072 三方ヶ原の戦い 藤堂与右衛門高虎
場面変わって、いよいよ武田との対決です。
すでに歴史が大きく変わっているので、史実の『三方ヶ原の戦い』とは全く違うものです。念のため。
俺と猪右衛門(山内一豊)殿が、織田筒隊二百を率いて遠江国中部の三方ヶ原に着いたのは、そろそろ日も暮れようかという頃合いだった。
見晴らしのいい高台から見下ろすと、半里ほどに渡って馬防柵を立てた急ごしらえの陣が作られ、その手前に織田の軍勢がひしめいている。その数、およそ二万。
他に徳川軍一万がいるらしいが、そちらは二俣城救援のため武田と一戦交えたそうなので、かなり目減りしているだろう。
一方、対する武田は三万五千。はるか彼方の東方にその陣容も見えるが、どう見ても向こうの方がはるかに多い。
半兵衛殿から前もって聞かされてはいたが、こうして目の当たりにすると、本当に勝てるのだろうかという不安がよぎる。
「え、それがしが遠江に、ですか?」
先日、殿からの呼び出しに急いで書院に向かうと、そこで人払いの上、意外な命令を告げられた。
「うむ。羽柴はこたび参陣する予定はなかったんじゃが、お館様から急遽、織田筒隊二百を出すよう要請があってな。
しかも、与右衛門。何と、おんしを名指しでの要請じゃぞ!」
「い、いや、それは確かにとても名誉なことですが──しかし、もう少し数が揃うまでは、織田筒は使わない方針だと聞いてましたので」
「そりゃあ、武田相手には持てる力全てで当たらにゃ勝てんと思ったからじゃないか?」
「いえ、それはどうでしょうか」
そこに、ただひとりその場に残されていた半兵衛殿が口を開いた。
「そこまでなりふり構わず、というようには思えないのですが」
「ん? どういうことじゃ、半兵衛殿」
「兵が少なすぎます。此度、遠江に向かうのは二万と聞いていますが、長島にも大した動きはないですし、余裕でその倍は動員できるはずです。それなのに何故──いや、そうか、そういうことか──」
半兵衛殿が、どうやら何かに思い至ったらしい。
「どうやら、お館様は武田と全面対決する覚悟を決められたようですね」
「何っ⁉ なら、何で兵をもっと連れて行かんのじゃ?」
「始めから四・五万の兵を動員すれば、武田は二俣に抑えの兵だけ残して引き上げるでしょう。此度の遠征は、もとより織田討伐を狙ったものではありませんから。
しかし、織田・徳川が自軍よりだいぶ少なかったなら──劣勢の敵に背を向けて引き上げることなど出来ない。武田の、名門としての誇りがそれを許さないはずです。
わざと少ない兵で向かうのは、武田に本気で立ち向かわせるため。そして、数で劣っても勝てるだけの何らかの方策が、お館様にはあるのでしょう。おそらく、その鍵を握るのが──」
「織田筒、ということですか」
その役割の重さに、思わず身震いがする。
「でしょうね。どういう使い方をするのかまではわかりませんが」
「ふぅむ──」
半兵衛殿の分析に、しばらく殿が黙って考えを巡らせ、やがて口を開いた。
「よし。与右衛門、おんしが以前率いた小一郎の織田筒隊百を預ける。
のこり百は、わしの直属から選りすぐりを出す。率いるのは山内猪右衛門じゃ」
これはちょっと意外だ。一方の隊長が俺のような若造なら、もう一方は経験豊富な(蜂須賀)小六殿か(前野)将右衛門殿あたりだと思っていたのだが。
「此度は手伝いじゃからな、これからの者に経験を積ませたい。
猪右衛門は昔馴染みなので、そろそろ引き上げてやりたいところなんじゃが、これからは槍働きで手柄を、というのは難しくなってくるじゃろ。
そう思って、最近は鉄砲をやらせとったんじゃが──」
殿はそこで伺うように半兵衛殿をちらりと見た。この人選をどう思うか、確認したいのだろうか。
「悪くないと思いますよ。腕も上達しているようですし、元々統率力もある。
あまり偉い方が一緒だと、与右衛門殿もやりにくいでしょう?」
「よし、決まりじゃ! 与右衛門、しっかりお館様のお役に立って『羽柴家に藤堂与右衛門高虎あり』と名を売ってこい!」
「はっ!」
さて、戦場に到着したのはいいが、まずどこへ行けばいいのやら。
猪右衛門殿と顔を見合わせて躊躇っていると、本陣の方から二人の騎馬武者が近づいてきた。──おお、一人は三介様ではないか!
「──羽柴家の方ですね。隊長の方は軍議がありますので本陣へ。その他の皆様は左翼へお回りいただきます。案内いたしますのでこちらへ」
もう一人の方が部下たちを連れて移動を始めると、そこでようやく三介様がニヤリと笑って口を開いた。
「ようやく肩を並べて戦える時が来たな、与右衛門殿!」
「はい。三介様もお元気そうで、何よりです。
──しかし、初陣にしては随分と簡素ないでたちですが」
「ああ、北畠本隊の指揮は部下に任せてある。わしも、こたびはそなたらと同じく、織田筒隊隊長としての参陣じゃ。さ、軍議に行こう」
本陣陣幕に、名だたる諸将と、十人ほどの鉄砲隊隊長が集められた。
そこでようやく、お館様の口から此度のいくさの策が語られることとなったのだが──。
『そ、それは──⁉』
『それは──いささか卑怯な……』
皆の顔に困惑の色が浮かぶ。その策は、やれば確かにかなりの効果を発揮するとは思うのだが、おのれの手柄を立てたいと逸る者からすれば、さぞ容認しがたいものに違いない。
ここで諸将が一斉に反発すれば、もはやいくさにはならない。お館様もその辺りはよくわかっておられるのだろう。高圧的に命令するお方だと聞いていたのだが、ここではむしろ、皆を説き伏せるような言い方だ。
「うむ、皆の言いたいことはわかる。だが、ここで武田を叩くにはこの手しかないのだ。
確かに『卑怯者』の誹りは免れんだろう。しかし──」
「──やります!」
その重い空気を破ったのは、溌溂とした三介様の声だった。
「何をためらっておられるのですか。いくさのやり方など時とともに変わっていくのです。『卑怯だ』なんだと言われようが、そんなのは一時のことです。
鉄砲とて、初めは『卑怯者の武器だ』などと言われていたそうではないですか」
『おお──』
『た、確かに──』
皆が少しずつ高揚していくのがはっきりわかる。
「日ノ本最強と言われた武田騎馬軍団を、少ない兵で叩きのめす──織田が新しいいくさのかたちを世にしめすのです!」
そう言って、三介殿は鉄砲隊隊長たちの方に向き直った。
「どうだ、皆! 我らがいくさのあり方を変えるのだ! 織田筒隊の名を後世にとどろかせようではないか!」
「やりましょう!」
俺がすかさず声を上げると、他の隊長たちも口々に賛同の声を上げ始め、それを見ていた重臣方の顔にも覇気が戻ってくる。
──お見事! この中で最年少の三介様が、たちどころにこの場を掌握してしまったではないか。
そして、充分に気が満ちたことを確信したのか、お館様が満足げに頷き、声を張り上げた。
「──うむ! 北畠三介、その言や良し!
皆の者、もはや異存はあるまいな!」
『応っ!』
翌日、払暁(早朝)──。
ようやく白み始めた三方ヶ原の地に、織田・武田の両軍が対峙した。
西に陣取る織田は、南北に馬防柵を設け、その手前に兵を大きく四つに分けて布陣した。
左翼軍、中軍、右翼軍、各五千五百。それぞれ千二百の鉄砲隊が二列で柵の後ろに並び、その両脇や後方に騎馬や足軽が控えている。お館様の本隊三千五百は中軍の後方だ。
我々織田筒隊は、一般の鉄砲隊に混ざってまばらに配置されている。
対する武田は、右翼、中軍、左翼各一万。それを五千ずつに分け、二段構えで攻め寄せるつもりらしい。数で大きく上回る側ならではの、小細工のない真っ向からの戦だ。
両軍が配置を終えると、まずそれぞれに鬨の声を上げ、士気を高揚させる。
その時、意外なことに、武田軍中軍から老武者が単騎、両軍の中間ほどにゆるゆると進んで声を張り上げた。
──おいおい、あんな廃れた風習を今どきやるのかね。
「武田家家臣、馬場美濃守信春! 織田軍に口上申し上げる!」
おお、あれが『鬼美濃』の異名をとる猛将・馬場信春殿か。
風向きの関係か、途切れ途切れにしか聞こえないが『叡山を滅ぼし』『公方様を追放』『天に代わって──』などの言葉が聞こえてくる。その辺りのことで織田の暴挙をなじっているのだろう。まず敵軍の非をなじる──詞戦というやつだな。
こちらでそれに応じているのは、重臣の森(可成)様のようだ。よく聞こえないが、時おり周辺の兵たちがわっと笑い声をあげているのを見ると、簡単に論破しているのだろうな。
やがて、このいささか滑稽な一幕も終わり、馬場殿が中軍ではなく右翼軍に戻っていく。
なるほど、右翼──こちら側の左翼は少し高台になっている。何よりこちらを優先して落としたいということか。
無論、そのあたりは予想済みだ。こちらの左翼には柴田(勝家)様を筆頭に、佐々(成政)殿や前田(利家)殿、浅井(長政)殿など、武勇の誉れ高い武将たちが配されている。
もっとも、諸将がその武勇を存分に奮うような状況にはならんと思うのだが。
武田軍後方で法螺貝が吹かれた。
陣太鼓がひとつ、またひとつと徐々に間隔を縮めて鳴らされる。それに合わせて、武田の第一陣が動き始め、少しずつその速度を上げていく。
こちらの陣まであと二百間──百七十間(約300m)。織田筒なら当たらん距離ではないが、まだまだ引きつける。
『武田騎馬軍団』とよく言われるが、むろん全兵士が騎馬だというわけではない。騎馬の使い方が巧みで多少その割合は多いが、やはり主力は足軽たちだ。距離が近づくにつれ、馬上から馬場殿たちが足軽を鼓舞する声が聞こえてくる。
「進めぇっ! 鉄砲などそうそう当たるものではないぞ! 目の前の仲間が倒されても乗り越えて進め! 天に代わりて、織田を討ち滅ぼすのだぁっ‼」
──先ほど目立ってくれて良かったよ、馬場殿。
貴殿が武田軍の中でとても大きい存在だということがわかったからな。
悪いが、貴殿は真っ先に仕留めさせていただく。
──百二十間──六十五間──。
そこで、後列中央の猪右衛門殿が良く通る声を上げた。
「構えぇっ! ──火蓋切れっ! ──撃てっ‼」
────轟音。
丹田を突き上げるような空気の震えに思わず目を閉じそうになるが、俺はそれに耐えて、自分の放った弾の行く末をしかと見届ける。──馬場殿の眉間に吸い込まれ、その身体ごと馬から叩き落すのを。
『あぁっ、馬場様ぁっっ──⁉』
周辺の兵たちから悲痛な叫び声が上がった。今だ。俺は大きく息を吸い込み、声を張り上げた。
「馬場信春、討ち取ったぁぁっ‼」
すぐに、何人か置きに混じっている織田筒隊の者が、名だたる武将の名と討ち取ったことを口々に叫ぶ。
武田軍の足が鈍った。なにしろ、先頭あたりで馬上から皆を鼓舞していた武将たちが、一瞬で姿を消してしまったのだ。
何故だ、鉄砲などそう当たるものではないと言っていたはずなのに──。
その躊躇いの中から、やがて中堅どころとおぼしき武将たちが我に帰ったのか、声を張り上げる。
「何をしている! たまたまだ! 馬場殿の死を無駄にするな!」
「そうだ、鉄砲は続けては撃てんのだ! 進め、今のうちに蹂躙せよ!」
そして、兵たちの目が一斉に目標である馬防柵の方に向いた。
悪いな、そのために鉄砲隊を二列に分けてあるんだよ。
「よし、二列目、前へ‼」
猪右衛門殿の掛け声で、すでに発射準備を終えた二列目が前に出る。今度は、後列に下がった俺が合図を出す番だ。
「構え! ──火蓋切れっ!」
『ひるむな、敵が撃った直後に突っ込め!』
そんな声が聞こえてくる。
「──撃てっ‼」
俺の掛け声に、二列目が一斉に発砲した。その弾丸が、辛うじて士気を維持しようと奮闘し続けていた武将たちをたちまち屠っていく。
まだ騎馬武者は残ってはいるが、その具足を見るにそこまで身分は高くない。おそらく、これほどの軍勢を指揮したことなどない連中なのだろう。すがるような足軽たちの目線を受けても、どうこの場を収集するのか、考えあぐねて狼狽しているのがここからでもわかる。
──これこそが此度の秘策だ。織田筒の存在を隠すためにその最大の長所、三倍もの射程距離を活かすことを捨て、もう一つの長所である命中率の高さを活かした戦法──すなわち、敵の指揮官、それも身分の高そうな者から確実に倒していく、というものだ。
何しろ有効射程の三分の一の距離だ。当たるのは当然。この距離なら鎧越しにでも致命傷を与えられる。
一般の鉄砲隊の斉射を受けた足軽たちの損耗は、それほど多くはない。しかし、織田筒は確実に指揮官たちの命とともに、兵たちの平常心をごっそり奪っていた。
──そうそう当たらないと言っていたではないか。なのに何故、武田の武将にばかり当たるのだ?
皆、あっという間に倒されてしまった。一体、何が起こっているのだ──⁉
そう、人は理屈で説明のつかない現実に遭遇した時、そこに人ならざるものの意図を感じ取らずにはいられない。
武田兵たちの頭には今、ある恐ろしい考えがよぎり始めているだろう。
──まさか、天は織田に味方してしまったのではないか、と。
武田兵は完全に動きを止めてしまった。指揮するものも鼓舞するものもおらず、皆が恐怖と混乱で固まっている。
あとちょっとしたきっかけで、総崩れになる──そう感じた俺は、とっさに声を張り上げた。
「見よっ、天は武田を見放したのだ! 武田はもう終わりだぁっ‼」
その俺の一声に──辛うじて武田兵の心を繋ぎとめていた細い糸が切れた。
『お、終わりじゃ! 武田はもう終わりじゃぁっ!』
一人の足軽の叫びをきっかけに、兵たちが一斉に恐慌をきたした。わけも分からず何かをわめきたてる者、その場にへたり込む者、武器を放り出して逃げ出す者──。
その時、俺たちの後方の部隊が動き始めた。馬防柵を回り込んで、左右から騎馬と槍兵が混乱する武田兵に襲い掛かろうとする。
「よし! 天は織田に味方したぞ! 今ぞ、蹴散らせぃっ!」
「天に見放された武田など、恐るるに足らず! 今日を武田家最後の日にしてやれ!」
その先頭で馬を駆る柴田様が、こちらを見て『やるな、若造!』とでも言うようにニヤリと笑った気がした──。
三方ヶ原での合戦は、わずか一刻ほどで決着がついた。
先陣の瓦解を目の当たりにした第二陣は、逃げてくる先陣の兵を無理やり吸収してより多くの兵力で向かってきたのだが、一度恐怖に捉われてしまった兵士が多くなってしまった分、むしろその崩壊は早まってしまったのだ──。
武田軍の足軽の損害は、死骸の数からいって四千ほど。当初の兵数の一割を少し超えた程度だ。
だが武田軍は、名だたる歴戦の武将たちのほとんど全てを失うという、かつて聞いたことも無いような形での大惨敗を喫してしまったのだ。
周辺の大名たちもこの機を逃したりはしないだろう。所領を好き放題に食い荒らされた武田は、もはや織田の脅威にはなり得まい。今日のいくさが、日ノ本の歴史の大きな分岐点になったのではないか。──俺はそんな予感を覚えていた。
合戦の後の、不気味なまでの静けさ──。陽はまだ昇りきってすらいない。




