
「そうか、評定の場にいなかった者にも教えておかねばな。
小一郎と顕如の会談に、近衛殿下が同席される。それゆえ、わしの名代として三介も行かせることにしたのだ」
「えっ、近衛様や三介様も、ですか?」
「それがなぁ、駒殿。実はお上が、織田と本願寺の抗争が激化することをことのほかご憂慮なさっておられますのや」
ずいぶんと困ったようなお顔で、近衛様がこぼされました。
「このまま戦になって本願寺が滅ぼされてしまうようではまずいのでおじゃるよ。
何と言っても、顕如殿を門跡に格上げするよう勅許を出したのは、他ならぬお上なのでな」
ここからは、半兵衛殿が代わってわかりやすく説明してくれたのですが──。
『門跡』とは寺院の格式のことで、皇族や公家が住職を務める高い格式の寺院や、その住職のことを指します。
本来、本願寺の門主は公家ではないので『門跡』となることはないのですが、二代続けて摂関家である九条家の猶子(相続権のない養子)となったことで、過去の前例から『門跡』となる条件が満たされたそうです。
公家たちへの根回しや、朝廷への莫大な献金などの工作もあり、十何年か前に帝(正親町天皇)が本願寺顕如殿を門跡に列するよう勅許を出したのです。
つまり、織田家が本願寺を滅ぼし、顕如殿を殺すことにでもなれば、それは帝の決定を覆したような形になってしまうのです。
「そうなると、お上の顔に泥を塗るようなものでな。織田家に何のお咎めもなし、とはいかんのや。
せめて息子の教如に代替わりした後なら、まだ何とかなるんでおじゃるがの」
ちょうど、そう近衛様が言ったところで三介様が戻ってきました。
「──阿古丸殿は寝てしまいました。やはり長旅で疲れていたんでしょう」
「あ、なら私がお傍についていましょう」
少進殿が立ち上がりました。
「はい、突き当りの部屋です。少進殿もそこで寝てくれてかまいませんので」
「では、俺もそこで休ませてもらおう。警護も仕事のうちだからな」
孫一殿も立ち上がって、少進殿といっしょに部屋から出て行きます。
ちょうどよかった、これでここにいるのは小一郎の秘密を知っている人だけです。うっかり口を滑らせちゃったらまずいものね。
そのことを確認したのか、お館様がぐるりと皆を見回し、小一郎に向き直りました。
「──さて、小一郎。そういうわけでこの和睦交渉、帝の御為にも何としても成功させねばならん。向こうは事前交渉のつもりかも知れんが、出来れば一気に話をまとめてしまいたい。
それゆえ殿下も同行されるし、わしの名代として三介を行かせるのだ」
「はっ。全力で説き伏せてまいります」
「うむ。そこでひとつ、とっておきの切り札を授けてやろう。
和睦のためなら、阿古丸に織田から嫁を出しても良い。──茶々をわしの養女にして嫁がせる」
「え、ええっ⁉」
思わず声を上げてしまいました。
「茶々姫様ってまだ五・六歳ですよね⁉ さすがに──」
「すぐにというわけではないわ、たわけ。今は婚約だけでいずれは、という話だ。
年頃的には似合いだし、阿古丸は素直な良い少年だ。いつ死ぬかわからん武家に嫁ぐよりは安心であろう」
そう言ったお館様のお顔が、何故だか突然に凄みを増したように見えます。私、何か怒らせちゃったかしら。
「──少なくとも、どこぞの助平爺の妾になるよりはマシであろう。のう、小一郎?」
え、何それ。もの凄い殺気だし、小一郎も青ざめた顔で顔中から汗が噴き出しているし。
「例の公家の者から、殿下を通して聞いたぞ。極めて不愉快な未来の話を、な。
──本来の歴史では、何年か先に藤吉郎めが茶々に世継を産ませるそうではないか」
『え? ──え え え え え っ ⁉』
ほとんど全員の驚愕の声が揃いました!
だって義兄上様と茶々姫様って、いくつ歳が離れてるのよ!? ええと──ざっと三十以上!?
そんなの、絶対に許せないわよっ!
「──小一郎、答えよ。なぜこんな重大なことをわしに黙っていたのだ?」
「い、いえその、ですから、そんなことが起こらないようにわしは必死に働いとるわけでして、その、べ、別に隠していたわけでは──!」
今にも斬り殺すと言わんばかりのお館様の威圧に、小一郎はもう、しどろもどろです。
すると、お館様は急に平然とした顔に戻り、けろりとした声でこう言ったのです。
「なに、ただの冗談だ」
「────はぁ?」
あまりの急な展開に、腰が抜けたように小一郎がへたり込むと、お館様はしてやったりといった笑みを浮かべられました。
「確かにその話を聞いた時には仰天したがな。それは、あまりに今の藤吉郎の姿からかけ離れておったからだ。そうですな、近衛様?」
「そうでおじゃる。小一郎殿、どのくらい今浜に帰っておられんのかな?」
「ええと──ざっと一年半ほどですが」
「その間、ほとんど藤吉郎殿の姿は見とらんのじゃな?」
「は、はぁ」
何だか近衛様も妙に楽しそうなんですけど、どういう状況なのこれ?
「のう、小一郎。おねの妊娠中、藤吉郎が女遊びをいっさい断っておったのは知っておるな?」
「は、はぁ」
「あれな、今でも続いてるらしいぞ」
「まっ、まさかっ⁉」
お館様の話に、小一郎が目を剥いて仰天します。
「そ、そんな──あの兄者が二年以上も女断ちを? そ、そんなこと──まさか、そんなことが現実に起きるなんて──」
いや、そんなこの世の終わりを見たような驚き方をしなくても。藤吉郎様、どれだけ信用ないのよ。
「もうすっかり子供たちに夢中らしくてのう。子煩悩というか、親バカというか──。
ついでにおねからも、この分だともうひとり弟か妹を作ってやれそうだと、のろけ全開の文が来たわ」
呆れた顔でぼやくお館様の隣で、近衛様もしきりに頷いておられます。
「麿もあの様子を見ていたら、やはり藤吉郎殿が非道な暴君になってしまうとはどうしても思えませんのや。
小一郎殿も、今いちど全ての先入観を捨てて、見てきはったらよろし」
「そういうことだ、小一郎。
その本来の歴史とやらでは、後世まで『うつけ』の名を残したこの三介が、これほどに変わったのだ。
人はちょっとしたきっかけで変われるのだ。
お前も、藤吉郎の変化をその目で確かめて、そろそろ秘密を打ち明ける覚悟を決めるべきだと思うぞ。 ──無明が余計な手出しをしてくる前に、な」




