071 目指すところ 樋口赤心斎
『羽柴……? ──な、何っ⁉ こいつ、織田の手の者か⁉』
たちまち、雑賀党の者たちの間に緊張が走った。立ち上がって刀に手をかける者、鉄砲をそっと手元に引き寄せる者──。
そんな連中の動きを止めたのは──小一郎殿の肩にとまっていたカラスの『黒』だ。
『ガアァァッ!』
『黒』が皆を威嚇するように大声をあげると、辺りの空気が変わった。
全方位からざわっという大きな音が聞こえたかと思うと、少し離れた木々や鎮守の森、家々の屋根などから一斉に夥しい数のカラスが飛び立ったのだ
百やそこらではない。それこそ紀州中の全てが集まったのではないかというとんでもない数──それが激しい羽音を立て、談判の場の上空を激しく飛び交う。
しかも不気味なことに、どのカラスも全く鳴き声をあげていないのだ。
完全に意思が統一されたかのような動き──そのあり得ない光景に、雑賀党の誰もが動きを止め、薄気味悪そうに空を見上げた。
「うん、まあ、やめといた方がええの。こいつはあっという間にこの辺のカラスの頭目にのし上がってな。うかつにわしらに手を出すと、あのカラスたちが何をするかわからんぞ?」
場に似つかわしくないのんびりとした口調の小一郎殿に、しばし唖然としていた孫一殿が、ひとつ大きく溜息をついて座り直した。
「ふぅ──おい、皆、武器を収めろ。とりあえずこいつの話だけは聞こう。
八咫烏の神孫たる俺が、カラスを手にかけるわけにもいかんからな」
「そいつはありがたい。──『黒』、もういいぞ」
小一郎殿が声をかけて『黒』がまた一声上げると、頭上のカラスたちが一斉に一声だけ上げて、各々元の場所に戻っていく。
「やれやれ。どんな手妻でカラスどもを手懐けたのかは知らんが、あんたが只者じゃないことはよくわかった。
──で、我らを織田方に引き入れにきたというわけか?
ただ知ってのとおり、雑賀には一向門徒が多いのでな。ちょっとやそっとの金では、おいそれとは──」
「ああ、かまわんよ。別に織田方についてもらわんでもええ」
「な、何だと⁉」
小一郎殿の応えに、孫一殿だけでなく雑賀党の皆が意表を突かれたようだ。
「いくら極楽行きが約束されとるとはいえ、手のひらを返したように本願寺に銃口を向けるのは、さすがに気が引けるじゃろ?
わしも、おんしらにそんなひどいことをさせとうはない。ただ、ちょっと忠告だけはしておこうと思ってな。
──いずれ、刑部殿がまた督戦に来ると思うが、本願寺に行くのは見合わせた方がええ。
下手すりゃ、帰るところがなくなるかも知れんからな」
「──そいつは一体、どういう意味だ?」
「御坊の湯川、熊野の堀内──あの辺りは皆、織田方についた。
雑賀は周りを織田方に囲まれたっちゅうことじゃ。下手に留守にすると、雑賀の土地そのものが奪われかねんぞ」
この情報は雑賀党だけでなく、太田党にとっても初耳なはずだ。
左近殿が、信じられないといった顔で口を開いた。
「あの気位の高い湯川までもが⁉
幕府奉公衆の湯川が、公方様を追放した織田になびくなど、いったいどうして──」
「ああ、わしが口説き落としてきた」
何でもないことのようにしれっと言い放つ小一郎殿に、またしても皆が言葉を失う。
──さすがじゃのう。これほど立て続けに意表を突くような言葉を聞かされたのでは、どうしたって小一郎殿の言葉に耳を傾けずにはいられまい。例え、どれほど反感を抱いていたとしても、じゃ。
なるほど、これが小一郎殿の交渉術ということか。
「──なんだか、ろくに平地もないようなところで、いじましく米ばかり作っとるようなんでな。傾斜地でも良く実る作物を教えてやった。
ついでに、それを織田が売って金にしてやると言ったら、一も二もなく飛びついてきおったわ。
何も、米作りに不向きな土地で、無理して米ばかり作る必要もなかろ?」
「し、しかし自前で米を作って貯えておかねば、いくさの時に困るではないか⁉」
左近殿が慌てたように反論するが──それが待っていた反応だったのだろう。また小一郎の眼の色が変わった。
「そこなんじゃよ、左近殿。
何で皆、無理して米ばかり作るのかといえば、いくさに備えるためじゃろ?
逆に言えば、いくささえなくなれば、皆がもっとその土地その土地に向いた作物を作り、全体の収穫量も増やせる。
なら、答えはひとつじゃ。万民が飢えずに豊かに暮らすためには、日ノ本中からいくさをなくさにゃならん。わしが目指すところはそれなんじゃ」
──やがて、皆の茫然とした空気を破ったのは、孫一殿のすぐ後ろに陣取った二人の屈強そうな男たちだ。
多少いい具足をつけているところをみると、これは名のある武将──的場(源四郎昌長)か佐竹(伊賀守義昌)、土橋(守重)あたりか。
「馬鹿な! いくさがなくなったら、わしらはどうやって食っていったらええんや⁉」
「その通り! 武士から戦うことを奪ったら何が残る!
羽柴の弟は『いくさ嫌いの腑抜け』と聞いておったが、まさかそんなたわごとを聞かせにきたのか」
「おいおい、何を言うちょる。米をたくさん作っとるところから作っていないところに運ぶ──それこそ水軍の稼ぎどころじゃろ?
それにの、わしは戦うことを捨てろなんて言うとらん。日ノ本の中でのいくさをやめて、もっと大きないくさに備えろと言っとるんじゃ」
「大きないくさだと──?」
「そう──異国との大いくさじゃ」
小一郎殿は自分の担いでいた荷から、堺で買った世界地図を取り出す。わしを立たせて片方を持たせ、もう片方を近くにいた若い者に持たせて、皆の前で広げてみせた。
そして、いかに日ノ本が小さい国なのか、イスパニアやポルトガルが遠いところから遥々やってきているのかを語る。
「はっ、だから何だ! それほど遠いのなら、なおさらいくさなど起こるわけがない。
馬鹿々々しいにも程があるわ」
吐き捨てるように口を挟んできたのは、先ほどの二人のうち多少毛並みが良さそうな男だ。
「だいたい、どうやって兵を運ぶのだ。いくさをするほどの人数を、そんな遠くから──」
「──やれやれ。あいつらのやり口を知らんのかのう」
小一郎殿が少し呆れたような口調で返し、異国のやり口を説明していく。
やつらの手口は、こうだ。
まずは商人たちが珍しい品々を運んで交易を始める。やがて多少親しくなったところで宣教師たちが赴任して、その地域に伴天連の教えを広めていく。
──そして信徒を増やし、現地の民の心を懐柔したところで、ある日突然牙を剥いて軍隊で制圧するのだ。
そのやり方で次々と中継点を作り、飛び石のように勢力圏を東へ東へと伸ばしている。
兵など、なにも本国から全部連れていく必要はない。途中の中継地の民を徴発すりゃ済むのだからな。
「──さて、ここまで話したら、そろそろ気づいてくれてもいい頃だと思うんじゃがな」
一呼吸おいて凄むように問いかける小一郎殿に、強面の男がたじろぐ。
「気づく? ──な、何にだ?」
「日ノ本がすでにかなり危うい段階になっちょる、ということにじゃ」
「おんしらも聞いとるじゃろ? 九州では今、もの凄い勢いで切支丹が増え続けとる。それこそ、大名みずからが改宗してしまうほどにな。
で、じゃ。そんな切支丹大名のところに異国の軍勢が来たとしたら、戦って追い払うと思うか?
下手をしたら、異国とともに戦い、日ノ本を切支丹の国にしようと蜂起する道を選んでしまうかも知れん。
──これでも異国とのいくさなどあり得んと思うか?」
小一郎殿の鋭い問いに、男は完全に気を呑まれて、反論する気を失ってしまったようだった。
「ええか。海が日ノ本を異国から守ってくれる、なんていう時代はもう終わったんじゃ。
いつまでも、こんな狭い島国の中で土地を奪い合っとる場合じゃない。日ノ本がばらばらのままでは、たちどころに異国に食い荒らされるぞ」
「せ、せやけど──!」
今度は、もう一人のやや小柄な男が反論してきた。
「要は『だから織田に降れ』ってことやろ?
上手いこと言うても、結局は織田が勢力を伸ばしたいだけやろが──」
「では、逆に訊くがな。他に誰がおる?
足利義昭か? あいつは自分の権威を高めるためだけに、無用のいくさを煽り続けた。それで民百姓が苦しむことなんぞ全く考えもしとらん。あいつはただの俗物じゃ。
──では、武田か? 上杉か、あるいは毛利か?
あいつらも規模だけは大きいが、所詮は田舎大名じゃ。自分の領地と、周辺の国くらいまでしか見えとらん。
──はっきり言うぞ。今、日ノ本全体を広く見渡し、十年後・百年後にどうあるべきか、そのために今何をせねばならんのかまで考えとるのは二人しかおらん。
お館様と──そして、このわしだけじゃ」
おお、言い切ったのう。皆が唖然とした顔を晒しておるわ。
──しかし、気になるのは孫一殿だ。先ほどから難しい顔で、全く口を開こうともしていない。
あるいは、反撃の機会でも密かにうかがっているのか?
「──お館様のやり方は確かに激しい。不満や反発も出るじゃろ。正直言って、お館様だけでは日ノ本全体をまとめるのは難しいと思う。
だが、わしがおる。お館様が平らげた地域で、皆が飢えに苦しまず安心して暮らせるような策を講じ、不平不満が募らないようにする──それがわしの役目じゃ。
お館様のやり方とわしのやり方、この二つがあれば必ずや日ノ本を強く豊かな国に出来る。わしはそう信じとる」
小一郎殿の宣言に、皆が黙ってしまった。どう反論していいやら探しあぐねておるやもしれんな。
さて、ではわしもここらで少しは働いておくかのう。
「あー、皆にちょっと教えておくがな。小一郎殿はただ口が上手いだけの男ではないぞ。
織田の清酒を発明したのも小一郎殿だし、売り歩いていた絵図面の農機具──あれを発明したのも小一郎殿だ。
それに、左近殿のところで試しておる新しい農法もそうだ。
この男、とんでもない発明の才の持ち主でな、織田に莫大な利益をもたらしとるのだ。
おかげで、織田の支配地は豊かになった。今では身売りをするおなごもほとんどおらんし、孤児たちも織田がまとめて面倒をみておる。
おぬしらも、一度その目で織田の民の暮らしぶりを見てくるといい」
「──せ、せやけど結局、織田は本願寺を叩き潰そうとしとるんやろ⁉
やっぱり、御門跡様を死なせるようなことなど、わしらは許されへんのや!」
『そ、そうや!』『やっぱり織田には手は貸されへんわ!』
かろうじて声を挙げた男に、門徒たちが口々に賛同の声を挙げる。
しばらくその声を挙がるに任せていた小一郎殿が、唐突に手をぽんと叩いた。
皆がはっとしたように口を閉ざすと、小一郎殿はすかさず話を始めた。
「おいおい、わしを誰じゃと思うとる。『いくさ嫌いの小一郎』じゃぞ?
織田と本願寺の大いくさが始まろうかという時に、何もせずに黙って見ているだけだとでも思うたか?」
『え──?』
「先ほど、『織田についてくれんでもええ』と言うたじゃろ?
というより、むしろ今は織田につくより、中立を保ってくれた方がありがたい。本願寺との繋がりはそのまま保ち続けて欲しい。
──そして、いよいよいくさが始まるか、という時が来たら、わしと顕如殿との橋渡しをしてほしいんじゃ」
『な、何──?』
「わしがお館様と顕如殿を説得する。双方の落しどころを探って、この下らんいくさを止める。
わしは、顕如殿も一向門徒たちも死なせとうはないんじゃ」
「──そ、そんなことが本当に出来るのか?」
一人目の男がおずおずと訊いてきた。
「まあ、その時の情勢にも寄るのでな。絶対に、とは言わんよ。
だが、もしわしが顕如殿の説得に成功し、そのお命を救うことが出来たなら、その時は──。
雑賀の衆よ。日ノ本の未来のため、わしらに合力してくれんじゃろか?」
「──惜しいな。一手足りねえ」
その時、それまでじっと話を黙って聞いていた孫一殿が、ようやく口を開いた。
「足りない──?」
「羽柴殿、確かにあんたの話は興味深い。あんたが口先だけの男ではないこともわかった。もしかしたら本当にやってのけるのではないかと思わせる説得力もあった。
だがな、この国で大きく何かを変えようとすれば、必ず邪魔が入る。大きな壁が現れる。
それが何だかわかるか?」
「──ああ、朝廷や公家衆じゃろ?」
「その通り。あんたも『叡山問答』で多少は公家衆に顔を売ったそうだが、その程度のことで味方になってくれるほど、あの連中は甘かぁねえ。
そのあたり、何か対策は考えてあるのか?」
「──ああ、紀州まではまだ伝わっておらんのじゃな」
そこで、小一郎殿は大きく溜息をついてみせた。
「なあ、孫一殿。公家衆が一番困っている病とは何だかわかるか?」
「え? そりゃあ脚病(脚気)だろう。何しろ原因も直し方もまるでわからんのだからな」
「実はわし、脚病の治療法と予防法とを発見しててな。今頃は公家衆や帝も、さぞ喜んでおられるじゃろうて」
「な、何だと──⁉」
さすがに孫一殿も、これには度肝を抜かれたようだ。医者でもないのに病の対処法を見出すなど、普通はあり得んからな。
「それに、もう一手考えておってな。
まだ種明かしは出来んのじゃが──今、もっと恐ろしい病の対策についても研究が進んでおる。
その成果を手土産に、あるお方に朝廷に返り咲いてもらえんかと思うてな」
「あるお方──?」
「ほれ、今まさに恩を売りつけるのにうってつけのお方がおられるじゃろ?」
恩を売りつけるだと……? ──あっ⁉
「──そう、前の関白殿下、近衛前久様じゃ」




