076 鷹狩り 羽柴藤吉郎秀吉
「ほれ、また『止め』と『跳ね』が間違うてます」
無心で筆を走らせていたら、近衛様に扇子で額を叩かれた。これで今日、何度目だ。
「それに、また背中が丸まってます。歪んだ姿勢で、美しい字が書けますかいな」
また、ピシャリ。
大して痛くもないのだが、こうも立て続けだと地味に心が痛い。
「――あのう、近衛様。そのいちいち叩くのは勘弁してもらえんですかの?」
「何を言うてはります。麿が教えたことを忘れるからあかんのです。もっと身を入れて稽古しなはれ」
――わしとて、けっこう頑張って来たつもりなんじゃがなぁ。
そりゃ、以前は読み書きなど出来るものに任せればいい、祐筆(書記係)を雇える身分にまでなったんじゃからな、とも思うとった。
だが、子供が生まれてからふと気づいた。この子らが手習いを始めたらわしの下手な字などすぐに追い越されてしまう、このままでは格好がつかんのじゃないかと。
おねにはっぱをかけられたこともあり、わしは一念発起して字の手習いを始めた。
自分ではそれなりに上達したとも思うし、おねにも褒めてもらった渾身の一作をまずお見せしたんじゃが、近衛様はまったくにべもなかった。
『はぁ──子供の手習いに毛が生えた程度ですわな。お話しにもなりません。麿がきびしく手ほどきしますよって、お気張りなされ』
──書だけならまだいい。和歌だの鷹狩りだの茶の湯などはろくにやったこともないし、覚えることばかりで気の休む暇もない。
せめて政務を口実に少しだけ休もうとしても、すでに先回りして逃げ道を塞がれてしまった。
どの家臣に聞いても、ここは問題なく回っているので殿は心置きなくご学問を、などと判で押したように返ってくるのだ。
わしの味方は誰もいない。――ここって、わしの城じゃったよな?
──先日、近衛様が今浜に来訪するという突然の報せを受けた時は、それこそ城中が一斉に震えあがった。
あの日ごろ冷静沈着な半兵衛ですら、腰を抜かさんばかりに仰天しておったからな。
小一郎め、また何てどえらいことをしてくれたんじゃ。
確かに『人材を探してくる』ようなことを言ってはおったが、普通は有望そうな若者か、仕官先を探している浪人あたりを連れて来るものだと思うじゃろが。
それが──いくら流浪の身とは言え、日ノ本随一の貴人を連れて来るなど、いったい誰が予想できるかぁっ!
何しろ公家の最高峰ともいえるお方じゃ。万一、何か粗相でもあれば──というより、そもそも何をどうすれば粗相にならないのかすら、わかる者が誰ひとりおらんのだ。
これは、京の村井(貞勝)様あたりに協力を仰ぐしかないか、などと考えていると、続報として近衛様ご自身の言葉が届いた。
『ただの居候なので過度なもてなしなど無用。食事も武家の皆と同じもので良い。むしろ、羽柴流の鍋とやらを楽しみにしている』と。
それで、半信半疑で恐る恐る普通にお迎えしたんじゃが、近衛様は少しも気取ったところのない、良いお人であった。
羽柴の料理も絶賛してくれたし、翌日からおねや半兵衛の案内で育児院や醤油蔵など、あちこちを実に興味深げに視察しておられたらしい。
小一郎は、わしの教養の『師』として今浜に滞在して織田方につくよう口説いたらしいが、どうやらその辺は建前だったようじゃな。まあ、しばらくはお好きに遊んでいただいて──などと思っていたわしが甘かった……。
「ふう──まあ、よろし。大負けに負けて及第点としておきましょ」
「はっ。ご教授、まことにありがたく存じます」
今浜見物を終えた近衛様による地獄の特訓が始まって数日、ようやく書に関してだけは合格点をいただいた。
「思っていたよりは幾分マシでしたな。前もって手習いを始めてなければ何倍かかったことやら……」
「はは、まあ、はっぱをかけてくれたおねには感謝ですな」
「おね殿は教育に一家言お持ちだとは聞いておりましたが、いや、なかなかの傑物でおじゃる。藤吉郎殿、奥方に恵まれましたな」
近衛様は、おねのことをずいぶん高く買っておられるようじゃ。
特に、わしに手習いを決意させたひとこと──『子供たちに格好いい背中を見せ続けることこそが、父親としての最高の子育てですよ』という言葉を聞いて、『まさに至言じゃ!』と絶賛しておられた。
「これからも気を抜かず、合間を見て精進なされよ。時おり、抜き打ちで見てさしあげますのでな」
うへえ。これで終わりじゃないのか。
おまけに、墨やすずりがあるのだからと、そのまま和歌の稽古が始まる。そろそろ手も頭も疲れてきたし、休ませてもらえんかのう。
──ここは奥の手を使うか。
「近衛様、一首出来ました」
「どれどれ──ほう、これは……」
「はっ、いよいよ初めての鷹狩りに行くという期待と興奮を歌に詠み込みました!」
「うーん、いささか趣きには欠けますが、確かに期待感だけは伝わりますな」
「そうなのです! 日ノ本でも指折りの名人である近衛様とお館様が、揃って鷹狩りを差配するところを間近で見られるなど、わしももう楽しみでならんのです!
ああ、それはどれほど勇壮な光景であることか──!」
「確かに、弾正大弼(信長)殿も相当な腕と聞きますからなぁ。さて、どれほど見事な鷹を連れて来るのやら──麿もどの鷹を連れて行くのがいいのか、これは実に悩ましいでおじゃるなぁ……」
こうやって鷹狩りの話をたむけると、近衛様の心はすっかり鷹場の原野に飛んで行ってしまってしばらく戻ってこない。あとは適当に相槌さえ打っておけば、四半刻(30分)くらいは息が抜けるというもんじゃ。
──わしとて、いつまでもいいようにやられっぱなしではないぞ?
次の日、お館様が近衛様との対面と鷹狩りのために、今浜に到着された。
その表情はかなりむっつりとした硬いものだが──あれは芝居じゃな。
確かに、近衛様は対織田包囲網を煽っておられた方じゃが、公家の中でもその才覚はずば抜けておられる。お味方になるのがありがたくないはずがない。
──先日、所用で岐阜に行った時に、小一郎追放のことを満座の家臣の前でかなり激しく叱責されたが、あの時も目の奥が笑っておられたからなぁ。怒ったふりとわかっていても寿命が縮むような怖さじゃったが、お館様はけっこうこの手の芝居がお好きなようだ。
「近衛様、御無沙汰しております。その節はずいぶんと本願寺あたりを煽って、織田に手痛い仕打ちをしてくれたもので」
大広間で、上座におわす近衛様に嫌味めいた挨拶をするお館様に、しれっとどこ吹く風で軽く返す近衛様もまた、大した役者じゃな。
「まあ、過ぎたことでおじゃる。麿とて、あらぬ罪をかぶせてくれた義昭や二条殿をそのままにはしておけませんでな。たまたま、弾正大弼殿があのあほうどもと手を結んでおられただけでおじゃるよ」
「──義昭があそこまでうつけだとは、それがしにも見抜けませなんだ。
それに二条殿下には、我らもいささか手を焼いておりましてな」
「なら、お互いの利害は一致しますわな。二条から関白の座を取り戻すのに力を貸してもらえるのであれば、麿も弾正大弼殿の天下布武にご尽力いたしましょ」
「なれば、お互い過去のことは水に流すということで」
そう言ってお二人は、凄みのある顔でほくそ笑む。
──何だか、大魔王と九尾の狐の悪だくみみたいな絵面じゃのう。この二人を引き合わせてしまって大丈夫なのかこれ。
その晩の宴も無事に終わり、明けて今日はいよいよ、わしにとって初めての鷹狩りじゃ。
今浜から船で湖北の塩津浜に渡り、その北の丘陵地帯に赴く。
わしらだけではなく、獲物を探して追い立てる勢子としてうちの家臣もたくさん随行しているのだが、これについては人数やいくつかの集団に分けておくことなど、細かい注文がお館様から前もって下されておる。
それぞれの役割や向かう方向をきびきびと指示していくお館様を見ていると、鷹狩りが軍事調練の一環であるというのも納得じゃ。
「さあ、いい具合に配置も済んだようですし、そろそろ始まりますぞ」
ささやくような近衛様の声にお館様の方を見ると、お館様は騎乗のまま小高い丘の上に位置取り、じっと遠くを見ている。左腕に鷹をとまらせ微動だにしないそのお姿からは、戦場に立つ時と同じ緊張感が感じられる。
──やがて、勢子に追われて、遠くの草むらから一羽のウサギが飛び出した。
お館様が鋭く一声かけると、腕から飛び立った鷹が、まさに矢のような速さで地面すれすれを滑空し、あっという間にその爪でウサギを捕まえる。
おおっ、これは──! 実に勇ましく爽快で、しかも美しくさえある。確かにこれは高貴なる遊びじゃな。
獲物を爪でしっかりと抑え込んだ鷹は、飢えに任せてウサギに食らいつこうとするのだが、勢子の一人が素早く近づき、別の肉を与えて鷹の注意を逸らす。そうして、獲物を確保するというわけじゃ。
お館様が満足げに獲物の方に馬を歩ませると、待ちかねたかのように近衛様が馬を軽く走らせ、先ほどまでお館様がいた丘に陣取った。
「さあ、次は麿の番でおじゃるな! 弾正大弼殿、負けませぬぞ!
──藤吉郎殿、安心めされ、一度くらいはやらせてさしあげますのでな!」
わしの稽古はもう二の次ですか。無邪気なお方じゃのう。
さて、しばし鷹狩りを楽しんだ後は、塩津浜に戻って遅めの昼食じゃ。近在の住人たちに手間賃を払い、焼き魚や握り飯、清酒などもふんだんに用意させた。
皆がそれに群がる前に、お館様が馬廻衆や御小姓たちに声をかけた。
「これよりわしと近衛様、藤吉郎はしばし内密の話がある。他聞をはばかるので、船で少し沖に出る。お前たちはここで待機せよ。酒は飲み過ぎるなよ」
そう、実は今回の目的はもうひとつある。今浜城ではおおっぴらに会うことが出来ない小一郎との秘密の会合だ。
わしら三人を乗せて、来た時も使った丸子船が沖合に出る。向かうは岬ひとつ挟んだ西の湊、大浦じゃ。
──ここ湖北には、古くから三つの湊がある。東から塩津浜、大浦、そして海津浜だ。敦賀・若狭方面の陸運と水運との積み替え拠点として栄えてきたのだが、真ん中の大浦は近年少し寂れつつあった。
実は、小一郎がいなくなった直後に、半兵衛や次郎殿から申し出があった。小一郎の秘密の発明をする場所として、人目につかない入り江を使わせてほしいと。そこで、大浦に白羽の矢を立て、辺り一帯を禁足地にしたのだ。──無論、立ち退きさせる住民には十二分に補償したぞ?
──やがて、船が岬にさしかかり、塩津浜から見えないところまで来ると、水夫たちに指示を出していた男が、目深に被っていた笠を取って片膝をついた。──声でもうバレバレじゃったがな。
「お館様、御無沙汰しております。小一郎めにございます。先だっては、事前の相談もなしに誠に勝手なことを──」
「詫びなど無用だ。それより、この間におぬしがしてきたことの報告を聞こう」
「あ、いえ、それがその──詫びねばならんことがもうひとつございます。
実はひとり、織田方ではないものが勝手について来てしまいまして──バレないよう気はつけておったんですが」
「まあ、監視役を出し抜いた俺の方が、一枚上手だったってことさ」
そう一声あげて、水夫たちの中から大柄な男が立ち上がった。この顔ぶれの前でも不敵な笑みすら浮かべているあたり、只者ではなさそうだが――。
「おや、何じゃ、孫一殿。そなたも来たんかいな」
のんびりとした近衛様の言葉に、お館様が身を固くする。
孫一って――まさか、雑賀の鈴木孫一か!?
「ああ、近衛様。せっかく近江まで来たんだ。この際、織田殿の顔でも拝んでおこうと思いましてな」
あっけらかんと言う孫一に、お館様が眉をひそめて『どういうことだ?』と言わんばかりに小一郎を睨んだ。
「はあ――実は南紀の湯浅、堀内あたりを口説いて全て織田方にしてきました。起請文も交わしております。
さすがに雑賀党を味方には出来ませんでしたが、織田陣営で周りを固めて孤立させたので、次の戦では本願寺に合力しないとの約定を取りつけました――渋々ながら、ですが」
「この先、俺たち雑賀党が織田につくかどうかは、小一郎が語った大法螺がどこまで出来るか見極めてから、だな。とりあえず、だいぶ良くなったという近江の暮らしぶりを直に見に来たってところだ」
お館様の前でも平然とくだけた口調で話す孫一に、お館様が少し苛立ったように言葉を発する。
「良いのか、鈴木孫一。
これからここで話すのは織田家の機密に関する話だ。それを聞いておいて、織田への臣従を誓うこともなしに、わしがすんなり帰すと思うか?」
「まあ、そのときはそのときさ。俺なら泳いででも逃げられるしな。
それに、それなりの男を味方につけようとするなら、隠し事ばかりで肚の内を見せないというのもいかがなものかと思うがね」
――また、ずいぶん挑発するようなことを言うもんじゃ。
お館様はしばし苦い顔をしておられたが、やがて大きく溜息をついて小一郎をぎろりと睨んだ。
あ、これは『あとはお前が責任もって何とかしておけ』と丸投げしたな。
やがて、小一郎の口から語られた新しい発明とは、まさに仰天するようなものだった。
痘瘡の完全な予防策──しかも牛の病にわざと罹らせる、じゃと? 確かに大発見じゃが、どんな頭をしたらそんな突拍子もない方法を思いつくんだ?
「しかし、小一郎。それこそ、まだ織田方でない孫一にこんなことを知られてはまずいんじゃないのか?」
「いや、逆なんじゃ、兄者。これは早々に世に広めねばならん。
もし、悪意ある者がこの知識を独占してしまったら、どんなひどいことが可能になるか──」
──あっ、そういうことか! わしだけでなく、お館様や近衛様、孫一までもがその言葉の先に思い至ったのか、青い顔で唾を飲み込む。
「──実は、家中の誰かがわしのこの思いつきを記したものを盗み見して、密かに開発を進めようとしていた形跡があります。
わしが追放の大芝居をして見せたのは、そやつを油断させて出し抜き、妨害するためでもあったのです」
なるほど。その家中の誰かというのが、前に言っていた『無明殿』ということなのだな。
「──ふうん、そういうことか。小一郎、お前、いいやつだなぁ」
何じゃ、孫一。何でここでそんな感想が出てくるんじゃ?
「確かに、自分たちが痘瘡に絶対に罹らないとわかっていれば、他国にわざと痘瘡を広めて──という策も使えようさ。だが、それはあまりに卑劣で、非道な所業だ。
だが、織田殿や羽柴殿だって一人の時にその話を聞けば、その策を自分だけのものにしてしまえば、という誘惑にかられてしまうかもしれん。
小一郎は、あんたらがそんな考えに囚われてしまうのを避けたかった。だから、この発見についてはひとことも言わず、悪名を被ってまでわざと距離をおいたのさ。そうだろ?」
「ふう──何でそこまでわかってしまうかのぅ」
「まあ、短い付き合いでも、小一郎がとんでもないお人好しだということはわかったからな。
今浜での民の噂も聞いてきた。皆、小一郎の発明と羽柴殿の善政で北近江が豊かになったと喜んでおった。
確かに、織田殿や羽柴殿と小一郎がともにおれば、日ノ本は豊かでいい国になるのかもしれん。雑賀の将来のためにも、織田方につくのが正解だとは思うんだがな──」
そこで孫一は少し言葉を切った。しばし何やら考え込んでいたのだが、やがて真顔でお館様に向き直った。
「なあ、織田殿。俺はやはりあんたにはつけん。
俺は窮屈なのはご免だし、あんたも俺のような野放図な男は好きじゃないだろ?
俺とあんたとでは、いずれ衝突する未来しか想像できんのだ」
「お、おい、孫一──」
「──そこで提案なんだがな。俺たちのあいだに一人はさむっていうのはどうだい?」
「ほう?」
それまで渋い表情を浮かべていたお館様の目に、面白いことを聞いたような色が浮かんだ。
「俺は織田家の家臣にはならん。
雑賀党の連中はそれぞれが好きにするさ。織田の直臣になるも良し、織田から離れるも良し。──元々、一枚岩というわけでもなかったからな。
だが、俺は織田信長にはつかん。俺は──羽柴小一郎につく。これならどうだ?」




