067 悪餓鬼 羽柴駒
あれから二ヶ月ほどがたちました。
小一郎は相変わらず帰ってくる気配もありません。治部殿のところには連絡が入っているようですけど、私には時折、お美代殿経由で『無事だそうです』と教えられるくらいで──。
居どころぐらい教えてくれてもいいと思うんだけどなぁ。別にそれを知ったからって、追いかけていったりしないわよ。こちらはこちらで忙しいんだから。
そう、私はお館様と談判した日からそのまま岐阜に留まることとなり──何だか妙な成り行きから、開設されたばかりの『育児院』で孤児たちの世話に追われる毎日を送っているのです。
あの晩──。私はお館様に小一郎の真意を伝える役目を何とか終えて、密かに胸を撫でおろしていました。
私だって、顔に出さないようにしていただけで、内心は緊張と恐怖でいっぱいだったのです。なにしろ、お館様は物騒な逸話には事欠かないお方なんですから。
半兵衛殿から『昔に比べればずいぶん丸くなられた』とは聞いてたし、小一郎と楽しそうに語らっているところもこの眼で見てきたから、そこまでひどいことにはならないだろうとは思っていたけど。
「──そうだ、駒。おぬし、この先はどうするつもりだ? 何か宛てはあるのか?」
そんなことを考えていると、お館様が唐突に訊いてこられました。
「えっ!? あ、いえ、それが全く──このまま織田家に人質として留め置かれることも覚悟していましたので」
「今さら人質なんぞいらんのだがな──しかし、羽柴には戻りづらいのではないか? かと言って明智のところに、というわけにもいかんだろうしな」
「あら、それなら私のところにいらっしゃいな! 娘たちもきっと大喜びでしょうし──」
ああ、うん、お市様ならきっとそう言っていただけるとは思ったんですよね。でも、それはちょっと……。
「何を言っておる、市。おぬしや茶々たちは良かろうが、父の仇とずっと顔を合わせねばならん駒の身になってみろ。長政もさすがに気まずかろうしな」
そ、そうです! お館様、よくぞ気づいてくださいました! やっぱり私からは断りづらいですし、長政殿だって少しほっとした表情を浮かべてますし。
やっぱり、お館様は女子供には優しい方ですよね。
──そう思ったのはほんのつかの間でした。
「ふむ──そういえば、駒、子供を手懐けるのが得意だそうだな?
──よし、帰蝶の下に行け。孤児らを養育する『育児院』の仕事をしてもらおう」
えっ──えええええ!? それ、さすがに無茶振りが過ぎやしませんかっ!?
お方様(帰蝶)って、すごい奇妙丸様びいきなんでしょう? 小一郎が三介様を唆そうとしていたという噂に、そうとうご立腹されてるんじゃないですか!?
「女たちだけではいささか手を焼く悪餓鬼たちもいるようでな。子供の扱いの上手い人材が欲しいと言われておったのだ。
なに、おぬしが小一郎の嫁だということは、帰蝶にはわざわざ言わんでもよい。
市、駒を浅井の一門の娘として、帰蝶に推挙しておけ」
「承りました、お館様」
い、いや、お市様! 私、長政の顔を毎日見るくらいのことなら我慢しますよ!? お願いだから、そんな簡単に承諾しないでくださいってば!
そう伝わるよう必死に表情を作るのですが──お市様はこちらを見ようともしません。 うつむいたままの口元が少し緩んでますし──もう成り行きを楽しむ気満々じゃないですか!
「まあ、そう心配するな、駒。万一素性がバレても、わしが何とか取りなしてやる。
自分では気づいておらんようだが、おぬしもなかなかの『人たらし』だぞ? いっそのこと帰蝶もたらしこんでしまえ。
小一郎がおらんあいだ、おぬしにもせいぜい織田家の役に立ってもらうとしよう。励め!」
そう言って、お館様は一切の反論は受けつけないというように立ち上がられます。
「羽柴駒! 使いの件、大儀であった! 長政、市も大儀!」
歯切れよく言い残して、颯爽と部屋から出ていってしまいました。
──ああ、そうでした。お館様ってこういう方でしたっけね……。
それにしても、いったいどうしたらいいのかしら。
あの婚礼の日以来、私はどうやら子供を手懐けることが上手いと評されているようなんですけど、実はそれって女の子に対してだけ、なんですよね。
女の子はすぐに懐いてくれるんだけど、男の子の『悪餓鬼』なんてろくに接したこともないもの。弟だって、そんなに手のかかる子じゃなかったし。
年嵩の男の子だと、下手をしたら私より力も強いでしょうし、どうやって言うことをきかせればいいのやら……あっ!
「──治部殿、お美代殿。話は終わったわ、もういいわよ」
私が天井に向かって声をかけると、身をひそめていた治部殿たちが一瞬で姿を現わしました。
「何とかお館様を説得できたわ。今浜の皆にもそう伝えて。あと、しばらく岐阜城にいることになりました、と。
──それと、お美代殿は私の警護役として、このまま岐阜に残ってくれるのよね?」
「もちろんです! 無明殿が何かしようとしても、お駒様には指一本触れさせませんからねぇ!」
いつもの間延びした話し方で胸を張るお美代殿に、私はとびっきりの笑顔を向けました。
「頼りにしてるわ。
──というわけで、お市様。帰蝶様への推挙にはもう一名追加、でお願いしますね」
「えっ? ──えええええっ、まさか私も、ですかぁ!?」
悪いけど逃がさないわよ、お美代殿。さあ、一緒に苦労を分かち合いましょうね?
お美代殿とともにお方様へのご挨拶を済ませ、岐阜城下の育児院に行ってみると──なるほど、これは駄目だわ。
予算は潤沢に用意されているので、建物は真新しくて綺麗ですし、食事もちゃんと摂れているらしく子供たちも健康そうではあるのですが──何と言うか、その顔にまるで生気がありません。
無理もないわよね。ここにいるのは浮浪児やいくさで親を失った孤児、そして親が貧しさから手離そうとしていた子たちばかり。
お世話係の皆さんも、なるべく愛情をもって接するよう心を砕いてはいるようですが、全ての子に常に接するわけにもいかないし、そうなると──湧いて出るのよね、こういう手合いが。
「何だ、お前たちは。新入りか?」
木刀や竹槍などを手に近づいてきたのは、ガラの悪そうな十二歳くらいの数人の男子たちです。野盗の下働きなどをしていた浮浪児たち、というのがこの子たちですかね。
「ここを仕切っているのは俺たちだぜ。ここで無事に過ごしたいんなら俺たちに──」
「私たちは新入りじゃないわ。お方様からここの世話係を任されてきたのよ」
「お前たちみたいな若いのが、かぁ? ──まあ、いいや。ここで一番えらいのは俺たちだ。ここでうまくやっていきたいんなら、俺たちにえらそうにさしずするんじゃねぇぞ?」
「ふう……。しょうがないわね。お美代殿、軽く遊んであげて?」
「──はぁい」
お美代殿が面倒くさそうに返事をしますが──そこからは本当に『あっという間』でした。気がついたら男の子全員が武器を奪われて、その場に無様に尻もちをつかされていたのですから。
「な、何だ今のは──!?」
「何でころばされてるんだ!?」
私も初めて見るお美代殿の電光石火の動きには驚いたのですが、もちろん顔には出しません。さも当然であるかのように悠然と笑みを浮かべて、彼らを見下ろします。
「ね? 世の中、上には上がいるのよ? こんな狭いところで一番偉いとか──ずいぶん器が小さいわねえ。
男だったら、いずれ一国一城の主になってやる、くらいのことは思わないの?」
「そんなの無理にきまってるだろ! 俺たちはただの浮浪児なんだぞ!」
「無理じゃないわ。知らないの、北近江の羽柴の殿様なんて元百姓なのよ?」
『う、うそだろ!?』『てきとうなこといってんじゃないぞ!』
うーん、大人なら誰でも知っている話なんですけどね。野盗たちと暮らしていたのなら無理もないですが。
「嘘だと思うんなら、世話係の誰にでも聞いてみなさい。有名な話なんだから」
「本当、なのか──? じゃ、じゃあ、俺たちでもなれるのか? そんなえらいお侍に──」
一番偉そうにしていた男の子がおずおずと尋ねてきました。よしよし、話を聞く気になってくれたわね。
「なれるわ。他の家なら無理かもしれないけど、この織田家でなら決して不可能じゃない。
だけど、そのためには、ただ腕っぷしを磨くだけじゃ駄目よ。いくさに強いだけのイノシシ武者なんてのは、もうお呼びじゃないの。
お館様がこの先欲しがっているのがどういう人材なのか──知りたくない?」
話をしているうちに気づいたんだけど──やはりここにいる子供たちは、基本的に大人たちに心を開いていません。
それも無理はないですね。大人の都合で捨てられそうになったり、ある日とつぜん孤児の身になったりと、大人に振り回されてきた子たちなのですから。
育児院で居場所も食事も得られることになりましたが、いずれ何か嫌なことをさせられるんじゃないかとか、これは大人たちのただの気まぐれで、またある日突然に放り出されるようなことがおこるんじゃないかとか──そういう不安がどうしても拭えなかったのでしょう。
そこで、歳の近い私たちが出来ること──それは、織田家の真意を教えてあげることで子供たちの不安を払拭してあげること、そして、夢を持っていいのだと教えてあげること──まずはそこからだと思ったのです。
『──え? 本当に? 人買いに売られたり、女郎屋に売られたりするんじゃないの?』
やっぱり、女の子たちの一番の不安はそこですね。
「大丈夫! 絶対にそんなことはしないわ。
織田家が皆をここに集めたのは、ちゃんとした大人になるように育てるためなの。
それに、今の織田家には働き口がいくらでもあるし、どこも働き手を欲しがってる。
頑張った子は、ちゃんとした仕事につけるようにしてあげられるわ。
努力次第では、お武家様のところにお嫁入り、なんてのも夢じゃないわよ」
『お、俺たちは!? 本当に武士にしてくれるんだろうな!?』
「それはあなたたちの努力次第ね。いいこと? 小さい子たちを力で押さえつけていい気になっているような器の小さな子は、織田家には必要ないの」
そう言って、私は子供たちの顔を見回して、高らかに言い放ちました。
「約束するわ! 織田家は、皆がなりたい自分になれるよう力をつける機会を与えます! 学問も武術も、家事も礼儀作法も全部教えてあげます!
でも、頑張ろうともしなかった子までは面倒見きれませんよ。さすがにそこまでお人好しじゃありません。
じゃあ、皆、想像してみて。将来どんな暮らしをしてみたい? どんな人になりたい? ──」
そう言って、私はしばらく間をおいてみました。
「──どう? 皆、今思い描いた自分になるためにちゃんと頑張れる!?」
『──はい!』『おうっ!』
「いい返事ね。じゃあ、まずは手始めに、皆でこの育児院をお掃除しましょうか。
──そこの子たち。小さな子たちが無理なく仕事できるよう、割り当てを考えてあげて。いい侍大将になるためには、これも大事な役割なのよ?」
『おう、まかせとけ!』
「じゃ、始めるわよ。──これが終わったら、今日は特別にすっごい晩御飯を用意してあげるから、頑張りましょう!」
──共同作業で連帯意識を高めた後は──やっぱり羽柴流の鍋、よね。
数日もすると、子供たちはすっかり私たちに懐いてくれました。
小さい子たちに「駒お姉ちゃん!」「美代お姉ちゃん!」とじゃれつかれるのはやっぱり嬉しいものです。お美代殿もまんざらでもないようですね。
ただ、年嵩の男の子たちが『姉御』と呼ぶのだけは全力で却下しました。さすがに響きがちょっと、ね。その子らからは今は『駒姉』『美代姉』と呼ばれています。
でも──この子たち、絶対に私たちのことを大人だとは思ってないわよね。せいぜい自分たちの仲間の一番年上、くらいに認識しているように感じます。
お美代殿はともかく、私、これでも人妻なんだけどなぁ。そんなに子供っぽく見えるのかと思うと、ちょっと落ち込むわー……。
さて、岐阜に二ヶ月もいると色々と織田家中のことも見えてきます。
小一郎の噂のこともときおり耳にするのですが──意外にも擁護するような声が多いんですよね。
柴田様や佐久間様は、藤吉郎様のことをかなり疎んじているとは聞いていたのですけど、小一郎のことは『きっとなにか深い事情があったのだろう』と、むしろ信用しているようなことを口にしておられるようです。
林様、滝川様あたりは『何も追放までしなくてもよかったのではないか、あれほどの才能を失うのは惜しい』という論調です。
まあ、私はそういった方々とはなるべく顔を合わさないように気をつけているのですが、やはりどうしても顔を合わさざるを得ないお方もおられまして──。
「おお、駒、元気か!」
お方様のところに報告に来ると、一番顔を合わせたくなかった方と鉢合わせしてしまいました──奇妙丸様です。
家中にそこはかとなく小一郎擁護の声が広がる中、ただひとり嬉々として『見ろ、やっぱり小一郎はわしの睨んだとおり腹黒い奴だったではないか!』と触れ回っていたのがこの方なのです。まあ、あまりまともに取り合う人はいなかったようですけど。
「ええ、おかげさまで。奇妙丸様もお元気そうで何よりです。──お方様、この報告書のことなのですが──」
「まあ、それより久しぶりに会ったのだ、わしと話をしようではないか」
どこが気に入ったのか、初めて会った時からやたらと私にかまってくるんですよね。私はあまりお話ししたくないんですけど。
「すみません、仕事中ですのでお相手いたしかねます。それで、お方様──」
「仕事など後にせよ。わしは明日、長島に向けて出陣するのだ。そうなったらまたしばらく会えなくなってしまうではないか」
あ、それは朗報です。何しろ、奇妙丸様と話をしてもつまらないどころか少々不愉快ですから。
いかに小一郎が油断ならない奴で、自分が早くからそれを見抜いていたのかという自慢話を延々と聞かされても、ねぇ。
「そうですか。ご武運をお祈りいたしております。それで、お方様──」
「そなたは実に面白いのう。わしにそんな連れない態度をとる者は珍しい。ますます気に入ったぞ」
──もう、どうすりゃいいのよ。これだけ邪険にしているのに、全然空気を読んでくれないんですよね。
お方様も苦りきった顔をされていますが、止めようとはしてくれませんし。
「すいません。この後、急ぎ育児院に戻らねばなりませんので、ご容赦ください。それで、お方様──」
「後にしろといっておるではないか。これはそなたにも絶対に良い話なので、出陣の前に話しておきたいのだ。
──そなた、わしの妻にならんか?」
はぁあっ!? 何、唐突にとんでもないことを言ってるんですか!?
「義母上! わしはこの駒が気に入ったのです。わしに貰えませんか!」
──ちょっと、いい加減にしてくれないかしら。もう怒りが爆発しそうなんですけど。
「──お戯れはおやめください。奇妙丸様には武田家の松姫というご立派な許嫁がおられるではないですか」
「ああ、あれはもういいのだ。どうせ武田とは近くいくさになる。そうなれば破談だからな」
「それに、身分が違いすぎます。どうかご容赦を──」
「何、身分差などどうにでもなる。わしは織田家の次期当主だ、逆らえるものなどおらん。
何なら、長政に命令してやっても良いのだぞ? 今の浅井家が、わしの命令に逆らうなど出来るはずもないのだからな」
──限界突破。これはもうキレても仕方ないわよね。
そう覚悟を決めて、一喝してやろうかと大きく息を吸い込んだ、その時。
「奇妙丸殿! いい加減にせぬか! 織田家当主の権威をそのように軽々しく振りかざすとは何ごとじゃ!」
お方様が厳しい叱責の声をあげて下さったのです。
「嫁のことはお館様のお決めになること。そなたが勝手に決めてよい話ではない!
それに、お駒は育児院の仕事に欠かせぬ人材、そう簡単には渡せん!
──仕事の邪魔じゃ、下がれ!」
珍しいお方様の剣幕に、奇妙丸様はがっくりと肩を落とし、形どおりの出陣前の挨拶だけを交わして部屋からすごすごと出ていかれました。
去り際にも未練がましく私をちらちら見てきましたが、目なんて合わせてあげませんよ、ふん。
「──お方様、助かりました。今まさに怒鳴りつけてやろうと思っていたところだったので」
「すまなかったのう、お駒。まさか、奇妙丸が急にあんなことを言い出すとは──」
奇妙丸様がいなくなって、お方様とふたり、大きく溜息をつきます。
「最近、どうもあんな調子でな。どうやら、お館様の豪放磊落な振舞いを真似ようと背伸びしているようなんじゃが──」
「貫禄も思慮深さも違いすぎますよね。正直あれでは──子供のわがままにしか見えないんですけど」
「困ったものじゃのう」
──織田家の将来、本当に大丈夫なのかしら。




