070 一向宗 樋口赤心斎
※ ご注意 ※
仏教各宗派についての記述は、この時代の状況を推測して描写しており、現代の状況とは大きく異なります。
筆者に現代の仏教各宗派や信者の方を批判・非難する意図は一切ありません。
その点、ご理解の上、ご容赦下さい。
雑賀党、太田党の一同が、いったい何の話が始まるのかとざわめきながらも、ぞろぞろと集まってくる。
それに身振りで座るよう促しながら、小一郎殿は会談の中心にいた面々と挨拶を交わした。
下間殿は大して興味もなさそうに鷹揚に返事を返しただけだが、孫一殿は噂を聞いていたのか、『ほう、こいつが──』とでもいうような表情だ。
まあ、物ではなく絵図面を売り歩く商人なんてのは珍しいからな。
「──さて、皆が揃ったところで、まずは一番大きな動きから伝えるとするかの。
武田が動いた。遠江の北から侵攻して、徳川の城を陥落させながら南下しとる。今頃は二俣城あたりかの。その数──およそ三万五千」
小一郎殿が語るその数に、皆がどよめいた。下間殿など、自分たちの思惑通りだと言わんばかりに得意満面だ。
だがそんな中、ただひとり孫一殿だけが訝し気に眉をひそめる。この数に違和感を覚えるあたり、さすがにいくさ上手といわれるだけはあるな。
「対する徳川は、織田の援軍三千を加えても一万余り。まあ、戦力差は明らかじゃな。
おそらく織田の増援が来る前に浜松城に大打撃を与え、増援を迎え撃ちつつ二俣から東を実効支配する──まあ、武田の狙いはそんなところかの」
「何っ、二俣で留まるだと? そんなはずは──」
武田・本願寺で織田を挟み込むことを想定していたらしい下間殿が慌てたような声をあげた。
「気の毒じゃがな、形部殿。おそらく、武田は遠江より西には進まんぞ。織田の増援を打ち破ってまで西進するつもりはない。
三万五千は確かに大軍じゃが、動員兵力十万とも十五万とも言われる織田領に侵攻するには、数が少なすぎるじゃろ?
まあ、武田の今回の目的は、織田の討伐や上洛ではなく──『米』じゃからな」
「な、何だと──⁉」
「甲斐は去年の収穫がかなりひどかったらしい。おまけに、今年は全国的に米不足で、米の値が暴騰しとるからな。
仮に二俣以東を押さえたとしても、ようやく一息つけるというところか。
徳川も、ただ武田に奪われるくらいならさっさと青田刈りをするじゃろうからな。武田がさらに遠征を続けるほどの兵糧は得られんじゃろ」
「ば、馬鹿な⁉ そんなことをすれば、徳川も兵糧不足になろうが──」
「お忘れかの? 徳川の後ろ盾には織田がおる。兵糧など、織田からいくらでも届けられるわ」
しれっと答える小一郎殿の言葉に、雑賀党の中から疑問の声があがる。
「いや、織田かて米不足やろ? そんな余裕なんぞないんとちゃうか?」
「さあて、それはどうかのう。織田は今年、あまり清酒を作っとらんからな」
とぼけたようにはぐらかす小一郎殿に、皆がどういうことなのかと首を傾げるなか──左近殿と孫一殿だけが愕然としたように立ち上がった。
「ま、まさか、織田は米不足になることを予想していて──?」
左近殿があえぐようにその予想を口にするが、孫一殿はさらにその奥まで読んでいたようだ。
「いや──あるいはまさか、この米不足そのものが仕組まれたものなのか……⁉」
「おお、さすがは孫一殿、よう気づいたの。
そうじゃ。この米不足は、織田が意図的に起こしたものなんじゃ」
皆の唖然とした顔を尻目に、小一郎殿が織田の策をとうとうと語っていく。
まず、清酒で大儲けしたことを見せつけた上で、他国にわざと清酒の製法を盗ませる。
どの大名もおのれだけが織田の儲けを横取りできると思い込み、多少高値であろうと慌てて米を買い漁り、清酒造りに取り掛かる。
さらに、清酒の供給量が一気に増えることで価格が暴落してしまう、ということまで読んでの策だということを──。
皆、さぞ度肝を抜かれていることだろうな。
確かに、いくさの前に敵国の米を買い占めるという策はこれまでにもある。しかし、日ノ本全体に影響が及ぶほどの策など、前代未聞だ。
しかも、織田家はほとんど資金を動かしていない。あくまで他家が勝手に大枚をはたいて大損するように仕向けただけなのだ。
これほど大規模な計略など、かつて誰ひとり想像したこともないだろうからな。
「──武田もかなり無理して米を集めたようじゃからな。軍資金はさぞ乏しかろうて。
刑部殿。武田をもっと西まで進ませたいんなら、大量の米と金を送らにゃ無理じゃ。まあ、本願寺もそこまでの余裕はないと思うがな。
武田が織田に大打撃を与えてくれることを期待しての蜂起じゃったら──しばらく自重した方がええと思うぞ」
「な、ならば朝倉だ! 加賀の門徒衆が北に向かった隙に、朝倉に近江を攻めさせれば──」
「越前はもっとひどいぞ。欲に目がくらんで、馬鹿みたいに大量に清酒を作ったらしいからな。
米もない、清酒が高値で売れなかったので金もない。それこそ生きるだけで精一杯のはずじゃ」
「な、長島は──」
「ああ、長島の一揆はほとんど終わったぞ。ほとんどのものが逃げるか、降伏して織田の民として生きることを選んだ。織田は景気が良くて、いくらでも働き手を欲しがっとるからの。
まだ抵抗を続けとるものもおるが、ほんの数千。いずれ降伏するか、叩き潰されるしかない」
「な、ならば──」
「なあ、刑部殿。武田が本気なら他の勢力も乗ってこようが、そうでなければ、この米不足のご時勢に兵を起こすところなどないと思うぞ。
悪いことは言わん。やめといたほうがええ」
「うっ――」
言葉に詰まってしまった下間殿に、横合いから孫一殿が不機嫌そうな声で追い打ちをかける。
「――で、どうするんだ、刑部殿? やるのかやらんのか、はっきりしてくれ。
ただし、われらに野盗のような真似までさせておいて、『蜂起は取止めにした』なんていうのは許さんぞ?」
「と、とりあえずは保留だ! まだその商人の言葉だけでは判断できん。もっと情報を集めてから決める」
下間殿がようやく判断を下した。賢明だな。少なくとも武田の真意が確信できるまでは、うかつに織田と事をかまえるべきではない。それをしてしまえば、孤立するのは本願寺のほうだ。
まあ、織田方としては、本願寺が孤立無援な蜂起をしてくれたほうが後々叩きやすいとは思うのだが――単に戦の勝ち負けだけではなく、その後のことも考えて策を立てるのが小一郎殿なんだよなぁ。
さて、この後どのような仕掛けをしていくやら……。
「では、此度は出兵も米の供出も、我らへの要求は取り下げる、ということで構いませんな?」
左近殿の問いかけに、青い顔で項垂れた下間殿に代わって孫一殿が答える。
「ああ、構わん。武田にその気がないのに、付き合わされてたまるか。
形部殿、とりあえず本願寺の姿勢がはっきりするまでは雑賀党は動かん。文句はなかろうな?」
下間殿が逡巡している間に、もう雑賀党も大田党も、さっさと撤収に取り掛かり始めた。
――何だか、喧嘩をする機会を奪われて、誰もが不機嫌そうに見えるのは気のせいかの。
その片付けている様子を見ていた小一郎殿の目がふと何かにとまった。
その目が怪しく光ったようにも見えるが――なるほど、半兵衛殿が言っていた、小一郎殿が策を繰り出す気配というのはこれか。
「ああ、ちょっとすまんの。せっかく本願寺のお偉いさんがおるんじゃ、一度教えてほしいと思うとったんじゃが――。
真宗(一向宗)の教えとは、阿弥陀如来の救いを信じて『南無阿弥陀仏』の念仏を唱えれば極楽往生が約束される、ということで間違いないかの?」
「そのとおりだが――」
「難しい修行もお布施も要らない、ただ念仏を唱えるだけでいい、と?
何だかずいぶんと安直にも聞こえるんじゃが」
「そのとおりだ。難しい条件などない、誰もが極楽浄土へ行けるという教えだからこそ、我ら真宗は万民に受け入れられておるのだ」
下間殿が誇らしげに胸を張った。
その様子を確認して、小一郎殿が質問を重ねる。
「なら聞くが――あの幟の文言は何じゃ? 矛盾しとらんか?」
そう言って小一郎殿が指さしたのは、雜賀党の門徒が片付けようとしていた旗印だ。
近年、一向一揆が激化するとともに掲げられることが多くなったというその幟に大書された文言――。
『進者極楽往生 退者無間地獄』
進軍すれば極楽行き、ただし後退すれば地獄へ落ちるぞというこの脅迫めいた言葉によって、門徒たちはどれほど仲間たちが死のうと決して引かぬ手強い兵となり、各地の為政者たちを大いに手こずらせているのだ。
「あの文言――おかしいじゃろ?
極楽行きが約束されたはずの門徒に対して、『やっぱり後退したら地獄行きだ』というのは、約束が違うということにはならんのか?」
そんな小一郎殿の指摘に対して、下間殿は鼻で笑うように答えを返してきた。
おそらく、こういう質問を受けることも想定済みなのだろう。
「ふん。あれは門徒どもが勝手に掲げとるだけだ。本願寺がああ言っているわけではないわ」
「――は、つまらん言い訳じゃのう」
「な、何っ――⁉」
下間殿の顔色が変わる。
おっ、ここが仕掛けどころなのか?
「なあ、刑部殿。
仮に、じゃ。あの幟にこんなことが書いてあっても、おんしはそう平然としてられるんかの?
──『御仏は猿の姿なり』とか、な」
「なっ──サ、サルだと⁉ 貴様、御仏を愚弄するつもりかぁっ⁉」
怒りのあまり、近くにあった床几を蹴り飛ばした下間殿に、小一郎殿は悪びれるふうもない。
「おいおい、『仮に』と言うたじゃろが。
――だがまあ、そんな風に激怒するのが当然じゃわな。
だからこそ、理解できんのじゃ。あの文言は、それこそ親鸞上人(真宗の開祖)の教えを真っ向から否定しとるようなもんじゃろ?
念仏を唱えても、その後の振る舞い次第で地獄に落ちるかも知らん。――極楽行きが約束されているというのは真っ赤な嘘だ、とな。
それこそ、今のように憤慨して然るべきと思うんじゃが。
なのに刑部殿はあの文言に怒るどころか、放ったらかしにしてへらへらしとる。
――さぁて、どちらなのかのぅ……」
「な、何がだ――」
「刑部殿があの幟に腹を立てない理由が、じゃ。どう考えても二通りしか思いつかん。
親鸞上人の教えなど、はなから全く信じておらんのか。
あるいは、上人の教えと真逆なのはわかっているが、門徒どもがそう信じてくれたほうが戦に駆り立てるのに都合がいいから、あえて放置しているのか。
――それ以外に理由があるなら教えてもらおうか、刑部殿」
「う、いや、それは──」
鋭い切り込みにたじろいだ下間殿が思わず目を泳がせるが、小一郎殿は追及の手を緩める気配もない。
「どうされた? わし如きの頭では、あの幟を放置しておる理由がそのくらいしか思い当たらんのじゃが、他に理由があるなら教えて下さらんか」
いや、なかなか容赦ないのう、小一郎殿。他にも何も、無知な門徒たちを戦場で煽り立てるために決まっておるではないか。
かといって、これだけ門徒の多い場所で、そんなことを口に出来るはずもなかろう。
そんな逃げ場のないところに追い詰めてしまっては、さすがにまずくないか?
そう思っていると、何やら小一郎殿がこちらにちらちらと目で合図を送ってくる。
何だ? ここで何かわしにやらせたいのか?
「どうされた、刑部殿。真宗の高僧である御坊が、あの幟の文言が真宗の教えに背くものであることに気づいていなかったはずもあるまい。
早く答えて下さらんか」
──ずいぶん、『真宗』という言葉を強調したような言い方をしておるが──あ、なるほど、そういうことか。
こんなことを打ち合わせもなしにやらせるとは──やれやれ、無茶なご仁じゃのう。
「まあまあ、小太郎殿。少し落ち着かれよ。
刑部殿があの幟をわざと放置していた、などというはずがあるまい。真宗の高僧たるお方だぞ?
そんな──一向宗の腐れ坊主でもあるまいに」
実は、これはわしも小一郎殿も、新吉たちの調査から最近知ったことなのだが──。
本願寺を総本山と仰ぐ宗派──世間一般では『一向宗』と呼ばれ、門徒どももそう称することが多いのだが、実は本願寺の者は『真宗』『浄土真宗』を名乗り、『一向宗』と呼ばれることを非常に苦々しく思っている。
かつての門跡も、門徒たちに『自ら一向宗と名乗るな』と戒めていたくらいなのだ。
浄土宗、そこから分かれた浄土真宗ともに阿弥陀如来による救済を信じて念仏を唱える宗派だ。
しかし、そこからさらに派生して、加持・祈祷や占い、治療などに念仏を用いる一派が横行した。
これは、特に真宗にとっては『雑行雑修』として厳しく戒められている行為なのだが、来世ではなく現世での救いをも求める庶民たちの間にじわじわと浸透していった。
そういった、真宗にとっては異端ともいえる教えを広めてきた胡散臭い連中──山伏や巫女、祈祷師、占い師、念仏坊主などが主に名乗ったのが『時宗』『一向宗』という宗派名なのだ。
やがて、庶民たちも同じ阿弥陀如来を信仰するものとして本願寺の元に集結し、今日の浄土真宗は一大勢力となった。
しかし、そういった土着の信仰を根強く抱えたものも多いことから、門徒たちの名乗りや教義ですらも、必ずしも統一されたものではないのだ。
また浄土宗としても、そんな宗派が自分たちを超えたかのように『浄土真宗』などと名乗るのを面白く思うはずもなく、あえて『一向宗』と呼ぶようにしているのだとか。
──そういうわけで、本願寺中枢にいる刑部殿としては、一向宗を拡げてきたようないかがわしい連中と同一視されることを容認できるはずもないのだ。
「──そういうものなのか、赤心斎殿?」
「当り前だ。一向宗の怪しげな坊主どもと違って、刑部殿は本願寺の首脳部の方だぞ?
親鸞上人の教えと真逆の幟を、わざと放置していたなどということがあるはずもなかろう。
お忙しくて、そこまで手が回らなかったというあたりだろうて。
──そうなのであろう、刑部殿?」
「む、無論だ!」
わしの差し出した救いの手に、慌てて刑部殿が飛びつく。
「拙僧も、あの幟に関してはけしからんと思っていたのだ。なかなか注意するところまで手が回らなくてな」
「なるほど。では、本願寺としては以後あの幟を掲げさせることはない、と?」
「と、当然だ! 一向門徒たちにもちゃんと上人の教えを浸透させ、真宗に帰依させねばならんのだからな。
──おい、お前たち、その幟は今後絶対に掲げてはならんぞ! それは親鸞上人の教えに反する文言なのだからな!」
思い出したように雑賀党のものたちに声をかける刑部殿に、小一郎殿が念を押すように質問を投げかける。
「すると、いくさでの振舞いに関わらず、門徒たちの極楽往生はすでに約束されておる、ということで間違いないかの?」
「くどいっ! そう言っておるであろうが!
──孫一殿。わしは急ぎ石山に戻る。武田の動きについてももっと情報を集めねばならん。
蜂起する時は改めて督戦に来るので、よろしく頼むぞ。では失礼させていただく」
口早に言ってそそくさとこの場を後にする刑部殿を、皆がしばらくぽかんとした顔で見送っていたのだが、やがてその空気を変えるように、小一郎殿がぽんとひとつ手を叩いた。
「ま、そういうことじゃ。
──おんしらも、勝ち目が薄いと判断したら、無理に本願寺に義理立てせんでもかまわんのじゃぞ?
なにせ、いくさに行こうが行くまいが、おんしらの極楽行きはすでに約束されとるそうじゃからな」
『え──あ、ああ……』
門徒どもがためらいがちに顔を見合わせていると、ふいに、爆ぜるような豪快な笑い声が上がった。孫一殿だ。
「わぁっはっはっは! ──いやあ、大したものだな!
俺も、前からあの文言はけしからんと思っていたのだが、門徒どもが信じているものを無理にやめさせることも出来なくてなぁ。
それを、刑部殿をやり込めて言質をとって、幟を掲げるのを禁止させるとは──いや、実にお見事!」
子供がはしゃぐように何度も手を叩いて大笑いしていた孫一殿は、急に動きを止め、凄むような表情で小一郎殿に向き直った。
「なるほど、これが叡山を散々にやり込めたという『弁舌の才』というやつか。
──で、名前を偽って紀州くんだりまで来て、次は俺たちを丸め込もうという肚か? ──羽柴小一郎殿」




