080 北伊勢騒動 羽柴駒
お館様の権威を盾に居丈高にまくしたてたのが効いたのか、私たちはようやく育児院へと案内されることになりました。
年配の重臣たちに押しつけられたらしく、不満げな表情を浮かべた重臣に案内されて城内の馬場を抜け、三の丸に向けて歩いていくのですが──まさか、あんな小さな櫓に三十人もの子供を住まわせてたの⁉
おまけに、育児院となった櫓に近づくにつれ濃密に漂いはじめたこの臭い──。
恥ずかしながら、私にも覚えがあります。弟(虎松)とともに、意地の悪い親戚の元で貧乏暮らしを強いられていた頃、自分の身体が発しているのに気付いて死ぬほど恥ずかしかった、獣のそれにも似た饐えた臭い──。
どれだけ放置していたらこんな臭いになるのよ。
そして、ふてくされたようにここまで案内してきた重臣が、そこでさらに顔をしかめて足を止めました。
「すみませんが、私はここまでで──あとはご随意に」
何、臭いから近づきたくないってこと? おまけに、ふところから出して私に渡したのは──鍵⁉
「何だそれは? ――まさか子供らを閉じ込めていたのか? これじゃまるっきり囚人扱いじゃねぇか」
孫一殿がどすの利いた鋭い声で尋ねます。
「し、仕方がないのだ。餓鬼どもが隙を見て、台所から食い物をくすねようとするので仕方なく──」
「ろくに食わせてやってねぇからだろうが!」
孫一殿だけでなく、皆も怒りに身を震わせています。これは少しまずいですね。
「みんな、ちょっと落ち着いて。
いいこと? 子供たちの前では絶対に不快感を顔に出さないで。不安を取り除くように、穏やかな顔で接してちょうだい。いいわね?」
そう念を押してから櫓に近づき、扉を開けます。
すると寒々とした空気とともに、妙な生温かさを伴って濃密な湿った臭気が一気に押し寄せてきました。
そして櫓の中では──骨と皮ばかりにやせ細った子供たちが、せめて暖をとろうとしたのか、うつろな表情のまま身を寄せ合って寒さに震えていたのです。
「──⁉ もう大丈夫だよ、助けに来たよ、もう大丈夫だからね?」
子供たちの世話に慣れたお美代殿が真っ先に駆け寄り、しきりに声をかけ始めます。
「──まずい、かなり衰弱しとる子もおる。握り飯を食わせてはかえって危険じゃ」
小一郎や孫一殿も子供たちに駆け寄り、その状況を確認し始めますが、楓殿と新吉殿はあまりの惨状に気圧されたのか、青い顔で入り口のところに立ち尽くしています。ちょっとこの二人には、当面は他のことをしてもらった方が良さそうね。
「楓殿! すぐ台所に行って、大量のお粥と重湯を作らせて!
ああ、その前にここの前の広場で火を焚いて、お湯をどんどん作らせて。それと、体を拭くための大量の布切れも!
新吉殿! 郊外の兵たちにすぐこちらに合流するように伝えて、それから関の三十郎様たちに使いを。いくさ支度はもういいから、こちらに来てくださいと!」
「は、はい!」
「承知しました!」
それと、もうひとつ重要な仕事が──これは強面の孫一殿が適任よね。
「孫一殿、育児院の経理責任者が誰かを聞いて、帳簿を押さえて。絶対に隠蔽や処分などさせないように。
もし抗うようなら、多少荒っぽくなっても構やしないわ」
「心得た」
その堅い声色に、孫一殿も怒り心頭に達しているのがわかります。
すぐに立ち上がって飛び出して行ったのですが──すぐに、櫓の外であの案内役に食ってかかる声が聞こえてきました。
「──おい、貴様、どういうことだ? 何でこの寒さの中、火鉢ひとつも置いてねぇんだ?」
「ご、ご家老に禁じられたのだ。炭ももったいないし、子供たちに火の気を扱わせて火事でも起こされては困る、と」
──駄目だ。ここの重臣たちはどうしようもないクズぞろいだ。
うん、決めた。どうやら問題なのは、三七様よりむしろ周りの連中ね。こうなったら、その腐りきった性根をとことん叩き直してやるわ。
底冷えする板張りの櫓よりはマシだと判断して、櫓の前の広場にたっぷりの藁を敷いて、その周囲で火を焚かせて子供たちに暖を取らせます。
櫓から出てもらうときも、子供たちは心が死んでしまったかのように無表情でされるがままでした。でも、やがて体が温まって人心地がついたのか、一人の女の子が泣き出したのをきっかけに、そこらじゅうでわあわあ泣き始めました。
感情が蘇ってきたのはいい兆候です。私とお美代殿は、子供たちに『大丈夫、もう怖くないよ』と声をかけ続け、肌に触れ、抱きしめていきます。
やがて、楓殿が女中たちを伴って大量のお粥や重湯、おにぎりを持って来て、子供たちの状態に合わせて食事を与え始めました。始めは及び腰だった女中たちも、やがて意を決したようにひとりまたひとりと手伝いを始めました。
やはり、上の決定には逆らえないものの、子供たちの境遇に心を痛めていたものも少なくはなかった、ということなのでしょう。女中たちばかりではなく、明らかに武家と思わしき方々の手伝いも増えてきました。
ですが、あるていど食事が行き渡り、子供たちのからだを温かいおしぼりで拭いてあげる作業が始まった頃──皆の動きがぴたりと止まりました。
馬場の方から、小一郎に連れられて、三七様と重臣方が近づいてきたのです。重臣方は不快さを隠そうともせず、三七様はばつが悪いのか、肩を落としてうつむき加減です。
さあ、ここからが正念場ね──と思って立ち上がると、ふいに近くにいた五歳くらいの女の子が怯えたように袂を引っ張ってきました。
「おねえちゃん。みいちゃんたち、かってにおそとにでちゃったから、またおさむらいさんたちにぶたれちゃうの?」
「えっ⁉ ──大丈夫よ、大丈夫。絶対にそんなことはさせやしないわ」
こんないたいけな子に、何てひどいことを──! 私はそのみいちゃんを抱きしめて安心させて、他の子たちにもぎりぎり聞こえるくらいの声で告げました。
「大丈夫、皆のことはお姉ちゃんたちが絶対に守ってあげる。だから、少しのあいだだけ、大人しくしていてね?」
私は煮えたぎる感情をぐっと奥に押し込め、殊勝な表情を取り繕って近づいてくる重臣方に深く頭を下げました。
「ご足労いただき感謝いたします。先ほどは危急のことゆえ、不躾な物言いをしてしまい、申し訳ありませんでした」
「ふん。──で、何だ、急ぎ知らせたいこととは?」
「はい、実は先ほどあの櫓に入った時、大変なことに気づいてしまったのです。それこそ、このまま放置していては、神戸家の行く末を危うくするような重大なことに──」
「な、何だそれは⁉ 早く申せ!」
「いえ、他の家臣に知られてしまうのはよろしくないかと──。さぞ御不快でしょうが、まずは重臣の方々に直にご確認いただきたくお願いいたします。
──三七様は、しばしここでお待ちを」
そう言って私が手拭いで口元を覆ってみせると、重臣方もそれに倣って、しぶしぶながら私と小一郎の後についてきました。そして──。
『うっ、く、臭い!』『何てひどい匂いだ⁉』『に、匂いが目に染みるわい』
櫓に入ると、重臣方は口々に不満をわめき散らします。ふん、誰のせいでこうなったのよ。
「申し訳ありません、その奥の柱の根元をよーくご覧くださいませ」
「ん、何かあるのか? よく見えんぞ?」
そうして、重臣方がおずおずと奥に行くにつれて、私と小一郎は、バレないように少しずつ後ずさりをして入り口に近づき──息を合わせて一気に外に出て、すかさず扉を閉めてやりました。
「な、何をする⁉ どういうつもりだ、ここを開けろ!」
中からこじ開けようとするのを小一郎が必死に押さえている間に錠前を取り出し、素早く施錠して、扉に太い木でかんぬきをかけます。さあ、これで出られないわよね。
顔の高さにある、中を窺うための小窓を開けると、重臣方が憤怒の表情で怒鳴ってきます。
「小娘、貴様どういうつもりだ、我らをたばかったのか!?」
「あら、嘘なんて言ってませんよ? 貴方たちのような性悪がのさばっていたのでは神戸家の行く末が危ういので、閉じ込めさせてもらいました」
「ふざけるな! おい、この扉を皆で破るぞ、力ずくで──」
「あ、悪いけど無理やり出たりしたら、その時点で織田家への反逆と見做しますから」
「こ、この『虎の威を借る女狐』がっ! 我らにこんなことをして、ただで済むと──」
「ただで済まないのはあんたたちの方よっ‼」
私の渾身の怒鳴り声に、重臣たちが一瞬言葉を失います。よし、今だ、一気に畳みかけるわよ。
「ねぇ、大枚はたいて新築したっていう育児院はどこ? 十人以上雇ったっていう世話係はどこにいるの? その分のお金は、いったい誰のふところに消えたのかしらね?」
「え──⁉」
「申告のあった数より三人子供が少ないんだけど、まさか死なせたり──売ったりなんかしてないわよね?」
「な、なぜそんな──」
「私のこと、ただの子守役だとでも思ってた?
お生憎様。私はお方様の補佐役として、全ての育児院の報告書に目を通していたの。だから、あんたたちが報告書に書いてきたことが事実と全く異なるデタラメだってことは全部お見通しなのよ」
重臣たちは真っ青な顔で黙ってしまいました。まあ、臭いが苦痛だというのもあるんでしょうけど。
「『命令不服従』だけでも充分に重い罪だけど、そこにもし『横領』まで加わるとなると、お館様のお怒りはどれほど激しいものになることかしら。あんたたち自身の命だけで済むならまだ幸いね。
まあ、その調べが済むまで、何日かはそこで大人しくしていてもらうわ」
私がそう言い捨ててきびすを返すと、重臣たちの声の調子が変わりました。
「ま、待て──いや、お待ちください!
罪は認めます、罰も受けます、着服した金も必ず返します!
だから、せめて、せめてこの櫓から出してくだされ!
臭すぎて息が出来ん、寒すぎる、とても耐えられんのです!」
その必死の懇願が、かえって私の神経を逆なでします。
「──はっ、何を今さら。大の大人ですら耐えがたいほどの苦痛を、子供たちに強いたのは誰?
自分たちの行いの愚かさを、そこで存分に思い知るといいわ」
もうこれ以上泣き言を聞かされるのも不愉快だったので、小窓をピシャリと閉めて私は櫓を離れました。
ふん、ざまを見なさい──と言ってやりたいところだけど、思っていたほどすっきりはしないものね。
あいつらに同情する気なんてかけらもないけど、こんなことをしたって子供たちが苦しんだ事実がなくなるわけじゃないもの。
「お駒、大丈夫か?」
私が浮かない顔をしているのを気遣って、小一郎が声を掛けてきます。
「え? ──ああ、大丈夫よ。大事なのは子供たちのこれからですもの。
さて、残るは三七様のことね」
そこに、帳簿などの束を小脇に抱えた孫一殿が戻ってきました。
「ああ、それなんだがな、しばらくあのままにしといてやろうぜ」
孫一殿が指で示す方を見ると、先ほどまで所在無げに座り込んでいた三七様が、いつの間にか家人たちに交じって、神妙な顔つきで子供たちの身体を無心に拭いてあげていたのです。
──うん、この子も根は悪い子じゃないのね。
さて、事態は急速に収まりをみせつつあります。
城内にはまだ、いくさ支度で集まってきた国人衆がたくさん残ったままでした。そこに、いくさを主導するべき神戸家の重臣たちが、一斉に捕らえられたという噂が流れてきたのです。
これからどう行動したらいいものか、国人衆たちが考えあぐねているところに、三十郎様と三介様の一行が到着しました。
『北伊勢の衆よ、来るべき伊賀攻めに向けた訓練への参加、まことにご苦労であった!
その時はよろしく頼むぞ。では、解散!』
三十郎様が高らかに宣言した意味は明らかです。これはあくまでも訓練だったことにする、その他の家のものは、ここで帰るなら神戸家の罪に連座させることはない、と。
そうであれば、文句など出るはずもありません。国人衆は大人しくそれぞれの領地への帰途に就き──かくして『北伊勢騒動』は幕引きとなったのです。
「──さて、三七よ。こたびの騒動の件、申し開きがあれば聞こう」
子供たちの世話の指揮を三介様に任せて本丸に移り、三十郎様と数人の家臣方、私、小一郎だけで三七様との話し合いです。
三十郎様はそうとうに険しい顔で、お館様のような威圧感を漂わせています。
その前で、三七様は身を縮こまらせ、唇を噛んで俯いたままです。
「黙っていてはわからん! 貴様、自分が何をしでかそうとしていたのか、事の重大さが本当にわかっているのか!?」
三十郎様の裂帛の怒声に、三七様が身をびくりと震わせます。
「──三十郎様」
私は穏やかな声でそれを制して、三七様にそっと近づきます。
「三七様。最初は勘九郎様びいきのお方様に対する、ちょっとした反発だったのではないですか?
だからお方様から命ぜられた育児院のことも、適当に放っておけ、くらいに言っていた。
でも、まさか家臣たちが本当にあんなひどい状態になるまで放っておくなんて、予想もしていなかった──そうなんですよね?」
私が優しくかけた言葉に、三七様がはっと顔を上げ、すがるような目を向けてきます。
──実はこれ、子供たちの相手をしているうちに編み出したやり方なんですよね。
年配の世話役にわざと高圧的に叱ってもらって、私やお美代殿がそれをなだめて子供たちの肩を持つようにすると、子供たちは私たちには心を許し、本当のことを話すようになるのです。
おそらく今回の騒動は、誰かが三七様をそそのかしたことで引き起こされたものです。その辺りを聞き出すために、三十郎様と示し合わせてこんなやり方をさせてもらったのです。
「そうこうしているうちに、お方様からお叱りの文は来る、お館様が抜き打ちでやって来てお叱りは受ける。──おまけに、どうやら家臣たちが横領している気配もある。
もう、何をどうすればいいか、どこから手をつけていいかもわからない。
そんな時に、誰かが耳元でささやいた。──いっそ伊賀を落としてしまえばいい、と」
私が推測した筋書きを話すと、三七様は目を丸くして、ただこくこくと頷きます。
「お館様すら二の足を踏む難敵の伊賀を制圧してしまえば、こたびの失態など充分に挽回できる。
そう聞かされたから、藁をもすがる思いで、勝算もないまま伊賀攻めを始めようとしてしまった。そういうことなのでしょう?」
「い、いや、勝算ならあったのだ! 我らが攻め込めば、伊賀の西側から大和の松永(久秀)が攻め込むという手筈になっていて──」
ようやく、三七様が口を開きます。でも──。
「ふう。三七様、それってちゃんと松永家の方と打ち合わせしました?」
「え?」
「松永なんて来やしませんよ。三十郎様が忍びを使って、伊賀の周辺に呼応する動きがないか探らせたけど、どこにもそんな気配はなかったそうよ。もちろん、松永家にもね」
「そ、そんなはずは──」
「その松永の話、伊賀攻めを勧めた者の口から聞いただけなんでしょう?
三七様、言いにくいんですけど──あなたは罠にはめられるところだったんですよ」
「な、何だと⁉ では、もし伊賀攻めをやっていたなら──」
「おそらく、伊賀にも神戸家が攻めてくるという情報は流されているでしょうね。そして、伊賀攻めは大失敗に終わり、三七様は取り返しのつかないほどの失点を負ってしまう……。
かなり危ないところだったんですよ」
「そ、そんな──」
三七様はもう完全にうちひしがれてしまいました。
──思えば、三七様も可哀想な方ではあるのです。
勘九郎様や三介様とは母親が違う庶流であり、家督を継いだ神戸家も大きな家ではあるものの家格は決して高くはありません。一方、三介様が継ぐ北畠家は、伊勢国司で公卿家という名門中の名門ですから。
そういった僻みや焦りにとらわれてしまったという部分もあるのでしょう。
うつむいたまま黙ってしまった三七様に、三十郎様がうって変わって深く穏やかな声で語りかけます。
「三七よ。伊賀攻めのことは未遂でもあるので、わしからお館様に取りなしてやろう。
育児院のことだが、公には『子供たちの健康状態が悪いので南に移す』ということになっておる。これは、お前の立場を考えて、そこの駒殿がお館様に進言したのだ。
それに、三介やわしも、伊賀攻めを何とか食い止めようと、死をも覚悟して関に布陣しておったのだ。
皆が、そなたとそなたの立場を守ろうと奔走した──そのことはよく覚えておけよ」
「はい……」
「誰しも失敗はある。それを成長の糧として、今後も励むように。
──神戸城はしばしわしが預かる。重臣たちの背任も調べねばならんからな。
お館様からの沙汰が下るまで、そなたは謹慎しておれ。何、そこまでひどいことにはなるまい」
安心させるように笑顔を見せる三十郎様の言葉に、ようやく三七様の顔にも弱々しい笑みが戻りました。
「ところで三七様、ひとつだけ教えて欲しいのですけど──」
さて、一件落着といきたいところですが、私と小一郎にはどうしても確認しなければならないことが残っているのです。
「三七様に伊賀攻めを進言したのは、どこのどなたです?」
「そ、それは──」
三七様の顔に逡巡が浮かびます。おそらくは口止めされているでしょうし、言ってしまったら後で何か報復されるのではないかという懸念もあるのでしょう。
「むろん、その者にすぐに問い質すようなことはしません。じっくり証拠を固めて、そして必ず報いを受けさせます。
三七様、よく考えて下さい。その者はあなたを罠にかけ、無用ないくさを起こさせ、その立場をなくさせようとしたのですよ。今さら、義理立てなど必要ありますか?
放っておけば、必ずや織田家に仇なす存在となります。そうさせないためにも、どうか教えていただけませんか?」
私の問いかけに、三七様はしばらく目をつぶって考え込んでいたのですが、やがてぽつりと言葉を発しました。
「わしに伊賀攻めをするように進言してきたのは──────明智だ」




