090 落涙 竹中半兵衛重治
私と藤吉郎殿の一行は評定に参加するため、美濃から尾張まで河を下り、津島湊から東の熱田へと向かいます。
「──おお、藤吉郎殿ではないか。醤油の件では世話になったな」
「これは柴田様! ご無沙汰しております」
途中、柴田様のご一行と出くわしました。あの羽柴嫌いの柴田様が気さくに声をかけて馬を寄せてくるなど、少し前には考えられなかったことです。やはり、醤油の製造などを羽柴で独占せず、他の重臣方にも割り振ったのは効果的だったようですね。
「柴田様、噂は聞きましたぞ。三方ヶ原ではずいぶんとご活躍だったそうで」
藤吉郎殿も心得たもので、すかさず柴田様好みの話題を切り出します。
「なあに、小一郎の策のおかげで楽ないくさじゃったわ。あんなに永いこと武田を恐れていたのが馬鹿らしゅうなるほど呆気なくてなぁ。
それより、おぬしのところの藤堂与右衛門、あれは若いがなかなか見どころがあるな。わしのところに欲しいくらいじゃ」
「あ、いや、それは勘弁して下され! あいつには息子のことも支えてもらわにゃならんのです」
「はは、それは残念だ」
そんな和やかな会話を交わしながら馬を進めていくと、少しずつ他の重臣方の一行も加わってきます。その様子を見るに、諸将の羽柴への反感もだいぶ薄れてきているようですね。
「──しかし、解せんな。こたびの評定は、なぜ岐阜ではなくて熱田なのか──」
柴田様がこぼすと、他の重臣方も一様に頷かれます。
「ああ、実は小一郎の奴が九鬼家と共同で、南蛮船の製造に成功しましてな。
──あ、ほら、見えてきましたぞ」
行く手彼方の熱田湊の沖合に、巨大な南蛮船が帆をたたんで停泊しているのが見えます。
「何っ、あれを小一郎殿が⁉ またずいぶんと大きいのう」
「伴天連どもが乗ってきた南蛮船より大きいらしいですな。こたびの評定は、あの船のお披露目も兼ねとるんでしょう」
「ふうむ──。しかし、羽柴や明智に、今度は九鬼か。
こうも新参がのさばってきたのでは、わしら古参もうかうかしとられんのう」
にやりと笑って言う柴田様の声には、以前のような嫌味な響きは感じられません。
「そうですな、柴田様。お互いに競い合って、織田家をどんどん盛り立てていきましょうぞ。
──お、三介様が小舟で渡って来られますな。さあ、皆で出迎えしようではないですか!」
「おおっ、懐かしい顔ぶれだな。皆も息災そうで何よりだ」
桟橋に着いた小舟から軽やかに降り立った三介様は、相変わらず闊達で、少し貫禄も出て来たようにも見えます。
「は、三介様におかれましては、ますます──」
「ははは、堅苦しいのはよしてくれ、権六殿。今のわしは織田家の者でなく、北畠の当主名代にすぎん。
ああ、それより紹介させてくれ。初めての方もおるだろう。
志摩の水軍大将、九鬼右馬允殿だ。あの南蛮船も、九鬼家が造ったのだぞ!」
「九鬼嘉隆にございます。なにとぞ良しなに──」
三介様とともに小舟で渡ってきたのは、よく日に灼けた三十歳くらいの方です。
九鬼殿は北畠攻略の頃より織田方に加わっていますが、船上で戦っていたり、普段は志摩に常駐していたりで、諸将との馴染みもあまりないはずです。
元は志摩に十数人いる土豪の一人にすぎず、しかも一度は他の土豪たちによって志摩から追い出された身だそうです。それが滝川(一益)殿の誘いで織田方に加わってからは、船いくさの巧みさでめきめき頭角をあらわし、今では志摩一国の実権を握っているのだとか。
少しこの場に緊張していたようですが、如才なく諸将に紹介していく三介様につられ、徐々に会話も弾み始めてきたようです。さすが三介様、気配りが上手い。
──さて、それはいいとして、小一郎殿も一緒に来ているはずですが、どこなんでしょう。
人混みの中を探していると、小舟から桟橋に降りようとしているお駒殿に手を貸しているのが見えました。──おや? 何やらお二人ともずいぶんと疲れた顔ですが。
「小一郎殿、ご無沙汰しております。
どうされました、もしや夫婦喧嘩でも──?」
「あ、いや、そういうことではなくて──三介様がいささか面倒なことを言い出されて、じゃな」
「は?」
その時、歓談の輪からさりげなく抜け出して、三介様がこちらに近づいてきました。
「半兵衛殿、しばらくじゃったな」
そう言うと三介様は私の返事も待たずに、声を落として私の耳元で小声でささやいたのです。
「今夜、わしの宿に来てくれ。小一郎殿のあの記憶のことで、大事な相談があるのだ。
──くれぐれも、藤吉郎殿には気取られるなよ?」
さて、お館様の到着が明日になるということで、重臣方は気軽に一杯やろうと早々にどこかへと移動していかれました。小一郎殿も柴田様たち何人かから誘われていたようですが、明日のお披露目の準備があるからと断っていたようです。
それにしても、小一郎殿の記憶に関する相談とはいったい何でしょう。治部左衛門殿に訊いても心当たりはないそうですし、行ってみるしかないんでしょうかね。
ついでにこの際、治部左衛門殿のことも紹介しておくべきかと、一緒に三介様の部屋まで来たのはいいのですが──何ですかこの重い空気は。
そこに集まっていたのは小一郎殿夫妻と、次郎殿、新吉殿です。楓殿も同行してきているはずですが、部屋に近づく人を見張るべく潜んでいるのでしょう。
皆、何故だか一様に困惑しきった表情を浮かべているのですが──。
「来たか、半兵衛殿。──おや、そちらは見慣れん顔だな?」
そんな中、ただひとり明るい表情の三介様が、声をかけてきます。
「は、それがしは小一郎様の家臣、日比治部左衛門と申しまして──」
「ああ、新吉殿たちの首領か。話には聞いておる。
小一郎殿の事情は知っておるのだな? ならば良い、一緒に聞いてくれ」
「──そ、それはまた、何とも無謀な……」
三介様の口から発せられた、お館様にも小一郎殿の秘密をすべて打ち明けるべしという提案を聞いて、私もまた困惑を禁じ得ません。
隣に座った治部左衛門殿も、向かいのお駒様にぎろりという目線を向けます。
「この、突拍子もない申し出──もしや、お駒様の入れ知恵ではありますまいな?」
「失礼ね! 治部殿、あんた普段わたしのことをどんな目で見てるのよ!?」
そんなやりとりに、ほんの少しだけ場の空気が緩みますが──私も急いでこの先の考えをまとめねばなりませんね。
「お言葉ですが、三介様。よくよく考えてみても、それはやはり、あまりに危険だと思うんですが」
小一郎殿がようやく口を開きます。
「今の織田が持つ武器は、現時点で世界でも最強のものです。織田筒だけでなく、こたび作った大砲や新型南蛮船も──。
それこそ、数さえ揃えれば異国に攻め込んだとしても負け知らずでしょう。お館様がそれを知ってしまったら、大陸への野心を持ってしまわんとも限りません」
「それを止めるのがおぬしの役目じゃろう? 異国と戦うより交易する方が利が大きいと思うのなら、そう説得してみせれば良いではないか」
「そ、そうはおっしゃいますが、何もわざわざ危ない橋を渡らんでも──」
「いえ、私も三介様に賛成ですね」
ようやく考えがまとまり、口をはさんでみます。
「半兵衛殿⁉」
「皆、打ち明けた時の問題点ばかりを考えているようですが、打ち明けないことによる弊害も考えてみるべきです。
私が危惧するのは──こちらが打ち明ける前にお館様が真実を知ってしまうことです。実はこれこそが一番やっかいだと思うのです」
──そう、現時点で未来の記憶を持つ者が六名もいるということは、もっと他にも現れる可能性が充分にあるということです。その者が、我々が察知するより先にお館様と接触してしまい、そして我らに敵対する意図を持っていたとしたら──。
そんなことを話しているうちに、ふいにもう一つの可能性が頭に浮かび上がってきました。
「──いや、無明殿にやられてしまうという可能性もあるでしょうか。こちらより先に、お館様に自ら素性を打ち明け、嘘の未来の歴史を吹き込んでしまうということも」
「嘘の未来の歴史だと? どういうことじゃ?」
「例えば、ええと、そうですね。
──実は『本能寺の変』でお館様を倒すのは藤吉郎殿で、すぐに十兵衛殿に阻止されてしまう。だから小一郎殿は今のうちに十兵衛殿を遠ざけ、藤吉郎殿に天下を取らせようと企んでいる、とかですね」
「な、何を馬鹿な⁉ そんな嘘、すぐにバレるじゃろうが! こちらには真実を知る者が何人もおって──」
「──いや、違うわね」
小一郎殿の言を遮ったのはお駒殿です。
「この際、どちらが真実なのかは問題じゃないわ。大事なのは『お館様がどちらを信じるか』よ。
小一郎はこれほど重要なことを隠し続けていて、そして向こうはそれを正直に告白してきた──。
完全に鵜呑みにはしないかもしれないけど、一度不信感が生まれてしまったら、それを挽回するのは相当に難しいわよ。
何しろ、お館様は『身近な人からの裏切り』にはすごく敏感なお方だもの」
──うーん、さすがですね。以前からお駒殿は、意図的に一部だけ情報を漏らすなど、情報の扱いというものに独自の感覚を持っています。そのお駒殿も賛同してくれるようなら、これは三介様の考えを採るべきなのでしょうか。
「──小一郎殿。ここは考え時です。
もう、未来の記憶のことを完全に隠し通すことは不可能だ、と考えを改めるべきです。
ならば、いつ、どのように伝えるのが最も適切かを考えましょう。
お館様にも──そして藤吉郎殿にも、です」
「あ、兄者に──!? い、いや、それは無理じゃ、それだけは出来ん──」
さすがに小一郎殿は狼狽を隠せません。
それはそうでしょうね。『藤吉郎殿を不幸な独裁者にさせない』──それこそ小一郎殿が初めから最大の目的としていたことなのですから。
「ふう。──なぁ、小一郎殿」
その時、三介様が大きく溜息をついて語りかけました。
「聞いておるぞ。わしは本来の歴史では、ずっと『うつけ』と呼ばれておったそうだな。
で、小一郎殿の中では、わしは今でも『うつけの三介殿』のままか?」
「──はぁ?」
小一郎殿が、何を言われたのかわからないというように目を丸くします。ええと、私にもちょっと三介様の意図がわからないのですが──。
「何を言われます。三介様はもう『うつけ』などとは呼べないほど、ご立派に──」
「だろう? わしはもう、だいぶ本来の歴史とは違ってきておる。半兵衛殿やおね殿だってそうだ。おぬしが皆の運命を大きく変えてしまったのだ」
「いや、そんなことはわかっとります。そんなことは承知の上で──」
「いいや、わかっておらん。おぬしは自分では気づいておらんのだ」
そう語気を強めて、三介様は小一郎殿をじっと睨みつけました。
「わしや半兵衛殿の運命を変えたことはごく当たり前に受け入れておるのに、お館様や藤吉郎殿の変化をちゃんと見ようとはしていない。
坂本龍馬の記憶にある『織田信長』や『豊臣秀吉』の姿こそが本来の姿で、いずれそうなってしまう運命なのだと思い込んでしまっている。──違うか?」
「そ、それは──」
「なあ、小一郎殿。そろそろ、坂本龍馬の記憶に振り回されるのはやめろ。その思い込みはいったん忘れて、羽柴小一郎の目だけで判断してみろ。
あの二人にとって、おぬしはもうかけがえのない存在になっていると思う。そのおぬしの反対を押し切ってまで、今の二人が自分の野心を押し通すように見えるか?
まことに、あの二人におぬしの言葉が届かぬと思っているのか?」
「──」
三介様の鋭い問いに小一郎殿が黙って考え込んでいると、何やら部屋の遠くで騒ぎが聞こえてきました。先ほど来た時には、三介様の部下の方が番をしていたはずなのですが──。
『──申し上げますっ!』
ふいに天井から、楓殿の慌てたような声が聞こえてきました。
『お館様と関白殿下がお見えになられました!』
「な、何っ、殿下もご一緒だと!? すぐにお通しせよ──」
三介様がそう言い終わる間もなく、ずかずかという足音が近づいてきて、襖が勢いよく開けられました。
「邪魔をするぞ」
「これは、お館様、関白殿下! ずいぶんお早いお着きで──」
皆が一斉に座る向きを変え、上座に向かって平伏します。お館様と近衛様が上座に座られると、まず三介様が口を開きました。
「お館様、明日お越しになると伺っておりましたが、何かございましたか?」
「うむ。皆、面を上げてよいぞ、非公式の場だ。
──小一郎にひとつ、詮議したいことがあってな」
こ、これはまさか、未来の記憶の話ではないですよね。もしや、既に知られてしまったとか──?
最悪の事態の予感に、全身からどっと汗が吹き出しました。誰かがごくりと唾を呑み込む音がはっきりと耳を打ちます。
「小一郎、偽りなく申せ。──おぬし、忍びを使っておるな?」
「──は?」
予想していたのとまるで違う言葉に、小一郎殿の返事はいささか間の抜けたものになってしまいました。
「関白殿下から聞いたのだ。おぬしの護衛役として忍びが同行していた、と。
──どういう料簡だ? 家臣が無断で忍びを雇うなど決して許さんと、わしは固く禁じておったはずだが」
お館様が眼光鋭く訊ねてこられますが、最悪の事態ではなかった安堵からか、小一郎殿はすっかりいつもの飄々とした表情を取り戻しています。
「ああ、あれは雇ったわけではありません。
浅井家が雇っていた忍びの集団を里ごと召し抱えてやりました。何やら路頭に迷っていたようでしたので」
「ろ、路頭に迷っ──!?」
あんまりな言いぐさに治部左衛門殿が絶句し、お駒殿がこっそり顔を背けて肩を小刻みに震わせています。
お館様もしばし唖然とされていましたが、すぐに怖い表情を作り直して声を荒げました。
「き、詭弁を弄するな! 同じことではないか──」
「これは異なことを。『生活に困った民を救う』──これは織田家の基本方針ではないですか。忍びとて救うべき民には違いないですろ?」
「な──っ⁉」
再び言葉を失ってしまったお館様の隣で、近衛様が高らかな笑い声をあげられました。
「ほほほほほ! これは弾正大弼はんの負けですなぁ」
「く、くそっ、今度こそ小一郎の狼狽える様が見られると思っておったのに──つまらん」
──え、これってお戯れだったのですか? お館様もまた、ずいぶんと人の悪い。
「まあ、初めから罰するつもりなどない──と言うより、罰することなど出来んのだがな」
そう言って居住まいを正したお館様が、治部左衛門殿を見て声をかけられます。
「おい、そこの。見ない顔だが──先ほどの様子から察するに、おぬしがその忍びだな?」
「──はっ」
ごまかしきれないと悟ったのか、治部左衛門殿が神妙に応えます。
「直答を許す。名は何と申す? 他にもここにおるのか?」
「は、日比治部左衛門と申します。──おい」
治部左衛門殿が声をかけると、新吉殿が少し前ににじり出て、その横に楓殿が姿を現わしました。
「関白殿下から聞いておる。その方らの里のものが、種痘の実験台になったそうだな。小一郎の命令か?」
「いえ、小一郎様からは絶対にやらないよう止められておりましたが、皆で決めました。救ってくれた小一郎様の恩に報いようと」
「そうか、実に殊勝なことよのう。──ところで、その方らに渡したき物があるのだ」
そう言ってお館様が目配せすると、近衛様が絹にくるまれた箱のようなものを持ち上げ、頭を下げられました。そして、その絹布を床に広げると、その上に桐の箱をそっと置かれます。何とその位置は、お館様たちよりさらに上席にあたる場所です。
そして、お館様と近衛様が揃ってその箱に向かって恭しく頭を下げられました。
「皆の者、控えよ。恐れ多くも『御製』であるぞ」
「え、ぎょせいって──?」
皆が慌てて平伏する中、若いお駒殿と次郎殿がよくわからずきょとんとしているので、私が急いで小声で伝えます。
「御製とは、恐れ多くも帝が御自ら詠まれてしたためられた御歌(和歌)のことなのです」
「み、帝が──っ!?」
お二人も慌てて平伏すると、近衛様が厳かに口を開かれました。
「日比治部左衛門殿。そちたちの働きを麿がお上にお伝えしたところ、お上は心からお喜びになられました。これで、多くの民の命が失われずに済む、と。
そして、そちたちの命懸けの献身に何とか報いたいと仰せられ、その心意気を称える御製をしたためられたのであらしゃいます」
「──っ!?」
あまりのことに言葉も出ない治部左衛門殿に、お館様が柔らかい声で語りかけます。
「その方らは無位無官なので、帝もおおっぴらに褒美を与えることが出来んのでな。それでも何としても報いてやりたいと、わざわざ御製をお下しになられたのだ。
持って帰って、里の者たちにも見せてやれ。そして、末代までの誉れとするが良い」
その言葉に──ついに、日頃あまり感情を表に出さない治部左衛門殿の涙腺が崩壊しました。
「──わ、我ら忍びは、永らく虐げられて参りました! 犬畜生にも劣る下賤なものよともなじられて参りました!
そんな我らに、『人として生きよ』と道を示してくれたのが小一郎様だったのです。
我らはただ、そのご恩に報いたいと働いていたまでで──それが、まさか──まさか帝からお褒めの言葉を頂戴するなど──あまりに、あまりにもったいなく──」
ぼろぼろと涙をこぼす治部左衛門殿に、お館様が歩み寄って、そっと肩に手をかけられました。
「良かったのう、治部左衛門。これからも小一郎の力になってやってくれよ。頼んだぞ」
「はい──はいっ!」
その様子を眺める皆の目にも、涙が浮かんでいます。
そんな中──小一郎殿の表情に少しずつ凛としたものが浮かび始めました。
これは、いよいよ覚悟を決めた、ということなのでしょうか。
「──関白殿下、お館様。我が家臣への温かい心遣い、心より御礼申し上げます。そして──」
そう言って両手を床につき、小一郎殿は今一度覚悟を固めるように頷き、お二方に向き直りました。
「そして、この場を借りまして、お二方にはぜひ打ち明けたき議がございます」
ちょっとした思いつきで、最近話題のイラスト自動生成AIを使って本作のイメージ画が作れないものかと挑戦して、エッセイにしてみました。よろしければ読んでみて下さい。
「噂の神絵AIで自作『戦国維新伝』のイメージ画を作ってみた!」(N6950HU)




