081 残された日記 原田新吉
数日が過ぎ、神戸城もようやく落ち着きを取り戻してきた。
もともと三七様には、織田家からそれなりに有能な家臣団がついてきていたのだ。三七様も、始めの頃は楽市楽座を導入したり、検地を行ったりとずいぶん頑張っていたらしい。
ただ、若い三七様のためにと重臣方があえて厳しい諫言をするのが疎ましくなってきたのだろう。そういう方々は少しずつ神戸城外の仕事に回されるようになり、気がつけば傍らには、織田に心から従っていない神戸系の重臣ばかりがはびこることになっていたのだ。
まあ、今回の騒動で奸臣どもは排除され、織田系の重臣が徐々に戻って来ている。三七様もかなり懲りたようなので、この先は、そうおかしなことにはならんだろう。
ただ、やはり育児院の子供たちは南伊勢に移すことになった。つらい記憶が残るところにいさせるのも酷だろうからな。
子供たちは三介様やお駒様やお美代たちにすっかり懐いており、むしろ新しい育児院に行くのを楽しみにしているようですらある。
俺が今回、初めて目の当たりにした三介様やお駒様の仕事ぶりは、まさに目を見張るものがあった。
俺より若いのに、ずっと年上の大人たちにもテキパキと的確な指示を飛ばし、しかも子供たちの様子にもずっと目を配り続けている。
──恥ずかしながら俺と楓姉は、子供たちのひどい状態を前に、思わず足がすくんでしまった。
それは、怖気づいたとか気持ち悪かったとかではなく──そこに昔の自分自身の姿を見てしまったからだ。
俺も楓姉ももともとは孤児だ。
それは野盗だったのか敗残兵だったのか──ある日突然、武装した集団に村が襲われて、まだ幼かった俺は母親の手で物陰に押し込まれた。
暗闇の中で、言いつけられた通りにひたすら息を殺し──そして気がついた時には、俺は皆殺しにされた村人たちの骸の中に一人で茫然と立ち尽くしていたのだ。
食料を自分で調達できるような歳ではなかったし、村の外に別の村があるなんてことも知らなかった。
あの後、通りかかった首領に拾われなかったら、数日と生きられなかっただろう。
楓姉も多くは語らないが、おそらく似た境遇なのだと思う。
その後、過去を思い出す暇すらないほどの長く厳しい忍びの修行を経てきたんだが、あの子たちの姿を見たとたんに、記憶の奥に封じ込めたはずのあの頃の感情を思い出してしまったのだ。
お駒様は俺たちの様子に何かを察したのか、すかさず他の仕事を割り振ってくれたが、あれで何とか心を落ち着かせることが出来た。
ああいうとっさの判断や肝の据わり方を見ても、お駒様が並々ならぬお方だというのは充分にわかった。
忍びの技は優れていてもどこか間の抜けていたお美代が、いつの間にやらしっかりしてきたのも、お駒様からの影響があるのだろう。
小一郎様の奥方という点を抜きにしても、お仕えするに不足はない──。俺も楓姉も、そうお駒様のことを高く評価したのだ。
ただひとつ──夜ごと聞かされるあれを除いては。
小一郎様たちは夫婦ということで、神戸城の奥まったところに一室をあてがわれている。
俺と楓姉は交代で、夜の間その部屋の前で番にあたる。お二人の会話には、外部に聞かせられない秘密の話も多いので。
そして──今夜もまたあれが始まってしまったのだ……。
『だから、明智殿に近づくのは危険じゃと言っておるじゃろうが!』
『どうして決めつけるのよ! 無明殿に無理やり協力させられている可能性だってあるでしょ?』
『そう信じたい気持ちはわかるがな、直接真意を聞きに行くなんて、いくらなんでも無謀すぎるわ!』
『やってみなけりゃわからないでしょ!』
──ああ、今夜もまた同じ展開だ。お役目とは言え、あまり聞きたくはないなぁ。
そうげんなりしていると、廊下の向こうから近づいてくる人の気配が──こ、これは三介様⁉
「おっ、どうやら始まっているようだな」
「さ、三介様、なぜこのようなところに──?」
中の二人に聞こえないよう小声で会話を交わす。
「新吉殿、番をするならもう少し離れたところでせんとな。
羽柴の夫婦は毎晩けんかしておるらしいと、うわさになりかけとるぞ?」
三介様は、小一郎様の生まれ変わりの話や無明殿の話は聞いておられるが、未来の記憶の話は知らないはず。もし、二人の会話がそっちに流れてしまったら──まずいな。
「──お、少し声の調子が変わってきたか?」
って、何を聞き耳立ててるんですか、三介様!
『──なあ、わかってくれ、お駒。わしはおんしを危険な目に合わせとうないんじゃ。
いくら頭が切れるとはいっても、いざという時におんしは自分の身を守れんじゃろ?』
『そんなに心配なんだったら──何でこんなに長い間放っておいたのよ。私のことなんてどうでも良かったんじゃないの?』
『何を言うがじゃ! 母様のことでわしが一番弱っていた時、おんしの言葉にどれほど救われたことか──わしにはおんしが一番大事なんじゃ』
『小一郎──』
『──お駒』
あああ、いつもならこの甘い展開に入る前に、聞こえないくらいの距離を取るのに!
すると、俺の横で震えながら笑いを堪えていた三介様が、ふいに大きく咳払いをして部屋の中に声をかけられた。
「ゴホン! ──あー、小一郎殿、駒殿。すまんが、ちと用があってな。邪魔してもかまわんかな?」
『さ、三介様──っ⁉』
ひどく慌てたような声に続いて、少しの間ばたばたとした音が聞こえてきた。──どんな状況だったんだろう。
『ど、どうぞお入りください』
「うむ、邪魔するぞ」
そう言って襖を開けた三介様が、ふと思い立ったかのようににやりと笑ってわしに声をかけてきた。
「新吉殿も来い。大丈夫、廊下の少し先でわしの家臣に番をさせておる。たまには小一郎たちに文句のひとつも言ってやれ」
「あのなぁ、二人とも、もう少し番をしているものたちのことも考えてやらんか」
腰を下ろすなり開口一番、三介様があきれ顔で苦言を呈された。
「けんかするのも、その、仲むつまじくするのも、家臣に聞かせてよい話ではないと思うぞ?
見ろ、新吉殿が困り果てておるではないか」
「は、誠にその、面目ない」
「お、お恥ずかしい限りです……」
お二人がすっかり縮こまってしまわれた。まあ、俺としては今後気をつけてもらえるならそれでいいんだけど──。
「ところで、もめておったのは(明智)十兵衛殿のことか?
駒殿には悪いが、わしも小一郎殿に賛成だな。十兵衛殿に会いに行くのは危険すぎる」
「え、でも──」
思わず反論しかけたお駒様を手で制して、三介様がさらに続ける。
「仮に、十兵衛殿が無明殿に無理やり協力させられていたとしよう。だが、それを知ってどうする?
あの知将である十兵衛殿があらがえないのだぞ。それこそ、よほどの弱みを握られているのか、家族を盾に取られているのか──それを駒殿だけでどうにかできるのか?」
「そ、それは──」
「まずは、もっと状況を見極めねばならん。十兵衛殿の真意を確かめるのは、真の敵ではない可能性がせめて五分を越えてから、だな。
──実はな、もうひとつ無明殿が罠をしかけてきたふしがある。それを見極めるために、小一郎殿の手を借りたい」
「もうひとつの罠、ですか?」
「わしの周囲にも、少し前に伊賀攻めをそそのかしてきた者たちがおるのだ」
何と、三介様にも敵の手が⁉ 思わず、小一郎様やお駒様と顔を見合わせる。
「何人もの家臣が『北畠の旧臣を心腹させるにははっきりとした武功を見せるべきだ、今なら必勝の策がある』などと言ってきおってな。まあ、わしは全く取り合わんかったが。
だが、その者たちの後ろで糸を引いていたのが誰かはわかってきた。──北畠の御隠居様(具教)だ」
北畠家先代当主、北畠具教殿──今は出家して不智斎殿と改名していたか。
息子の左中将(具房)殿に家督を譲ったあとも、北畠家の実権を掌握し続けている大物だ。
公家に繋がる名門ながらもたいそう武を好み、自らも剣豪と言われるほどの腕前だという。
当然のことながら、いくさで完全に負けたわけでもない織田家には強い反感を抱いており、次期当主として織田から押しつけられた三介様を排除しようと動いても不思議ではない。
「その家臣どもが言っていた『必勝の策』とは、三七が引っ掛かったという松永との密約のことじゃろうな。
わしがそれに乗らなかったから三七狙いに切り替えたのか、最初から二人とも狙っていたのかまではわからんが。
いずれにせよ、御隠居様の周囲をさぐれば、無明殿か明智殿とのつながりがみえてくるやもしれん。
ついでに──そろそろ御隠居様にはご退場願うとしようか」
三介様には珍しいその物騒な言い方に、皆が思わず息を呑んだ。
「よ、よろしいのですか? 三介様は北畠の方々とはうまく折り合いをつけていく方針だと聞きましたが──」
お駒様が慌てて尋ねるが、三介様は険しい表情のままだ。
「仕方なかろう。温厚な義父上(具房)とはうまくやっていけているが、御隠居様とはどうあっても無理らしいのだ。
成長したわしの姿を見てもらえば、あるいは──とも思っていたが、今度は鉄砲撃ちになったのが気に食わんと言っておってな。
おそらく、わしが織田の息子であるかぎり、御隠居様がわしを認めることは決してあるまい。
わしとて無用な争いはしたくない。疎まれるくらいのことなら、がまんもしよう。
だが、織田の方針に逆らってわしを追い出そうとするなら放ってはおけん。降りかかる火の粉は払わねばならんのだ」
温厚で明るくお優しい方だとは思っていたが、なるほど、このように果断なところもあるのか。
「そういうわけで、小一郎殿。子供たちを移送したら、志摩に戻る前にひと働きしてもらいたい」
「は、わしで出来ることならば」
その返事を聞いて、なぜか三介様の雰囲気がかすかに変わった。何だろう、狙い通りに事が運んだとでもいうかのように──。
「さて、わしも無明殿に狙われたということは、もう完全に当事者になったということだな?
そろそろ、蚊帳の外に置かれっぱなしというのにも飽きた。本当のところを教えてもらおうじゃないか」
「は──?」
そこで一呼吸おいて、三介様は挑むような顔つきで切り出された。
「小一郎殿。あの『生まれ変わり』の話──あれは嘘だな?」
「はぁ? わしゃ嘘なんてこれっぽっちも言っておりませんぞ」
微塵も動揺を表に出さず、小一郎様がしれっと返す。隣のお駒様も眉一筋すら動かさない。
忍びの修行をしたわけでもないのに、凄いなこの人たち。
「ああ、嘘というわけではないか。嘘ではないが、肝心のところをわざと隠しているのだな」
「いや、何のことやら──」
とぼける小一郎様に、三介様が少し得意げな顔でさらに切り込む。
「ふふん、おぬしにしては詰めが甘いぞ、小一郎殿。
清酒やら織田筒の考えは、小一郎の前世の『坂本龍馬』とかいう者の考えだったそうだな?」
「はい、そうですが──」
「確か、小一郎殿は天文九年(西暦1540年)の生まれだったよな?」
「────あっ⁉」
お駒殿が思わず小さな声を上げてしまう。
俺にもようやく、三介様の言わんとするところがわかってきた。
小一郎様が坂本龍馬殿の生まれ変わりだということは、すでに三介様たちにも伝えられている。ただ、その龍馬殿が未来の人だということだけは、一部の人以外には厳重に伏せられているわけだが。
だが、そうなると当然、龍馬殿は小一郎様誕生の前に亡くなっていなければおかしい。
しかし、鉄砲が日ノ本に伝わってきたのは天文十二年──小一郎様の誕生した後だ。
つまりあの筋書きでは、まだ鉄砲が日ノ本に来てもいないうちから、龍馬殿がその改良策を考えていたということになってしまうのだ──。
「小一郎殿。おぬしが持っているその『坂本』殿の記憶──それは未来のものではないのか?」
俺たちがその矛盾に気づいたのを確信して鋭く切り込んでくる問いかけに、小一郎様は全く反応しない。おそらく、頭の中ではどのように切り抜けるかを必死で考えているのだろう。
しかし、年代の矛盾に気づいたとしても、三介様はなぜそこから『未来の記憶』などという突飛な答えに行きついたのか──?
「──ふう、まあ、『はいそうです』とはさすがに言えんか」
そう溜め息をつくと、三介様はふところから何やら油紙にくるまれた本のようなものを取り出して床に置いた。
「三介様、それは──?」
「わしもこのところ『生まれ変わり』というものについて調べておったのだ。
ほら、駒殿もあの時いたじゃろう? 兄上がどうにも別人に思えてならん、ということがあって、もしやとも思ってな。
各地の言い伝えや伝承なども集めたのだが、その中にひとつ妙な事例を見つけた。
『未来からの生まれ変わり』を自称した老人がおったそうだ」
「えっ──⁉」
さすがに小一郎様の顔色が変わった。
「まあ、その者は村で起きるようなささいなことなど何ひとつ言い当てられんかったので、ほら吹き扱いされたまま二十年も前に死んでおったのだがな。その日記が残っていたので遺族からもらい受けてきた。
これがそうだ。なかなかに興味ぶかいものでな」
そう言って三介様が勿体ぶるように包みを開くと、ぼろぼろになった薄い本が出てきた。
「日々の出来事の後に、夢に見たこととして妙なことが書かれている。
具体的な名前などがないので、当時の人たちには何のことかわからなかっただろうが、今見てみると──ああ、ここだ。
『木瓜のうつけがお歯黒の大男を倒す』──これは桶狭間のことだろう。
『子うつけが伊賀を訪ねたが追い返される』──これはこたびの伊賀攻めが失敗することなのかな。
そして、ここだ。『木瓜大いに繁るが水桔梗に敗れる』
これは、木瓜の家紋であるお館様が、水色桔梗の家紋──すなわち明智に倒されることを意味するのではないか?
小一郎殿。おぬしもこの老人と同じく、未来におこることを事前に知っているのではないか?
だからこそ明智を警戒し、それを阻止しようとしている。──違うか?」
──やがて、長い沈黙の後、ようやく小一郎様が観念したかのように大きく息をついた。
「ふう。──よくぞその答えまで辿り着かれましたなぁ」
「ふふん、わしとていつまでもあの頃のうつけのままではないぞ。
こういうのを『呉下のあもう』というのだ」
──惜しいっ、実に惜しいです三介様! 『呉下の阿蒙にあらず』まで言わないと真逆の意味になってしまいます!
そこに気づいたのか、緊張した面持ちだった小一郎様とお駒様がふっと表情を緩めた。
──もしかして、わざとなのかなこれ。
それから、小一郎様は三介様に本当のことを話し始めた。
自分たちの目指す将来のことや、これまでやってきた政策の話、無明殿も未来の記憶を持っているらしいことなどを──。
ときおり、その老人の日記に書いてあることを示して、この先に起こったかもしれない出来事についても説明していく。
「な、何? この、水桔梗の後に大いに繁る瓢箪とは──羽柴のことなのか⁉」
「はい。しかし、わしはその未来を望みません。兄者が天下人となった後に、非道な暴君になってしまう末路を知っておりますので」
「ふうむ、なるほどなぁ」
三介様が腕組みをして大きく溜息をついた。
「つまり、小一郎殿の目的はあくまで『藤吉郎殿を天下人にさせないこと』で、そのためにお館様による天下統一を後押ししている、ということなのだな?」
「はっ」
「まあ、その点ではわしらの利害は一致しておるということだな。
しかし、その後をつぐべき勘九郎兄上が、無明殿である疑いがある、と──。
やはりこれは、早めに真相を突き止めねばならんな。そして、兄上が道を誤っているようなら、弟であるわしが正してあげねばなるまい」
そう言って、三介様はきっと表情を引き締められた。
「小一郎殿、これからはわしも協力するぞ。わしの力がいるときはいつでも言ってくれ。
逆に、わしも遠慮なくおぬしの力を頼りにさせてもらうぞ」
その言葉に、ふとお駒様が眉をひそめた。
「そういえば三介様、先ほど小一郎の力を借りたいと言ってましたよね。
あれは、いったいどのような──」
「うむ、実は御隠居様は剣一筋というか──剣術狂いと言ってもいいほどでな。
鉄砲撃ちとなったわしでは、もはや会ってもくれんのだ」
「ああ、わしも聞いたことがあります。何でも、塚原卜伝殿から秘伝を授かったほどの凄腕だとか」
「そうなんじゃ。このところは自分の派閥の者以外は寄せつけなくてな。自分と話をしたいなら、まずは自分といい勝負ができるほどの腕の者を連れて来て楽しませろ、などと言っておるのだ」
「──えっ、まさかわしにやらせたいこととは──⁉」
そこで三介様は、ひと呼吸おいてニヤリと笑った。
「そう。小一郎殿には、御隠居様と一戦交えてもらわねばならん。
勝ってくれとまでは言わんが、剣術狂いを満足させるくらいのいい勝負をしてもらわなければ困るぞ?」
本作の投稿を始めて、ちょうど一年になります。
思いも寄らずたくさんの方に読んでいただき、もう感謝しかありません。
何と、ただいまの時点で歴史ジャンルの年間ランキング42位!
書籍化作品も含まれる中、これが初投稿で、SNSでの宣伝も全くせずにこの順位は、我ながら大健闘だと思います。
応援していただいている皆様には、ただただ心より感謝いたします。
さて、本作については、まだ先は長いものの、そろそろ終わりまでの道筋がおぼろげながら見えてきた感があります。
たぶん、一年後までには完結できるのではないかと──。
続けようとすればまだまだ先まで続けられるとも思うのですが、ある程度のところできれいに話を畳むのも大事なことだと思いますので。
この先、どういう展開になるのか、最後までお付き合いいただければ幸いです。
感想や批判、レビューも大歓迎です。
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