073 凱旋の日 羽柴駒
織田軍、武田軍に圧勝──!
この知らせはあっという間に伝わってきました。何と、決戦が行われた日の昼頃には、もう第一報が岐阜にまで届いたのですから。
あの『旗振り通信』ってすごいのね。私が持参した小一郎の策の中から、お館様が真っ先に取り掛かるよう指示したのも納得です。
もっとも、本当は堀次郎殿の策らしいんだけど。
岐阜中が大いに湧きたちました。何しろあの日ノ本最強とまで言われた武田の騎馬軍団を、少ない兵で完膚なきまでに叩きのめしたというのですから。
やがて、通常の早馬によって追々にいくさの詳細が伝わってきます。
『何でも、我が軍の鉄砲が面白いように敵の武将たちに当たったそうだ』
『四天王などと呼ばれる名将たちや名だたる武将を、ことごとく討ち果たしたらしいぞ』
そんな会話が、城内のあちらこちらで嬉々として交わされているのですけど──私は手放しで喜ぶ気にはとてもなれませんでした。
だって──私が進言した策で、多くの人の命が奪われることになったのだから。
そして数日後、お館様や皆様が岐阜に凱旋してきました。
大手門の前にはお方様や留守役、有力武将たちの家族などが並び、そこに至るまでの道沿いには熱狂したような民たちがずらりと列を成しています。
私もお方様のお供でここまでは来たのですが、どうもこの歓喜の空気に馴染めず、民たちの列の後ろに目立たないように立っていました。
もしこんなところでお館様に『駒、お前の策で勝ったぞ!』などと言われてしまったら、いたたまれないもの。
『──来たぞ、お館様だ!』
『お館様! おめでとうございます!』
『お味方大勝利、おめでとうございます!』
ご一行が到着すると、もう辺りは大変な騒ぎです。帰還する兵の中に家族を見つけて駆け寄るものや、口々に祝辞を叫ぶもの、中にはお館様に手を合わせるものまでいます。
お館様も、そんな様子を満足げに眺めながら馬を進ませ、大手門の前でお方様からの祝いの言葉を受け止めておられます。
──この盛り上がりようなら、もうここにいなくてもわからないわよね。
そう思ってそっとこの場を離れようとすると、ふいに後ろから肩をつんつんとつつかれました。
え、誰? 振り返るとそこにいたのは──。
「しーっ。静かに。久しぶりじゃな、ちょっと来てくれ」
それは、目立たない鎧をつけて、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた三介様だったのです。
三介様と、何故か一緒にくっついてきた与右衛門とともに、こっそりその場を離れて本丸まで登り、三介様の滞在時用の小部屋にいざなわれました。
「──あのう、三介様、よろしかったのですか? 勝手にあの場を離れてしまって」
「うむ、お館様から許しは得てある。
改めて──久しぶりじゃな、駒殿。元気じゃったか?」
「あ、はい。三介様もお元気そうで」
「まあ、あいさつはもういい。本題じゃ」
私に座るよう促し、具足を少しずつ解きながら三介様が切り出します。
「武田を叩いたあの策、実は駒殿の策だったとお館様から聞いた」
え? お館様、話してしまわれたの?
「ああ、軍議のあとで、わしが無理に聞き出したのだ。こたびの策、どうも小一郎殿らしさが感じられたので、小一郎殿のものではないのですか、と。
そこで、あれが駒殿の策だと教えてくれたのだ。心配はいらん、聞いたのはわしとその場にいた与右衛門殿だけだ」
それならまだマシかしら。こんなこと、他の方には絶対に知られたくないもの。
「駒殿が献策したときの様子も聞いた。ずいぶん思いつめたようで、真っ青な顔でふるえておったとな」
ふいに、あの時の気持ちが蘇ってきました。
いくら小一郎から聞いた話が元だとは言え、自分の口から人を殺める策を進言するなんて──。でも、織田家が負けないためには、この策を伝えないわけにもいかなくて──。
「──ふう、あのなぁ、駒殿。それは違うぞ?」
そんな思いを遮るように、三介様が呆れたような声を上げました。
「え?」
「あの策をやると決めたのはお館様だし、じっさいに引き金を引いたのはわしらだ。
それで多くの人が死のうが、その重荷を背負うべきなのはわしたちだ。そんなものを駒殿が背負う必要などないのだぞ?」
「で、でも、私の策で多くの命が──」
「あのな、そんなことを言ったら、鉄砲鍛冶や刀鍛冶はどうなる?
その武器で奪われた命のことまでぜーんぶ背負うべきだと思うか?」
「そ、それは──」
「いいか? わしら武士はその覚悟で戦っておる。どの武器を使うか、どの策を使うか、それを判断してその結果の重荷を背負うところまで、な。
それがわしらの仕事だ。駒殿はあくまで選択肢のひとつを出したまでじゃ。もう気にするな──というより、胸を張っていいのだぞ?」
「──は?」
「ほら、小一郎殿らしいと感じたと言うたろう? 実はな、このいくさで武田兵の死者はおどろくほど少なかったのだ。な、与右衛門殿?」
「はい。真っ先に名だたる武将たちを倒したことで、武田兵たちは戦意喪失して、さっさと逃げ出してしまったのです。
まともにぶつかっていたら、たぶん数倍もの死者が出ていたでしょうな」
「ま、そういうことじゃ。
それともうひとつ──実はその後、長島の一揆勢が全面降伏したんじゃ。
武田が来てくれればあるいは、などとかすかな希望を抱いておったようだが、武田軍撤退の報を聞いて、完全に心が折れたらしい。
駒殿の策は、織田を少ないぎせいで勝たせただけではなく、もう一つの戦を完全に防いだんじゃ。
これは、大いにほこっていいことだと思うぞ?」
……三介様、これを私に伝えるために、わざわざ──?
私が罪悪感を抱え込んでいることを知って、放っておけなかったのかしら。
こういうところは、昔から少しも変わらないなぁ。
「たぶん、小一郎殿でも同じ策に辿りついたと思うぞ。
なるべくいくさをさけて、いくさになっても敵兵もなるべく殺さずに勝つ──まさに、小一郎殿の目指すやり方そのものじゃろ。おぬしらは、実はとんでもなく『似た者夫婦』なんじゃ」
そう言ってにかっと笑う三介様の言葉に、ようやく私の心にのしかかっていた重さがふっと和らいでいく気がしました。
「──ふう、何だか悔しいなぁ」
私の中の素直じゃない部分が、つい口をついて出てしまいます。
「三介様ってば、会うたびにどんどん大きくご立派になっていくんですもの。置いていかれちゃったような気になりますよ」
「何を言う、駒殿の働きぶりも聞いておるぞ?
怒り心頭のお館様のところに、単身で釈明に乗り込んだそうではないか。
育児院の仕事でも、義母上(帰蝶)の信頼もずいぶんとあついと聞くぞ?」
「それは、まぁ──。じゃ、あまり進歩していないのは与右衛門だけね」
「一言余計だ、このイノシシ娘!」
……ああ、何だか懐かしいな、この気を使わないお馬鹿なやり取り。
「あ、ところで与右衛門は何でいるの? 今の話だけなら、別についてこなくてもよかったんじゃないの?」
「ああ、実はお館様に言われたのだ。駒殿と会うのはいいが、二人きりは絶対にさけよ、と。
何やら面倒なことになりかねんと言われたのだが──どういうことだ?」
──あ、奇妙丸様のことかな。確かに二人きりでいるところを見られたら、すごく面倒なことになりそう。
これはちょっと説明しておかなくちゃ──と思ったとたん、ずかずかと足音が近づいてきて、襖が荒々しく開け放たれました。
「ここにいたのか、三介! 駒殿とこんなところでいったい何をしておるのだ⁉」
「これは、勘九郎兄上」
三介様が深々と頭を下げます。
──そういえば、奇妙丸様は出陣前に元服して『勘九郎信重』と改名したんでしたっけ。今後、間違えないようにしないと。
「部下が気づいていたのだ。お前が駒殿をこっそり連れ出すところを。
こんなところでこそこそと二人っきりになるなど──ん?」
そこで初めて与右衛門に気づいたのか、訝しげな表情を浮かべます。
「勘九郎様。遅ればせながら──羽柴家家臣、藤堂与右衛門高虎と申します」
「兄上、わしら三人は近江にいた頃の顔なじみでしてな。昔話にきょうじていたのです」
「──それだけか?
まあ、いい。この駒殿は、わしがいずれ嫁にしたいと思っているおなごなのだ。余計なちょっかいをかけるでないぞ」
うわあ、それ言っちゃうの? あれだけ何度も何度も断ってるのに。
三介様と与右衛門も一瞬、唖然とした表情を浮かべましたが、私の苦りきった表情から、どうやら事情を察してくれたようです。
「何を言われます、兄上。わしにはもう妻がおるのですぞ。
それに、兄上にも許嫁が──」
「武田とは戦になったのだ、松姫とのことも破談に決まっておるではないか!」
「そんな──ずいぶんと文なども交わして、相性もよさそうだと聞いていたのですが」
「たわけ! そうだとしても、もはや手切れしかないのだ!
これから、武田領を切り取っていくいくさが始まる。松姫のことになど、構ってはおられんのだ!」
癇癪を起したように声を張り上げる勘九郎様のお顔に──ほんの少し、切ない色が見えます。
あ、もしかして松姫様のこと、本当はかなり気に入っていたのじゃないかしら。
私を嫁にとか言い出したのも、実は少しヤケになっていたから、もあるのかも。
そんなことに気づいてしまったら、思わず口を挟まずにはいられませんでした。
「あの、勘九郎様、少しもったいなくないですか?」
「はぁ? 何を言う、駒殿。おなご一人のことをいつまでももったいないなどと──」
「いえ、もったいないというのは松姫様のことではなく──武田家が、です」
私の発言に、三人がぽかんとした顔を向けてきます。
「確かに松姫様のこと、このままでは破談もやむなしとは思います。
でも、まだ正式に破談になってはいないのですよね?
なら──このこと、武田家調略に利用できるのではないですか?」
「──あっ⁉」
いち早く気付いたのは三介様でした。
「この後、武田家は領地を削られ、どんどん追い込まれていく。でも、兄上が松姫様との婚儀を変わらず望んでいるとしたら──!」
「そう、それが武田家にとって、救いの一手にも成り得る、ということです」
このままいけば、甲斐源氏の名門の誇り高い武田家は、成り上がりの織田に降伏するよりは徹底抗戦して玉砕する途を選ぶことになるでしょう。
でも、もし勘九郎様と松姫様が結ばれれば、その間の子がいずれ織田の当主になる。
──織田の嫡流に武田の血が入るとなれば、武田家も納得できる落しどころになるかもしれないのです。
「──やり方次第では、武田家の降伏を引き出せるやもしれません。
そして、それが成った時には、武田家は兄上とそのお子を守るために力を尽くす忠臣ともなりましょう!」
煽るように明るい声を上げる三介様に、すかさず与右衛門が賛同します。
「おお、勘九郎様の指揮のもと、武田の赤備えが立ち並ぶ姿──さぞ勇壮なことでしょう! 家中でも、他国でも評判になること間違いなしですな!」
「あ、あの武田がわしの忠臣に──⁉」
おののくように呟く勘九郎様に、三介様がさらに畳み掛けます。
「その通りです! 松姫様のこともあきらめず、最強の敵であった武田家をもしたがえてしまう──そんなことが可能なのは兄上だけです!」
私たちの言葉に、勘九郎様はしばし黙ったまま、考えを巡らせておられるようでした。
「ふむ、なるほど。確かに一理あるな。
──しかし、いいのか、三介? わしが武田を従えるなど、お前の派閥にとっては望ましくない展開なのではないか?」
「そんな気などないと前から言っておるではないですか。
むしろこれで、わしにふたごころなきことをご理解いただければ」
「ふん、まあいい。この話、わしから父上にお話しする。良いな?」
そう言い残して、勘九郎様は大股に部屋を立ち去って行かれました。
私に一瞥もくれず、何も言わなかったところを見ると、やっぱり私のことは本気ではなかったようですね。ああ、良かった。
「──ふう。しかし勘九郎様もずいぶんと物好きですなぁ」
ひと波乱が過ぎ去った解放感からか、与右衛門が大きく溜息をついて軽口を叩きます。
「よりにもよって、こんなイノシシを嫁にしたいなどと」
「まだ嫁の当てもない与右衛門にだけは言われたくないわよ!」
私もそんな軽口を返したのですが──何故か三介様は、先ほどから難しい表情のままです。
「──なあ、駒殿。おね殿からの文に書いてあった、小一郎殿の生まれ変わりの話──あれはまことの話なのか?」
「え? あ、はい」
唐突な問いかけに答えると、三介様はさらに質問を重ねてきました。
「その前世の記憶とやらがよみがえった時、どんなふうだった? 何が変わったのだ?」
「え? ──私はその頃の小一郎を知らないんですけど、義姉上様や半兵衛様によると、見た目は全く変わらないものの言葉遣いや仕草などはだいぶ変わって見えた、ということですけど」
私の答えに、三介様は険しい顔つきを変えようとしません。
「実はな、先頃のいくさで少し違和感があったのだ。兄上は元々、どちらかというと慎重なたちなのだが、こたびは逃げまどう武田兵をかなり深追いしておったようでな。
佐久間たちが引き返すよう強く言っても、第二陣が動き出す直前まで退こうとはしなかった。
それこそ、どこまでいけるのか見計らうかのように……」
そう言って三介様は、勘九郎様が立ち去った廊下の方を向いて、こう続けました。
「それに今、兄上が立ち去り際につぶやいた言葉が、聞きなじみのない妙な物言いだったのだ。
『武田を俺のものに、か──悪くねぇな』と」
そう言った三介殿の表情は、よりいっそう厳しいものになったのです。
「あれは──本当にわしが知っている兄上なのか……?」




