079 得意技 羽柴駒
神戸城から五里ほど西、関の地の小さな山に三十郎様の家臣団が簡易な陣を張ってから、三日が経ちました。
その間、神戸側は全く動きを見せず、こちらから使者を送っても門前払いです。
兵の数は七千人ほどに膨らんでいるそうですが──こちらはわずか百人。まともにぶつかればひとたまりもありません。
ただ、向こうもうかつには手出しできないはずです。それをしてしまえば、もう言い逃れようもなく織田家への『謀反』になってしまうのだから。
大和街道は、神戸城から伊賀へ侵攻するほとんど唯一の道です。その起点の関を抑えてしまえば、大きく南か北に迂回するか、雪深く険しい鈴鹿・布引の山々を無理やり超えるしかありません。
ですが伊賀攻めのためには、圧倒的な数の大軍で一気に攻め込むのでもなければ、苦戦するのは明らかです。
何しろ伊賀は、変幻自在な戦い方で寡兵で多勢を苦しめることを得意とする国──忍びの国なのですから。
伊賀国(現・三重県伊賀市、名張市周辺)は伊勢と大和の間、山々に囲まれた十万石ほどの国です。
旱魃に弱い土地で農業生産力も低く、小さく貧しい国なのですが、そのため古くから身を守るために独自の戦い方や技術を磨き、やがてその腕を他国に貸して金を稼ぐようになった──それが今日の忍びの基となっているそうです。
忍びを多く雇っているお館様もその力をかなり警戒していて、三介様や三七様にも絶対に伊賀に手を出すなと厳命されています。
そして、『うつけの三介殿』が功を焦ったのか、お館様に無断で伊賀に攻め込んでしまう──。
これが本来の歴史で何年後かに起こるという『天正伊賀の乱』です。
次郎殿から聞いた未来の知識によると──数倍もの兵力で侵攻したものの、地形を活かした奇襲や、普通の武士には思いもつかないような奇抜な戦術で散々に打ち負かされてあえなく撤退。その後、激怒したお館様から『親子の縁を切る!』とまで叱責されてしまうのだとか。
──今の三介様からは想像もつかないんですけどね。やはり、義姉上様の教育は凄いです。
でも、まさかその大愚行を三七様がやろうとするなんて──。
これって『天正伊賀の乱』の顛末を知っている人──つまり未来の知識を持つ無明殿がそそのかした、という可能性も考えられるわよね。
ここは、何としても阻止しなければ──。
三十郎様は今、お館様の忍びの力を借りて情報収集し、方々に迂回路を見張るよう指示を飛ばして、周辺の国人衆に神戸勢に呼応しないよう呼び掛けています。
そうして伊賀への侵攻路を封じてしまえば、織田からの援軍を呼ばなくても事を収められるのではないかと考えておられるようですが──少し甘いですね、三十郎様。
これだけ兵力差があれば、何もこちらと戦う必要はないのです。五百ほど兵を割いて、我らを囲って手出しできぬよう足止めし、その間に伊賀へ攻め込んでしまえばいいのですから。
せめてあと数百人ここに兵がいれば、伊賀攻めを躊躇するほどの兵力を引きつけられるのに──などと考えていると、小高い頂から遠くを望んでいた歩哨が歓声を上げました。
「来ました、援軍です! あれは安濃津からの増援と、北畠隊です! その数は──目算で四百から四百五十!」
「来ましたか!」
思わず私も駆け上がり、そちらの方に目を向けます。
軍勢の先頭で馬を駆るのは三介様と、その傍らには──えっ、小一郎⁉
三介様が迎えの隊を率いてくるのは何となく予想していたんですけど、小一郎も同行してたんでしょうか。
ふふ、やだなぁ、小一郎ったら。そんなに早く私に会いたかったのかしら──って、浮かれてる場合じゃないわよね。
まずは、小一郎にこれが無明殿の仕掛けの可能性があることを話して、ええと、三介様は未来の知識の話を知らないから『天正伊賀の乱』のことを言うわけにはいかないし──ややこしいなぁもう。
援軍が到着してすぐに、軍議の席が設けられます。
参加するのは、三十郎様と三介様、それぞれ二・三人の重臣と私。あと小一郎ともうひとり、何だか見覚えのない大柄な人がついて来ています。ふてぶてしい笑みを浮かべているあたり、けっこうな大物にも見えるんだけど。
「小一郎殿の御内儀ですな。俺は小一郎殿の客分で──まあ、とりあえず『孫太郎』とでも呼んで下され」
いや、それって明らかに偽名よね? 小一郎も何だかすごく渋い顔をしているし。
三十郎様が現状を三介様に説明している間にも、小一郎と『孫太郎』殿とのひそひそ話は続きます。
「孫太郎、おんし、いつまでおるつもりじゃ? わしの嫁の顔だけ拝んだら、そのまま里に帰るとか言っとったじゃろ?」
「おいおい、こんなに喧嘩の臭いがぷんぷんしているのに、帰られるわけがなかろう? 面白そうじゃないか、俺も混ぜろ」
「たわけたことを言うな。まだ織田方でもないのに織田の内紛に介入する気か?」
「いや、織田と他家の争いなら介入はせんが、織田同士の喧嘩なら、どちらかに加勢したところで問題はなかろう?」
「悪いが、喧嘩にはならんぞ。わしも三介様も、戦わずに事を収めるつもりなんじゃからな」
「ま、それならそれで小一郎のやり方を見物させてもらうまでさ」
──何、この関係。ちょっとこの『孫太郎』殿のこともよく観察しておかなくちゃ。
やがて、三十郎様から三介様への状況説明が終わったようです。
「さて、三介。今のこの状況、おぬしならどう差配する?」
こういう質問の仕方はお館様とよく似てますね、さすがはご兄弟。
ここ関の地は、東に広がる平野部が山脈に阻まれるちょうど境目です。ここを越えると、街道は山間をいく狭い道に変わります。私たちが今いるのは、その山脈の少し東、街道の南にぽつんとある小さな山なのですが──。
「そうですね、ここに全軍でいても囲まれるだけです。それではせいぜい千から千五百くらいしか引きつけられんでしょう。
ここは兵を二手に分けましょう。叔父上は安濃津からの三百五十を連れて、街道北の山すそに布陣して下され。それならたやすく包囲は出来なくなります」
「いや、それでは万一いくさになった時に、ここの兵の逃げ場がなくなるぞ? わしらは北の山中へ逃げられるからいいようなものの──」
「なあに、わしが鍛えた織田筒の精鋭三十がいます。いざとなれば『三方ヶ原』のやり方で混乱させ、そのすきに逃げるまでです」
「ううむ──確かにそれが妥当か。小一郎殿、駒殿はどう見る?」
「わしもそれがいいと思います。いくさのことだけを考えるならもっと隠れて布陣すべきですが、足止めが目的なら存在を向こうに見せることも重要ですので」
「あ、あの、周りからもう少し兵は集められないのですか? 亀山城の関(安芸守盛信)殿とかは、神戸側にはついていないのですよね?」
私がとっさの思いつきを口にすると、三十郎様が少し苦笑いを浮かべて答えられます。
「いや、確かに関家は三七とは不仲なのだがな。それだけに、逆に安芸守が戦いの火蓋を切ってしまいかねん。
ここに来てもらうより、亀山で睨みを利かせておいてくれた方が都合がいい。
神戸側からすれば、亀山と関、二重に壁があるように感じられるだろうからな」
なるほど、軍略を立てるには、そういう家同士の関係とかも把握しておかなきゃならないのね。やっぱり私は、あまりいくさのことには口を挟まない方がいいかも。
「さて、布陣の方はそれでいいとしてだ。向こうが二の足を踏んでいる間に、何としても三七を説き伏せねばならん。
使者では会うことも叶わなかったが、わしが行けばさすがに無視もできんだろう」
三十郎様が腰を上げようとしますが、三介様がそれを押し留めました。
「叔父上、ここはわしに行かせてくだされ。弟の不始末はわしが片をつけます」
「いや、三介様が行ったら逆効果だと思うんじゃが」
そこに、小一郎が異を唱えます。
「もともと、三七様がお方様の命令をないがしろにし続けたのは、跡目争いへの焦りが原因ですろ。競争相手である三介様や、立場が上の三十郎様では、かえって意固地になってしまうかもしれん。
交渉事はわしの得意技じゃ。お二方、ここはこの小一郎に任せていただいて──」
「うーん、小一郎でも同じことだと思うわよ」
あ、思わず言っちゃった。
「お駒──⁉」
「小一郎もたぶん三介様の派閥だと見られてるでしょうし、もともと、三七様にはあまり好感を持たれてないんでしょ? 小一郎だと、たぶん会ってもくれないわよ」
「それはそうかも知れんが──では、他に誰が……」
──うん、戦のことを考えるのはもうやめにしました。よく考えてみたら、それは私の本来の仕事じゃないし。
それに、いざ戦が始まってしまえば、私がここにいても足手まといになるだけでしょう。
なら──私は、私の仕事をしに行くまでです。
「三十郎様、三介様、小一郎。皆様はここで戦の備えを。──神戸城には私が参ります」
『は、はぁぁっ──⁉』
皆が一斉に仰天します。まあ、そりゃそうでしょうけど。
「お、お駒、何を言っとるんじゃ? いくさ支度で気が立っとる連中のところに行って矛を収めさせるなど、おなごの身でそんな無茶な──」
小一郎が泡を喰ったように真っ青な顔で反論してきます。──ちょっと嬉しい。
「戦だとか謀反だとか、そんなのは私の知ったこっちゃないわ。
私が今やるべきは『育児院の子供たちを無事に保護して南伊勢まで移送すること』。
私は、あくまで私の仕事をしに行くだけよ。止めないでよね」
「じょ、状況が悪すぎるじゃろが! 今の状況で、神戸家がそんなことを聞き入れるはずが──」
「聞き入れさせてみせるわ」
そう言い切って、私は少し勿体をつけるようにふところから一通の書状を取り出しました。
表に『上』とだけ書かれた、お館様から神戸家への正式な命令を記した書状です。
「私は、お館様から正式に命令を授かった『上意の使者』よ。それを無碍に扱えばどうなるか──さすがに、それがわからないほど愚かではないでしょう。
大丈夫、絶対に邪魔なんてさせない。子供たちは必ず無事に連れ出してみせる。
──そのついでに、『悪戯が過ぎて引っ込みがつかなくなってしまった悪餓鬼』を叱り飛ばしてやるだけよ。
それこそ、私の得意技ですからね」
馬に揺られて二刻ほど──ようやく神戸の街並みと城が見えてきました。
子供たちの護送のために二十人ほど兵を借りてきましたが、向こうを刺激しないよう、このあたりで待機してもらいます。
ここから先に進むのは私とお美代殿、小一郎と楓殿、新吉殿。
小一郎を連れて来るつもりはなかったんだけど、どうしても同行すると言い張って聞かなかったので、笠を目深にかぶって顔を見せないことと、絶対口出ししないことを条件に許しました。しょうがないなぁもう。
そして、もうひとり。一行の大将然として私の前を行くのが『孫太郎』殿──もとい、雑賀の鈴木孫一殿です。只者ではないと思ってはいたけど、予想以上の大物だったのね。
──私が神戸城に乗り込むと宣言し、皆が言葉を失うなか真っ先に賛同の声を上げて、護衛役も買って出てくれたがこの孫一殿だったのです。
『──お見事っ! お駒殿、実にご立派なお覚悟でござる! この孫太郎──いや、この鈴木孫一、心の底より感服仕った!
よし、神戸城へは俺が同行いたそう。御身は必ずやお守りいたしますぞ』
『すずき──まさか、雑賀の孫一じゃと!?』
三十郎さまや重臣方が目を丸くして絶句します。三介様は、ここに来るまでに聞いていたのか『うわ、それ言っちゃうのか』みたいな呆れ顔です。
それはそうよね。雑賀鉄砲衆とその大将の孫一殿といえば、摂津あたりで散々に織田勢を苦しめた難敵だもの。
『いや、かたがた、ご案じめさるな。まだ織田方にはついておらんが、本願寺にももう合力せんと小一郎と約定した。
いずれ本願寺とのいくさのけりがつけば、俺は小一郎の下につくつもりでおるのだ』
『わしゃ、こんな扱いにくそうな家臣などいらんのだがなぁ……』
『そうつれないことを言うなよ。
──お、そうだ、お駒殿。小一郎がどうしても嫌がるようなら、いっそお駒殿に召し抱えてもらってだな──』
『たっ、たわけたことを言うなぁぁっ!』
何だか、小一郎がこんなふうに振り回されるのを見るのって新鮮だわ。
──さて、神戸の町は不自然なくらい静まり返っています。いくさの気配を感じて、民は家の中に閉じこもっているか、逃げ出したというところでしょうか。
ほとんど往来のない通りを抜け、神戸城の門の前でまず私が声を上げます。
「開門! 織田からの使いです、門を開けてください!」
──返事はありません。門の前に数人いる門番は目を合わせようとしませんし、門の向こうにも慌ただしい気配はあるものの、返事がなされる様子はありません。
「お駒殿、ここは俺に任せてくれ」
孫一殿が私の前に立って大きく息を吸い、とんでもない大音声で口上を告げました。
「織田家からの上意の使者である! ただちに門を開けよ! これを拒むとあらば『神戸家は織田家に叛意あり』と見做すが、それ相応の覚悟はあるのだろうなぁっ!」
それこそ城中に響き渡るかと思うような、百戦錬磨の荒武者の気迫こもった怒声です。
「ひっ──し、しばしお待ちを──!」
慌てて門番たちが中に引っ込み──しばらく後にようやく重い音とともに門が開かれました。
「お、お待たせいたしました。どうぞお入りください」
門番たちに促されて城内に入ると、それなりに身分の高そうな家臣たちが十人ほど並んで、私たちに頭を下げました。
その背後では、夥しい数の雑兵たちが米俵や武器弾薬の入った箱を運んだりして、大変な慌ただしさです。なるほど、まさにいくさ支度の真っ最中ってわけね。
「大変ご無礼いたしました、ご使者様。して、本日のご用向きは──?」
いささか緊張した面持ちで、筆頭らしき家臣が孫一殿に訊ねてきます。おそらく、いくさ支度の真意を問い質しに来た、とでも思っているのでしょう。でも、私たち女性まで一緒なので、少し訝しく思っている人もいるようですね。
「ああ、違う。俺はただの随行で、織田家のご使者はこちらの方だ」
そう言って、孫一殿が私を前に押し出します。それを見る家臣たちの顔に、いっそうの訝しげな表情と、そしてわずかばかり侮るような色が見えました。
よし、落ち着け、羽柴駒。お方様の御振舞いを思い出せ。あくまで威厳を持って誇り高く──こんなやつら、お館様に比べたら微塵も怖くなんてないわよっ!
「事前に連絡が届いているはずです。育児院の子供たちを引き取りにまいりました。
子供たちのところへ案内してください」
「ああ、そのことでしたか」
安堵とともに、なおいっそう嘲るような表情まで伺えます。
「申し訳ありませんが、今、かように立て込んでおりましてなぁ。そのようなことに関わり合っている暇などございませ──」
「お黙りなさいっ、この慮外者っ‼」
──よし、自分でも驚くほど厳しい声が出せました。
「な、何ですと──⁉」
「今、『そんな暇はない』と言われましたね? お館様のお言いつけなど、暇なときにつき合えばいい程度のものと軽んじておられるのですか⁉」
「え──いえ、わ、わしはそんなつもりでは──」
「神戸家が立て込んでいようと、私の知ったことではありません! 神戸家では、お館様のご命令など自分たちの用事の後回しでいいとお考えなのですか⁉」
「いえ、決してそのような──こ、言葉が過ぎました、どうかご容赦くださいませ」
──さて、主導権は握りました。さあ、ここからです。
「──ところで、三七様はどこです。何をしておられるのです?」
「そ、それが、殿はご使者様に会いたくないとおっしゃられておりまして──」
「あなた方はいったい何を考えているのですっ!」
私は、ふところからお館様の書状を取り出し、高々と掲げて見せました。
「上意を受け取るのに城主が立ち会わないなど不届き千万! あなた方は、三七様にこれ以上失態を重ねさせるおつもりですか、この不忠者が‼」
書状を見て、重臣たちのみならず、そこいら中の者たちが慌てて平伏します。
「平伏など無用。そんなことより今すぐ私を子供たちのところに案内しなさい! そして、三七様をすみやかに私の元に連れて来なさい!
主君のわがまますら諫められない腑抜けた家臣など、織田家には不要。路頭に迷いたくなければ、首に縄をつけてでも連れて来なさい!
いいですか、この上意を三七様が直接お受けにならなければ、神戸家が織田家の命令に従うつもりがない──すなわち『謀反の意思あり』と見做します!
神戸家を滅ぼしたくないのであれば、死ぬ気で説得して来なさいっ‼」




