089 背負うべきもの 羽柴駒
秋が深まるころ、とてつもなく大きな報せが舞い込んできました。
巨星、墜つ──。
甲斐・信濃・駿河などに覇を唱えた乱世の梟雄、武田信玄公が病により身罷っていたのだそうです。
この報せが織田家にもたらされた時、お館様は黙って東に向かって黙祷し、半刻ほども身じろぎひとつしなかったといいます。
永年、最大の敵であった者の訃報に接し、お館様の心中に去来したのは、いかなる思いだったのでしょう──。
そして、すぐさま有力諸将に参集の号令がかかりました。
恐らく、今後の武田家の処遇や、それによって引き起こされるであろう他家の動静についての対策などが話し合われるのでしょう。
ここ北畠家からは三介様が当主名代として呼ばれ、奥志摩にいる小一郎にもお呼びが掛かったそうです。
そこまではいいのですが──。
「──嘘でしょ!? 何で私にまでお呼びがかかるのよっ⁉」
まさか、また何かお館様から無茶振りを申しつけられるってことじゃないわよね?
もう嫌な予感しかないのですが、報せを持ってきた三介様は、他人事のように蕎麦茶をすすって平然としたままです。
「さあ、お館様のお考えは読めんからなぁ。あるいは、お方様からのご用向きかも知れんし──」
そう言ってから、三介様はちょっと悪戯っぽい表情を浮かべました。
「いや、あんがい諸将の前で駒殿の意見を求めたりするかも知れんぞ。何しろ、三十郎叔父上も駒殿の軍才を褒めておったからなぁ」
「じょ、冗談じゃないわよっ!」
これ以上『面白きおなご』なんて世評を広められてなるものですか。
──とはいえ、断ることなんてとても出来ないわよね。気が重いわー。
「はぁ。──で、出立はいつですか?」
「明後日の朝だ。小一郎殿が九鬼の船で尾張に向かうので、途中の湊で合流することにしたのだ」
船旅かぁ。経験ないけど酔ったりしないかしら。
いや、それより留守中の仕事のことを考えないと。お雪様と佐吉がいれば育児院のことは問題なさそうだし、お美代殿は──小一郎に新吉殿と楓殿がついてくるでしょうから、私の警護はいらないかな。むしろお雪様と佐吉の警護に残ってもらいますか。
そんなことを考えていると、ふと三介様が真面目な顔で口を開きました。
「駒殿。武田信玄のこと、聞いておるな?」
「はい、春にはもう亡くなられていたとか」
「うむ。三年は自分の死を隠すよう言い残したらしいが、家中が徹底抗戦と降伏とで割れていたらしい。 そこに兄上(勘九郎信重)が、松姫との縁組が叶うなら武田家存続を認めると持ち掛け、ようやく降伏することに決めたそうだ。──まさに、三方ヶ原の戦いの後で駒殿が言っていたとおりになったな」
まあ、あの時は勢いで言っただけで、私も実現できるかどうかまでは考えてませんでしたけど。実際に話をまとめ上げたのは勘九郎様の手柄、なんでしょうかね。
「しかし、これで信濃・甲斐・駿河と、織田家は一気に三国も手に入れたわけだ。
武田の重臣の多くは三方ヶ原で討ってしまったし、あれほどの広さを治めるには、織田からも何人もの重臣を送らねばなるまい。
配置もずいぶんと変わりそうだが──」
「──あ、でも駿河は徳川に任せちゃうんじゃないかしら」
「ええっ⁉ いくら何でもそれはないだろう? 確かに駿河攻めでは徳川もずいぶん働いたらしいが──」
「駿河まで織田家が取ると、徳川を織田領の中に閉じ込める形になっちゃうでしょ。せっかくの同盟国なんだし、敵と対峙する形にしておかないと、それこそ宝の持ち腐れよ」
「なるほど。徳川を北条からの盾にしようということか」
私の考えをすぐに理解して、三介様が大きく頷きます。
「しかし、徳川が北条を倒して相模まで獲ってしまったら、それはそれでまずくないか?
織田家としても扱いが難しくなるし──小一郎殿としても、あまり徳川が大きくなるのは望むところではあるまい」
「うーん、今の徳川にそこまでの力があるとは思えないけど──でも、いずれ徳川の処遇については考えないといけない時が来るでしょうね。
さらに前線の地への領地替えをさせるか、どうしても三河の地にこだわるなら同盟国ではなく臣下の礼をとってもらうか。
どちらも呑めないというなら、仕方ないですがそのときは──」
「まあ、そうなるよなぁ」
私が言葉を濁すと、三介様もその先に思い至ったのか、大きく溜息をつきました。その顔が、何だかいっそう深刻な色を増しています。
「──なあ、駒殿。わしはこの前、徳川家の本多殿と小一郎殿のやりとりを聞いて以来、ずっとひっかかっていることがあってな。
駒殿は気を悪くするかもしれんが、これだけはどうしても聞いておきたいのだ」
そう言って、三介様はしばし言葉を探すように黙っていたのですが、ようやく意を決したように口を開きました。
「わしは──このまま小一郎殿を信用し続けても良いものだろうか」
「──え?」
全く予想もしていなかった問いに、私は思わず言葉を失いました。
「あ、いや、小一郎殿のことはいいやつだと思っているのだ。
色々な施策で民を豊かにしてきたこともすごいと思っているし、いくさ嫌いもあそこまで徹底したらそれはそれで大したものだと思うのだ。実際、成果もあげておるしな。
ただ、この前の話を聞いた時、その何というか──」
ちょっといじけたように口ごもるその姿は、このところのしっかりしてきた様子とは違い、どこか少年っぽさが戻ったようにも見えます。
あ、これはもしかして──。
「もしかして、小一郎が『誰が天下を取ろうがかまわない』って言ったのが許せなかったとか?」
「──『許せなかった』というのとはちょっと違うかな」
私の推測に、三介様が少し考えてから答えます。
「わしはな、お館様と小一郎殿は同じ方向を向いておると思っておったのだ。
やり方はまるで違うが、同じところを目指してともに歩んでいる同志のようなものだと。
お館様にとって小一郎殿はもう、ただの家臣というだけの存在ではないと思うのだ」
そう言って、三介様はどこか懐かしむような表情を浮かべました。
「近江で小一郎殿たちと語らっているお館様は、実に楽しそうじゃった。あんなに肩の力の抜けたお館様は、わしも初めて見た。
──お館様は孤独なお方だ。実の弟や母親に裏切られ、何人もの家臣にも背かれ──おそらく家臣たちのことも心から信用してはおられまい。だから、人を力と恐怖心で押さえつけようとする。
だが、小一郎殿にはそんな必要がない。おのずと同じところを目指し、ともに歩んでくれる──お館様にとって小一郎殿はもう、かけがえのない存在になっているのだと思う。
しかし、小一郎殿にとってお館様はそうではなかったのか? 他の者で替えがきくような、その程度の存在でしかなかったのか?
もしそうなのだとしたら──わしには、お館様が『ふびん』に思えてならんのだ」
ああ、やっぱり三介様は変わっていない。他人のことを自分のことのように受け止めて心を痛める──私と出会った頃からそうでしたから。
「──三介様。もしもいつか小一郎が離れてしまったらお館様がどれだけ傷つくか──そのことを考えて、心を痛めていたのね?」
黙って頷く三介様に、私は心を決めました。ここは適当にごまかすのではなく、ちゃんと詳しいことを教えてあげるべきでしょう。
「わかりました。私の聞いている限りのことでよければ、教えてさしあげます。
──先日の話で出て来た『朝鮮出兵』の話は、前に話したわよね?」
「あ、ああ。何でも、藤吉郎殿がやらかして、大した成果もなく終わってしまうということだろう?」
「実はそれ──元々はお館様が言い出したことなのよ」
私は、小一郎や半兵衛様たちから聞いた話を、なるべく分かりやすいように話していきます。
「──なるほど。お館様がどうしても大陸出兵の野望を捨ててくれないのなら、『本能寺の変』をあえて見過ごす。そして、兄上かわしか、大陸出兵をやらないと思える方を後押しする、ということなのだな」
三介様が腕組みをしたまま、溜息まじりに話をまとめます。
「あ、でもあくまで初めのうちはそう考えていた、ってことですよ?
まだ小一郎が龍馬殿の記憶に目覚めたばかりで、その頃はまだろくにお館様と話したこともなかったはずだし。たぶん、後世に語り継がれた恐ろしい『織田信長』像から考えたことなんだと思う。
でも、そのあとお館様と直に接したり、無明殿だの明智の義父の話だの、状況もだいぶ変わってますから。
まだ確認はしてませんけど、たぶん今の小一郎は、明智の義父に『本能寺の変』をやらせるつもりはないと思いますよ。
小一郎だって、絶対にお館様のことが好きなはずなんですからね」
「そうなのかな。──あ、でも本多殿に『徳川が天下を取ってもいい』と言ったのは──?」
「たぶん、本多殿の殺気をそぐために言ってみせたんでしょう。話の主導権を握るために意外なことを言うのは、小一郎がよく使う手ですから。
本心では、徳川の世にだけは絶対にしたくないと思ってますよ」
私が軽口を叩くように言ってみせると、ようやく三介様の顔にかすかな笑みが戻ってきました。
「だろうな。徳川の世にだいぶ不満を持っていたようだからなぁ。
──しかし、今ひとつわからん。小一郎殿は、何故そこまで大陸出兵の阻止にこだわるのだ?
いくらいくさ嫌いと言っても、お館様を見殺しにしてまで阻止するようなことか?
そうまでして大陸出兵を阻止して、そのあとに小一郎殿は、いったい何をするつもりなんだ?」
「ああ、そこはまだ聞いてないんですね。天下統一がなされたあと、小一郎が何をしようとしているのか──。聞いたらあきれ返るような話なんですけど」
「何だ、それは?」
「天下が統一されたら、小一郎ってば、武士を辞めて商人になるつもりなんですって。
自分の船で世界中を廻り、異国と商売をしてもっと日ノ本を豊かにする──それが龍馬殿から引き継いじゃった夢らしいですよ」
「はぁあ──⁉」
三介様が目をひん剥いて絶句し、──そして堰を切ったように笑い出しました。
「ははは! 自分が異国と商売をしたいから、日ノ本が異国といくさをするのは困る、ということか!
欲のない男だとは思っていたが、実は相当に欲深ではないか!
自分の夢のために、日ノ本のあり方や、誰が天下人になるかまで変えてしまおうとするとは──ははは、何ともまあ、とんでもなく大それた大うつけじゃな!」
それからしばらく、三介様は喉の奥を鳴らすようにくっくっと笑い続けていましたが、やがて真顔で姿勢を正して私に向き直りました。
「よく話してくれた、駒殿。
これで小一郎殿がどういう考えで動いているのかもわかったし、自分が何をすべきかも少し見えてきた。
──要は、お館様が大陸出兵などを考えなければ、小一郎殿もお館様を見捨てたりはせんのだろう?」
「ええ、まあ、そうでしょうね」
「ならば──駒殿。ひとつ折り入って相談したいことがあるのだがな」
二日後。私と三介様の一行は、大河内城から北東三里ほどの櫛田川河口近くの湊に向かいます。
湊に近づくと、少しずつ往来する人々も賑やかに──というより何だか慌ただしくなってきてるんですけど。
「──えっ⁉ 何、あれ!」
遠くに海が見えてきて、沖合を行きかう船も何艘かあるのですが、その中にひときわ大きく、他の船とはまるで違う形の船が停泊しています。
海岸線に群がる人たちは、これを見に集まってきたのかな。
「あれは南蛮船か!? 前に伴天連から模型を見せてもらったことがあるが──何故こんなところに?」
三介様も訝しげな声を上げますが、見送りについて来た重臣の方がすかさず訂正します。
「あ、いえ、あれは三つ巴の旗──九鬼家の船ではないかと。まさか、九鬼家が南蛮船を買うとは──」
その言葉を聞き流しながら、私と三介様はこっそり目配せをしました。
あれ、たぶん買ったんじゃなくて造ったわね。何しろ、未来の造船の専門家が二人もいるんだもの。
やがて、こちらが海岸に近づいたのを認めたのか、南蛮船から二艘の小舟が下ろされ、こちらに向かってきます。先頭の船の舳先で大きく手を振っているのは小一郎で、後ろで櫂を扱っているのは新吉殿ですね。さすがに忍び、器用だなぁ。
「三介様、お迎えに上がりました」
「うむ、ご苦労。──では、後のことは任せたぞ」
三介様が見送りの方々と話をしている間、私は三介様に同行していく方々に声をかけます。
「すみませんが、お供の方はもう一艘の方で来て下さいますか。三介様は小一郎と内密の話があるそうなので」
「わかりました」
三介様がよく小一郎に相談事をしているのは、家臣の方にも知られています。皆、特に気にすることもなくもう一艘の小舟に乗り込んでくれました。
「──さて、小一郎殿。あれが前に言っていた『新しいからくりの船』なのか?」
こちらの小舟も岸を離れると、三介様がさっそく質問を繰り出します。
万一にも向こうの舟に聞こえないよう、少し声を落として、ですが。
「ああ、それはまだ当分先です。
まず丈夫な鉄を作らにゃならんのですが、そのためには高熱の炉が必要で、その炉のためにはまず『たいかれんが』が必要でしてな」
「何だ、それは?」
「ああ、レンガとは土を固めて作る石のようなものでして、出来るだけ高い温度に耐えるものを作るべく、試行錯誤を繰り返しとるところです。
新しい船が出来るまでには、それこそ何年もかかるでしょう。その間、船大工を遊ばせとくのももったいないので、南蛮船を作ってみました。
日ノ本の船より波風に強いので、ものを運ぶ効率もだいぶ良くなるはずです。
いずれ、新しいからくりが出来たら、この船に載せるつもりでしてな」
「なるほど。これも未来の技術によるものか」
「はい。実は異人たちが使っている南蛮船より後の時代の型なので、今でも性能はだいぶ上です。
九鬼家の者たちもだいぶ扱いに慣れてきましたし、さらに試作した大砲も積んであります。
現時点で、世界でも最強の船です」
「ふむ、そうか」
小一郎の言葉に大きく頷いて、三介様はしばらく口をつむりました。
やがて、もう一艘の小舟が南蛮船にたどり着き、引き上げるためにわいわいと掛け声などが上がり始めるのを見て、三介様がおもむろに口を開きました。
今、この小舟には三介様と私、小一郎、新吉殿だけです。ここでならあの話をしても大丈夫でしょう。
「小一郎殿。駒殿から色々と話は聞かせてもらった。
おぬしが将来何をしようとしているのか、そのために何をしようとしているのか──。
まさか、お館様の命運や、織田の跡目についてまで己の意のままにしようとしているとは思ってなかったが」
「え、あ、いえ、わしはそんなつもりでは──」
小一郎が慌てて弁明しようとしますが、三介様がそれを身振りで制します。
「良いのだ、責めているのではない。多少、私欲は混じっているようだが、おぬしなりにこの日ノ本にとってどうなるのが一番良いか、考えてのことなのだろう?」
「は、はあ、それはまあ──」
「だがな、それはいかんぞ」
三介様が語気を強めます。
「おぬしの判断がもし間違っていたらどうする? おぬしの判断で日ノ本に大きな不幸が訪れてしまった時、もしおぬしが日ノ本を離れてしまっていたら、民は恨みをどこにぶつければいいのだ?」
「え──?」
「良いか。国の命運を左右するような決断をする者は、その国を離れてはいかんのだ。
それは、あまりに無責任というものであろう?」
「ええと、それはつまり──わしに異国に行くな、ということですかいの?」
「いや違う。わしは、おぬしひとりが日ノ本の命運を左右するような責任を負うべきではない、と言っているのだ」
そう言って三介様は、戸惑ったままの小一郎に向かって、先日私に相談してきたのと同じことを告げました。
「小一郎殿。おぬしが背負おうとしている荷物は、本来もっと覚悟を持った者にこそ背負わせるべきだ。
おぬしの持つ未来の記憶の秘密。──わしは、それをお館様に全て打ち明けるべきではないかと思うのだ」




