074 近衛前久様 樋口赤心斎
「──小一郎、いるか?」
今日も孫一殿がわしらの家を訪ねてきた。
あの太田城下での会談以来、何だか小一郎殿と馬が合ったらしく、孫一殿は三日と開けずにやってくる。
色々な話を聞きたいのが半分、小一郎殿の料理目当てなのが半分──楓殿に粉をかける目的も少しはあるか。
気づいたらお互いの呼び方も『小一郎』『孫一』と呼び捨てになっとるしな。
「おお、孫一か。すまんが、わしらはちと近江に戻らにゃならん。しばらくは──」
「その途中で、堺に立ち寄る時間は取れるか?」
む? 今日はいつものような気安い空気ではないな。何やら硬い表情なのだが。
「堺に? 商人に用もあるので、立ち寄るつもりじゃったが」
「なら、ちょうどいい。
近衛(前久)様が、煮え切らない本願寺に見切りをつけて堺に移られた。
おそらく、しばらくしたら次は『丹波の赤鬼』(荻野直正)のところに行ってしまうぞ。妹だか娘御の嫁ぎ先だからな。
今を逃すと会うのが難しくなる。俺が渡りをつけてやろう。本願寺で何度か顔を合わせたこともあるからな」
わしらは孫一殿とともに、社家郷を発った。
あの新農法の田のことは(太田)左近殿に任せてきた。後は収穫するだけだし、来年には雑賀の皆があの農法を真似するようになるだろう。
紀ノ川を渡り、孫一殿の居城である平井城で馬を借りたのだが、峠を越えて泉州に入ったあたりで、孫一殿がふいに真顔で切り出した。
「なあ、小一郎。織田と武田のいくさ──どんな手を使った?」
「は?」
「何人か遠江まで合戦の様子を見に行かせていたんだがな、報告を聞いてもにわかには信じがたい話だった。
騎馬武者ばかりを狙い撃ちするなど、雑賀や根来衆でも連れて行かなきゃ無理だろう。だが、紀州から兵が動いた様子もないし、織田の鉄砲隊に我らに匹敵する腕利きが揃っているとも思えん。
となると、考えられるのはひとつだ。
お前、何やら作り出したな。鉄砲の性能を大幅に向上させて──」
「──孫一」
その言葉を、小一郎殿が鋭く制した。
「すまんが、何も答えられん。おんしはまだ、織田に合力すると誓ったわけでもないのでな」
「ま、そりゃそうだわな」
意外にも孫一殿はあっさりと引き下がった。
「まあ、無理には聞かん。
──ところで、楓殿たちはどうした、一緒ではないのか?」
「ああ、あいつらには近衛様への手土産を用意してもらっとる。堺までには追いつくじゃろ」
「手土産?」
今から会いに行く近衛前久様は、実に波乱万丈な生き方を歩んでいるお方だ。
五摂家筆頭の御曹司として生まれ、若き頃からその才を高く評価され、齢十八にして関白の座にまで昇りつめた。
ところが永禄二年(1559年)、上洛してきた長尾景虎──今の上杉謙信と意気投合し、何と翌年には現職の関白の身でありながら越後に下向してしまう。
上杉が関東制圧に出兵すると御自ら甲冑を身に着けてともに参陣され、いっとき謙信が越後に戻った間も関東の拠点を守っていたほどなのだ。
どうも、関東を制圧した後に謙信を上洛させ、その力で幕府を再興させ、戦乱を鎮めようという肚だったらしい。しかし、やがて謙信が武田との戦いに忙殺されて関東制圧が難しくなってしまうと、上杉に見切りをつけて京に戻られた。
だが、しばらくして大事件が起きる。当時、畿内を事実上支配していた三好三人衆による将軍・足利義輝公の弑逆だ。
自分たちに意に沿わない義輝公を排除し、傍流の義栄公を傀儡の将軍にしようという暴挙だったが、これを擁護したのが近衛様だ。
もっともこれは、近衛様の姉君が義輝公の正室であったため、その命を盾にされてのやむを得ぬことだったとは思うのだが──それがやがて命取りになる。
後に織田家が義昭公を擁して上洛し、三好の勢力を追い払うと、いつの間にか近衛様が義輝公弑逆の首謀者だったことにされてしまったのだ。
これは、関白の座を狙う二条(晴良)殿下の讒言だったのだが、新将軍・義昭公はそれを鵜呑みにして、近衛様を朝廷から追放してしまう。
その後は丹波や本願寺などに身を寄せ、織田包囲網を裏で煽っていたとも言われる。
──これだけ聞くと、近衛様が織田に力を貸すことなどあり得ないように思うのだが、小一郎殿によると、それなりに見込みはあるらしい。
『実はな、本来の歴史ではこの後、お館様と近衛様は強い協力関係を結ぶことになる。
とある共通の趣味のおかげで、お二人はすっかり意気投合してな』
『共通の趣味──? 何だそれは』
「おお、これは実に見事な──!」
堺のある商人の屋敷で、近衛様との面談がかなった。
挨拶もそこそこに、近衛様が小一郎殿が持参した大きな鳥かごに駆け寄られる。作法とかはもうそっちのけじゃ。やはり、変わったお公家様じゃのう。
「は、近衛様はたいそうな鷹狩り好きと聞き及んでおります。紀州で良き若鷹を捕らえましたので、ご挨拶がわりにお持ちいたしました」
「うむ、翼の色艶もいいし顔つきもいい。これは鍛えがいがありそうであるの」
──さすがに楓殿が『口寄せの術』を駆使して何羽も捕らえ、厳選しただけのことはある。お持ちした鷹は、大いに近衛様のお眼鏡にかなうものであったようだ。
「その気持、まことに嬉しゅう思う。羽柴殿、礼を申す」
「は、お気に召していただければ幸いにございます」
掴みは上々というところだな。仲介した孫一殿も、安堵したような表情を浮かべておる。
「──で、ご用の向きはどういうことでおじゃるか? 麿は織田と相対する側に与した者、ただ土産を持ってきたというわけでもあるまい?
言うておくが、今の麿には何の力もあらしません。朝廷を追い出されて、流浪の身であるよってな」
「は。実はひとつ、提案がございまして。
──近衛様。しばらく、今浜においでになりませんか?」
「何、今浜に?」
「近衛様のその磨き上げた鷹狩りの技をもって、我が兄、羽柴藤吉郎秀吉に手ほどきをしていただけないかと思いまして」
「ほう? ──なるほど、羽柴殿は大名にまで出世なされたが出自が低い。確かにこれからは教養も身につけねばなるまいの」
「はい。鷹狩りだけでなく、様々な教養についても兄をお導きいただく『師』になっていただければ、と思っております」
なるほど、これは面白いところを突いたな。
趣味の技能を極めた者は、やがてその磨いた腕で誰かを指南してみたくなるものだ。しかし、鷹狩りなどというものは、公家か高位の武家でもなければ出来ない。今の流寓の身では、誰かに教える機会などそうそうなかろう。
小なりといえども大名本人に直に手ほどきをする──こんな機会はめったに得られまい。
「今浜に、のう。なかなかに面白そうではあるが──それはつまり、麿に織田方に与しろ、ということでおじゃるな?」
近衛様が眼光鋭く切り返す。
「良いのか? 麿は本願寺を焚きつけ、武田や朝倉を動かして織田を倒そうとしていた者ぞ? そのような者を味方にしようなどと──」
「しかしそれは、あくまで政敵である義昭公や二条殿下を排斥しようとしたため。
特に織田に含むところがあってのことではない。──違いますか?」
小一郎殿がにっこり笑って返すと、近衛様はその心底を推し量るようにじっと目を凝らされる。
「確かにそうである。義昭が追放された今、あとは二条の爺様さえ何とか出来れば、麿が朝廷に戻ることも叶う。織田がそれに手を貸してくれるというのならば、やぶさかではないが──」
考え込む近衛様の顔に、しばらくの後、ほんの少し苦いものが浮かぶ。
「なるほど。織田は頭の固い二条よりは麿の方が御しやすい、とでも睨んだか」
ずいぶんと舐められたものだな。そんな苛立ちすら感じられるが、小一郎殿は意に介する様子もない。
「──『御しやすい』? 何を言われます、まったく逆です。
わしは近衛様に、お館様を御していただきたいと思っとるのです」
どういうことかと眉をひそめる近衛様を尻目に、小一郎殿が語り始める。織田家の中で自分が果たしてきた役割について──。
なるべく戦をせずに事を収め、農業や食を改革して民の暮らしを豊かにし、不平不満を募らせなくしてきたことなどを。
「──ですがこの先、織田家が新しいやり方をどんどん進めようとすれば、必ず公家の横槍が入るでしょう。
二条殿下では駄目です。あのお方は、武家のことをまったく理解しようとされない。公家と武家、それぞれがお互いの理屈ばかりを主張し合っていては、いずれ全面的に対立するしかなくなるでしょう。
──だからこそ、近衛様なのです」
そこまで言って、小一郎殿はゆっくりと間を置いた。わしの隣で、孫一殿が唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。
「朝廷と武家が手を携えて、戦乱を収めて日ノ本をひとつにまとめる。強く豊かな国にしていく。近衛様が目指しておられたのもそこではないのですか?
なればこそ、近衛様には是非とも公家の頂点に返り咲いていただきたいのです。
公家の心も武家の心も理解し、その間に立って両者を結びつけていく──そのようなことが出来るのは、この日ノ本にただひとり、近衛様をおいて他にはおられません!」
しばし、沈黙が流れる。
近衛様も気圧されたかのように固まったままだったが、小一郎殿が空気を変えるようにおどけたような言葉を発した。
「まあ、わしゃ二条殿下には煙たがられておりますからなぁ。あの方とやり合うのは面倒だ、というのも本音でして」
「ああ、噂は聞いておる。官位の奏上を断って、散々にやり込めたそうではないか」
近衛様も少しほっとしたのか、少し砕けた口調で面白そうに返す。
「なるほどのう。これが叡山や二条の爺様をやり込めたという『弁舌の才』か。
迫力もあるし、説得力もある。その話に乗ってみたいと思わせる力もな。
──孫一殿、そなたもこの舌に丸め込まれた口か?」
「いや、まだ織田につくと決めたわけではないのですがね。
ただ、こいつが雑賀の周り全部を丸め込んで織田方にしちまったもので、本願寺に合力できなくなった、というところでして」
孫一殿が、溜め息まじりに答えた。
「ふうむ──。麿をそこまで見込んで、というのは嬉しくもあるが、しかし具体的にはどうされますのか?
二条殿は抜け目のない古狸じゃ。失脚させるのは並大抵のことでは──」
「そんなことは考えとりません。近衛様には、二条殿下の存在がかすむほどの大きな実績をもって、華々しく返り咲いてもらおうと思うちょります」
「実績──?」
「はい。わしが脚病(脚気)に蕎麦がいいということを発見したのはご存じでしょう?
あれに匹敵する──いえ、それを上回るほどの大発見があります。今はまだ、その最終確認の段階なのですが、その手柄を近衛様にお譲りいたします」
「な、何と──⁉ 何じゃ、その大発見とは?」
「まだ他言無用に願いますが──この日ノ本から痘瘡(天然痘)を完全に無くしてご覧にいれます」
『────っ⁉』
またしても近衛様と孫一殿が言葉を失う。
凄まじい伝染力を持ち、罹ったが最後もう手の施しようもなく、ほんのわずかな生存の可能性に賭けるしかない──そんな悪夢のような業病を、完全に無くすとまで言い切ったのだ。
「た、確かにそんなことが叶うなら、関白に復帰することも夢ではないが──」
「──近衛様」
慄いたように呟く近衛様に、なぜか孫一殿が鋭い声をかける。
それを聞いて、近衛様がはっとした表情を浮かべ、心を鎮めるように小さく咳ばらいをした。
何だ、このやり取りは? 孫一殿、何やら事前に打ち合わせでもしていたか──?
「──さて、小一郎殿。
話はよくわかりました。確かにいいお話ではある、乗りたい気持ちはありますのやが、その前にひとつ教えて欲しいことがあります。
麿に、人生を左右するほどの決断を迫るのじゃ、そなたも隠し事はなしに願いたいのじゃが──。
今、織田が武田に勝った様子の噂が流れて来てます。何でも、『武田が呪われた』だの『天が織田に味方した』だのと。
──どんな手を使いましたんや? 何かからくりがありますのやろ?」
「そ、それは──」
くそっ、孫一殿が先ほどあっさり引き下がったのはこれか! 孫一殿からの質問なら撥ねつけることも出来たが、近衛様からの御下問とあればそうもいかん。
「どうなされた、小一郎殿?
麿がこの話に乗るには、織田が武家の頂点に立つだけの力があるとの確信が持てねばなりません。織田がなぜ勝てたのか──そのからくりを教えてもらえませんやろか?」
近衛様の重ねての問いかけに、小一郎殿はしばし苦悩の表情を浮かべていたのだが、やがて大きく溜息をついた。
「わしが改良した新式の鉄砲──織田筒を紛れ込ませました。
威力も命中率も格段に高く──射程距離は従来の鉄砲の三倍以上」
「さ、三倍だと──!?」
孫一殿が思わず立ち上がった。
「馬鹿な! ならば、何故もっと遠くから──」
「まだ他家には隠しておきたかったからな、今回は他の鉄砲と同じ距離で使った。
しかし、射程距離の三分の一の距離なら騎馬武者ばかりを狙い撃ちして、しかも一発で仕留めることなど造作もないことじゃ」
小一郎殿が何でもないことのようにけろりと言ってのける。
「じゃ、わざと──?」
「おう。おかげで、予想もしていなかった効果も生まれた。
武田だけでなく、他国までもが『呪い』だの『天意』だのの噂に惑わされとる。織田と戦えば、次は自分たちが武田のような負け方をしてしまうのではないか、とな。
恐らく、織田が武田領を食い荒らそうとしても、上杉も北条も動くまい。──いや、動けまい。
そして、武田領を併呑してしまえば、もはや織田に敵うほどの相手はおらん。天下布武は一気に近づく、ということじゃ」
そこまで一気に言って、小一郎殿はふっと語気を和らげた。
「なあ、孫一。ここまで言えば、わしが何故おんしらを本願寺につかせたくなかったか、わかったじゃろ?
織田と戦えば、例え雑賀衆がどれほど強かろうが、何も出来んうちに滅ぼされる。
そんなことをしとうはなかったのでな」
「何故だ⁉ 織田が勝つためにはそうすればよかったじゃねぇか! 俺たちに情けでもかけたつもりか⁉」
「それは違う。日ノ本のために、おんしらが必要だったからじゃ。
──日ノ本がひとつにまとまった後も、異国との戦いに備えにゃならん。おんしらのように強力な水軍、優秀な鉄砲撃ちは絶対に必要なんじゃ。下らんいくさで失いとうはない」
小一郎殿の言葉に、近衛様がうわごとのように言葉を漏らす。
「ど、どこまで先を考えておるのやら──」
「──わからねえ。小一郎、お前の心底が見えねえ」
孫一殿も強くかぶりを振る。
「三倍届く鉄砲を作り、病の治療法を見つけ、新しい農法や農機具を発明し、舌先三寸でいくさを止めてみせる──。
まるで化け物じゃねえか。お前がその気になりゃ、お前自身が天下を取ることだって不可能じゃねえだろう。なのに何故──」
「そんな面倒なことはご免じゃな。そもそも、わしは武家になりたくてなったわけじゃない。
お館様が天下布武を成し遂げて、日ノ本が豊かになる道筋を作ったら、さっさと武家など辞めて、やりたいことをやる。それがわしの望みなんじゃ」
「やりたいこと──?」
「異国との商いじゃ。自分の船を持って、この弁舌の才で商いをして、日ノ本をもっともっと豊かにする。世界中に日ノ本の存在を知らしめてやるんじゃ。
──なかなかに面白そうだとは思わんか?」
かくして、近衛様は我らとともに今浜へ向かうこととなった。
『この大法螺吹きが、どこまでその法螺を叶えるのか、この眼で見てみとうなったわ』などと楽しそうに言われていたが、小一郎殿が最後に付け加えた『今浜の飯は旨いですぞ』の一言がとどめとなったようだ。
これまでの流寓の身と違って、大名から賓客として招かれたのだ。気分はさぞ良かろう。
それと対照的に、孫一殿はいささか元気がない。
わしらもまんまと一杯食わされて、織田筒の存在を喋らされてはしまったが、現物を見せたわけでもないし、仕組みについても教えていない。
今から探りを入れて技術を盗み、真似して作ろうとしてもどれほど時間がかかることか──。
しかも、性能の差が圧倒的すぎる。小一郎殿は柔らかい口調で話していたが、あれは聞いている側からすれば『その気になりゃお前らなんぞ今すぐにでも滅ぼせるんだぞ』と脅されたようなものだからなあ。
「──そう言えば、孫一殿。どこまでついて来るつもりだ? まだ織田方につく決心はついとらんのだろう?」
「何を言ってる。近江の暮らしぶりをその目で見てみろと言ったのは樋口殿ではないか。
雑賀の身の振り方を決めるのはそれからだな。
それに、俺が雑賀に戻ってしまったら、織田筒とやらの秘密が漏れないか心配だろう?
ついていくのは、まあ、俺なりの誠意というやつだ」
──まあ、しばらくは情報が洩れる心配はなさそうか。
しかしなぁ。小一郎殿に坊主姿のわし、公家装束の近衛様と数人の家人たち、派手な陣羽織に鉄砲をかついだ孫一殿、──おまけに頭上では、楓殿を慕うカラスの群れがぐるぐると飛び回っておる。
何だか、旅芸人の一座のような、とんでもなく目立つ一行になってしまっとるんだが。




