085 課題 石田佐吉
前話で初登場した佐吉(石田三成)の視点です。
市松は、病を治すために良い医師のいる伊勢に行く、ということになった。それに伴い、俺もその付き添いという名目で同行することが許された。
それにしてもあの晩、あの場に残っていて良かった。
市松の身に起こったことや周りのふるまいを観察し、何か大きな秘密があることに気づいたおかげで、あの小姓組の低能な連中と学び続ける苦痛から逃れられたのだからな。
いや、虎たちのことは人としては決して嫌いじゃない。情もある。だが、ともに学ぶ者としては大いに不満だ。
だいたい戦の主役が鉄砲に変わっているのに、今さら個人の武勇をみがいたとて何になるんだ。侍大将が直に敵と切り結ぶ場面など、この先はほとんどないだろうに。
そんなことより、軍略や必要な物資の計算などの方が、これからの侍大将には必要だろう。でも、俺がいくらそう言ってもあいつらはわかろうともせずに、自分の腕をみがくことばかりに熱中している。もう、うんざりだ。
市松の身に大変なことが起きてしまったことには同情するが、俺はそれを利用して、あいつらより一足先に大人の仲間入りをさせてもらうのだ。
堀次郎殿が南伊勢を通って奥志摩に向かうというので、それに同行させてもらう。
この次郎殿も、市松や小一郎様と同じく未来の記憶を持っている方だ。これから奥志摩で、次郎殿の知識をもとに新しい船の開発を始めるらしい。
もっとも、次郎殿は堀家当主なので、鎌刃城をあまり留守にし続けるわけにもいかない。まずは元家老の樋口赤心斎殿が先に行って、小一郎様や九鬼家とともに場所決めや建物の建築などを進めているそうだ。
この先は奥志摩と近江を行ったり来たりになるようだが──次郎殿と同様の知識を市松が持っているなら、次郎殿の留守中も開発はそれなりにはかどるだろう。
だが──そこに俺が行って、それほど仕事があるだろうか?
それよりは、伊勢に残って北畠家の内政の仕事を手伝わせてもらえるよう交渉してみよう。
三介様は、お方様の教育でずいぶん成長されたと聞いているが、元は『うつけ』などと呼ばれていたらしい。その程度のお人なら、俺の能力は必ず必要とされるはずだ。
大河内城では、小一郎様ご夫妻と三介様が俺たちを出迎えてくれた。
小一郎様は、市松とはいとこにあたる。久しぶりの再会に嬉しそうな顔をされていたのだが、俺の顔を見たとたんにその表情が曇った。
「おんしが佐吉か。半兵衛殿たちから話は聞いておる。
──本当は、今しばらく小姓たちとともに学んでほしかったんじゃがなぁ」
あ、この人までそんなことを言うのか。もっと進歩的な考えの人だと思っていたのに──何だかがっかりだ。
「あの者たちが学んでいる程度のことなど、とっくに身につけております。それがしがあそこにいても、もう時間の無駄としか思えません」
つい、つっけんどんに口ごたえしてしまった。怒られるかとも思ったが、小一郎様は何だか困ったようなお顔だ。
「あ、いや、そういうことではなくて、じゃな。学んでほしいというのは、その、何というか──」
「まあまあ、いいではないか、小一郎殿」
横合いから助け舟を出してくれたのは三介様だ。
「子供たちの中で学ぶのにあき足らず、大人たちの中で自分の力が通用するかどうか、ためしてみたいのであろう?
そなたが優秀だということはおね殿や半兵衛殿から聞いておる。わしが課題を出して、その結果によってはここで仕事をしてもらおうじゃないか。
わしも、有能な家臣はいくらでもほしいのだからな」
三介様から出された課題とは、洪水対策のための『遊水池』を造る見積もりを立てることだった。
南伊勢を流れる宮川は、上流がとても雨の多い地域なのでよく洪水がおこるらしい。
しかし、堤を高くするにも限度がある。そこで、増水時に上流でわざと水をあふれさせ、下流に流れる水量を減らす──その水を受け止めるのが『遊水池』だ。
甲斐の武田信玄が治水のために編み出した技法らしいが、最近は各地にその有用性が広まってきているそうだ。
測量図と設計図はもうある。あとは工事にかかる費用を算出しろ、というのが課題だ。
条件として、人員の数といつまでに完成させるべきかだけが決められていて、予算の制限はない。
やり方は誰に聞いてもいいし、書庫の資料は自由に見ていい。期限は五日──とのことだが、ならば誰の手も借りずに二日で終わらせてみせるぞ。
ただ、測量は念のため二回やらせたということだが、けっこう違いがあるんだよな。まあ、算出方法さえ決まれば、後はそんなに手間ではないから何とかなるか。
まずは川の堤、池の堤それぞれの過去の工事資料を調べて、一間ごとの資材や人件費を割り出す。念のため、過去数回分の平均で計算するか。
あとは物価の上がり具合も加味して、それぞれの数字を測量結果とかけあわせて──。
「三介様、答えが出ました」
「え、もうできたのか!?」
翌日、皆と夕餉をとっている三介様に解答を持っていくと、三介様だけでなく小一郎様や次郎殿も目を丸くされた。
「誰かに聞いている様子もなかったようだが──全部自分でやったのか?」
「はい。この程度、ぞうさもないことです」
「ふうむ──なるほど、よくできておるな」
「計算方法も理に適ってますね。これは大したものだ」
横からのぞきこんだ次郎殿も褒めてくれた。
資料の一枚目と二枚目に、それぞれの測量結果ごとに費用算出法と結果をまとめてある。だが、俺にとっての肝は三枚目なのだ。
「──ん? これはどういうことだ?」
三介様がその三枚目に目をやってたずねてくる。
「はい。二つの測量結果に違いがあり、全体の費用が千貫文(約8000万円弱)ほども違ってきます。ここは、再度測量をやり直し、正確な数字を出してからとりかかる方が無駄がなく──」
「何のためだ?」
三介殿の声が堅い。どういうことだ、何か気にさわったのか?
「何のためと言われましても──事前に完全な準備をしてから事にとりかかるのは当たり前ではないですか。余計な資材を用意しても無駄になるだけですし」
「余った資材など他の工事にまわせばいい。千貫文はたしかに大金だが、北畠全体で動かせる金額の中では些細なものだ。多少無駄になろうと、まずは多い方の結果にそって工事を進めるべきではないか」
「いや、しかし無駄は極力省いたほうが──」
俺の反論を手のひらでさえぎり、三介様が大きく溜息をついて小一郎様と次郎様に話しかけた。
「ふう、なるほど。これは──確かにだめだな」
なっ──なぜだ⁉ 計算方法は褒めてくれたはず、最も無駄のないやり方を進言することの何がいけないのだ!
まさか、どれだけ正しい答えを出そうと、始めから合格させるつもりのない課題だったのか?
俺がそう思って小一郎様たちをにらみつけると、小一郎様も大きく溜息をついて話し始めた。
「あのなぁ、佐吉。測量に関する資料も読んだんじゃろ?
今から測量をやり直すとして、ひと月弱はかかる。着工もそれだけ遅れる。その結果、何が起こるか想像できんのか?」
わからん。多少着工が遅れたとして、何が問題なのだ。
「工事が梅雨時までに終わらん──洪水に間に合わん可能性があるということじゃ」
──あっ⁉ そ、それは確かに見落としていた。しかし、それなら始めから人員を多く使えばいいんじゃないか?
「おおかた、『人員を増やせば』とか思っておろうがな、民にもそれぞれの暮らしがある。増やそうと思ってもおいそれと増やせるようなものではないんじゃ」
「──なあ、佐吉」
三介殿が語りかけてくるその声は、どこか俺をあわれんでいるようで、少し腹立たしい。
「そなたが優秀なことはよくわかったが、逆に決定的に欠けとるものがある。
それは『民の顔が、暮らしぶりがまるで見えていない』ということだ。
そなた、民や他の家臣のことを単に数字としか見ていないのではないか?」
「そ、そんなことは──」
「まつりごとは、民の暮らしや幸せを守るためにおこなうものだ。
完全な計画、完全な準備──そんなことは二の次だ。優先すべきは、次に洪水が起きる前に工事を終わらせることだ。そこに気づけんからだめだと言っているのだ。
お前のそのこだわりで工事を遅らせ、もし水害が起きてしまったら、お前は生きる術をうばわれた民にどうやってわびるつもりだ?」
返す言葉もなく黙り込んでしまった俺に三介様がぶつけてきたのは、この上なく厳しいとどめのような一言だった。
「佐吉。まつりごととは、お前の自己満足のためにするものではないぞ」
それから、どのようにその場を離れたのかは覚えていない。
視界がにじんでよく見えない。さんざん走ったあげく、気がつくと俺は大手門の傍の木の根元にうずくまっていた。
──悔しかった。頭をいきなりガツンと殴られたような気がした。
完璧な計画を立てたつもりだった。民の役に立ちたいという気持ちも嘘ではなかった。だがその裏にあった、皆に自分の才を認めさせてやろうという浅ましい魂胆まで、あの方たちには完全に見透かされていたのだ。
今はただ、自分が腹立たしくて、恥ずかしくて、みじめで──もう頭がぐちゃぐちゃだ。
「……な、なあ、佐吉兄。大丈夫か──?」
俺のあとを追ってきたのか、いつの間にか傍に市松とお駒様が立っていた。
「あまり気にするな。これから経験をつんでいけばいいじゃないか」
やめてくれ、市松。こんなみじめな姿をお前には見られたくない。今は、その親切が──痛い。
「──ふん、市松はいいよな」
だから思わず口に出てしまう。こんなこと、言うべきじゃないとわかっているのに。
「市松はもう大人の知識を手にしているじゃないか。これからはもう、大人の一員のように扱われるじゃないか」
──やめろ、もうそれ以上口を開くな。そう自分に言い聞かせても、もう感情が乱れて、言葉があふれ出て止まらない。
「なぜだ! 市松も虎も、学問にこれっぽっちも本気じゃなかったじゃないか!
俺の方が何倍も、何倍も努力してきたんだ!
それなのに、市松だけが何の苦労もなしに大人の知識を手に入れて──ずるいじゃないか!
そうだ、小一郎様だってそうじゃないか! すごいことをしてきたって皆言うけど、あれだってぐうぜん手に入れた未来の知識を使っているだけじゃないか! えらそうに言っているけど、何の苦労もなしに──」
「もうやめなさい、佐吉」
ふいにかけられたお駒様の鋭い言葉に、俺の口が止まった。
「自分の痛みをごまかすために周りを傷つけても、自分の痛みは消せないわよ」
「──」
「小一郎や次郎殿だって、好き好んで未来の記憶を手に入れたわけじゃないわ。どれだけ苦しんで悩んできたことか、傍にいた私にも全部がわかっているとは言えない。
よくわかりもしないのに『何の苦労もなしに』なんて、軽々しく言ってはだめよ」
──お方様にどこか似ているその叱りように、頭に昇った血がすうっと引いていった。
自分でもわかっている。こんなのはただの腹立ちまぎれの八つ当たりだ。
そんな俺の醜い心の内を見透かすように、お駒様はその場にかがみこんで、穏やかな顔で俺の顔を手拭いで拭いてくれた。俺の顔は、いつの間にか涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていたのだ。
「ねえ、佐吉。そんなに子ども扱いされるのが嫌? 今すぐにでも大人として扱ってほしいの?」
そんなお駒様の問いに、俺は黙って頷いた。
「あなたがそこらの大人以上に学問を身につけていることは、皆わかってる。それでもあなたを小姓組の子供たちと供にいさせたのは、ちゃんとした理由があってのことなの。
あなたがどうしても自分を大人扱いしてほしいというのなら、その理由を教えてあげても良いのよ」
「お、お駒様⁉ それは──」
あわてて止めようとする市松を手で制して、お駒様はそれまで以上に真剣な顔で俺の顔を見つめた。
「ただし、それはあなたの未来に何が起こるのかを知ることにもなるわ。
自分の未来を知ってしまうのは、決していいことばかりじゃない。むしろ佐吉の場合、『聞くんじゃなかった』と後悔する可能性の方が高いと思う。
それでも、どうしても知りたい? ──あなたにそれを知る覚悟はある?」
その晩遅く、広間に何人かが集められた。俺、お駒様、市松。そして三介様と次郎殿。あと、小一郎様の家臣という新吉殿、楓殿もいる。
小一郎様は始め、俺に未来のことを話すことを相当に渋っていたらしい。次郎殿と市松も、だ。だが、お駒様が粘り強く説得して、ようやく折れたのだそうだ。
「──なあ、佐吉。かなり厳しいことを知らされることになる。相当につらいぞ?
今は何も聞かずに、わしらの言うことに従ってもらうわけにはいかんか?」
「いえ、聞かせてください。逆に、何も知らされないことの方がつらいです。
自分に何か問題があるなら、知った上で、自分で乗り越えたいです」
「ふう、仕方ないのう」
そう言って、小一郎様が織田家と羽柴家にこの先起こることについて話し始めた。
──親父様(藤吉郎)が総大将になっての毛利攻め、そしてお館様が討たれてしまうという『本能寺の変』──。
織田家のことについては、小一郎様はかなり言いづらそうにしていたが、三介様が『かまわず続けよ』というような顔つきで頷いたので、話が続く。
やがて親父様が織田家に代わり実権を握って天下を統一、無謀な朝鮮出兵、ようやく授かった跡継ぎ、それを巡るお方様と側室との対立──。
このあたりから、次郎殿や市松もぽつぽつと合間に話を入れてくるようになった。そして──。
「そう、兄者の死後、羽柴家は真っ二つに割れ、それに乗じて徳川家康が実権を握り、やがて羽柴家は滅ぼされてしまう。
そしてその羽柴家分裂の原因となってしまうのが──佐吉、おんしなんじゃ」
そうか、俺に聞かせたくなかったという話はこれだったのか。
確かに、自分ならそうしてしまいかねないとも思う。
朝鮮出兵は負け戦だったという。何ひとつ得られていないどころか大赤字だ。武将たちがどれほど死ぬ気で戦ってきたとしても、大して恩賞など出せるはずもない。
だが、功績をあげた者に恩賞なしでは、親父様の権威にもかかわる。だから、俺が泥をかぶった。杓子定規に武将たちの細かい軍令違反を数え上げ、功績と相殺して恩賞を得られなくしてしまったのだそうだ。
確かに羽柴家の家臣としては、そのやり方は間違っていない。だが、それをされた武将たちから見れば、さぞ許しがたい所業だったに違いない。
今さらのように、三介様に言われた『民や他の家臣を数字でしか見ていない』という指摘が突き刺さる。俺は──本当に人の気持ちがわからない冷淡な人間だったんだな。
「──で、どうする、佐吉?」
小一郎様が、少し気を使ったように声をかけてきた。
「聞いていると思うが、わしは兄者を不幸な暴君にはさせたくない。兄者を天下人にさせないのがわしの一番の目的なんじゃ。
兄者にはすでに跡取りもおるし、大陸への出兵も何としても阻止するつもりなので、今言ったような歴史は起こらんとも思う。
だがな、おんしが今のままでは、必ずどこかで他の家臣たちとの対立が起こる。歴史を知る無明殿が、そうなるよう仕掛けてくる可能性だってある。
おんしには、今のうちに人との付き合い方をしっかり身につけてほしいというのがわしらの願いなんじゃがな」
「でも、今さら小姓組に戻すというわけにもいかないでしょ。ここまで事情を知ってしまった以上、子供たちと混じって無邪気に過ごす、なんて無理じゃない?」
その時、ずっと聞き役にてっしていたお駒様が初めて口を開いた。
「いや、確かにそれはそうじゃが──」
「そこで相談なんだけどね。──佐吉のこと、しばらく私に預からせてもらえないかしら」
翌朝、小一郎様や次郎殿、市松たちは奥志摩へと発った。そして、俺は大河内城に残り、お駒様と三介様の下で仕事をすることになったのだ。
最初、お駒様は俺に育児院の仕事をやらせるつもりだったらしい。まず、自分たちまつりごとをする側の者が守るべき存在のことを肌で感じるべきだと。
そこに、三介様が待ったをかけた。実際の政務をやる能力はあるのだから、他の形で民と接する機会を与えてもいいのではないか。
そういうわけで、俺は一日ごとに救民対策の窓口と育児院の仕事を交互にやることになったのだ。
もっとも、救民窓口とは言っても、俺のような若造が民の相談に乗れるはずもない。相談を受けるのは、人生経験豊富な年寄りや後家だ。俺の仕事はその後ろで話を聞きつつ手短に文書に記録し、どのような救済策が妥当かを考えて、意見を添えることだ。
民たちの訴えは千差万別で、今まで想像もしていなかったような民のさまざまな苦労を知ることが出来る。
確かにこれは、机の上で考えているだけでは絶対にわからないことだな。
そして、育児院の仕事だが──これはその何倍も疲れる。まず、子供たちがなかなか懐いてくれなかった。
お駒様に相談しても、まともに取り合ってくれない。返って来るのは『本気で働いてね』の一言だけだ。手なんて抜いてる余裕もないのに。
──だが、だんだんわかってきた。俺は育児院の仕事をどこか見下していた。つまらない仕事だ、他の仕事をさせてもらうために仕方なくやっているのだと。
そんな足かけな姿勢が子供たちにも見抜かれてしまっていたのだろう。
そうか、お駒様が『いつまでこの仕事を続ければいいのか──それを決めるのは私じゃなくて子供たちよ』と言っていた意味はこれなのか。この子たちに懐かれ、泣いて引き止められるくらいにならねば駄目だということなのだろう。
よし、決めた。今は他の仕事のことは決して考えまい。与えられた二つの仕事に心から全力で取り組もう。
──それこそ、生涯をこの仕事に捧げるほどに。
ただ、懐き始めてくると、今度は子供たちは情け容赦なく遊びに付き合わせようとする。
一日働いて、もう体力を限界までしぼり取られてとぼとぼ育児院から帰っている時──ふいに大手門の傍の物陰から声がかけられた。
「ずいぶんお疲れなご様子で──実にもったいないですなぁ」
「誰だ? 『もったいない』とはどういう意味だ?」
そこに現れたのは、少し危うい気配をただよわせた、見覚えのない中年の武士だった。
「石田佐吉殿とお見受けします。貴殿ほどの才の持ち主に子守をやらせるなど──宝の持ち腐れとはまさにこのことですな」
「──何が言いたい?」
「石田殿。貴殿の能力をもっと高く評価しておられるお方の下で、存分にその才を発揮してみるおつもりはありませんかな?」




