064 大芝居 羽柴ねね
──えっ、まさか!?
小一郎殿が龍馬殿の記憶を持っているということは、藤吉郎殿には絶対に知られてはならない秘密のはずです。何より当の小一郎殿本人が、私たちに秘密を打ち明けた当初からそれを最も強く主張していたのですから。
それを、まさか自ら打ち明けてしまうなんて──。
半兵衛殿たちも皆、どういうつもりなのかと困惑した顔を見合わせています。
「生まれ変わりじゃと!? 小一郎、今はふざけとる場合じゃ──」
「いや、いたって真面目な話なんじゃ。
兄者、わしの様子が金ケ崎以来、急に変わったことに気づかんかったか?」
「あ、ああ、そういやそうじゃったな」
「実は、あの時に記憶が蘇ったんじゃ。わしの前世の、坂本龍馬という男の記憶の全てが──」
そして、小一郎殿はとつとつと語り始めます。龍馬殿の記憶のこと、それをもとに剣の腕が上達したこと、様々な策や新しいものづくりの考えが次々と浮かんできたことなどを──。
やがて、その語りを聞いているうちに小一郎殿の隠された意図が呑み込めてきたのか、徐々に皆の表情に納得の色が浮かび始めました。
確かに、小一郎殿は嘘偽りなく、自分の身に起ったことを正直に告白しています。
ただ一点──その坂本龍馬という人物が遠い未来の人物である、という点だけを除けば。
この話を聞いた人は、龍馬殿とは卓抜した剣の腕や奇抜な発想力を持ちながらも、低い身分ゆえ世に出ることなく、不遇な最後を遂げた無名の人であったかのように受け取るでしょう。
とっさにこんな秘密の隠し方を思いつくなんて──小一郎殿、もうすっかり立ち直ったようですね。
「──ううむ。にわかには信じ難いが、そう言われてみれば色々とつじつまも合うか……。
あ、いや待て。今の話だと、おねや半兵衛殿は前から知っておったのか? 何で今までわしに教えに来んかったんじゃ?」
「あら、だって一度も聞かれませんでしたから」
ここは、とぼけておきましょうか。
「私も半兵衛殿もすぐに気がついて、小一郎殿に訊いて教えてもらいましたよ?
──まさか、藤吉郎殿が気づいていないなんて、思いも寄りませんでしたもの」
「うぐ……」
言葉に詰まった藤吉郎殿に、与右衛門殿が助け舟を出します。
「し、しかし、殿。これで問題は解決するではありませんか。大方様にも、このことをお伝えすれば──」
「それは駄目よ、与右衛門」
そこに、お駒殿が横合いから待ったをかけました。
「今、お義母様は疑心暗鬼になってるわ。ここで、実は生まれ変わりだったなんて言われたって、すんなり受け入れられると思う? 余計に混乱させてしまうだけよ。
今はまだ駄目。しばらくは様子を見ないと」
「ううむ。なら、当分の間、小一郎は母様と顔を合わせんようにした方がいいじゃろうな」
藤吉郎殿が、難しい顔で腕組みをしたまま、口を開きます。
「──よし、小一郎。おんし、しばらくは小谷か横山城あたりに──」
「いや、兄者、ひとつ頼みがある」
そして、小一郎殿が口にしたのは、またしても皆が耳を疑うような言葉だったのです。
「兄者──わしを羽柴家から追放してくれ」
「なっ──!? 何をたわけたことを! 小一郎、おんし正気か!?」
藤吉郎殿だけでなく、私たちも仰天しています。一体、何故そんなことを──!?
「いや、兄者、皆も聞いてくれ。
今回のことも、義姉上の双子の不穏な噂のことも、おそらくは織田家中の誰かの仕業なんじゃ。まだ誰かはわからんので、わしらは仮に『無明殿』と呼んどるんじゃがな。
わしの素性に気づいたらしく、以前からちまちまとちょっかいを出してきとってな。
そしてこのところ、かなり危険度が増してきとる。平気でわしらの家族をも巻き込もうとしとるからな」
──私の噂の件はまだ誰の仕業かわかっていないのですが、もう無明殿だったということにしてしまうんですね。
「ううむ──いや、しかし──」
「向こうとしても、かなり思い切った手だったはずじゃ。実際、此度のことで、無明殿と明智殿が繋がっていることがはっきりしたからな。
それが、二度までも全く効果がなかったとしたら、次はどう来ると思う?
おそらく、もっと直接的な手段を講じてくるじゃろ。家族を攫ったり、危害を加えたりするかもしれん。
もし、奴の魔の手が無双丸や双葉にまで伸びてきたら──」
「まさかっ──そんなことが──!?」
最愛の子供たちの危険に気づき、藤吉郎殿の顔色が青く変わりました。
それを見て、小一郎殿は少し声を落として説得にかかります。
「だからこそ、じゃ。わしが少し距離を置くくらいでは効果が薄い。
それこそ、決定的に仲違いした末にわしを追放したと、織田家中に知れ渡るくらいに派手な大芝居を見せつける。
そして、無明殿に自分の策が上手くいったと信じ込ませ、油断を誘うんじゃ」
「──それから、どうしようというんじゃ?」
どうやら『追放』というのがその場しのぎではなく、大きな策の一端なのだと気づき、藤吉郎殿の表情が鋭いものに変わりました。
「向こうも、正直そこまでの効果を狙っていたわけではないと思う。せいぜいわしらの仲にひびを入れ、わしが動きにくくなれば、くらいかの。
だが、期待していた以上の成果が出れば、奴は間違いなく満足する。しばらくは、家族への手出しなども手控えるじゃろ。
その後に、無明殿が何を企んでいるかは、おおかた見当はついとる。
わしらの予想が正しければ、とんでもなく恐ろしいことをやろうと動き始めるはずじゃ。しかし、その兆候を素早く察知して阻止する手立てはすでに整えた。大丈夫、わしがいなくても問題はない」
小一郎殿の顔には、珍しくはっきりとした怒りの表情が浮かんでいます。
「これまでは、受け身に回るしかなかったが──ようやく無明殿の尻尾を掴んだ。
見ていろ。今度こそこちらが出し抜いて、奴の野望を阻止してやる……!」
「──その、無明殿の野望とはいったい何なんじゃ?」
「それは──」
「いえ、藤吉郎殿は知らない方がいいでしょう」
答えようとした小一郎殿を、半兵衛殿が鋭く制しました。
「今のところ、向こうが危険視しているのは小一郎殿だけです。
しかし、藤吉郎殿が向こうの目的を知っていると万一にも気取られてしまえば、次は藤吉郎殿が標的にされるかもしれません。
この件については、一切を私たちにお任せ下さい」
「よし、わかった。そこは訊くまい。
それで、小一郎はその間、どこで何をするつもりなんじゃ?」
「無明殿が足取りを追えんように、少なくとも織田の支配地からは離れるつもりじゃ。
いずれ織田と敵対しそうな他家の実情を探ったり、出来れば人材発掘もしようかと思う。
──兄者、約束する。わしは決して他家に仕官したりはせん」
「別にそこは疑ってはおらん。おんしがわしを裏切るはずがない、と信じとるからな。
しかし、いくらおんしが腕が立つとは言っても、ひとりで当てもなく放浪するなど、危険すぎるのではないか?」
「それがしが同行します! 小一郎様、なにとぞ、それがしも連れて行ってくださいませ!」
失態を取り返したいのか、治部左衛門殿が必死の表情で懇願しますが、小一郎殿は穏やかな表情でそれを制しました。
「いや、それは駄目じゃ。おんしには、わしの一番大事な家族を守り、無明殿の企みを阻止するという大事な役目がある。
いいか、治部左衛門。おんしを誰より信頼しているからこそ、最も大事な部分を託すんじゃ。わかってくれ」
力を込めた説得の言葉に、治部左衛門殿が言葉を呑み込み、表情を引き締めました。
「承知いたしました。──ただせめて、何人か手の者は護衛につけさせて下さいませ」
「わかった。人選は任せる」
「──では、それがしがご一緒いたしましょう」
そこに手を挙げたのは、意外にも与右衛門殿でした。
「それがしは未だ独身ですし、藤堂家には家臣なども大しておりませんので身軽です。腕にも覚えがあります。小一郎殿の護衛役としてはうってつけでしょう」
「いや、それはいかん! 与右衛門のように将来ある若者を、こんなことに巻き込むわけには──」
「よし。では将来の残り少ない老いぼれが代わって供をしよう」
次に名乗りを上げたのは樋口殿です。
「赤心斎殿──!?」
「わしならばもう隠居の身。何かあっても、さして惜しくもなかろう。なあに、多少くたびれてはおるが、まだまだそこらの若いものには負けんぞ?
それに、次郎様にもそろそろ、わしがいないことに慣れてもらわねばならんからな」
「──あ、いや待て! ちょっとまずいぞ!」
そんなやり取りを見ていた藤吉郎殿が、何かを思い出したかのように急に大声を上げました。
「──兄者?」
「以前から、お館様にきつく言われておったんじゃ。『お前たちが仲違いして、小一郎が織田家から去るようなことになったら承知せん』と。
お館様がこの話を聞いてしまったら──」
何やら恐ろしい光景を予想してしまったのか、藤吉郎殿は青い顔で身をすくめます。
「まずはお館様に事情を説明して、じゃな──」
「いや、そんな猶予はないじゃろ。母様のあの様子は家臣たちも見ておる。明日にでも、わしを家臣たちの見ている前で派手に追放してくれ。
──それにいっそのこと、お館様にもとことん激怒していただいた方が、追放の芝居により信憑性が増すっちゅうもんじゃろ?」
「じょ、冗談ではないわぁっ! しばらく織田家を離れるおんしはそれでええじゃろが、そのお怒りの矢面に立たされるのはわしなんじゃぞ!?」
「──義兄上様、小一郎。そこは私に任せて下さいませんか?」
そこに割って入ったのは──何とお駒殿です。
「お駒!?」
「お駒殿、そりゃあ無茶じゃ!
激怒したお館様には会うことすら難しい──いや、万一会えたとしても、その場で即お手討ちということもあり得るんじゃぞ?」
脅すように言う藤吉郎殿に、お駒殿はひるむ様子すらありません。
「大丈夫です。勝算ならあります。
それに、私が織田家に行けば、小一郎が織田家を決して裏切らないという証にもなるでしょう?
まあ、いわゆる人質というやつですよね」
「ううむ、しかし──」
まだ藤吉郎殿たちは迷っているようですが、ここは私が少し後押ししておきましょうか。
「お二人とも。ここは思い切って、お駒殿に任せてみませんか?
大丈夫。こう見えてお駒殿はなかなかの策士ですよ」
「──お駒、本当に大丈夫なんじゃな?」
「任せてよ。それに──小一郎は必ず帰ってきてくれるんでしょ? あんまり永いこと待たせないでよね」
「無論じゃ。わしは必ず帰ってくる。必ず、お駒のところに──」
「小一郎──」
「さあっ! そういうことでしたら、芝居の筋書きも練らねばなりませんねっ!」
ひときわ大きな声で半兵衛殿が話を切り替えます。
──今、二人の間に甘い空気が流れかけたのを未然に防ぎましたね?
「それと、小一郎殿の直属の部下たちの扱いも決めねばなりません。
さぁて、今夜は忙しくなりますよ!」
「さて、まずは家臣たちの扱いじゃな」
お駒殿に軽食と蕎麦茶の用意を頼み──女中たちに万一にも話を聞かれては困るので──、藤吉郎殿が切り出します。
「小一郎の家臣たちはまずわしが引き受けるという形にして、じゃな──」
「──あ、少し待ってくれ。治部左衛門、ここへ」
それを遮って、小一郎殿が治部左衛門殿を呼び寄せます。
「まだ、ちゃんと紹介してなかったの。この者は日比治部左衛門といって、わしの最も信頼する腹心じゃ。
無明殿への対策は、半兵衛殿と治部左衛門に全て任せてある。それと、この者の里の職人たちに、わしの秘密の発明を手伝わせておるんじゃ。
他の家臣の扱いは全て任せるが、この者だけは領地を安堵してやってくれ。あの里だけは他の者には任せられん」
──忍びだということは、やはり伏せておくのですね。
「うむ、約束しよう。
治部左衛門だったな、おんしは半兵衛殿の預かりとするので、今まで通りの仕事を続けてくれ」
「はっ、承知いたしました」
「それと、堀次郎殿には少し前からわしの発明を手伝ってもらっておる。色々と教えてあるので、次郎殿がおれば当分はわしがおらんでも開発に支障はないと思う。そちらも承認してもらえるとありがたい」
「よし、わかった。次郎殿、家老が代わったばかりで大変だと思うが、よろしく頼む」
「は、しかと励みます」
そして、他の家臣たちの特徴や適性、誰に預けるかなどを話しているところへ、お駒殿が戻ってきて話に加わりました。
お駒殿はやはり、自分で採用した使用人たちの身の振り方を一番に気にかけていたのですが、そこは半兵衛殿が手配を一手に引き受けてくれることになりました。今浜の辺りは今かなり人手不足になっているので、引き受け先にも色々と心当たりがあるようです。
半兵衛殿なら、訳ありのお兼殿のことや、お千代殿の事情も存じておられるので、安心して任せられますね。あとは……。
「さて、人事はそれでいいとして──あとは追放の口実をどうするか、じゃな」
「小一郎殿が大変な兄思いだというのは有名ですからね。大方様が騒いだから、というだけでは説得力に欠けます。何か、よほどの理由でもなければ──」
藤吉郎殿や半兵衛殿が、腕を組んでしばし考え込みます。
やがて、口を開いたのは小一郎殿でした。
「兄者、こういう筋書きはどうじゃろ?
一番あり得そうな話で、しかもお館様の逆鱗に触れること間違いなしの筋書きじゃ。
──あの、派閥に関する噂を利用しよう」
「何だと?」
──小一郎殿はあっけらかんとした口調でその筋書きを語っていくのですが、その内容は、ちょっとあまりに──そこまでの芝居をしなければならないものなの?
藤吉郎殿もしばし唖然としていましたが、慌てたように口を開きます。
「そ、それでは、おんしだけがかなりの悪者になってしまうのではないか?
お館様が激怒するばかりか、それこそ奇妙丸様を完全に敵に回すことになりかねんぞ?」
「なあに、今も奇妙丸様からの信用はないに等しいからな、もう下がりようもなかろ?
それに、そんな不埒者を追放したということで、あのお方の兄者への反感も、少しは治まるかもしれんしな」
「それは確かにありがたいが、あまりに奇妙丸様に嫌われてしまうと後々の挽回が難しい──それこそ、織田家への帰参が難しくはならんか?」
「まあ、その時はその時じゃな」
小一郎殿は意にも介さないようにけろりと応えます。
「わしゃ別に、武家の身分になど戻らんでもかまわん。
商人になるなり発明をするなりして、織田家の外から兄者やお館様を手助けするというやり方もあるじゃろ。
まあ、どんな立場になろうと、わしは兄者のために働く。そこだけは変わらんからな」
──そういえば、龍馬殿も浪人となって商売を始めたとか言ってましたね。
戦嫌いの小一郎殿には、案外そういう道もありなのかもしれません。
「──小一郎、何だか妙に明るい顔だけど、その方が面白そうだとか思ってないわよね?」
そこにお駒殿が、横目でじろりと睨みながら指摘します。
「え、あ、いや、決してそんなことは──」
「まあ、それはそれで面白そうではあるし、付き合ってあげるけど──。
でも、安易に楽な方に逃げるのは駄目よ? 小一郎が目指す世をつくるためには、お館様や義兄上様とともに働くのがやっぱり一番なんだからね。
いい? ちゃんと織田家に帰って来られるよう、あらゆる手を尽くすこと。
それで駄目なら仕方ないけど、ちゃんと全力を尽くしてないようなら──もう褒めてあげないわよ?」
「お、おう……」
──何だか、もうすっかり尻に敷かれてますけど。




