078 北伊勢 羽柴駒 元亀四年(1573年)
今年の正月の宴は、たいそうな盛り上がりを見せました。
何しろ、長年に渡って織田の脅威となっていた武田家に大打撃を与えて、その領地を奪いつつあるのです。更に、長島の一向一揆が戦うことなく下り、大きな懸案材料が二つも片付いたのですから。
私は裏方で調理や配膳をお手伝いしていたのですけど、それでも皆様のはしゃぎようは充分に伝わってきました。
──最初は妙に静かでした。それはそうですよね。今年は近衛前久様という、とんでもなく偉いお公家様が賓客として来られていたのですから。
でも、どうやら近衛様は堅苦しいのがお嫌いなようで、すぐに皆様と打ち解けられたそうです。
実は、近衛様はかつては反織田方だったのです。でも、小一郎が口説き落として織田方につけたのだと、お館様が先日こっそり教えてくれました。
他にも小一郎がいくつも大きな成果をあげたので、明日の評定の場であの追放がお館様の密命による芝居だったと公表するとのことです。
なら、私もそろそろ近江に帰って、元の暮らしに──などと思っていたんですけど、小一郎はまだ他の仕事で、とうぶん近江には戻らないのだとか。
うちの夫婦の別居はまだ当分終わりそうにありません。はぁ……。
正月の浮ついた空気が薄れ、岐阜城が日常を取り戻してきた、そんなある日。
私はお館様とお方様(帰蝶)からの呼び出しを受けました。
面談用の小広間に入ると、今日はお館様とお方様だけでなく、もうおひとり見慣れないお武家の方が同席されています。お館様と同年代くらいに見えますが、全く見覚えのない方です。いつものようにお館様が人払いをされても平然と残ったままなんですけど。ははぁ、さては──。
「お館様、何かございましたでしょうか」
気づかないふりをしてお館様に挨拶しますが──うわ、よく見るととんでもなくご機嫌が悪そうです。
これは、また知らないうちに何かやらかしちゃったか、小一郎絡みでまた問題でも起こったのか──。
「ああ、おぬしに怒っているのではないぞ、駒。怒っているのは、三七(信孝)のことだ」
なるほど、北伊勢・神戸家の育児院のことでしたか。あちらは、だいぶひどいことになっているようですし。
「おぬしの報告書も読んだ。それで、近江の帰りに抜き打ちで寄ってみたのだが、想像を超えたひどさだった。あれではまるで貧民窟だ」
私が以前調べたところでは、食事も住環境も劣悪で、ろくに教育もせずに子供たちを放置しているのだとか。あれはたぶん、相当な額が役人のふところに入ってますね。
お方様からかなりきつい叱責の文も送ってもらったのですが、何も改善しなかったんでしょうか。勘九郎様贔屓のお方様に反発する気持ちもわかりますが、そんな私情でどうこうしていい問題じゃないでしょうに。
「上の者にやる気がないのに、下が本気を出すはずもない。いくら担当者の首を挿げ替えても、あれでは何も変わらん。
──もう見切りをつけた。神戸家は育児院の運営から外す」
うーん、いいのかなぁ。これは後継者競争の上で相当な失点になりますよね。面識がないから三七様の人となりはわからないけど、いったい何を考えているのやら。
「──さて、駒よ。お前ならこの先、北伊勢の孤児たちをどうする?」
おっと、お館様がこういう聞き方をする時は、もうご自分なりの答えは出ておられるのよね。ここはよく考えなきゃ。
「──そうですね、他の育児院に移すにしても、子供たちをばらばらにするのは良くないと思います。ただでさえ不安で一杯のはずですから。あまり遠くに連れて行くのもまずいですよね。
近隣で、一度に子供たちが増えても大丈夫なところというと──北近江はちょっと難しいでしょう。越前の苛政から逃げ出した民がかなり流れて来て、孤児たちも増えているということですし。
尾張か美濃か──いえ、ここは南伊勢が最善でしょうか」
「ほう? そのこころは?」
お館様の声が明るい。これは正解だったかな。
「まず、上の方──三介様が非常に熱心です。それに、子供たちを慈しむ姿を見て、北畠家中や領民たちの間でも、三介様をすこしずつ見直す声が上がっているそうです。
さらに今、南伊勢では羽柴流の新しい産業を立ち上げる動きが盛んです。人手はこの先、どんどん必要になってくる。美濃や尾張では、長島の門徒に仕事をあてがうことで人手不足にも一息ついたようですから。
それに子供たちとしても、見知らぬ他国へ連れていかれるよりは、同じ伊勢の中での移動の方が不安は少ないと思います。ただ──」
これは言うべきかどうかちょっと迷いましたが、やはり付け加えておくべきでしょう。
「差し出口かもしれませんが、三七様のお立場にもご配慮を願います。
もちろん、懈怠に対しては厳しく叱るべきとは思いますが、三七様のやりようが駄目だから三介様のところに、という形にしてしまっては三七様の立つ瀬がありません。下手をすると三介様への悪感情を募らせてしまいかねません。
──ここは『風邪をひく子供が多いから南に移す』くらいでもいいので、何か別の理由を公式には作ってあげるべきかと」
私の答えを聞いたお館様が、お方様ともうお一方と一瞬目配せをして、満足げに頷かれました。
「うむ。子供たちの気持ちだけではなく、三七や三介の立場にまで配慮するとは、期待以上の答えだ」
「はい、ありがたきお言葉」
そう言って頭を下げますが──何だか気づいてないふりをするのも面倒になってきちゃいました。もういいかな。
私は、もうお一方に向けて、出来るだけ上品に見えるよう笑顔を浮かべました。
「──で、直にその目でご覧になられて、私はお眼鏡にかないましたでしょうか、近衛様?」
「何や、気づいてはりましたか。面白うないですなぁ、せっかく武家の格好までしてましたのに」
やはりそうでしたか。近衛様は正体を見破られて、少し残念そうです。
──何でお偉い方って、悪戯好きが多いのかしら。
「ええ、まあ。お館様が私と話す時は決まって家臣を遠ざけますし、接し方も家臣に対するものではない気がしましたので。
改めまして──お初にお目にかかります。羽柴小一郎が妻、駒にございます」
「ああ、別に改まらんでもよろし。素のままのそこもとに会うてみたかったんやからな」
「正式に会うとなれば、そなたもさすがに畏まるであろう? 近衛様がそれではつまらんと仰せられてな」
お方様が苦笑いを堪えながら付け足されます。
「麿はそこもとに会うのを楽しみにしておったのじゃ。何でも、あの小一郎殿が大いに惚れ込んで嫁に望んだというではないか。どのようなおなごか、興味が湧きましてな。
それに、今浜のおね殿や竹中半兵衛殿、それにこの二人までもが口を揃えてそこもとを『面白きおなご』と言うておったものでな」
──何でみんなして私のことを『面白い』とか言うかなー。
だいたい、うら若き女性を評するのに、その表現はどうなのよ。
「まあ、おなごでここまで頭が切れて肝が据わったものはなかなかおりませんからな。
こたびのことも、安心して任せられるというものだ」
──はいっ? お館様、今何ておっしゃいました?
「さて、駒よ。わしの考えも先ほどおぬしが言ったとおりだ。
まずは北伊勢に行き、孤児たちを慰撫し、不安を払拭してやれ。その後は子供らを引率して南伊勢まで行き、三介とともに育児院の運営にあたれ」
えええ、またしても無茶振り──今度は南伊勢ですか? まあ、三介様とならうまくやっていけると思うけど、これでまた今浜への帰りが先になっちゃうのかなぁ。
「妾としても、駒が傍にいなくなるのは痛いのじゃがな。しかし、岐阜の育児院はうまくまとまってきておるし、今は北伊勢の子供たちを何とかしてやるのが最優先じゃ。
駒ならきっとやり遂げてくれよう。子供たちを頼みますぞ」
お方様にまで頭を下げられては、もう断れませんよね。
「──承知しました。ただ、二つほどよろしいですか」
「うむ、聞こう」
「まず一点。どなたか、それなりのお立場の方に同行していただきたく存じます。南伊勢への護送も神戸家の兵ではなく、その方の部隊にお願いいたします。
神戸家にとっても、こたびの沙汰は面白くないはず。私のような小娘の言うことに素直に従うとは思えませんし、下手に邪魔立てなどされてしまっては面倒ですから」
「わかっておる。三十郎(信長の弟・信包)をつけてやる。三七に文句など言わせん」
え、それは思っていたよりだいぶお偉い方です。
三十郎さまはお館様や勘九郎様の信頼も厚く、ご一門の中でもかなり重きを置かれているお方です。そのお方を派遣するというのは、それだけ重要なことだと考えておられるからなのでしょう。
「だが、子供たちへの対応はあくまでおぬしが責任者だ。必要とあらば三十郎やその部下たちも好きに使ってくれてかまわん。あやつは話せばわかる男だからな」
お館様が少し悪戯っぽい表情で付け加えられます。あ、これは『話せばわかる男だから、おまえが話してわからせろ』ということですよね。──小一郎の苦労がわかるわー。
「わかりました。それともうひとつ──これは少し恨み言になってしまうのですが」
怒られるかもしれないけど、一言くらいは文句も言わせてもらわなきゃ。
──近衛様やお方様もおられることだし、そこまでひどいことにはならないわよね。
「あの、私、小一郎に嫁いでからまだ一年しか経っていないんですよね。
しかも、一緒に暮らせたのはほんのわずかです。まあ、確かに勝手に出奔してしまったのは小一郎が悪いんですけど……。
でも、ひと仕事が終わったと思ったらすぐ次の仕事で、また離れ離れ。その合間に会うことも出来ないなんて、ちょっとあんまりじゃないですか?」
あ、お三方が目を丸くして絶句してしまいました。駄目だ駄目だ、少し抑えなきゃ──とは思うんですけど、何だか勢いがついてしまって口が止まりません。
「それは、子供たちのお世話は楽しいし、やりがいもありますけど、私だって女です。まだ小一郎の子も授かっていないんですよ? それなのにこのままずっと会えない日が続くなんて、さすがにやりきれませんっ!」
えええ、私ってばけっこうはしたないことを口走っちゃってますよね?
ど、どうしよう、この固まった空気──。
「ほほほほほ──!」
その沈黙を破ってくれたのは、近衛様の軽やかな高笑いでした。お方様も顔を背けて必死で笑いを堪えているように見えるんですけど。
「くっくっく、弾正大弼殿、説明が足りませなんだなぁ」
お館様は、何だか困惑したようなお顔です。
「あー、その何だ、駒よ。こたびのことは、その辺りも配慮しての沙汰だったのだがな」
「──はい?」
「小一郎は今、志摩国におる。まだ家中には公表しとらんのだが、奥志摩で極秘に新しい仕組みの船を開発させておってな。
奥志摩からおぬしが行く大河内城までは、馬で一日ほどの距離だ。小一郎にも、たまには二・三日休みを取って駒と会ってやれと伝えてある」
そ、それを先に言ってくださいよ! つい感情にまかせてどえらいことを言っちゃったじゃないですか! もう顔がほてって、火でも噴きそうです。
「いやあ、愉快愉快、実に愉快でおじゃるなぁ。
この弾正大弼殿に、子作りのことで食ってかかるとは──まさに肝の据わった面白いおなごですな。天晴れ天晴れ!」
う、嬉しくないっ! その誉め言葉はちっとも嬉しくないです、近衛様っ!
「──うむ、まあ、そういうことだ。駒、その、何だ。色々と──励め」
さて、出発にあたっては色々と準備も必要です。仕事の引継ぎもしなければなりませんし、何よりまずしなければならないのは──岐阜で最初の種痘接種です。
北近江ではもうかなりの人数が接種していて、これから岐阜などでもどんどん広めていくそうです。こういうことは、まず小一郎の嫁である私の役目だと覚悟はしていたのですが、お館様や近衛様もともに接種されると言い出されたのです。
「やはり、こういうことは上が率先してやらねばな」
「まあ、麿が受けなければお上を動かすことなど出来ませんやろからなぁ。あまりいい気はせんのやけど」
皆にバレると絶対に反対されるので、施術は近江から来た医者と私たち三人だけで密かに行います。
「──そのぅ、駒殿はまことに怖くはないんですかな?」
まだ踏ん切りがつかないのか、近衛様がおずおずと訊いてきます。
「はい、私は小一郎の嫁ですから。こういうことも覚悟はとうに出来ています」
「大したもんやなぁ。
──弾正大弼殿。羽柴兄弟の最大の才能とは、実は嫁選びの才かもしれませんな」
あ、それはすっごく嬉しい誉め言葉です、近衛様。
そして、一番気が重い仕事が──育児院の子供たちとのお別れです。
『ええっ⁉ 駒お姉ちゃん、他所に行っちゃうの?』
『お美代姉様も?』
『やだ、お姉ちゃんたち、行っちゃいやだ──!』
案の定、幼い子たちに縋りつかれて泣かれてしまいました。年長の子たちはさすがに泣きはしないものの、困惑したように立ち尽くしています。
「──おい、みんな。あまり駒姉たちを困らせるんじゃない」
そう皆をたしなめてくれたのは、あの悪餓鬼たちの筆頭だった子──藤蔵殿です。あれから人一倍武芸や学問に打ち込んで、今ではしっかり皆のまとめ役になってくれています。
「あの頃、不安で一杯だった俺たちを救ってくれたのは駒姉たちだ。その力を必要としている子供たちが他所にもいるんだ。
俺たちもあの頃の俺たちじゃない。いつまでも駒姉たちに甘えていたら駄目だ。
ここは笑顔で送り出そうじゃないか」
藤蔵殿、本当に頼もしくなったなぁ。実は、本人が慢心しないようまだ伝えてはいないんですけど、いくつかの家からいずれ家臣に取り立ててもいいとの打診も来ているのです。
「そ、それで──駒姉!」
「はい?」
「俺はあと三年、いや二年で武士になる。必ずなってみせる!」
うんうん、藤蔵殿ならきっとその望みは叶うよ──って、何、その緊張した面持ちは。
周りの子たちも、何だかわくわくしたような目で固唾を呑んで見守っているし──えっ、これってまさか。
「そうしたら──俺の方が少し年下だけど、その、迎えに行くから、それまで嫁に行かずに待っていて欲しい!」
「え、あの──ごめん。私、もう人妻なんだけど」
『え? ──ええええええっっ⁉』
──だから、何でみんなしてそんなに驚くかなー。
数日後、三十郎様の家臣に守られて、私とお美代殿は伊勢国・神戸城(現・三重県鈴鹿市)へと向かいます。
三十郎様は安濃津城(現・三重県津市)の城主で、神戸城はちょうどその帰路の途中にあたります。
「まあ、正月の評定の帰りに、ちょっと甥御の顔を見に寄るだけだ。三七が何か言ってきても、わしが何とかしてやるから気にするな」
そう言ってくれるのは心強いですね。
正直言って、今回、三七様と顔を合わせるのは気が重いのです。
三七様はお方様肝入りの政策を無視し続け、新年の評定も体調不良を理由に欠席されています。御一門衆だから良いようなものの、そうでなければ謀反の疑いありと思われても仕方ないような状況なのです。
本当に、何を考えておられるのやら──そういえば、三七様にも『無明殿』の可能性があると聞いていますが、まさかね──。
そんなことを考えていると、行列に農夫が近づいてきて、同じ速度で歩き出しました。
家臣たちが訝しく感じないようなさりげないこの動きは──忍びかしら。
「ご無礼いたします、三十郎様──」
「む? お館様の忍びか、何かあったのか?」
「は、実は、神戸家にいささか不穏な動きがございます。周辺の国人衆と語らい、何やらいくさ支度をしているようで──」
「何っ⁉ まさか謀反か? わしと一戦交えるつもりなのか?」
「そこまではわかりません。しかし、いくさ支度を進めているのは事実にございます」
「むぅ、わかった、ご苦労であった。──全軍停止! しばし小休止とする!」
──これは何だか、にわかに大変なことになってきました。
「謀反だなどと思いたくはないが、この数では危うい。安濃津まで北畠からの迎えが来るはずだ。ここは先に安濃津へ行って合流すべきか──」
三十郎様は、お近くの家臣たちと険しい顔で相談を始められました。
でも──この状況で謀反?
南には三介様も三十郎様もおられます。織田本隊と南北から挟まれて、あっという間に鎮圧されるのは目に見えているのに、そんな愚策に国人衆が乗るとも思えません。
でも、謀反以外でいくさ支度をする目的など──あっ、まさか⁉
「あの、三十郎様。私はこれは謀反ではないと思うのですが」
私が声をかけると、家臣たちが『女が口を出すな!』などと色めき立ちましたが、三十郎様がすぐに抑えてくれました。
「騒ぐな。お館様から、駒殿には軍略の才あり、話に耳を傾けろと言われておるのだ。
──すまん、駒殿、続けてくれ」
「はい。この状況で謀反とは、あまりに勝算が無さ過ぎます。それでは家臣や国人衆も乗っては来ないでしょう。
三七様は、こたびの失点を挽回するため、一か八か、他のかたちで大きな手柄を立てようとされたのではないでしょうか。
でも、それはきっと難しい──失敗してしまったら、三七様はもう完全に『終わり』です。手遅れになる前に止めなければ──。
増援を待つよりまず、関(現・三重県亀山市西部)あたりに陣を敷いて足止めすべきです」
「駒殿、どういうことだ? 三七はいったい何を──?」
──そう、私は以前に次郎殿から聞いた本来の歴史の知識を思い出していたのです。
本来の歴史では、三七様ではなく『うつけの三介殿』が数年後にやらかしてしまうという大事件──。
お館様から厳禁されていたにもかかわらず勝手に始めてしまって、しかも大失敗したという無謀な大事件のことを。
「三七様の目的は──おそらく伊賀攻めです」




