093 阿古丸殿 羽柴駒
翌朝まだ暗いうちから、小一郎たちは評定に出かけていきました。まずは重臣方とともに九鬼の南蛮船で沖合に出て、新たに開発した大砲の試射などを披露し、その後に帰港して通常の評定になるということです。
私は評定に出るわけでもないので、ぽっかり時間が空いてしまいました。
実は私まで熱田に呼び出されたのは、お館様からの詰問に小一郎が白を切り通した時に、代わりに問い詰めるためだったようです。
『──ふむ、駒もせっかく熱田まで来て無駄足だったでは面白くなかろう。何なら明日の評定で、駒の戦略案を皆の前で披露してもらっても──』
『じょ、冗談じゃありませんっ! 断じてご辞退申し上げますっ!』
──そういうわけで、今日は一日暇になったのですが、同じく手の空いた楓殿が熱田見物に行こうと誘い出してくれました。
まずは熱田神宮にお参りしてから湊町に出てみると、そこはたいそうな人出でごった返していました。
熱田は、尾張の海運の中心ともいえる湊です。私たちが湊に来た時にはもう南蛮船は出航した後だったのですが、ひっきりなしに大きな船が出入りし、そのたびに商人や人足が目まぐるしく桟橋を行き来しています。近くの往来には働く人たちだけでなく参詣者も多く、遠方から来たとおぼしき旅装の方も珍しくありません。
となると当然、それ目当ての出店もずらりと立ち並んでいるわけで、呼び込みの声があちらこちらから発せられています。
『さあさあ、今朝獲れたばかりの伊勢エビにハマグリや! これに織田特産の醤油をたらしてみたら、さあお立合い!──』
ひときわ大きな声でそう言った物売りが、炭火の上でじゅうじゅうと泡を吹いているエビやハマグリに醤油をかけ回すと、こぼれた醤油が炭火で焦げて、たちまち香ばしい香りを辺りに振りまきます。
『お、おお──』
『これはたまらん!』
通りかかった人たちが思わず足を止めてしまうのを見て、物売りの声がさらに熱を帯びます。
『さあ、熱田に来たらこれを食べな始まらん! 食べて行ってちょうよ!』
『その伊勢エビをくれ!』『こちらはハマグリを二つだ!』
何人かの人たちが群がり始めたのを見て、楓殿と目線を交わします。
「お駒様、これは──」
「ええ、楓殿。織田の新産業を進めていく者の妻としては、立場上やはり味見──実態調査はせねばならないでしょう」
「そ、そうですね、やはり綿密な調査は欠かせませんよね」
そう二人で取り繕いながら列に並ぼうとした時、私のすぐそばで盛大に腹の鳴る音が聞こえました。
ぐ、ぐうう、ぐきゅるるるる──。
「お、お駒様、こんな往来で──」
「え? あっ、ち、違うわよ、今のは私じゃなくて──」
あわてて楓殿と反対側のとなりを見ると──そこにはひどく場違いな格好をした十歳くらいの男の子が、物欲しそうな顔で店の方を見つめていました。
お稚児さんというのかしら。髪は直垂で、旅の埃で汚れてはいるもののかなりあでやかな色彩の水干を着ていて、ちょっと見には女の子のようにも見えます。
どこかかなりいい家の子か、お寺の子か──いずれにせよ、少し目立ちすぎるわねこの子。
「こんにちは、お一人? どなたかとご一緒じゃないの?」
「あ、いえその、連れとはぐれてしまいまして……」
これは、このまま放置してたら、変な輩に目をつけられたりしかねないわね。厄介なことになる前に保護しておいた方がよさそう。
「ねえ、お腹空いてない? 私たちもあれを食べようと思ってたんだけど、一緒にどう?」
「えっ! ──あ、いや、見ず知らずの人にめぐんでいただくわけにはいきません。知らない人についていってはいけないともいわれてますので」
ずいぶんしっかりしてるわね、感心感心。
「そうね、お連れの方が探しているのなら場所は動かない方がいいものね。じゃ、そこの桟敷に座って食べましょうか」
「え、でも──」
ぐ、ぐうううう──。
「ほら、そんな大きなお腹の音を聞いちゃったら、気になって私たちが美味しく食べられないもの。
ね、まごまごしてると売り切れちゃいそうよ?」
楓殿に伊勢エビとハマグリ、焼きおにぎりを買って来てもらい、桟敷に腰かけてさっそく食べ始めます。往来で物を食べるなど少しはしたないですが、奥まったところに行くとこの子が警戒しちゃいそうですしね。
買ってきたものはどれも美味しく、特に今が旬だという伊勢エビは、ぷりっぷりの歯ごたえといい身の甘さといい、まさに絶品です。
初めは戸惑っていた男の子も、目の前の食べ物の誘惑には勝てなかったのか、おずおずと、やがて眼を輝かせて夢中でかぶりつきだしました。
その元気な食べっぷりを見ていると、何だか弟を思い出します。虎松、元気にしているかなぁ……。
しばらく食べ続けて人心地がついたのか、男の子はふと我に帰ったように手を止め、礼儀正しく頭を下げました。
「あの、かたじけのうございました。お代のほうは、連れの者が見つかりましたら必ず──」
「ああ、別にいいのよ。それよりお名前を教えてくれる?」
「阿古丸ともうします。
それにしても、すごい人出ですね。今日は祭か何かなのですか?」
「宿の人はそんなことは言ってなかったわね。普通の日だと思うけど」
「そうなんですか」
そう呟いて、阿古丸殿は少し大人びた目であたりの光景を見回しました。
「長島はすぐ近くですよね。つい最近まで大きな一揆があったはずなのに、少しもすさんだ様子がない。最後にはたくさんの方が亡くなったと聞きましたが──」
「え、でも最後は自然に解散したらしいですよ?」
「そうなのですか⁉」
阿古丸殿が目を丸くします。
「敗残兵が石山にほとんど戻ってこないので、皆殺しにされたという噂もあるのですが──」
──ふうん、『戻ってこない』ねぇ。その言い方から察するに、どうやら一向宗の関係者みたいだけど。
「ああ、それはちょっと違いますよ。織田家は今、清酒だの醤油だのと新しい産業の立ち上げが盛んなので、慢性的に人手不足なんです。
長島の一揆にも投降したら罪に問わない、働き口も斡旋すると呼びかけたら、ほとんどの門徒が投降して、今は普通に働いているみたいですよ」
「そ、そうなのですか? ──うわさとは、あてにならないものなのですね」
阿古丸殿が溜息混じりにこぼし、また往来に目をやりました。
「でも、確かに町に活気があって、人々の身なりも小ざっぱりとしている──。
こんな美味しいものがこともなげに道ばたで売られ、道行く人がふつうに買い求めている。
織田はとても豊かなのですね」
どうやら、織田の領内から来たわけではなさそうです。そして、一向宗関係者だということは──もう少し事情を探ってみるべきかしら。
「ところで、お連れの方って何人くらいいるの? もし見当たらないようなら、番所に届けてみる?」
「いえ、すみません、番所はやめておきます。
あるお方を探しているのですが、できれば内々にお会いしたいものですから」
内々にってことは、密使? それにしては年端もいかないし目立ちすぎるし──。
そんなことを考えていると、ふいに後ろから野太い声がかけられました。
「おお、探しましたぞ、阿古丸様。
いやぁ、なかなかの強運でござるな。目の前にいるそのお方こそ、まさにお探しの男のご内儀ですぞ」
──この言い回しには良ーく聞き覚えがあります。顔を見合わせた楓殿の眉間にも、深い皺が刻まれてますし。うん、気持ちは良くわかるわー。
振り返ってみると、そこにはまさに予想した通りの人物が立っていました。
「お久しぶりですな、お駒殿。ご無沙汰しております」
「──久しぶりというほどでもないと思うけど。こんなところで何しているの、孫一殿?」
そこにいたのは、背丈ほどもある長い火縄銃をかついだ派手な陣羽織姿──やはり雑賀に帰ったはずの鈴木孫一殿です。
もうお一方、二十代くらいの若い僧侶が、孫一殿の後ろから控えめに私たちに会釈を送ってきます。
「いやぁ、阿古丸様のお父君に依頼されて、雑賀からここまで護衛してきたのです。志摩に行ったら入れ違いで熱田に向かったということで、急いで追いかけてきましてな」
ということは、小一郎に用があったってことかしら。
それにいつもの孫一殿なら、楓殿に会うなり『やはりこれは運命だ!』などと軽口を叩いても良さそうなものですが、何だか妙に真面目な顔をしていますし。
「それでな、お駒殿。すまんが、阿古丸様と小一郎を急ぎ引き会わせたいのだ。できれば織田殿には内密にな」
声を潜めて口早に言う孫一殿の表情が、これが極めて重大なことであることを物語っています。
「お館様に内密に? どういうこと? 阿古丸様のお父上っていったい──?」
私の問いかけに、孫一殿が警戒するようにぐるりと辺りを見回し、より一層声を押さえて答えました。
「阿古丸様のお父君の名前については、この場では答えられん。大騒ぎになりかねんからな。──と言えば察していただけるか?」
この場では答えられない、一向宗の関係者、さらに孫一殿と伝手があるということは阿古丸殿のお父上って──まさか、石山本願寺のけっこうなお偉いさん!?
急いで私たちの宿に場所を移し、改めて孫一殿に紹介してもらったのですが──。
「えええっ! 阿古丸殿のお父上って、あの顕如上人なの!?」
もう『お偉い方』どころではありません。顕如上人と言えば石山本願寺御門跡、全一向門徒の頂点に君臨するお方ではないですか。
それは確かに、あの場で誰かに聞かれたら大騒ぎにもなるわよね。織田家にとって本願寺は不倶戴天の仇敵だもの。
阿古丸殿(後の顕尊上人)はその顕如上人のご次男で、幼くして京の興正寺門主の養子となられたそうです。まだ得度(正式な出家)も済ませてないものの、養父が亡くなったことで、なんと帝から正式な門主に任ぜられているのだとか。
この子もまたかなりの大物よね──。孫一殿って、大物を案内してくる運命なのかしら。
そしてもうひとりのお連れの方は、本願寺の坊官で下間少進(仲孝)殿。こちらは孫一殿とは対照的にほっそりとして物腰も穏やかで、いかにも学究の徒といった佇まいです。
「先ほどは阿古丸様がお世話になりました。御礼申し上げます」
こんなに丁寧に頭を下げられたら、かえって恐縮してしまいます。
「あ、いいんですよ、あれくらい。
それより、小一郎に内々に会いたいということですけど──和睦の打診ならそんな面倒なことはせずに、お館様に直接会いますよね。
交渉担当になる可能性の高い小一郎に先に会うことで、条件面でどこまで譲歩させられそうか探りに来たか──あるいは個人的繋がりを持つことで交渉に手心を加えさせられないか、ってところかしら」
私がそんな推測を口にすると、少進殿は驚いたように目を丸く見開きました。
「なっ? 少進殿、俺の言ったとおりだったろ? お駒殿もなかなかの切れ者だと」
──だから、何で孫一殿が得意げなのよ。
「これは驚きましたな。──あ、いや、そういう思惑もあったことは否定しませんが、もっとこう──小一郎殿のお力をお借りできないものかとお願いに来たまでで」
「お願い? 本願寺の方が小一郎の力を借りるって──?」
意味がわかりません。どういうことなのかしら。
「まあ、その辺りの話は小一郎が戻ってからでも良かろう。
評定ということは、夜までかかるのだろう? それまで少しのんびりさせてもらうさ」
そう言うと、孫一殿はお行儀悪くその場にごろんと横になってしまいました。
「うーん、それなんだけど、お館様に内密でって言ってたわよね?
実は昨日、お館様から『小一郎は独断専行が過ぎる』って叱られたばかりなのよ。
その直後に、お館様に無断で本願寺関係者と会談するのは、さすがにまずいと思うのよね。
さっき楓殿のカラス便で小一郎に文は送ってもらったんだけど、やっぱりお館様にひとこと断りは入れると思う。
でも、そうなるとたぶん──」
私が予想を言い終わる間もなく、宿の入口の方でなにやら騒ぎが起こるのが聞こえてきました。ああ、やっぱり。
やがてずかずかと足音が近づいてきて、襖が勢いよく開かれました。
「駒! 顕如のせがれが来ているそうだな!」
現われたのはやはりお館様と、ばつの悪そうな表情を浮かべた小一郎です。この光景、見覚えあるわー。
「お、織田殿⁉ 評定のはずでは──!?」
さすがに孫一殿もがばっと身を起こし、阿古丸殿と少進殿は──お気の毒に、真っ青な顔で震えあがっています。
「そんなのは後回しだ! ──む? おぬしがそうか?
織田弾正大弼である。なに、取って食いやせん。そう怯えるな」
お館様が鷹揚に言って腰をおろされると、お二人が深く頭を下げました。
「は、はいあの、阿古丸と申しますっ!」
「下間少進にございます」
「ふむ。小一郎に会いに来たということだったな。かまわん、用件を申してみよ」
「は、それはその──」
少進殿はどのように話を切り出すべきか逡巡していたのですが、やがてその横で阿古丸殿が子供らしいひたむきな声をあげたのです。
「お願いです、羽柴小一郎殿! 父上に力をお貸しください!」
「わしが顕如殿に力を貸す──? 和睦の話ではないんですか?」
小一郎がいささか面食らった様子で問い返すと、ようやく少進殿が話を進め始めました。
「いえ、和睦以前の問題で──今、真宗内部は和睦派と主戦派で大きく意見が割れているのです」
もともと、顕如上人は穏健な方なのだそうです。
親鸞上人と蓮如上人の教えを忠実に守り、浄土真宗の教団を守る──それが顕如上人の理想とするところだったのだとか。
しかし、今の真宗は一向宗勢力を取り込んだことで、本来の真宗の教義と大きく異なる形になってしまっています。蓮如上人は『王法為本』──為政者の法や秩序のもとで教えを広めることを説いたのですが、一向門徒たちの間では、逆に国の支配者を倒して門徒たちの国を作るべしと考えるものも少なくないのです。
「──なまじ、加賀で一国支配に成功してしまったのがいけないのです。あれをもっと他の国にも広げていくべきだという考えが蔓延してしまいましたので」
少進殿が苦々しく言うのですが、どうも今一つわかりません。
「あのー、質問なんですけど。そこまで考え方が違うのなら、どうして一緒にいるんですか? 別の宗派として袂を分かつべきなんじゃないかと思うんですけど」
「生き延びるためですよ」
私の問いに、少進殿が自嘲気味な笑みを浮かべます。
「弱い宗派など、たちどころに他の宗派に滅ぼされてしまいます。我らとて、かつて細川(晴元)と組んだ法華宗に、総本山である山科本願寺を滅ぼされたこともあるのです」
「──くだらん」
お館様が吐き捨てるように言葉を発しました。
「衆生を救うべき仏門同士が武器を持って殺し合うなど、本末転倒ではないか」
「まさにおっしゃる通りです。仏門同士の戦いなど、なくさなければならないのです。
そして、叡山を滅ぼさずに武器を捨てさせた織田家になら、いずれそれが可能なのではないかと御門跡はお考えなのです」
「なら、顕如はなぜ和睦を申し出て来んのだ?」
「頑迷な主戦派がまだ多いからです。そして、その筆頭がご嫡男の教如様なのです」
なるほど。顕如上人ほどの方であってもうかつに和睦は言い出しにくいというわけね。下手をすると、主戦派が上人を排して息子を立ててしまう可能性もあるのですから。
「そういうわけで、御門跡は表向きは主戦論を唱えておられます。
そこで、小一郎殿にお願いしたいのです。
御門跡を──いや、その周囲の主戦派の者たちを、和睦に応じるよう説き伏せていただきたいのです」
そう言って少進殿と、少し遅れて阿古丸殿が深々と頭を下げました。
「うーん、しかしなぁ──」
小一郎は困惑しきった顔でぽりぽりと頬をかいています。
「最終的に顕如殿が和睦論を呑むのがわかっていたとしても、周りの者も納得させるには、それなりにやり合わねばならんじゃろ? わしゃ、宗論(宗教論争)なんぞやったことないからのう」
「いえ、そういう話でなくとも、織田と和睦をする利を説いていただければ何とかなるのではないかと。
今の一向門徒は明らかに勢いを失っています。長島の門徒も解散し、加賀や他の地域からも織田領へ民が流れ出しています。織田領へ行けば食っていける、命を捨てて来世にすがらなくとも生きていける、それが知れ渡ってきたからです。
門徒たちが命を捨てて戦う意義を見失いかけている今こそ、和睦の好機です。真宗に関するもろもろの知識は私がお授けします。なにとぞ、お力をお貸しください」
「あ、もちろん小一郎殿の身の安全は保障します! 私は、その人質になるためにここまで来たのです」
阿古丸殿がけなげに声を発しますが、お館様は面倒くさそうに掌をひらひらと振りました。
「人質などいらん。小一郎なら、何かあっても坊主ごときに遅れはとるまい。
それより、小一郎。和睦の条件は以前に話していた通りだ。特にあの点だけは絶対に譲るな」
「はっ」
この様子だと、お館様とは以前から和睦について打ち合わせしていたようですね。
──あ、でも。
「ちょっと待って、小一郎。
どうせ顕如上人が和睦を呑むはずだと思って、油断したら駄目よ。罠の可能性だってあるんだから」
「お、お待ちください、拙僧は嘘など申しておりませんぞ!」
「そうです! お駒殿、あんまりです!」
お二人が気色ばみますが、これだけは念押ししておかないと。
「いえ、お二人の言葉に嘘はないと思いますよ? でも、顕如上人が実は主戦論者で、小一郎を呼び寄せるためにお二人に和睦論者であると嘘を言ったという可能性も否定できないのよ。
お気を悪くされたかもしれないけど、私だって小一郎を守るために必死なんですから」
そう言って、私は小一郎の顔を正面から見つめました。
「いい? 高を括っちゃ駄目よ。顕如上人の本心は主戦論にあると思って、それでも和睦論に転ばせるつもりで、全力で説き伏せてきて。
──そして、絶対に無事で帰ってきてよね」
「お、お駒──」
「小一郎──」
「──さて、行くぞ、小一郎。ぼやぼやするな」
その時、なぜだかげんなりしたような表情で、お館様がすっくと立ちあがられました。
「へっ? あ、あの、行くってどちらへ──?」
「たわけ、評定がまだではないか。
くそ、本願寺との和睦の可能性が見えてきたということは──また戦略を練り直さねばならん。
評定の場に着くまでに、お前なりに考えをまとめておけ」
「え、えええ──」
うーん、小一郎ってお館様の無茶振りに振り回され続ける運命なのかしらね。




