008 恩賞 竹中半兵衛重治
あの長い夜から二ヶ月。
怒涛の如く忙しい日々でした。
金ケ崎の撤退戦の痛手を癒す間もなく、織田軍は北近江の浅井領へ侵攻、まずは横山城を目指しました。
これを聞いた浅井久政は、反織田派の急先鋒である重臣たちに千人の兵を預けて横山城へ先発させます。そして朝倉に援軍を要請、さらに南近江の六角に織田を挟撃しようと呼びかけ快諾を得ました。
織田軍は一万二千。
横山城の守備兵三百と先発隊一千、浅井本隊四千。朝倉の援軍八千。
数の上ではほぼ同等。さらに六角の援軍が加われば包囲網が出来る、負けはない。久政は確信していた筈です。
──しかし、その時すでに横山城は、長政殿の命により織田軍の先発隊に明け渡されており、知らずに入城した一千の将兵は一網打尽にされていたのです。
朝倉景健率いる朝倉軍は、横山城目指して南下します。
しかし、浅井家は、当主長政殿と久政の体調不良を口実に、本隊の出兵を渋り続けました(もっとも、隠居の久政は、この時すでに首だけになっていたのですが)。
そして、業を煮やした朝倉軍が、先行すべく小谷城の近くを南下しようとした時。
浅井兵に偽装して小谷城に詰めていた丹羽・木下の軍勢が突如朝倉軍の横腹を急襲、さらにお館様の本隊が挟撃して多大なる被害をもたらし、撤退を余儀なくさせたのです。
更に、朝倉軍の撤退を見て撤退を決めた六角軍の背後から柴田・佐久間・明智勢が追撃をかけ、甚大な被害を与えます。
──金ケ崎の撤退戦からわずか二ヶ月。
小一郎殿が知る本来の歴史よりも二・三年早く、織田家は北近江二十万石を掌握したのです。
「皆、良く働いてくれた! お館様もことのほかお喜びであったぞ!」
部下たちに論功行賞の結果を伝える場で、藤吉郎殿は実に得意気でした。
「ことに、浅井を臣従させた功を、お館様は高く評価して下さった! 功一等であるとな!
──小一郎、そちにも褒美があるぞ。何と、お館様から名の一字を頂いたのじゃ。
以後、信長様の『長』、わしの名の『秀』を取って『小一郎長秀』と名乗るが良い!」
「はっ! ──あ、いや、それはちとまずくないですかの? 丹羽様の諱と同じじゃ。皆の前で『長秀』と呼ぶと、丹羽様が不快に思われるんじゃ……?」
「うん、そこは考えておる。
実は此度、お館様に苗字を改めることを願い出た。尊敬してやまない丹羽様、柴田様から一字ずつ頂戴して、全く新しい苗字を名乗らせてほしいとな。
──今日からわしは『羽柴藤吉郎秀吉』、小一郎は『羽柴小一郎長秀』じゃ! 皆、よく覚えておけ!」
なるほど、功一等へのやっかみを減らすためには、自分の名すらもあっさり変えてしまいますか。
確かに小一郎殿の言うように、この方には大出世するだけの素養は大いにあるようですね…。
「それとな、みな驚け! 朝倉と六角を抑える要衝として、これから小谷城には五千の兵を置く、それを任されたんじゃ! わしが小谷の城代じゃぞ!」
得意満面で言う藤吉郎殿の言葉に、家臣や与力武将たちの反応は薄いものです。
それはそうでしょう。北は朝倉、南は六角。敵に挟まれた小谷は、まさに最前線。常に敵の脅威に晒されることになるのですから。
「──何じゃ、皆、浮かない顔じゃの?
じゃが、考えてみぃ! 小谷は確かに敵に挟まれた危険な地じゃが、放っておいても敵が来る──難攻不落の小谷城をしっかり守っておれば、手柄を立てる機会がいくらでも向こうからやってくるんじゃ!
そして、朝倉、六角を討ち果たしたあかつきには、北近江三郡二十万石の大名すら夢ではない──皆、わしと共に出世の夢を叶えようではないか!」
『おおおっ!!』
藤吉郎殿の鼓舞に、家臣たちが一様にこぶしを突き上げて応えます。
「──ああ、それとな、小一郎。長政殿はしばしお館様の御預かりとなるゆえ、浅井家の家臣のあらかたは我らがしばし預かることになる。ワレが連中の面倒を見よ」
「はっ!」
小一郎殿が平伏します。面倒なことは小一郎殿に丸投げということですか……。
「なぁに、心配はいらん! 浅井の連中はまんざらでもないようじゃぞ? 情けに篤い小一郎殿の下ならば安心じゃとな。あの時のワレの涙、まさに値千金じゃったのう?
まあ、また、半兵衛殿に色々教えてもらえよ?」
──そして、部下たち一人ひとりへの恩賞を告げる声が続きます。
その声をどこか遠くに聞きながら、私は小一郎殿に最後の言葉をかけた時の藤吉郎殿の冷たい視線に、自分の心が冷え込んでいくのをはっきりと感じていました。
あの夜の小一郎殿の驚くべき告白を受けて、私なりに色々考えを巡らし、また色々と辺りに目を向け、観察しなおしてみました。
そして、小一郎殿の記憶にある藤吉郎殿の晩年の様子を念頭に観察した上で、気付いてしまったのです。
木下──羽柴藤吉郎秀吉という人が、決して周りが思っているような情けに篤いお調子者ではない、ということに。
あの後、私は、小一郎殿の急激な変化に説明がつくように、ある設定を提案しました。
此度の浅井との交渉の筋書きは、実は私が事前に指南したものだったことにしようと。
また剣についても、それまで我流だったところに私の家臣が基礎から手ほどきした結果、筋が良かったのか、短期間でめきめき腕を上げたということにしようと。
いささか苦しい理由付けでしたが、それを聞いた藤吉郎殿は、さほど興味もなさげに『そうじゃったか、道理で、な』と応えるだけでした。
その様子を見て、私は確信しました。
──藤吉郎殿は、基本的に自分以外の他人に関心がない人です。
幼き頃より身一つで、下賤ともいえる立場で地を這うように生き抜いて来た為か、彼は人の情を信じることが出来なくなってしまったのでしょう。
その人が、自分に利をもたらしてくれる人なのか否か、自分が有用に使える人なのか否か。
それを、人懐こい仮面の下で、情を排してきわめて冷徹な目で見定めているのです。
──おそらく、藤吉郎殿が損得抜きで情をかけるのは、母親のなか様と、妻のおね様に対して、だけでしょう。
小一郎殿や私のことも、おそらく完全には信用していません。
自分の出世の障害になるか、あるいは出世の競争相手になり得ると判断すれば、彼は何のためらいもなく小一郎殿ですら切り捨てるでしょう。
小一郎殿も、そのことには薄々気付いているはずです。でも、それを認めたがらない。
自分にとっても大事な存在である母親やおね様に惜しみなく愛情を注ぐ兄のことを、情がない人とは思いたくない。
そのことが、藤吉郎殿の本性を直視することに歯止めをかけている。
──危うい。
この、藤吉郎殿に対する執着が、これから先、小一郎殿の足枷にならなければ良いのですが……。




