066 羽柴家の使者 浅井新九郎長政
「──殿、今宵はいささか量が過ぎておられるのではありませんか?」
夜、私が一人で酒をあおっていると、お市が心配そうに声をかけてくる。
悪いが、大目に見てくれないだろうか。なにしろ、今宵はいくら呑んでも味などさっぱりわからんし、まるで酔える気がしないのだ。
「どうなさったのです、その荒みようは──さては、小一郎殿の件ですか?」
「……ああ、市も聞き及んでいたか」
「賄い方でも、その話で持ち切りでしたもの。──まことなのですか、あのお噂は?」
お市も心配そうに顔を曇らせる。無理もない。
あの小一郎殿が、悪事を企み羽柴家を追放されたなど、どうして信じることが出来るものか。
今日は、岐阜に滞在している諸将が本丸に集まり、来たる長島攻めの陣容についての話し合いが持たれていた。
私も半ば謹慎の身からようやく許され、此度はいくばくかの兵を率いて参陣することが認められた。
昨年の対六角・叡山の陣ではほとんど槍働きの機会もなかったためか、諸将も意気軒高で、此度こそ長島の一向門徒の騒擾にケリをつけるのだと怪気炎を上げていた──そんな最中。
冷や水を浴びせるがごとく、藤吉郎殿からの急報が飛び込んできたのだ。
──その時のお館様のご様子は、今思い出しても身が震える。
届いた書状に目を走らせるうちにお顔がみるみる真っ赤に染まり、憤怒の表情に塗り替えられていく。
「──馬鹿な……! あれほど──あれほど言っておいたではないか!」
その口から低い呪詛のような声が漏れた。
そのまま書状を忌々しげに丸めて投げつけ、衝動任せに太刀持ちから太刀を奪って──そこで我に返られたのだろう。太刀を鞘ごと壁に叩きつけ、大股で評定の間から出て行ってしまわれたのだ。
『あれほどに憤慨されるとは──いったい何があったのだ?』
取り残された諸将が顔を見合わせる中、佐久間様と柴田様が真っ先に書状ににじり寄り、その内容に目を通された。
「こ、これは──!?」
そして、ためらいがちに柴田様の口から読んで聞かされたのは、『愚弟・小一郎に織田家の跡目に関する不逞の企てあり。よって羽柴家より放逐したのでご承知おきいただきたい』との一報だったのだ。
その後、三の丸に戻ってみると、羽柴家の与力となったかつての家臣の何人かからも、事情を知らせる書状が届いていた。
それらを併せてみると、どうも事の次第はこういうことだったらしい──。
久しぶりに再会したご兄弟の母親が、何故か小一郎殿がまるで別人になってしまったと叱りつけた。
その様子を訝しんだ藤吉郎殿が小一郎殿の身辺を探ってみたところ、三介様宛の書きかけの密書が見つかった。奇妙丸様を追い落として織田の跡目を狙うように唆す、非常に過激な内容であったのだという。
激怒した藤吉郎殿は、満座の家臣たちの前に小一郎殿を呼び出し、厳しく詰問した。
「小一郎! 貴様、この書状は何じゃ! どういうつもりでこんなものを書いたんじゃ!
あの噂、お館様の前ではっきり否定しとったではないか。まさか、お館様をたばかったのか!?」
「いや、兄者。あの時はそんなつもりはなかったんじゃが、後になってよくよく考えてみると、確かに一理あるとも思ったんじゃ。
羽柴を嫌うている奇妙丸様が跡目では、その先の羽柴家の隆盛は望めん。それよりは、三介様に織田家を継いでいただいた方が──」
「黙れ! そのような陰険な話など聞きとうもないわ、汚らわしい!」
「──そうじゃ、兄者。兄者は何も知らんままでええ。この密約はわし一人で裏でこっそりと進める。わしが必ずや三介様を説き伏せ──」
「黙れと言うたじゃろが、この不届き者が!!」
激高した藤吉郎殿は、激しくののしりながら、何度も小一郎殿を殴りつけたのだという。
「──小一郎、貴様、何様のつもりだ?
お館様に策を取り入れられ、目をかけていただいて──それで織田家の差配者にでもなったつもりか?
主家の跡目にまで介入しようなど、うぬぼれにも程がある! 図に乗るな!」
「──待ってくれ、兄者、聞いてくれ! これは全て羽柴家の将来のためで──」
「黙れぇっ!
──昔の小一郎なら、そんな卑劣なことは決して言わんかった。奇妙丸様に好かれていないのなら、何とか好いてもらえるような策を講じたじゃろう。
それを、次の主君に好かれていないなら挿げ替えてしまえばいいなどと──いつの間に、そんな傲慢な考え方をするようになってしもうたんじゃ。
──ようわかった。母様がおんしのことを、まるで人が変わってしまったと嘆いた意味がよぉくわかったわ」
そして、藤吉郎殿は怒りに身を震わせながら、小一郎殿に厳しい沙汰を下したのだ。
「小一郎、まこと羽柴家の将来を思うというのなら──今すぐ出て行け。
貴様のような不埒者がいては、羽柴家があらぬ疑いをかけられかねん。大いに迷惑じゃ。
もはや貴様のようなものとは、兄でも弟でもない。今すぐここから出て失せろ!!」
「──家臣たちが慌てて取りなしたが、藤吉郎殿は取りつく島もなく──小一郎殿は、その日のうちに今浜から姿を消したそうだ」
「あのご兄弟が、それほど激しく対立するなんて……」
私の話を聞いて、お市が大きく嘆息する。
「それに、あの小一郎殿がそのような後ろ暗い策を講じるなど、私にはとても信じられません」
それは私も同感だ。
あの帰蝶様との会談の際も、伝え聞く新年の評定の場でも、小一郎殿はただひたすらに、民が平和で豊かに暮らせることを願っていたようにしか思えない。
そこに、自分や羽柴家だけがいい目を見ようなどという浅ましい意図は、微塵も感じられなかったのだ。
──意外なことに、反羽柴である柴田様や佐久間様達も同じように感じていたらしい。
新年の宴や評定の席で、羽柴家は自分たちの儲け話を惜しげもなく皆に分けてみせた。
小一郎殿は藤吉郎殿の発案だと言っていたが、諸将とて馬鹿ではない。それが小一郎殿の発案だということは、ほとんどの者に察しがついている。
藤吉郎殿は、間違っても手柄を他人に分けるような殊勝なご仁ではない。これは、小一郎殿が家中の軋轢を少しでも緩和すべく策を立て、兄に華を持たせたのだろう。
それゆえ、藤吉郎殿のことを良く思っていない方々も、小一郎殿には一目置いて、ほのかな好感すら抱いていたようなのだ。
それだけに、此度のことは皆、どう受け止めればいいのか困惑していて──。
その時。
『──夜分にご無礼致します、備前守様』
だしぬけに、天井から聞き覚えのある低い声が聞こえてきた。
「ど、どなたです!?」
「心配いらん、市。──その声、治部左衛門だな?」
『はっ』
短い応えとともに、治部左衛門が忽然と姿を現わした。
「市、この者は父上が重用していた忍びで、浅井治部左衛門だ」
隣で息を呑んでいるお市が大声を上げぬよう、手短に紹介する。
「今は旧姓の『日比』を名乗っておりますが──小一郎様の下で働いておりまする」
「小一郎殿の──!? で、では──」
質問しようとするお市を制して、最も聞きたかったことを尋ねる。
「お前が来たということは、やはり小一郎殿の件だな? あれは誤報なのか、あるいは何者かの謀略という可能性も──」
「いえ、先ほど備前守様が語られたやり取りは、おおむね事実にございます。
──ただ、それは敵を欺くための芝居なのです」
「敵? 芝居、だと──?」
──なるほど、そういうことか。お館様に事前に諮る余裕もないほど緊急の何かがあり、急場凌ぎでああいう芝居を打ったのだろう。
そこで、お館様に真意を伝えるべく、この私に仲介を頼みに来た、ということなのか。
確かに小一郎殿に頼られるのは実に誇らしいことではあるが、しかし今の私の弱い立場で、あれほど憤慨しているお館様にどれほどのことが出来るものか──。
い、いや、何を弱気になっている、浅井長政! 今こそ浅井家を救ってくれた大恩に報いるべき時ではないか! 例えお館様からのご勘気を被り、謹慎期間が延びようとも、ここでやらねば男が廃るというものではないか!
私がそう決意を固め、その役目の重大さに身震いを覚えていると──治部左衛門は何故か私ではなく、お市に向かって深く頭を下げたのだ。
「お市様。お駒様からの言伝てにございます。
──婚礼の前日にお約束いただいたように、なにとぞお市様のお力添えを賜りたく、伏してお願いいたします、と」
──え? ……頼みにしているのは、私ではなくお市のほうなのか?
翌日の夕刻。
お市と娘たちが、お館様を伴って三の丸に戻ってきた。近頃、お館様が気疲れされているようなので、気晴らしに一献差し上げたいとの私の誘いを伝えてくれたのだ。
お館様は、姪である我が娘たちには甘い。小一郎殿のことで、昨日からご機嫌はかなり悪いようではあったが、娘たちに無邪気に誘われては邪険にも出来なかったのだろう。
身内だけのささやかな酒席では、娘たちにじゃれつかれて、それなりに楽しんでおられたようではあった。
しかし、料理の後の水菓子(果物)を持ってきた侍女を見たとたん、その緩んだ表情が一変した。
「──待て。貴様っ──!?」
そのお顔に浮かんだ剣呑な気配に、お市が小声で、しかし鋭い語気で制止の言葉をぶつける。
「兄上っ──! 娘たちの前ですよ!」
「むぅっ……。
──茶々、初。今宵はなかなかに楽しい食事であった。礼を申すぞ。
ここからは、少し難しい大人たちの話になるのだ。この辺で外してくれぬかな?」
「はい、おじうえさま。では、おやすみなさいませ」
「おやすみなさいです」
そうして和やかな空気のなか娘たちが退出すると、お館様は再び憤怒の色をあらわにして、その侍女に向き直られた。
「──で、なぜ貴様がここにいる? 小一郎の命乞いでもしに来たか、羽柴駒!」
怒声を浴びせられても平然としているお駒殿に、お館様が怒気を溜め込むかのように、むしろ抑えた口調で詰め寄る。
「良くもまあ、ぬけぬけとわしの前に現れたものだな。貴様、よほど命が惜しくないと見える……」
「まさか──わざわざ斬られるためだけに、こんなところにまで来やしませんよ」
何だ、この娘は!? 百戦錬磨の猛者たちですら恐れるお館様のこの怒気を前に、なぜ笑みすら浮かべていられるのだ。
「言っておくが、今さらどう言い訳しても無駄だぞ? 小一郎の所業は、断じて許せん!
あ奴は、わしの期待を──信頼を裏切ったのだ! 例え何と言われようと──」
「──お館様。本当は知りたいと思っていらっしゃるのでしょう? ──小一郎の真意を」
な、何と命知らずな!?
「何だと!? き、貴様──」
「お館様、先ほど『なぜ貴様がここにいる』と訊かれましたよね?
本当に話を聞くつもりがないのなら、その場で席をお立ちになるか、私をお斬りになれば済む話です。
それをされず、『なぜ』と疑念を口にされた──それはお館様ご自身が、心の奥底で小一郎の真意を知りたいと欲しておられたから──違いますか?」
「くっ──」
「お館様。まずは私の話を聞いてください。その上でご納得いただけないようでしたら、お手討ちにでも何でもご随意になさってくださいませ。
藤吉郎様も、此度の件に関してはどのような処罰も甘んじて受け入れると申しておられました」
「藤吉郎が──?」
「はい。お二人には、お館様の意向に背く意図など微塵もございません。
此度のことは、お二人が敵の目を欺き、家族を危険から遠ざけるために打った一世一代の大芝居なのです」
そこからの駒殿の話は、まるで出来の悪い物語を聞いているような突拍子もないものだった。
確かに、『生まれ変わり』というものの噂は耳にしたことはある。小一郎殿が金ケ崎あたりを境に、急に頭角をあらわしてきたとの話も聞いてはいた。しかし、別人の記憶が蘇るなどという話が本当にあるものなのか?
そして──何より意外だったのが、そんな眉唾な話を、お館様がほとんど疑念をはさむこともなく、すんなりと受け入れられたことだ。
「──むっ? どうした、駒。何を呆けた顔をしておる。
わしは、おぬしの話をおおむね理解した、といっておるのだぞ?」
「へっ!? ──あ、いえその、まさかこんなにあっさりと受け入れられるなんて思っていなくて……。
もっとこう、何と言うか──『そんな話が信じられるかぁっ、このたわけぇ!』とか『下らん嘘をいうなぁっ!』とかいう強烈な反応を覚悟してたもので」
いや、それは私もだが、何も口調まで真似なくてもいいのでは? しかもやたらと似ているし。
お市も、何だか笑うのを堪えているような微妙な表情で口を挟む。
「──私も少し意外でした。兄上は、そのような不可思議な話をあまり信じられないほうだと思ってましたので。
あ、ほら昔、尾張の池にとてつもない大蛇が出るという噂が広まった時も、そんなものなどいないと御自ら池に潜ってみせたではないですか」
お市の口から語られる話のことは、私も聞いている。何でも池の水の大半を汲みださせてから、自ら潜って確かめたのだとか。
「いや、それは少し違うぞ、市。わしは、大蛇がいないことを証明したかったのではない。自分の眼で真偽を確かめたかっただけだ」
お市が笑いを堪えているのに少し不服そうな表情を浮かべ、お館様は駒殿の方に向き直られた。
「──今の『生まれ変わり』の話も、頭から信じたわけではないぞ。なにしろ、真偽を確かめる術がない。小一郎の頭の中をのぞくことなど、どうやっても出来んのだからな。
だが、正直言えばそんなことはどうでもいい。大事なのは、小一郎がわしにとって役に立つか、そしてわしのために働く意思があるか、ということだけだ。
それに、これほどのものを持ってこられてはな──」
お館様は、駒殿が持参した小一郎殿のいくつかの献策を記した書状の束に目をやった。
私も少しだけ見せてもらったが、確かに、今後の織田家に大いに利益をもたらすであろうものばかりだった。
小一郎殿が織田家から他家へ鞍替えするつもりなら、これほどのものを残してはいくまい。これらを手土産にすれば、数千石出してでも召し抱えようとする家はいくらでもあるだろうからな。
「──これを見せられては、小一郎の忠義を信じるほかあるまい。家族を危険から遠ざけるために、という理由もいかにもあいつらしい。充分に納得できる。
だがな、ひとつだけ腑に落ちんのだ──。まことに十兵衛が、その『無明殿』とやらと繋がっておるのか?
あやつがそのような企てに加担するとは、わしにはどうしても思えんのだが」
怪訝そうに疑念を口にされるお館様に、駒殿も同調する。
「実は私も、なのです。明智の養父は、温厚で家族思いの優しい方です。家族を巻き添えにするような卑怯なやり方に手を貸すとは、どうしても思えないのです。
小一郎や半兵衛殿は、養父と無明殿が協力関係にあるとかなり確信しているようなのですが──。
でも私としては、養父が積極的に協力しているのではなく、無理やりに協力させられている、という可能性も捨てきれないのです」
「お前もそう思うか。──しかし、わしがそれを十兵衛に問い質すわけにはいかんからな。
わしは、このことについては何も知らないことにしておいたほうがいい──そういうことなのだろう?」
「は、はい。出来れば、小一郎や藤吉郎様のことはずっと憤慨されたまま、ということにしていただければ」
その駒殿の言葉に、お館様はにやりと凄惨な笑みを浮かべられた。
「うむ、心得た。次に藤吉郎と会う時には、皆の前で激しく罵倒するという芝居をやってやろう。藤吉郎にも、せいぜい楽しみにしていろと伝えておけ」
──いや、たとえ芝居だとわかってはいても、楽しむことなど絶対に出来ないと思うのだがなぁ。




